この腕の中で死ね

我利我利亡者

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 何一つ持たない、道端の石ころ以下の餓鬼だった。一番古い記憶の始まりは母に引き摺るように手を引かれ、妈妈マーマ(お母さん)腕が痛いよ、なんてベソをかいているものだ。土埃まみれでボロボロの俺とは違い、あの時の母は全身綺麗に着飾っていて白粉まで叩いていたっけ。いつの間にか土を踏み固めただけの道から整備された石畳の道に来たと気がついた時、母は俺の小さな体を投げ捨てるようにして手を離した。
 『、ここの老板ラオバン(ボス)の子供だから。私じゃ育てらんないから、置いてくわ。それじゃあね』。呆然とする俺と門番らしき男を置いて、サッサとその場を立ち去ろうとする母。煌びやかな服に身を包んだ、ホッソリとした背中がみるみるうちに遠ざかっていく。『待って、行かないで妈妈マーマ!』。そう叫んだ俺には一瞥もくれず、むしろ走り寄って母にすがろうとした俺を、母は手が触れる寸前で振り返り思いっきり腹を蹴り飛ばす。壁際まで蹴飛ばされて胃液を吐き出し苦しむ俺に、はこう吐き捨てた。『汚いわね。二度と私の事を妈妈マーマだなんて呼ばないで。あんたを産んだのは、私の人生で一番の間違いだわ』。そう言うとその女はその場を立ち去り、二度と戻ってくる事はなかった。
 そうして母に捨てられた俺は、とある黑社会ヘイシャーホェイ(犯罪組織)に拾われる。なんという事はない、俺はそこの老板ラオバンの隠し子だった。老境に差し掛かり始めた老板ラオバンが場末の酒場に居た娼妓に手を出し、結果生まれたのが俺だ。後から聞いた話だと今の正妻を追い出してお前を後妻に迎え、お腹の子を跡取りにしようなんて寝物語を本気にした娼妓が堕ろさなかった結果らしい。結局子供ができたせいで父の足が遠のき破局したんだから、馬鹿馬鹿しい事この上ない。
 父には俺以外にも正妻との間に男女合わせて五人の子供が居た。俺みたいな妾腹一人居たって、今更跡取りの代替品にも、駆け引きの為の駒にもならない。何より父の正妻は苛烈な女で、夫が他所の女に産ませた俺を分かりやすく嫌っていた。その子供である腹違いの兄姉の態度なんて言わずもがな。父の配下の人間も正妻達の不興を買うのを嫌い、見捨てる事はあっても助ける事はない。申し訳程度に最低限の衣食住だけ与えられ、俺は酷く疎まれて育った。
 転機が訪れたのは、俺が十を幾つか超えた頃。兄姉から水をかけられたり踏みつけにされたりして虐められ、泥んこでクサクサしながらトボトボと歩いていたら、一人の男に声をかけられた。
「おい、坊主。大丈夫か?」
 驚いて男の顔を見る。この家では誰も俺に構わない。甚振る時以外は空気のように扱う。下手に俺に構って正妻達の怒りを買い、累が及ぶのを避ける為だ。だから使用人だろうが組織の下っ端だろうが、ここに居て誰かから罵倒される以外で声をかけられたのは正真正銘初めてで驚きのあまり声も出なかった。
「怪我までしてるじゃねぇか。こっちに来い。洗ってやるから」
 声をかけてきただけでも驚きなのに、更には汚れを洗うだなんて。益々驚くと共に、俺は一つの結論を出した。そうか、こいつさては新入りだな? 俺を取り巻く事情を知らないに違いない。だからこんな、馬鹿げた行動を。そして、いつぶりかも分からない他人からの優しさに感動するよりも先に、いやこれは罠なのではないか、と疑う気持ちが芽生える。だから俺は男がこちらに伸ばした手を、思いっ切り力を込めて叩き落とした。
「勝手に触んじゃねぇ!」
 久しぶりに発した悲鳴以外の言葉で喉が痛む。その痛みを噛み砕くようにして歯を噛み締め、後ろも振り返らずにその場を走って立ち去る。バクバクと胸の内側で心臓が暴れるのは、走ったせいだ。自分で自分にそう言い聞かせ、動揺を押し殺すのだった。
 俺はてっきりそれ切り男と会う事はないか、会ったとしても親しげに話しかけてくる事はないと、そう思っていたのだが。
虎嘯フーシア。また兄弟にやられたのか?」
 話しかけられて俺は男を……龍吟ロンインを睨む。しかし龍吟ロンインはニヘラ、と笑うだけで睨んだ俺を咎める事も不機嫌な表情を見せる事もなかった。龍吟ロンインは断りもせずに当然の顔をして俺の隣に座ると、血の滲む俺の頬の傷に手を伸ばす。触れる寸前で、俺は身を捩ってその指先を躱した。
「触んな。俺はお前と関わりたくない」
「そう邪険にすんなよ。俺、郷里にお前と同じくらいの弟が居るんだ。そいつの事を思い出しちまって、放っとけねぇんだよ」
 成程、では虎嘯フーシアというのがその弟の名前か。俺の名前は虎嘯フーシアではない。この家に来てからは笨蛋ベンダン(馬鹿)だの愚蠢ユーチュン(愚図)だのと呼ばれるだけで、本当の名前は忘れてしまったが、虎嘯フーシアなんて名前じゃなかった事だけは確かだ。虎嘯フーシア龍吟ロンインという名と対になってるし、兄弟のものと言われれば納得である。
 龍吟ロンインは誰からも見捨てられた俺のどこがそんなに気に入ったのか、最初に出会ってからこっち行き会う度に声をかけてくるようになった。それも、周囲に人がいようが居なかろうがお構いなく。そのせいで何度か叱責されたようだったが、龍吟ロンインは最近若い衆の中でも頭角を現してきたやり手らしく、決定的な懲罰を受けるという事はないようだった。それでも、俺に話しかける奇癖のせいで確実に要らぬ波風は立ってしまっている。少なくとも龍吟ロンインの為にはなっていない。俺には何故龍吟ロンインがそこまで俺に構うのか、弟の名前を付けてまで可愛がろうとするのかが分からなかった。
虎嘯フーシア、腹減ってないか? 月餅ユエビンを沢山貰ったんだが、食べきれないからお前にも」
「要らん」
「あ、おい! 虎嘯フーシア!」
 龍吟ロンインから話しかけられるのが煩わしくて、立ち上がってその場を立ち去る。龍吟ロンインの方もそう執拗くは追ってこない。俺の意思を尊重でもしてるつもりか? 馬鹿馬鹿しい。きっとあいつの優しさには、裏があるに決まってる。どうにか俺を丸め込んで手駒にでもするつもりなんだろう。誰がその手に乗るか。俺はもう、自分の人生を誰かに利用されたくなんかない。父に取り入る為に俺を産んだ母や、妻子の怒りの矛先を自分から逸らす為に俺を置いている父、あれこれ理由をつけて怒りの捌け口にしてくる正妻や兄姉。あんな奴等、皆大嫌いだ!
