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繁栄時代:統一王国ファルゲリア・改革の庶子伝説
【統一王国ファルゲリア・改革の庶子伝説】 第十話:「同志と裏切り・前半」
夕暮れの王都は、朝とは違う色を纏っていた。
陽が傾き、塔の影が長く伸びる。王宮の高い窓から外を見下ろすと、石畳の通りを行き交う人々の列が、ゆっくりと流れる川のように見えた。
広場での出来事から、まだそう時間は経っていない。
それでも、城の中はいつも通りの静けさを保っていた。文官たちは帳面を抱え、侍女たちは灯を用意し、廊下には決められた足音だけが響いている。
俺は、執務室の卓上に広げられた報告書に目を落としていた。
広場での『代表三名』のことが、すでに簡潔な文にまとめられている。
『暴徒化の兆しありしも、都市警備隊の適切な対処により流血は回避。代表三名を聴取のため召喚』
淡々とした記録だった。
そこに、握りしめられた拳や、落とされた棒の音や、祈り布に触れた手の温度が記されることはない。
指先で紙の端をなぞる。
「……あの場にいた者の誰ひとりとして、自分を『暴徒』とは呼ばないだろうに」
思わず漏れた独り言に、部屋の隅に控えていた従者がわずかに肩を揺らした。
戸口が小さく叩かれる。
許可を出すと、扉の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「失礼いたします、アルス様」
現れたのは、ラディスだった。
癖のある金髪をいつものように撫でつけ、狐めいた目に穏やかな笑みを浮かべている。
「広場から戻られたばかりでお疲れのところ、申し訳ありません。少し、お時間を頂けますか」
「……もう少し『お疲れ』を味わっていたい気分だが、聞こう」
椅子から身を起こすと、ラディスは肩をすくめた。
「時代は、疲れている者を待ってはくれませんので。実は、今夜ひとつ、ささやかな集まりがありましてね」
「集まり?」
「改革に関心を持つ方々の、非公式な顔合わせです。私と同じ新興貴族、商人、職人ギルドの代表……名目上は『情報交換会』ですが、今後の動き次第では、アルス様の窓を支える柱にもなり得る面々です」
ラディスはさらりと言った。
広場の光景が、胸の奥で揺れる。
「……今日の広場を見てから、その集まりを持ち出すのは、なかなかいい性格だな」
「褒め言葉と受け取っておきますよ」
ラディスは笑い、少しだけ真顔に戻る。
「民衆の叫びは、確かに重い。ですが、それを受け止める枠組みを用意しなければ、いずれ別の形で噴き出します。上と下の間に、新しい『橋』が必要だと、私は考えています」
その言い方は、どこまでも理性的だった。
感情に溺れることも、切り捨てることもなく、天秤に載せるような調子。
「場所は?」
「城下の、とある館です。王宮からそう遠くはありません」
「……分かった。行こう」
「では、目立たぬよう服装は先日の路地歩きに準じて。護衛は少数で」
ラディスは柔らかな笑みを残して、部屋を出ていった。
窓の外では、夕陽がゆっくりと山の端へ沈みかけている。
私は、その光が王宮の石壁を染める様子と、城下の家々の屋根を撫でる様子を見比べていた。
同じ光のはずなのに、その届き方は、場所によってあまりにも違っていた。
◇◇◇
日が沈みきるころ、俺は従者と護衛数人と共に王宮を出た。
夜の王都は、昼の喧噪とは別の気配を纏っている。
ところどころに灯された街灯と、店先から漏れる灯りが、細い路地をかろうじて浮かび上がらせていた。遠くでは酒場の笑い声が混じり合い、どこからか楽器の音がこぼれてくる。
だが、その明るさの裏側には、見えない影が幾つも重なっていた。
路地の奥、物陰から物陰へと移動する気配。噂をやり取りする小声。誰かを待つ足音。
従者が、歩きながらふと口を開く。
「王都の夜は、シャドウウルフの巣と似ていますね」
「シャドウウルフか」
「ええ。光の届かぬ路地を好み、人の出入りをじっと見ている。牙を剥くのは、獲物が弱ったときだけですが……いつからそこにいたのか、誰もはっきりとは覚えていない」
