旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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繁栄時代:統一王国ファルゲリア・改革の庶子伝説

【統一王国ファルゲリア・改革の庶子伝説】 第八話:「民衆の叫び・前半」

 朝の王都は、いつもより少しだけざわついていた。

 高い塔の上にかかる薄雲は穏やかで、城壁の内側にも、いつものようにパンを焼く匂いや鍛冶場の音が漂っている。

 それなのに、胸の奥で引っかかるものがあった。

 王宮の回廊を歩きながら、俺は窓の外へ視線を向ける。

 遠く、城下の一角から、かすかな波のような音が上がっていた。

 人の声。

 それも、市場の喧噪とは少し違う響きだった。

 隣を歩いていた従者が、気まずそうに咳払いをする。

「……下町のほうで、人が集まりはじめているようです。昨夜から、いくつか噂が」

「噂?」

 立ち止まり、石造りの欄干に手を置く。

「……貴族会議のことか」

「それも、あるかと」

 従者は言葉を選びながら続けた。

「税の話や、兵の再配置の話が、町のあちこちでそれぞれの形に変わって伝わっているようで……。今朝は、広場の前に人が集まる、という話が」

 窓の外、王宮から城下町へと続く坂道には、すでに小さな列が見えていた。

 仕事道具を抱えた職人。

 子どもの手を引く女。

 肩に荷を背負った男たち。

 誰も走ってはいない。

 それでも歩調はどこか早く、顔つきは、いつもの市へ向かうときのそれとは違っていた。

「……広場を見に行く」

 そう告げると、従者が一瞬だけ目を見開く。

「しかし、アルス様。身の安全を考えますと――」

「俺がここで何も知らないまま、あとで報告だけ聞かされるほうが、よほど危ない」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

 貴族会議の席で交わされた言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 あの場で口にされた比喩のどれもが、この朝のざわめきと無関係だとは思えなかった。