 苛立ちながら家の敷地を出る。門番には止められない。本当にここの奴等は、俺がどうなろうとどうでもいいんだ。どうせ俺なんて手を出しても何にもならないのは大勢が知ってるし、家に居ても殴られるだけなら外にいた方がマシだ。ただ、行く宛もなくトボトボと道を歩く。そして、何となくある薄暗い路地に入ったのと、背後から襲われたのは同時だった。





「ぅ……」
 小さく呻いて、意識が浮上する。視界が暗いし息もし辛い。どうやら何か袋を被せられているらしい。手足も縛られているようで、身動き一つ取れなかった。
「おい、どういう事だよ! こいつがイェン一族の末っ子じゃなかったのかよ!? 情報が間違ってたのか!?」
「そいつが末っ子ってのは合ってるよ! ただなぁ、向こうにそんな褐家鼠フゥーァヂィアシゥー(ドブネズミ)の為に払う金は、家には一銭もないって言われちまった!」
 男が数人怒鳴りあっている。それを盗み聞いてみるに、どうやらこういう事らしい。イェン一族とは俺の父の一族で、つまりは黑社会ヘイシャーホェイの頭目の家柄だ。田舎から出てきて一旗揚げようと思った男達は、俺を使ってイェン一族から金若しくは価値ある何かを毟り取ろうとしたらしい。あのイェン一族相手に仕事をしたらそれだけで一目置かれるし、おまけで金品が手に入ったら一石二鳥と思ったのだろう。
 が、そこは流石の田舎者。一族にとって俺が無価値であるという事を知らなかったようだ。なんとまぁ馬鹿馬鹿しい。計画が滞った途端に、男達は醜い仲間割れを始める。
「おいどうすんだ、何か俺達に関する情報を知っちまったかもしれねぇから、この餓鬼はもう返せねぇぞ!」
「こんな痩せぎすの鼻垂れ、どこかに売り飛ばしても端金にもならん。何より足が着いちまう」
「金を払う気はなくとも、向こうは俺達が売った喧嘩を忘れてはくれなさそうだぞ。この坊主を生かしておくのはまずい」
「……だったら、仕方がねぇよな?」
 突然、袋を被せられたままの頭を掴まれて、そのまま首に手が回った。ギリギリと首を締められ、ただでさえし辛かった息が完全にできなくなる。
「チッ、暴れんじゃねぇ! おい、誰かこいつの体抑えてろ!」
 体を押えられ完全に身動きが取れなくなった。邪魔が減ったからか首を締め付ける手の力が強まる。俺、こんなところで死ぬのか。間抜け共に攫われて、家族からは見捨てられ、たったそれだけの事で。嫌だ、死にたくない。死にたくない、けど……もう、息が……。
 どんどん視界が暗くなり、思考も途切れ途切れになって、とうとう何もかもが暗闇に飲み込まれそうになった、その瞬間。不意に俺の首を締め付けていた力が消え、続いて体を押さえつけていた手もいきなりなくなる。急に大量の空気が気管に入り込んできて、俺はゴホゴホと激しく咳き込んだ。
「手前ぇ、何を……グアッ!」
「ヒィ、助け……」
 ドカッ、バキッ、と何かが壊れる音が周りでしている。それと同時に、男達の悲鳴じみた叫びも。暫くそれらは続いたが、やがて静かになりなんの音もしなくなる。この頃には俺の呼吸も落ち着いていたので、何が起きたのだろうかと袋で視界が塞がれているなりに気にしていた。
 すると、誰かがこちらに歩いてくる足音が聞こえてくるではないか。また首を絞められるのか、と恐怖でビクリと体を縮こまらせる。誰かが目の前にしゃがむ気配。必死に息を潜める。そんな俺の頭から優しく袋が取り去られ、そこに居たのは。
「無事か、虎嘯フーシア?」
「何で、お前がここに……」
虎嘯フーシアが攫われたって聞いて、急いで助けに来たんだ」
 間に合ってよかった、と笑顔を見せる龍吟ロンイン。俺はその全てが信じられない。だって、俺の家族は、誰もが俺を見捨てたんじゃ……。だから、部下の龍吟ロンインだってここに来る訳ないのに、どうしてここに……。だが、何より信じられないのは、死の恐怖と絶望感で馬鹿になったらしい目から、勝手に涙が溢れている事。それは止めたくても止まらなくて、泣きじゃくる俺を龍吟ロンインは優しく抱き締める。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
 背中に回された手が暖かい。その時はただ、全身に感じる龍吟ロンインの体温だけが俺にとっての全てだった。
 後から聞いた話、龍吟ロンインは家族すら見捨てた俺を、単身飛び出し勝手に助けたらしい。結果舐めた真似してきた相手に報復したのだから咎められはしなかったようだが、それでも危険な行為だし龍吟ロンインにとっての旨みは全くない。それなのに、どうして。何度聴いても龍吟ロンインは笑って誤魔化すだけで確かな答えはくれなかった。その事が益々俺の心を揺さぶる。
 俺が龍吟ロンインを無視する事はもうない。話しかけられれば嬉しくなってその何倍も話し返すし、隣に座られれば天にも昇らん気持ちになる。むしろ姿を見れば走って寄ってって、頭を撫でられると嬉しくなって笑ってしまう。龍吟ロンインに助けられたあの日から、俺は変わった。俺自身も、家での立場も。
 最初は龍吟ロンインが俺を助ける時にそうしたように、勝手にいくつか家の仕事をこなした。それで実力が認められ、少しずつ仕事を任されるようになる。そうすればもうこっちのもの。どんどん仕事をしていって、家での立場が上がり、周囲の俺を見る目も変わっていく。数年経ち青年の域に足を踏み入れる頃には、俺は黑社会ヘイシャーホェイの中でも頭脳派の人間として地位を確立していた。
「よぉ、虎嘯フーシア。元気そうじゃないか」
龍吟ロンイン!」
 いつも通り犯罪しごとの計画をいくつか立てて下の人間に指示を飛ばしていたら、龍吟ロンインが姿を現す。龍吟ロンインもここ数年で随分出世し、若いながらも実力を認められ今では立派に幹部の一人だ。俺はこの人に認められたくて、そしてこの人の隣に並び立てる自分になりたくて、ここまで頑張ってきた。最近ではその頑張りは、随分成果が出てきているように思う。