従者の言葉に、俺は路地の暗がりへと視線を向ける。
もちろん、本物の魔物が潜んでいるわけではない。
それでも、人の思惑というものは、ああした影とよく似ている、と感じることがあった。
「今夜の集まりに来る者たちが、シャドウウルフ側ではないことを祈るべきか」
「少なくとも、牙を隠しているかどうかは、見極める必要がありますね」
従者は軽く笑った。
◇◇◇
たどり着いたのは、王都でも比較的新しい区画に建てられた、三階建ての館だった。
石と木を組み合わせた外壁は余計な装飾を避け、窓には厚手の布が下ろされている。表向きは商人の集会所として使われている建物だと、従者が説明した。
入口近くには、簡素な服装の見張りが一人、壁にもたれて立っていた。腰には刃の短い剣。視線は鋭いが、こちらを見ても特に動揺は見せない。
俺が合図を送ると、彼は黙って扉を開けた。
館の中は、外の喧噪から切り離されたように静かだった。
廊下を進み、二階の奥まった部屋へ入ると、すでに数人の影が集まっているのが見えた。
卓の上には、簡素な茶器と軽い酒肴が並べられている。壁には王都の地図と、その周辺の村々を記した紙が重ねて貼られていた。
ラディスとユーリが、窓際の椅子から立ち上がる。
「お待ちしていました、アルス様」
中性的な顔立ちに、いつもの柔らかな笑みを浮かべている。手には帳面が一冊、指の間には細い羽根ペン。
「今日は、少し賑やかですよ。時代は、動く者のためにある……と申し上げたでしょう」
ユーリの言葉に、部屋の中の面々が順にこちらへ視線を向ける。
上質ではあるが、紋章を目立たぬよう抑えた服を着た若い男。指先にインクの染みが残る、書記官風の男。質素だが肩回りのしっかりした服装の女は、職人ギルドの代表かもしれない。
誰も正式な名乗りはしない。
ただ、互いの視線と、握手ひとつで『ここにいる理由』を共有しているようだった。
ラディスが部屋の中央へ進み出る。
「お集まりいただき、感謝します。ご存じの通り、王都とその周辺では、今、様々なひずみが表に出はじめています。税、兵、土地、商い……いずれも切り離せない問題です」
彼の声は落ち着いていた。
「上からの改革を待っているだけでは、間に合わない。かといって、下からの叫びに任せていては、ただの混乱になります。その中間で、橋を架けようとする者たちが必要です」
ユーリが、頷きながら言葉を継いだ。
「ここにいるのは、皆さんそれぞれの場所で『もう少し何とかなるはずだ』と感じている方々です。利のためでもあり、同時に、生き延びるためでもある」
ユーリはそう言って、視線を俺のほうへ向ける。
「そして、アルス様。あなたは王宮の中から、この橋を支えることができる数少ないお一人です」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
期待だけではなく、不安や打算や、ささやかな恐れが混じった重さだ。
俺は、一人ひとりの顔を見渡した。
この街で生きるために、目の前の利害を計算している者たち。民衆の叫びを聞きながらも、そこから半歩引いた場所で考えざるを得ない者たち。
「……ここにいる全員が、同じ『旗』を見ているわけではないだろう」
正直な感想が、口から零れる。
ラディスが口角を上げた。
「ええ。その通りです。だからこそ、こうして顔を合わせているのです。同じ方向を見ているふりをして、それぞれ別のものを見ている同志もいるでしょう」
その言葉に、かすかな笑いが漏れた。
笑い声の中に、安堵と緊張が同居している。
私は、その笑いがどこから生まれ、どこで途切れていくのかを見ていた。
◇◇◇
話題は、具体的な案件へと移っていった。
市場税の段階的な見直し案。兵の再配置に伴う補填策。辺境の村々への穀物輸送の優先順位。
卓上に広げられた地図の上を、指先が行き交う。
「この路線を使えば、市場へ出す穀物の量は維持できます。ただ、貴族の専用倉庫の扱いを少し調整する必要がありますが」
書記官風の男が、慎重な口調で提案する。
「倉庫の持ち主が誰かにもよりますね。ザガン侯の領にある倉庫に手をつけるとなると、話は少々ややこしくなります」