「護衛を数人だけつけてくれ。鎧は目立たないものを。俺自身も、いつもの礼服ではなく……そうだな、路地を歩いても浮かない程度の服に」

 従者は逡巡し、それから諦めたように頭を下げた。

「……承知しました」

 王宮の塔の上を、風がひとすじ抜けていく。

 その流れは、城下へ向かう人波と同じ方向を指していた。

◇◇◇

 王宮から城門までの坂道には、朝の光が斜めに差し込んでいた。

 石畳の上に落ちる影は長く、行き交う人々の靴音が互いに重なり合っている。

 城門を出るころには、俺たちの周囲にも、同じ方向へ向かう背中が増えていた。

 商人風の男が、前を歩く仲間に声をかける。

「広場だとよ。今日は役人連中の話じゃなくて、こっちから話す番だってさ」

 隣の若い女が、籠を抱え直しながら苦笑いする。

「話すだけで済めばいいけどね。みんな、最近は顔が険しいから」

「険しくならずにいられるかよ。仕事は減る、税は増える、そのくせ『上』は何を決めているのか、ろくに教えちゃくれねえ」

 言葉の端々に、貴族会議の影がにじんでいる。

 王宮の高い窓から見えていた世界と、今こうして地上で交わされる声のあいだに、薄い裂け目が生まれているような感覚があった。

 護衛の一人が、さりげなく俺の前に出る。

 腰の剣は鞘に収められたまま。

 それでも、その手つきには緊張がにじんでいた。

 坂道を下りきると、王都の中心へと続く広い通りに出る。

 両脇には、いつものように屋台や店が並んでいるはずだった。

 だが、その多くが半分だけ開いているか、あるいは戸を閉めたまま様子をうかがっていた。

 扉の隙間から覗く目。

 窓辺で手を止める女。

 パンの生地をこねる手を止めたまま、外の音に耳を澄ませている職人。

 仕事は続けられている。

 だが、心のどこかが、別の場所へ引き寄せられているのがわかった。

 通りの角で立ち話をしていた男が、ふとこちらに視線を向ける。

 俺たちの服装を見て、「誰かの従者だろう」と判断したのか、特に声をかけてくることはなかった。

 ただ、彼らの会話の断片が、耳に届く。

「このままじゃ、どっかのブラッドホッグみたいに、血を見なきゃ止まらねえって言う奴もいる」

「縁起でもないこと言うなよ。血に酔う猪王なんざ、昔話の中だけで十分だ」

「昔話の中で済めばな」

 男はそう言い、唇をきつく結んだ。

 ブラッドホッグ。

 血の匂いに群がり、暴れ回る猪の魔物。

 その名が、市井の冗談混じりの会話に上ること自体、あまりいい兆しではなかった。

 誰も本物を呼び出そうとしているわけではない。

 けれど、人々の頭の中で、怒りと恐れの姿を形作るのに、そうした魔物の像ほど都合のいいものもないのだろう。

◇◇◇

 広場に近づくにつれ、音ははっきりとした。

 ざわめきが、肌に直接触れてくるような近さになった。

 輪の内側には、農具を抱えた男たち、割れた籠を抱えた女たち、子どもの手を強く握りしめた母親たちがいた。

 顔ぶれの多くは、これまで何度も市場や村で出会ってきた人々だ。

 その中心近くで、濃い茶髪をざっくりまとめた女が、両腕を広げて立っていた。

「待ちな、あんたら。ここは殴り合う場所じゃないって言ったろ」

 ハンナだった。

 上着の袖を捲り上げ、片手で年配の男の肩を押さえ、もう片方の手で若い男の胸を押し戻す。

 その身振りは荒々しく見えて、ぎりぎりのところで誰の尊厳も傷つけない位置に収まっていた。

 彼女の周りでは、幾つもの声がぶつかり合っている。

「もう持たねえよ、この税じゃ」

「去年より収穫は落ちてるのに、納めるもんは増える一方じゃないか」

「祭りの飾りより、子どもの靴を買わせておくれよ」

 叫びと嘆きが混ざった声が、祈り台の布にぶつかっては跳ね返る。

 輪の外側、少し離れた場所で腕を組んでいる男の姿が目に入った。

 日に焼けた肌。がっしりした体格。

 土の染み込んだ衣の袖口。

 ディーゴだ。

 彼は口を閉ざしたまま、輪の中心をじっと見つめている。

 その沈黙が、誰よりも重かった。

 ハンナが俺に気づき、片目だけで合図してきた。

 近づくと、彼女は周囲にわからない程度の声量でぽつりと続けた。

「貴族会議のほうは、いい話になったのかい」

「すぐに答えが出る類いの話ではなかった」

 そう言うと、ハンナは眉をひとつ上げた。

「言い換えれば、何も決まらなかったってとこだね」

 責める声ではない。

 ただ、長年この街で暮らしてきた者の実感が、そのまま言葉になっているだけだった。

「だからって、こっちも黙って腐ってるわけにはいかないのさ」

 ハンナは、輪の中心に立つ男を顎で示す。

 木箱の上に立ったその男は、まだ言葉を探しているようだった。

 喉の奥に引っかかった何かを、うまく形にできずにいる。

「聞いてくれよ」

 ようやく絞り出された声は、広場の端まで届くほど大きくはなかった。

 けれど、その震えは、耳よりも先に胸のあたりに響いてきた。

「贅沢がしたいわけじゃねえんだ。来年も畑が続いて、子どもに三度飯を食わせられりゃそれでいい。それが、だんだん怪しくなってるって話を、どこで言やあいい」

 幾つものうなずきが、輪の中で波のように広がった。

「アルス様」

 低い声が背後から落ちてきた。

 振り向くと、ディーゴが立っていた。

「見ての通りだ。口で言ってたことが、とうとう形になり始めた」

「……ここまで来る前に、止められたはずのものもあった」

 そう答えると、ディーゴは短く息を吐いた。

「止めるってのは、誰かの腹を空かせたまま黙らせるって意味なら、そりゃあ簡単だ」

 土を踏みしめてきた者の声だった。

「腹の鳴る音を聞こえないふりしてりゃ、そのうち誰も気にしなくなる。それがいちばん怖え」

 ハンナがこちらを振り返り、苦笑を浮かべた。

「アルス様。あたしたちはね、乱したくて集まってるわけじゃないのさ」

 祈り台の上の布が、かすかな風に揺れる。

「ちゃんと届くところに、ちゃんと届く声を出したいだけ。それをどこに向けりゃいいか分からないから、こうして広場に立ってる」

 俺は、祈り布と、その下に集まった人々を見比べる。

 布には幾重もの手の跡が染み込んでいる。

 歓喜も嘆きも、静かな願いも、すべて同じ布の上で揺れてきた。

 その布の前で今、別の種類の叫びが生まれようとしている。

 私は、その声がどこまで届き、どこで途切れるのかを見つめていた。

――誰も石を投げてはいない。

――誰も剣を抜いてはいない。

 それでも、広場の空気は、ひと呼吸ごとに揺れ幅を増していた。

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