「今度する盗みの計画を立ててたんだ。後、今やってる闇市の運営についても話してた。龍吟ロンインは、また情報が欲しいのか?」
「実はそうなんだ。教えてくれるかい、弟君?」
 龍吟ロンインに弟と呼ばれて気分が舞いあがる。名無しだった俺はもうすっかり虎嘯フーシアという名で定着していた。名実共に虎嘯フーシアとなった俺を、龍吟ロンインも実の弟のように可愛がってくれている。俺はそれが嬉しくて堪らない。だから、龍吟ロンインが求めれば素直にどんな情報でも教えたし、協力だって惜しまなかった。
「……以上が盗みに入る人間の名前だ。参考になったか?」
「ああ、すっごく助かった。いつも有難うな、虎嘯フーシア
「これくらい構わないさ。またいつでも頼ってくれ」
 礼と共に頭を撫でられこっちも凄く嬉しい。こうして彼の役に立てるなんて、頑張って家での自分の地位向上をした甲斐があったというものだ。一頻り龍吟ロンインに頭を撫でてもらってから、大満足で別れて自分は仕事に戻る。本当に、昔からは考えられない程幸せな毎日だった。例えその幸せが、他人の不幸の上に成り立っていたとしても。
 ある日の事である。俺は珍しく町に出ていた。俺は武闘派ではないし参謀のような役割柄黑社会ヘイシャーホェイの内情についてかなり詳しいので、滅多に外には出ない。出るにしても監視の意味も兼ねて護衛が着く。これが煩わしいので普段は滅多に外には出ないのだが、この日は今度他所の黑社会ヘイシャーホェイとの会合で使う料亭の下見をする為、渋々外に出ていた。
「たく、何でこんな下っ端仕事を虎嘯先生フーシアシェンシャン(虎嘯さん)がやらなくちゃいけないんだ」
「そういうなよ、これも大事な仕事だぜ? こういう些細な事が肝要なんだ」
 ぶつくさと文句を言う護衛の為に連れてきた部下を諌める。最近では俺を慕う人間も大分増えた。龍吟ロンインを真似して色んな人間を助けたりした結果だろう。そのせいか最近では正妻達に嫌がらせされる事も少ない。それでも、大元の龍吟ロンインを慕う人間の数には叶わないが。
「あ、月餅ユエビンだ! そうか、最近噂の人気菓子店ってここだったんだな……。俺、月餅ユエビン好きなんすよね」
「だったら買ってくるといい。ほら、金は出してやるから、留守番してる奴等の分も買ってきな」
「え、いいんすか!? でも……」
 部下が菓子店の前にできた長蛇の列をチラリと見る。流石にまだ若いとはいえ、黑社会ヘイシャーホェイでもそれなりの地位に居る俺をあそこに並ばせる訳にはいかないと思ったのだろう。その気遣いに俺は微苦笑を返した。そして、菓子店から少し離れた所にある茶屋を指差す。
「俺はあの茶屋で待ってるよ。あそこなら何かあったら直ぐ駆けつけられるし、お前も俺から目を離した事にはならないだろ? ほら、金は出してやるって言ってるんだから、遠慮せず行ってきな」
「そうですね……。有難うございます」
 部下に金を渡し、ついでに一つ余分に月餅ユエビンを買ってきてくれるように頼む。月餅ユエビンは甘いものが苦手な龍吟ロンインが唯一好んで食べる甘味なので、彼にもお土産としてどうだろうかと思ったのだ。龍吟ロンインの喜ぶ顔を想像しながら、茶屋の店表の席に腰かけ部下が帰ってくるのを待つ。と、その時。
「ん? あれは……」
 数件建物を挟んだ先の路地の入口に、見慣れた人間を見た。いや、正確には見慣れた人間と姿の人間を見た、と言うべきか。薄暗い路地に入っていく龍吟ロンインに似た歩き方の男を、見た気がしたのだ。
 しかし、歩き方が似ていたと言っても姿が違う。向こうは龍吟ロンインのような背の高い溌剌とした若者ではなく、腰の曲がった年寄りだった。身なりもみすぼらしく、一見して歩き方も足を引き摺る覚束無いもの。踵を払う時の見覚えのある僅かな癖さえなければ、龍吟ロンインを感じる事すらなかっただろう。
 きっと何かの見間違いだ。龍吟ロンインは今日他所の町に出ている筈だし、こんな所に居よう筈もない。そうは思ったが、他でもない自分が彼を見間違えるものかとどうしても気になってしまう。暫し考えてから、隣に座っていた茶屋の客に自分が身に付けていた目立つ色の围巾ウェイヂィン(マフラー)と共に金を渡し、自分が戻るまでこれを着けたままここに居てくれ、戻ったらまた金を払う、と言ってその場を離れた。
 犯罪で身を立てていようとも、傍から見た俺はただのそこら辺に居そうな若者だ。もしもの時の為に先程渡した围巾ウェイヂィン以外目立つような服装はしていなかったし、簡単に風景に紛れる。路地に足を踏み入れた俺は直ぐに先程の老人を見つけ、その後を追った。老人はそう歩かずに道端に居た浮浪者と小声で話をし始めた。気が付かれないように近くまで行った俺は二人の会話に耳をそばだて、その内容に愕然とする。
「……以上が今度の盗みに関わる人間の名前だ」
「分かった、上に伝えておく」
 二人の会話の内容、それは俺が他でもない龍吟ロンインに伝えた犯罪しごとの情報だった。しかも、声を作ってはいるが老人の声は紛う事なき龍吟ロンインのもので……。驚きのあまり、俺は隠れていた物陰でカタリと音を立ててしまった。
「誰だ!」
 鋭く飛んでくる男の声。動揺のあまりその場から動く事もできず、俺はアッサリと二人に捕まってしまった。
虎嘯フーシア、どうしてここに……!」
 老人の変装をしているのも忘れた様子で、龍吟ロンインが呟く。しかし、龍吟ロンインは直ぐに自分を取り戻し浮浪者の男を逃がすと、自らも変装を解いて普段の姿に戻った。何やら策があるらしい。
虎嘯フーシア、黙って俺に従うんだ。抵抗しなけりゃ、酷くはしない」
 そう言うと龍吟ロンインは俺を伴って路地を出た。俺がどうしてここに居たのか、どうやって監視の目を逃れたのかはもう白状させられている。龍吟ロンインは茶屋の客から俺の围巾ウェイヂィンを回収すると、監視役の部下と接触をした。