ユーリがさらりと言う。
ラディスは、その会話を聞きながら、杯の中身を一口だけ口に含んだ。
「ザガン侯とて、利になる話なら全てを拒むわけではないでしょう。問題は、どこまで『利』と見なされるかです」
その言い回しは、どこか含みを持っていた。
部屋の隅で、数人がひそひそと声を交わしている。
そこには、名を告げなかった若い貴族と、商人風の男がいた。彼らの足元には、封をされたままの小さな箱が置かれている。
その姿は、部屋の中央で交わされている『堂々とした改革』の話とは、少し違う影を帯びていた。
「……あれは?」
俺が目線だけで問うと、ユーリがわずかに肩をすくめる。
「寄付ですよ。表向きは。新しい政策が決まったとき、どちらに転んでも困らないように、先に『誠意』を見せておきたい方々は多いのです」
「どちらに転んでも、か」
「ええ。デスカブトをご存じですか?」
突然の魔物の名に、俺はユーリを見た。
「腐った木の中に巣を作る甲虫だろう」
「そうです。外から見れば、まだ立派な木。でも中では、少しずつ食われている。今日あの箱に詰める金貨は、明日の腐敗の巣になるかもしれない」
ユーリの声は、笑っているようで笑っていなかった。
ラディスが、ちらりとこちらを見た。
「腐った木でも、上手く使えば薪にはなります。問題は、その木を『家の柱』に使ってしまう者がいることです」
その言葉は、軽口の形をしていたが、重さを帯びていた。
部屋の片隅から、別の声が聞こえてきた。
「ザガン侯の側にも顔を出しておけば、どちらが勝っても損はしない。そう考えるのは、商人としては当然のことだ」
商人風の男の呟きに、若い貴族が曖昧に笑う。
「勝ち負けの話ではないはずだが」
思わず口にすると、ラディスが視線を向けてきた。
「アルス様。勝ち負けではない、と言えるのは、今のところあなただけかもしれませんよ」
その声に、部屋の空気がわずかに揺れた。
俺は、言葉を飲み込む。
広場での叫びが、耳の奥で蘇る。
『贅沢がしたいわけじゃねえんだ』
あの言葉を口にした男は、今ここにはいない。
代わりに、帳面と地図と金貨の箱が、この部屋の中心を占めている。
私は、その距離を測っていた。
広場と、この密談の部屋とのあいだに横たわる目に見えない溝が、どれほど深く、どれほど静かに広がっているのかを。
◇◇◇
やがて、話し合いは一段落した。
今夜ここで決まることは少ない。
それでも、誰がどこに座り、誰と目を合わせ、誰と目を合わせなかったか。その全てが、これからの形を左右する種になる。
ラディスは、集まった者たちに向き直った。
「本日は、あくまで顔合わせです。皆さまそれぞれの立場で、持ち帰っていただくことが多いでしょう。ただ一つだけ、私からお願いがあるとすれば――」
彼は、卓上の小さな灯を見つめた。
「この場で交わした話を、『あったことそのものを、無かったことにする』だけは、しないでいただきたい。どの選択を取るにしても、今日ここで見た顔ぶれと、交わした言葉の重さは、どうか覚えておいてください」
それは、裏切りを咎める言葉ではなかった。
むしろ、裏切りさえも選択肢の一つとして認めたうえで、その重さを忘れるな、と告げるような口調だった。
部屋の隅の箱に、影が落ちる。
誰かが、その影の中で静かに笑った。
俺は、自分の指先に意識を向けた。
拳を握りしめることも、卓を叩くこともせず、ただそこに置いておく。
今、この場で声を荒げることはできる。
しかし、その言葉がどこまで届くのか、どこで途切れてしまうのか、俺にはまだ見えなかった。
私は、広場で生まれた叫びの余韻と、この部屋に満ちる静かな笑い声とが、どこかで交わるのかどうかを見つめていた。
灯りの揺らぎが、壁に映る影の形を少しずつ変えていく。
その中に、シャドウウルフの輪郭にも似た何かが、一瞬だけ浮かんでは消えた。
陽が傾き、塔の影が長く伸びる。王宮の高い窓から外を見下ろすと、石畳の通りを行き交う人々の列が、ゆっくりと流れる川のように見えた。
広場での出来事から、まだそう時間は経っていない。