「あれ、龍吟先生ロンインシェンシャン(龍吟さん)。どうしてここに?」
「ちょっと用があってここまで来てたんだ。丁度行きあったし、内密に伝えときたい事があるから、虎嘯フーシアの護衛役を代わってくれないか?」
「え、でも……」
「大丈夫。怪我はさせないと約束するよ」
 部下は少し逡巡する様子を見せたが、龍吟ロンインの方が立場が上だ。普段から良くしてもらってる相手だし、更には小遣いまで握らされては嫌と言えよう筈もない。もうスッカリ自分が俺の護衛だけでなく、監視も任されていた事は頭にないみたいだった。
「分かりました。それじゃあ、虎嘯先生フーシアシェンシャンの護衛、頼みましたよ」
「ああ、任せてくれ」
 部下とにこやかに別れた龍吟ロンインは、俺の手首を握って逃げ出せないようにしてからズンズンと歩いていく。あちこちの角を曲がり追っ手が居ない事を確認しつつ、龍吟ロンインが向かった先は。
「お、おい。ここって」
「いいから、入るぞ」
 龍吟ロンインが俺を伴い入った場所。それはいわゆる連れ込み宿だった。どういう事なのかと動揺したが、直ぐに人に話を聞かれない場所を選んだのか、と思い至る。内密の話をすると、部下にも言っていたものな。歳頃だからって変に動揺してしまって恥ずかしい。そう、思ったのに。
「ろ、龍、い……! 何を……あぁっ!」
 部屋に通されるなり龍吟ロンインは、いきなり俺を組み敷いた。そのまま彼は殆ど毟り取るようにして俺の服を剥ぎ取り、剥き出しになった俺の下肢に手を伸ばす。
「そんなっ、んぅ!」
 龍吟ロンインは藻掻く俺の足を無理矢理開かせ、性器に指を絡ませるとそれを扱き始めた。驚いて叫びかけたが、それは唇ごと彼に食べられ飲み込まれる。クチュクチュと淫らな水音が、俺の口元と下半身から立っていく。最初こそそれらしい抵抗をしていたものの、直ぐに俺は快感でグズグズになり体をビクビクと震わせるだけになってしまう。龍吟ロンインの執拗いまでの手淫と口付けだけで俺は何度も達し、気がついた時には息も絶え絶えに蹂躙し尽くされた後だった。
「好きだぜ、虎嘯フーシア。お前も俺の事好きだろ? だから、今日の事は、二人だけの秘密にできるよな?」
 俺の性器を弄りながら、龍吟ロンインが甘く囁く。俺は直ぐに悟った。龍吟ロンインは俺にまずい現場を見られたから、こうして体の関係を作って誤魔化す気なんだって。こんな事しなくても、俺が恩人の龍吟ロンインの不利になるような事をするわけないのに。その事を龍吟ロンインが分かってくれていないのが、少しだけ悲しかった。それでも、俺はこの機を逃す気はない。だって、独りぼっちの俺に微笑みかけてくれたのは、龍吟ロンインだけだったから。殺されかけていたのを助けられてからずっと、俺は龍吟ロンインに懸想をしていた。
 彼と深い仲になる気はサラサラなかったけど、俺だって若い男だ。想い人と体を重ねられるのなら喜んで飛びつく。例えそれが目に見えた破滅への道で、本心では愛されていない事が分かっていても。
 それからも普段の龍吟ロンインは変わらない。幹部の一人として仕事をして、たまに俺を可愛がり、どんどん出世をしていく。ただ、裏では何度も俺を性的に弄ぶようになった。そうして以前まではあれこれ理由をつけて俺から引き出していた情報を閨の中で聞いていく。そしてその代わりと言わんばかりに虚ろな愛の言葉を置いていくのだ。
「ろ、龍吟ロンイン! それは駄目だ! 駄目、駄目だって、駄目、ぇ……!」
「そんな事言って、お前の可愛いここはこんなにも喜んで、涎をダラダラ垂らしているぜ? どれ、もっと可愛がってやろう」
「あぁっ! あぅ、んんっ!」
 恐縮して後退る俺の腰を掴んで引き戻し、龍吟ロンインが俺の性器をパクリと頬張る。ビクンと腰を跳ねさせると楽しそうに喉奥で笑い、ネロリと熱い舌で敏感な箇所を舐め上げられた。滲んだ先走りをジュッと強く吸われれば、俺は声もなく涙を零すしかない。そして。
龍吟ロンイン! そんな所、弄っちゃ駄目だ!」
「さっきから駄目だ駄目だとそればっかり。焦らしているのか?」
「そうじゃ、なくて」
「でも、ちゃんと言いつけ通りを洗ったんだろう? お前も期待してるじゃないか」
 龍吟ロンインの長くて美しい指が、俺の秘所に潜り込む。確かに洗ったが、だからって他人に、それも好きな人に触れられるなんて、堪ったもんじゃないのに。しかし抗議の言葉は、体内でウネウネと蠢く指の齎す快感の前にだらしなく蕩けていく。
「ああ、お前の中が俺の指を締め付けて堪らないな。早くここに俺自身を入れる日が待ち遠しいよ」
 白濁を飛び散らせるはしたない俺に、愛しげな表情で龍吟ロンインは笑みを向ける。その笑みが俺を懐柔する為の偽りのものだと俺は知っていた。いくら期待しようとも、彼が指以上のものを俺の中に捩じ込む日が来ない事も。だってこの行為は俺を裏切らせないようにする為に目の前にぶら下げた餌に過ぎない。来る筈もないいつかを期待して、俺を身動きできなくさせようとしているのだ。ちゃんと理解しているのに、それでも愚かな俺は彼との行為に溺れ続けた。
「俺はな、お前の所と敵対する黑社会ヘイシャーホェイの人間なんだ。自分の所に有利に働くよう、情報を流してる。いつか古巣に戻る時が来たらお前も連れてってやろう。ずっと二人で楽しくやろうぜ」
 激しい情事の後でクタクタになった俺を自分の腕枕に寝かせ、肩まである解いた黒髪を手櫛で梳きながらそんな事を呟く龍吟ロンイン。だから二人の明るい未来の為にも、絶対に裏切るな、もっと情報を渡せ、という言葉付きで。薄ら目を開けて彼の顔をを見上げると、柔和な表情で優しくこちらを見ている。しかし、その目は驚く程に冷えきって濁っていた。どうかそんな顔しないで欲しい。俺は絶対に龍吟ロンインを裏切ったりしないから。ただ、そんな事言えよう筈もなく、俺はただ微笑んで頷くに留めた。