それでも、城の中はいつも通りの静けさを保っていた。文官たちは帳面を抱え、侍女たちは灯を用意し、廊下には決められた足音だけが響いている。
俺は、執務室の卓上に広げられた報告書に目を落としていた。
広場での『代表三名』のことが、すでに簡潔な文にまとめられている。
『暴徒化の兆しありしも、都市警備隊の適切な対処により流血は回避。代表三名を聴取のため召喚』
淡々とした記録だった。
そこに、握りしめられた拳や、落とされた棒の音や、祈り布に触れた手の温度が記されることはない。
指先で紙の端をなぞる。
「……あの場にいた者の誰ひとりとして、自分を『暴徒』とは呼ばないだろうに」
思わず漏れた独り言に、部屋の隅に控えていた従者がわずかに肩を揺らした。
戸口が小さく叩かれる。
許可を出すと、扉の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「失礼いたします、アルス様」
現れたのは、ラディスだった。
癖のある金髪をいつものように撫でつけ、狐めいた目に穏やかな笑みを浮かべている。
「広場から戻られたばかりでお疲れのところ、申し訳ありません。少し、お時間を頂けますか」
「……もう少し『お疲れ』を味わっていたい気分だが、聞こう」
椅子から身を起こすと、ラディスは肩をすくめた。
「時代は、疲れている者を待ってはくれませんので。実は、今夜ひとつ、ささやかな集まりがありましてね」
「集まり?」
「改革に関心を持つ方々の、非公式な顔合わせです。私と同じ新興貴族、商人、職人ギルドの代表……名目上は『情報交換会』ですが、今後の動き次第では、アルス様の窓を支える柱にもなり得る面々です」
ラディスはさらりと言った。
広場の光景が、胸の奥で揺れる。
「……今日の広場を見てから、その集まりを持ち出すのは、なかなかいい性格だな」
「褒め言葉と受け取っておきますよ」
ラディスは笑い、少しだけ真顔に戻る。
「民衆の叫びは、確かに重い。ですが、それを受け止める枠組みを用意しなければ、いずれ別の形で噴き出します。上と下の間に、新しい『橋』が必要だと、私は考えています」
その言い方は、どこまでも理性的だった。
感情に溺れることも、切り捨てることもなく、天秤に載せるような調子。
「場所は?」
「城下の、とある館です。王宮からそう遠くはありません」
「……分かった。行こう」
「では、目立たぬよう服装は先日の路地歩きに準じて。護衛は少数で」
ラディスは柔らかな笑みを残して、部屋を出ていった。
窓の外では、夕陽がゆっくりと山の端へ沈みかけている。
私は、その光が王宮の石壁を染める様子と、城下の家々の屋根を撫でる様子を見比べていた。
同じ光のはずなのに、その届き方は、場所によってあまりにも違っていた。
◇◇◇
日が沈みきるころ、俺は従者と護衛数人と共に王宮を出た。
夜の王都は、昼の喧噪とは別の気配を纏っている。
ところどころに灯された街灯と、店先から漏れる灯りが、細い路地をかろうじて浮かび上がらせていた。遠くでは酒場の笑い声が混じり合い、どこからか楽器の音がこぼれてくる。
だが、その明るさの裏側には、見えない影が幾つも重なっていた。
路地の奥、物陰から物陰へと移動する気配。噂をやり取りする小声。誰かを待つ足音。
従者が、歩きながらふと口を開く。
「王都の夜は、シャドウウルフの巣と似ていますね」
「シャドウウルフか」
「ええ。光の届かぬ路地を好み、人の出入りをじっと見ている。牙を剥くのは、獲物が弱ったときだけですが……いつからそこにいたのか、誰もはっきりとは覚えていない」
従者の言葉に、俺は路地の暗がりへと視線を向ける。
もちろん、本物の魔物が潜んでいるわけではない。
それでも、人の思惑というものは、ああした影とよく似ている、と感じることがあった。
「今夜の集まりに来る者たちが、シャドウウルフ側ではないことを祈るべきか」
「少なくとも、牙を隠しているかどうかは、見極める必要がありますね」
従者は軽く笑った。
◇◇◇
たどり着いたのは、王都でも比較的新しい区画に建てられた、三階建ての館だった。