「最近どうも仕事が上手くいかん。どこからか情報が漏れているのかもしれない。お前達、何か知らないか?」
 ある日の幹部会での事だ。父である老板ラオバンがそんな事を言った。周囲は裏切り者の可能性にざわめいていたが、俺としてはようやくか、という感想しかない。龍吟ロンインが加入してから十数年、俺が彼に情報を渡し初めて数年。俺は最早一端の若者で、黑社会ヘイシャーホェイでもそれなりの地位に居る。それだけの年数情報漏洩が行われていたのに未だ疑惑でしかないなんて。老板ラオバンは実年齢以上に耄碌しているのかもしれない。話し合いは暫く続いたが結局実りある結果は得られず、その日は解散となった。
 さっさと帰って仕事でもしよう。仕事をすればするだけ入ってくる情報が増えて、龍吟ロンインが喜んでくれる。そう思って歩き出そうとしたのだが。
「おい、待てよ」
 そんな声と共に誰かが俺の前に立ち塞がる。いや、誰かなんて声から分かっていた。腹違いの兄の一人だ。俺と一番歳が近く、黑社会ヘイシャーホェイの幹部の一人でもある。
「なんの用でしょうか?」
「さっき爸爸バーバ(父さん)が言った話、犯人はお前じゃないだろうな?」
 突然の疑念に俺は眉根を寄せて兄を見た。一番歳が近いと言っても十以上離れてるし、遊んでもらった所か虐められた記憶しかない相手だ。親しみは全くない。それは向こうも同じで今回の発言も言いがかりの一種なのだろうが……。しかし、こいつは侮れない。一番下の兄は勘が鋭い所がある。その身に流れる血だけでなく、勘の良さでここまで上り詰めてきたと言ってもいい。恐らく兄なりになにか察するものがあるのだろう。……だが。
「そう思っているのなら、どうして先程の会議で仰られなかったのですか? まさか、黑社会ヘイシャーホェイの幹部ともあろうお方が妄想じみた言いがかりで、俺を糾弾している訳ではありませんよね?」
 そう言うと兄は悔しげな表情でグッと黙り込む。やっぱり疑念以上のものはないらしい。確証はないが俺憎しの心のあまり思わず声をかけたのだろう。最近の俺は仕事を励んだお陰で大分父の覚えが目出度くなった。それこそ、兄弟の中でも一番に可愛がられているくらいには。そんな俺を表立って糾弾しては、自分の立場が危うくなると思ってこうして呼び止め揺さぶりをかけてきているようだ。まあ、これくらいで動揺する俺ではない。腹芸なら俺の方が何枚も上手だ。裏切りの証拠だって入念に消してある。兄程度では探れもしないだろう。
「生意気な……!」
「お話はそれだけですか? 申し訳ありませんがやりかけの仕事を片付けなくては。失礼致します」
 形ばかりの礼をして、背中に兄の突き刺さるような視線を感じながらその場を辞する。やれやれ、これだから山勘で生きている野生児は嫌いなんだ。文明人ならもっと理性を働かせて生きて欲しい。まあ、これからは少し慎重に仕事をやらせてもらおう。大丈夫。俺なら上手くやれるし、龍吟ロンインの為ならなんだってしてみせる。例えこれから先何を失う事になっても、それが龍吟ロンインの為になるのなら、全て許容範囲だ。
 それからも俺はどんどん龍吟ロンインに情報を流し続けた。黑社会ヘイシャーホェイの仕事は次々に失敗し、資金繰りは悪化、人は離れていく。最早うちの黑社会ヘイシャーホェイは沈みかけた泥舟だ。何代にも渡って裏社会にのさばり続け老舗として誰からも一目置かれていたというのに、たった二人裏切っただけでこれとは。全く呆気ない。
「畜生、最近ではどいつもこいつもうちの名前を出しても怖がりゃしねぇ」
「おい聞いたか? また何人もお上に捕まって処刑されたってよ」
「また一人足抜けだ。いい加減、俺もここに見切りをつけるかね……」
 苦しい状況に父は弱って伏せってしまった。疑心暗鬼に陥った父はその病褥にも信頼のできる者しか呼ばず、身内ですら一部にしか面会を許さない。俺は兄弟の中で唯一面会を許された。全く、父の見る目のなさに笑いが込み上げてくるな。ここまで父の信頼が厚いと兄も俺に何も言えないようで、遠くから憎たらしげな目で見てくるのが精々だった。そして、とうとうその時がやってくる。
「今度うちに手入れが入るそうだ。それでこの黑社会ヘイシャーホェイもとうとうお終いだ。これでようやく俺も古巣に帰れる。長い間ご苦労だったな」
 夜半、いつも通り俺の体を散々苛んだ後、腕の中に抱き締め軽く頬擦りしながら龍吟ロンインが囁く。俺は夢見心地にウトウトしながらそんな彼の話を聞いていた。
「約束通り古巣に戻る時にはお前も連れてってやる。町外れの山の上に誰も住んでいない昔の貴族の屋敷があるだろう? 手入れの入る日にこっそり抜け出して、そこで待っていてくれ。やるべき事を終えたら、必ず迎えに行くから」
 そう言って俺の額に口付けを一つ落とす龍吟ロンイン。俺はウットリと頷き返す。いよいよ全ての終わりが近づいている。ここでの仕事も大詰めだ。ただ、全ては龍吟ロンインの望むがままに。それが俺の望みでもあるのだ。





「おー、やってるやってる。派手だなー」
 山の上。貴族の屋敷の廃屋から、自分の所属している黑社会ヘイシャーホェイが根城にしていた、屋敷から火の手が上がり煙が立ち上るのを見る。……いや、所属しているではなく、所属していた、か。名実ともにあの黑社会ヘイシャーホェイは今日なくなる。俺の人生の殆どを過ごした、忌まわしくも懐かしい黑社会ヘイシャーホェイが……。ボーッと感慨に浸っていると、背後でジャリッと土を踏む音がした。黙って振り返る。そこに居たのは。
「よお、余裕そうじゃねぇか、虎嘯フーシア
「……哥哥グァグァ(兄上)」
「止めろ。お前に哥哥グァグァだなんて呼ばれたくない」
 憎しみの炎を瞳に燃やし、一番下の兄が俺を見ていた。その手には抜き身の剣が。俺はチラリとそれを見て、しかしそれ以上気にする事なく兄に視線を戻す。