石と木を組み合わせた外壁は余計な装飾を避け、窓には厚手の布が下ろされている。表向きは商人の集会所として使われている建物だと、従者が説明した。
入口近くには、簡素な服装の見張りが一人、壁にもたれて立っていた。腰には刃の短い剣。視線は鋭いが、こちらを見ても特に動揺は見せない。
俺が合図を送ると、彼は黙って扉を開けた。
館の中は、外の喧噪から切り離されたように静かだった。
廊下を進み、二階の奥まった部屋へ入ると、すでに数人の影が集まっているのが見えた。
卓の上には、簡素な茶器と軽い酒肴が並べられている。壁には王都の地図と、その周辺の村々を記した紙が重ねて貼られていた。
ラディスとユーリが、窓際の椅子から立ち上がる。
「お待ちしていました、アルス様」
中性的な顔立ちに、いつもの柔らかな笑みを浮かべている。手には帳面が一冊、指の間には細い羽根ペン。
「今日は、少し賑やかですよ。時代は、動く者のためにある……と申し上げたでしょう」
ユーリの言葉に、部屋の中の面々が順にこちらへ視線を向ける。
上質ではあるが、紋章を目立たぬよう抑えた服を着た若い男。指先にインクの染みが残る、書記官風の男。質素だが肩回りのしっかりした服装の女は、職人ギルドの代表かもしれない。
誰も正式な名乗りはしない。
ただ、互いの視線と、握手ひとつで『ここにいる理由』を共有しているようだった。
ラディスが部屋の中央へ進み出る。
「お集まりいただき、感謝します。ご存じの通り、王都とその周辺では、今、様々なひずみが表に出はじめています。税、兵、土地、商い……いずれも切り離せない問題です」
彼の声は落ち着いていた。
「上からの改革を待っているだけでは、間に合わない。かといって、下からの叫びに任せていては、ただの混乱になります。その中間で、橋を架けようとする者たちが必要です」
ユーリが、頷きながら言葉を継いだ。
「ここにいるのは、皆さんそれぞれの場所で『もう少し何とかなるはずだ』と感じている方々です。利のためでもあり、同時に、生き延びるためでもある」
ユーリはそう言って、視線を俺のほうへ向ける。
「そして、アルス様。あなたは王宮の中から、この橋を支えることができる数少ないお一人です」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
期待だけではなく、不安や打算や、ささやかな恐れが混じった重さだ。
俺は、一人ひとりの顔を見渡した。
この街で生きるために、目の前の利害を計算している者たち。民衆の叫びを聞きながらも、そこから半歩引いた場所で考えざるを得ない者たち。
「……ここにいる全員が、同じ『旗』を見ているわけではないだろう」
正直な感想が、口から零れる。
ラディスが口角を上げた。
「ええ。その通りです。だからこそ、こうして顔を合わせているのです。同じ方向を見ているふりをして、それぞれ別のものを見ている同志もいるでしょう」
その言葉に、かすかな笑いが漏れた。
笑い声の中に、安堵と緊張が同居している。
私は、その笑いがどこから生まれ、どこで途切れていくのかを見ていた。
◇◇◇
話題は、具体的な案件へと移っていった。
市場税の段階的な見直し案。兵の再配置に伴う補填策。辺境の村々への穀物輸送の優先順位。
卓上に広げられた地図の上を、指先が行き交う。
「この路線を使えば、市場へ出す穀物の量は維持できます。ただ、貴族の専用倉庫の扱いを少し調整する必要がありますが」
書記官風の男が、慎重な口調で提案する。
「倉庫の持ち主が誰かにもよりますね。ザガン侯の領にある倉庫に手をつけるとなると、話は少々ややこしくなります」
ユーリがさらりと言う。
ラディスは、その会話を聞きながら、杯の中身を一口だけ口に含んだ。
「ザガン侯とて、利になる話なら全てを拒むわけではないでしょう。問題は、どこまで『利』と見なされるかです」
その言い回しは、どこか含みを持っていた。
部屋の隅で、数人がひそひそと声を交わしている。
そこには、名を告げなかった若い貴族と、商人風の男がいた。彼らの足元には、封をされたままの小さな箱が置かれている。