「皆の加勢に行かなくていいのですか? 見ての通り争っていて火の手まで上がっているようですよ?」
「何を白々しい。どうせ今戻ったってもう手遅れだ。うちの黑社会ヘイシャーホェイはもうお終いだろう。そうしむけたのはお前だな、虎嘯フーシア。どうも朝から様子がおかしいから尻尾でも出さないかと後をつけたが……遅かったようだ」
 兄のこの言葉に俺はプッ、と吹き出して、ケラケラと大笑いしてしまう。そうだよ、あんたらはいつも遅い。俺を家に招き入れなければ、虐め殺していれば、幹部になんて引き立てなければ。そんな後悔ばっかりが頭の中にあるんだろう。でも、今更何もかも手遅れだ。天下の黑社会ヘイシャーホェイがこんな若造のせいで崩壊するなんて、父や正妻、兄姉の大切にしてきたものはなんて脆いんだろう。本当におかしくて堪らない。
「何を笑っている、虎嘯フーシア!」
「だって、あんたらの間抜けっぷりがあんまりにも酷くてさ。フフフ、笑わずには居られないよ」
 兄が怒りで顔を真っ赤にして俺を睨みつける。その様子ですら笑いを誘って仕方がない。ただただ兄を馬鹿にして笑い続ける俺に向こうは怒り心頭に発した様子で、とうとう手に持っていた剣を持ち上げた。
「手前ぇだけは絶対に許さねぇ! どうせ龍吟ロンインの奴とグルになって、我が一族を貶めたんだろう!? あいつとお前がコソコソ怪しい動きをしているを、俺は何度も見たぞ!」
「ご明察。へぇ、馬鹿でもそれくらいは分かるんだ。でも、ちょっと遅かったな」
虎嘯フーシア、お前自分が何をしたのか分かった上で言っているのか!? まさか龍吟ロンインの正体を知らずにそんな舐めた口聞いてんじゃねぇだろうな!?」
 余裕綽々、笑みを口元に称えたままゆったりと首を傾げる俺に、兄はとうとう堪忍袋の緒が切れたらしい。口角泡を飛ばし、青筋を立ててこう叫んだ。
「いいように利用されて家を裏切りやがって! どうせ自分は敵対組織の人間だから、全てカタがついたら二人で一緒に戻ろうとでも龍吟ロンインに唆されたんだろう! だがな、あいつは敵対組織の人間じゃない! もっとタチが悪い、当局の武官で捜査の為にうちに潜入してたんだ! お前はいいように利用されて使い捨てられたんだよ!」
 ギラつく目で射殺さんばかりに俺を睨めつける兄。俺はその目をただただ見返すだけだ。笑い過ぎて滲んだ涙を指先で拭い、口元の笑みを消して口を開く。
「だから?」
「は?」
「だからなんだと言うんです? そんな事、とっくの昔に知っていましたよ」
 上手く誤魔化していたが、龍吟ロンインに渡した情報が手入れに使われているらしい気配は前々からあった。それを知った上で痕跡を隠していたのは他でもないこの俺だ。彼が笑顔の裏に見せる暗い表情や、俺を見る目の奥に垣間見える恨みの冷たい炎。黑社会ヘイシャーホェイの人間自体好きそうではなかった。これらの情報を繋ぎ合わせれば、自ずと答えに辿り着く。
 それでもいいから、俺は彼のそばに居たかった。黑社会ヘイシャーホェイの仕事をする事で自分も彼が嫌う類の人間になるのは分かっていたが、それも彼に情報を持っていく為だと思えば割り切れる。手を出された時は驚いたが、情報を引き出す為の嘘八百でも愛の言葉は嬉しかったし、篭絡する為でもまるで本当に愛されているみたいに大事にされるのは心地よかった。汚れきった俺の人生も、彼の糧になれるのなら無駄ではなかったんだと思える。後悔はない。だってきっと、こうでもしなきゃ誰も俺を大切にはしてくれなかったから。だからこそ、彼がここに来る事はないと知った上で迎えを待ち続けた。
「手前ぇ……巫山戯るな!」
 兄が剣を正眼に構え走ってくる。俺はそれをヒラリと避けて駆け出した。何だかんだ兄は体を鍛えている。頭脳労働ばかりの俺とは大違いだ。捕まってしまえば即切り殺されるだろう。何度も追いつかれそうになりその度に切りつけられ、地面を転がって逃げるうちに体は土埃で汚れていく。掠めた刀身のせいで大小様々な切り傷ができ、血が滲んでいた。気がつくと俺はボロボロで、建物の端の袋小路に息も絶え絶え追い詰められていた。
「もう逃げられねぇぞ!」
 そんな叫びと共に、兄が俺の目の前に立つ。どうやら一息に斬り殺すつもりはないらしい。何度も何度も剣を振り下ろし、その度に浅く深く様々な切り傷を付けて俺を苦しめる。赤い血飛沫が飛ぶと、兄は残虐で血と復讐に酔った高笑いを上げた。やがて満足いくまで俺を切り刻み、半死半生になったのを確認してから、兄は今度こそ剣を高く掲げる。
「これで全て終いだ、虎嘯フーシア。地獄で詫び続けろ」
 兄が俺の頭目掛けて剣を振り下ろす。その瞬間、俺は最後の力を振り絞って横に転がった。背後にあった壁に突き刺さる兄の剣。古い壁に大きく罅が入る。兄が動揺している隙に俺はサッとその後ろに回って、兄の背中に渾身の力で体当たりをした。
「何、を……うああぁぁぁ!」
 悲鳴と共に崩れた壁の向こう、切り立った崖の下に兄が落ちていく。俺は何とか掴んだ壁のヘリにしがみついて落ちずに済んだ。やれやれ、上手くいった。もしもの時の為に予め屋敷を探索しておいたのが役に立つとは。ああ、でも。ちょっとやられ過ぎたな。全身切り傷だらけで痛むし、いくつかの深い傷からは血が止まらない。このまま手当を受けられなければ、俺は失血で死ぬだろう。斬殺を免れた先がこれとは、何とも間抜けな話だ。
 トサリ、と崩れなかった壁に背中を預け、そのままズルズルと横に倒れる。ジワジワと体から血が失われていくのを感じつつも、意識が遠のいてどうする事もできない。こんな時でも考えるのは、龍吟ロンインの事だ。きっと今回の捕物で、あいつは大手柄を立てただろう。そこに俺の首もおまけとして出せないのは申し訳ないが、こればっかりは仕方がない。ああ、もう駄目だ。世界が暗闇に飲み込まれる。そんな考えを最後に、俺の意識は途切れた。





 誰かが俺の頬を撫でている。固くなった指先に既視感があるのに、後一歩のところで思い出せない。ひたすら眠たくて意識は散漫となり、それでも頬を撫でる指先について考えていたくて、それで……。眠りよりも何よりも、頬を撫でているのが誰なのか知りたいという欲求が勝り、俺は目を開けた。
「……目が覚めたか」
 その声が聞こえた方に視線を向ける。身動ぎするだけで全身が痛い。肌の上を包帯らしき布が滑る感触がした。ノロノロと視線を動かして言ったその先。枕元に、難しい顔をした龍吟ロンインが居て俺の顔を見下ろしていた。
「どうしてあんな手紙を紛れ込ませた」
 一瞬何の事を言っているのか分からなかったが、直ぐに思い出す。ああ、最後に渡した書類に紛れ込ませたあの走り書きの紙切れの事か。手入れの前日、俺は龍吟ロンインに頼まれて黑社会ヘイシャーホェイの虎の子である、癒着している役人の名前一覧とその証拠などを渡したのだ。あれがある限り黑社会ヘイシャーホェイはまた何度でも甦れる。逆を言えば、あれさえ盗み出してしまえばもう何もできない。黑社会ヘイシャーホェイの生命線を、俺は盗んで龍吟ロンインに渡した。その書類の中に紛れ込ませた、一枚の走り書き。『あなたは何も間違ってない』。たったそれだけの、なんて事ない言葉だ。
 俺も馬鹿じゃない。龍吟ロンインが自分を使い捨てるつもりだと、最初からわかってた。いいように利用されてるのだって、百も承知だ。ただ、こんな俺の事なんか、捨てる時に少しの躊躇もして欲しくなかった。俺は何一つ持たない道端の石ころ以下の餓鬼だったけれど、そんな俺に龍吟ロンインは全てを与えてくれたんだ。これは恩返しでもなんでもなく、彼に与えられたものを返すだけの話。万に一つも龍吟ロンインの後悔になりたくなくて、俺は走り書きを残した。
「……お前は馬鹿だ」
 何も言わない俺を、龍吟ロンインはどう思ったのだろう。それだけ言いおくと立ち上がり、その場を去った。俺の方も眠気が戻ってきて、それ以上意識を保っていられない。ユルユルと目を閉じてそのまま眠りの世界へと落ちていった。
 それから数ヶ月。俺は閉じ込められた当局の医療施設でボーッと過ごしていた。怪我で寝ている間に何があったのか、どういう訳か俺は黑社会ヘイシャーホェイに居た頃から後暗い家業を嫌って当局に情報を流していた事になったらしい。回復してから受けた聴取に協力的な事もあって、殆どの罪を赦免されていた。家族は全員拷問の上で死罪となったのに、俺だけが手当を施されのうのうと生きている。全く訳が分からない。
 分からないと言えば龍吟ロンインだ。当局に戻った彼は潜入のせいで顔が知れ渡り、また大分恨みも買った事だしあげた手柄を利用して安全な後方任務にでもつけばいいものを、未だに現場に出ているらしい。流石に潜入はもう無理らしいが、最前線で危険な駆け引きを繰り返しているようだ。心配で堪らなかったが、俺が言える口じゃない。俺にできるのは彼の無事を祈る事だけだ。あの日目覚めた時に枕元に居たのを見て以来、彼とは一度も会っていない。
「おい、部屋に戻れ。お前に面会だ」
 声をかけられ日向から腰を上げる。医療施設に居ると言っても扱いはそこらの囚人と変わりなかった。監視はつくし行動の制限もある。ただ、俺は逆らった事がなかったから、特に乱暴にされた事はなかった。さて、今日の面会は誰だろう。尋問官は知ってる事は全部素直に話してしまってから顔を見ていないし、俺に会いに来る親族や友人も居ない。龍吟ロンインなんて言わずもがな。まあ暇潰しになるなら誰だっていい。そんな事を考えながら戻った部屋では、見覚えのない男が俺を待っていた。
 男に挨拶をされ、俺も軽く会釈を返す。向こうは挨拶だけで名乗る事もなく、目顔で俺に着席するよう促す。俺がそれに従うと、男はニッコリと人好きのする笑みを浮かべて話し始めた。
「噂通り、大人しい模範囚なようだな。これなら安心してお前に選ばせる事ができる」
「選ばせる、ですか?」
「そう。どちらの刑罰がいいか、お前に選ばせてやるんだ」
 男が言うところによると、今の俺には二つの選択肢があるらしい。一つ目は国外追放。捜査に協力的で殆どの罪を赦免されたとはいえ、罪人は罪人。二度とこの国に累を及ぼさないように、身一つで国を出されるのだ。ただし、国を出てさえしてしまえば後は自由。国外で何をしようがどんな風に生きようが、それは国の感知する所ではない。
 二つ目は当局の子飼いとなり、犯罪捜査に協力する事。今まで犯してきた罪を、これから起こり得る犯罪を未然に防ぐ事で雪ぐのだ。ただし、これは危険が伴う。自由は無ないしかつての同業者から恨まれ命の危険も付き纏ってくる。当局にとっても俺は捨て駒でしかないし、期限もあってなきようなものだ。この二つのうちどちらかを俺に選べという事らしい。
「どうして俺にこんな選択肢を?」
「二つ目の選択肢は一応という事になってるからな。建前だけでも自ら志願した事になってないと色々まずいんだよ。ほら、最近は人権云々五月蝿いから」
 まあ、こっちとしても扱いが難しいしあんまり志願されても困るんだけどね、と男は笑う。成程、だからやけに二つ目の選択肢の条件を悪し様に言ったのか。これは大人しく国外追放を望んだ方が良さそうだが……。心に引っかかるものがある。龍吟ロンインの事だ。向こうは俺の事などもう忘れているようだが、俺は違う。彼は俺の全てなんだ。協力者になれば話すのは無理でも多少動向を知るくらいできないだろうか? 微力ながらも彼に協力できるのなら、命の危険も怖くはない。そう、考えたのだけれど。
「あの、俺の顔に何かついてますか?」
 思案の最中に男から不躾にジロジロと顔を見られ、思わずそう尋ねる。明らかに何かただの囚人に対する以上の興味をもって見られていた。俺の何がそんなに気になるというのだろう?