その姿は、部屋の中央で交わされている『堂々とした改革』の話とは、少し違う影を帯びていた。
「……あれは?」
俺が目線だけで問うと、ユーリがわずかに肩をすくめる。
「寄付ですよ。表向きは。新しい政策が決まったとき、どちらに転んでも困らないように、先に『誠意』を見せておきたい方々は多いのです」
「どちらに転んでも、か」
「ええ。デスカブトをご存じですか?」
突然の魔物の名に、俺はユーリを見た。
「腐った木の中に巣を作る甲虫だろう」
「そうです。外から見れば、まだ立派な木。でも中では、少しずつ食われている。今日あの箱に詰める金貨は、明日の腐敗の巣になるかもしれない」
ユーリの声は、笑っているようで笑っていなかった。
ラディスが、ちらりとこちらを見た。
「腐った木でも、上手く使えば薪にはなります。問題は、その木を『家の柱』に使ってしまう者がいることです」
その言葉は、軽口の形をしていたが、重さを帯びていた。
部屋の片隅から、別の声が聞こえてきた。
「ザガン侯の側にも顔を出しておけば、どちらが勝っても損はしない。そう考えるのは、商人としては当然のことだ」
商人風の男の呟きに、若い貴族が曖昧に笑う。
「勝ち負けの話ではないはずだが」
思わず口にすると、ラディスが視線を向けてきた。
「アルス様。勝ち負けではない、と言えるのは、今のところあなただけかもしれませんよ」
その声に、部屋の空気がわずかに揺れた。
俺は、言葉を飲み込む。
広場での叫びが、耳の奥で蘇る。
『贅沢がしたいわけじゃねえんだ』
あの言葉を口にした男は、今ここにはいない。
代わりに、帳面と地図と金貨の箱が、この部屋の中心を占めている。
私は、その距離を測っていた。
広場と、この密談の部屋とのあいだに横たわる目に見えない溝が、どれほど深く、どれほど静かに広がっているのかを。
◇◇◇
やがて、話し合いは一段落した。
今夜ここで決まることは少ない。
それでも、誰がどこに座り、誰と目を合わせ、誰と目を合わせなかったか。その全てが、これからの形を左右する種になる。
ラディスは、集まった者たちに向き直った。
「本日は、あくまで顔合わせです。皆さまそれぞれの立場で、持ち帰っていただくことが多いでしょう。ただ一つだけ、私からお願いがあるとすれば――」
彼は、卓上の小さな灯を見つめた。
「この場で交わした話を、『あったことそのものを、無かったことにする』だけは、しないでいただきたい。どの選択を取るにしても、今日ここで見た顔ぶれと、交わした言葉の重さは、どうか覚えておいてください」
それは、裏切りを咎める言葉ではなかった。
むしろ、裏切りさえも選択肢の一つとして認めたうえで、その重さを忘れるな、と告げるような口調だった。
部屋の隅の箱に、影が落ちる。
誰かが、その影の中で静かに笑った。
俺は、自分の指先に意識を向けた。
拳を握りしめることも、卓を叩くこともせず、ただそこに置いておく。
今、この場で声を荒げることはできる。
しかし、その言葉がどこまで届くのか、どこで途切れてしまうのか、俺にはまだ見えなかった。
私は、広場で生まれた叫びの余韻と、この部屋に満ちる静かな笑い声とが、どこかで交わるのかどうかを見つめていた。
灯りの揺らぎが、壁に映る影の形を少しずつ変えていく。
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しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
掃除婦に追いやられた私、城のゴミ山から古代兵器を次々と発掘して国中、世界中?がざわつく
タマ マコト
ファンタジー
王立工房の魔導測量師見習いリーナは、誰にも測れない“失われた魔力波長”を感じ取れるせいで奇人扱いされ、派閥争いのスケープゴートにされて掃除婦として城のゴミ置き場に追いやられる。
最底辺の仕事に落ちた彼女は、ゴミ山の中から自分にだけ見える微かな光を見つけ、それを磨き上げた結果、朽ちた金属片が古代兵器アークレールとして完全復活し、世界の均衡を揺るがす存在としての第一歩を踏み出す。