「いや、なんというか、うーん……。まあいい。単刀直入に聞こう。お前、虎嘯フーシアと名乗ってるって本当か?」
「はぁ。その通りですが」
「へーえ。それはまた……」
 意味ありげな視線が鬱陶しい。向こうが俺にそれがどうしたのかと聞いて欲しいのが見え見えだ。その手に乗るのは業腹だが、ここで聞き返さずにいつまでもちょっかいをかけられるのも嫌だ。仕方なく俺は男に何がそんなに気になるのかと聞き返し……その事を深く後悔する事になる。





 潮風が髪に纏わりく。心機一転しようと肩まであったのを事前に短くしてよかった。磯臭い香りはあまり好きじゃないが、何よりの不安は船酔いだな。俺は船に乗るのはこれが初めてだから、尚更。
「それじゃあ、時間になったら呼びに来るから、それまではここで待ってろ」
 俺の付き添いの役人はそう言って俺の手に嵌めた手枷から伸びる鎖を近くの金具に止め、自分はサッサと潮風の届かない室内へと戻って行った。俺なら一人にしても逃げ出さないと踏んでいるんだろう。信頼されているのか、舐められているのか判別がつかないな。まあでも実際逃げる気はないので、黙ってその場に腰を下ろす。
 ここはこの国で有数の大きさを誇る港だ。多くの船が国内外問わず行き来をしている。俺はこれからそんな船のうちの一隻に乗って、この国から永遠におさらばするところだ。国に残って利用される道も考えたが、を聞かされちゃぁねぇ。まあいい。世の中どうしようもない言はいくらだってある。これもそのうちの一つだ。黙って犇めく船の間から見える遠くの水平線を眺める。
 ふと、こちらに近づいてくる足音がした。船に向かって積荷を荷降ろしするでもなく、乗り降りするでもなく、その足音は真っ直ぐ俺に向かってくる。足音の主は前を見つめ続ける俺の隣に立ち、人影が俺の体の上に落ちた。
「なんの御用です?」
 前を向いたまま問う。横から躊躇うような身動ぎの音がして、タップリ時間を置いてからようやくいらえが返ってくる。
「国を、出ると聞いたから」
「ああ、それで。昔馴染みの好で顔を見に来てくれたんですか? 俺の事なんて、そんなに気にしなくていいのに」
「……」
 返事はない。落ちる重たい沈黙。ここでとうとう俺は耐えきれず、声の主の方を見る。今となっては懐かしささえ感じる愛しい人、龍吟ロンインを。
 彼は昔の常ににこやかに微笑んでいた頃の面影など見つけられない程、暗く沈んで強ばった表情をしている。きっとこれが本来の彼なんだろう。笑顔の仮面で、いつも彼は本心を隠していたのだ。
「あ、そうだ。名前、お返ししますよ」
「え?」
虎嘯フーシアの名前ですよ。大切なものなのに、長い間お借りしていてすみませんでした。でも、俺にはもう必要ありませんから」
「必要、ないって……。でも、虎嘯フーシアはお前の名で……」
「違いますよ。あなたの弟の名前です。ご両親と一緒に黑社会ヘイシャーホェイに殺された、本当の弟さんの、ね」
 そう言って俺が笑うと、龍吟ロンインは分かりやすく体を強ばらせる。そう、俺はもう全て知っているんだ。俺に刑罰を選ばせに来たあの男が全部教えてくれた。龍吟ロンインの父親も彼と同じように当局の武官で黑社会ヘイシャーホェイを相手に戦っていた事、黑社会ヘイシャーホェイの報復で家を襲撃され家族共々拷問の末殺された事、たまたま家に居なかった龍吟ロンインだけが難を逃れた事。全部、聞かされた。だから、龍吟ロンインは復讐の為に武官になって、黑社会ヘイシャーホェイ撲滅が、復讐だけが彼の全てなのだと、そういう事も全部知ってる。
 ただ遠くから彼の健勝な姿を見ているだけでいいと思っていた。しかし、全てを知った今ではそれすらも自分には過ぎた願いなのだと思い知る。愛されてはいない事は知っていた。でも、だからって憎まれてもいないと思い込んでいたんだ。結局それは、酷い勘違いだったけれど。俺は彼から大切なものを尽く奪った奴等と同じ側の人間だ。それがどの面下げて彼のそばに居続けようだなんて思える。彼を思うなら、ならばこそ、俺はこの国を去らねばならない。この体に流れる血の一滴すら、彼は受け入れられないだろう。
「今まで色々と有難うございました。遠くからあなたの事を応援しています。これからも頑張ってください」
 ニコリと笑って会釈をし、また前を向く。涙は出ない。ただ、自分の運命や両親、人生、生き方、そして自分自身が呪わしくてならなかった。
「どうしてそんな他人行儀な喋り方なんだ」
 ポツリ。龍吟ロンインが呟く。俺は黙って顔を上げ、視線を彼の方に戻した。改めて見た龍吟ロンインは、何故だろう。酷く憔悴しているように見えた。
「また、昔のように気安く接してはくれないのか。本気で虎嘯フーシアの名を捨てるのか。もう俺の事は慕っていないのか。俺はもうお前の、特別ではないのか」
 つらつらと堰を切ったように彼の口から出てきたいくつもの疑問。そして、本当に辛そうな表情を見せる龍吟ロンイン。彼はどうしてそんな事を聞き、そんな表情をするのだろう。分からなくて首を傾げ、取り敢えず俺はたった一言言葉を返す。
「あなたは俺の唯一です。……永遠に」
 それだけ告げてニコリと悲しく破顔する。全ては嘘偽りのない本心だ。龍吟ロンインの俺への気持ちは嘘でも、いやだからこそ、最後に俺の本心を彼に知っていて欲しかった。
「それなら、どうして俺を捨てて国を出ようとする」
「どうしてって……だって、あなたはもう俺の顔なんて見たくないでしょう? ただ都合よく使っただけの相手なんて、傍に居られても煩わしいだけ。それが家族の仇なら尚更だ」
「お前は俺の家族の仇じゃない。都合よく使っただけなんて、もう何もかも終わったような言い方をするな」
 龍吟ロンインが何を言いたいのか分からなくて戸惑う。フラフラとへたり込むように俺の隣に座った龍吟ロンインは、そのままガックリと項垂れてしまった。気分でも悪いのだろうか? 人を呼ぶべきか迷っている俺に、龍吟ロンインは更に言葉をかける。
「確かに、お前の事はまやかしの愛情に負けて実の家族すらも裏切った愚か者だと思っていた。俺に構ってもらいたいが為だけに犯罪に手を染めて、心底救い難い奴だと馬鹿にすらしていた。だから、お前の事は摘発の日に纏めて捕まえて見捨てるつもりだった。……見捨てられると、思っていた」
 グシャリ、とが自らの髪に指を突っ込んで掴む。そのまま大きく横に首を振り、深い溜息をついた。
「なのに、お前の書き残したあのたった一言の手紙で、全てがおかしくなった。『何も間違っていない』? どこがだ! 親の愛情すら知らない哀れな子供を死んだ弟の身代わりに仕立て上げていいように扱い、自分の利益になるからと子供が犯罪に加担するのを見送り、挙句執着を深めさせようと何も知らないまっ更な体を暴いて欲望をぶつけた! 何もかも身勝手な理由で、子供の、お前の人生を無茶苦茶に破壊したんだ! 俺なら、お前を黑社会ヘイシャーホェイとは関わりのないどこか遠くへ逃がしてやれた。そこでお前は真っ当に生きる事も、普通の幸せを得る事も、犯罪になんか関わらずにいる事も、何だってできたのに! ……俺はそうしなかった。お前を自分の復讐の為の道具として利用する事を選んだ。何の咎もない、まだ幼かったお前を。そんな俺が間違っていない? そんな訳ないだろう。自分でも知っていて気が付かないフリをしていたのを、お前からの手紙でまざまざと自覚させられたよ」
「……だから、自分の手柄の殆どを俺に譲って、赦免されるようにしたんですか」
「こんな事くらいじゃなんの償いにもならない。そんなのは分かってる。でも、何かせずにはいられなくて」
 やはり、俺に二つの選択肢を与えたあの男が、呆れたように言っていたのだ。それにしても、龍吟ロンインは馬鹿な事をした。折角の出世の機会をお前みたいな子供の救命の為にふいにしてしまうなんて、と。それが、こんな理由からだったなんて。
「本当は、お前はこのまま国を出て、俺の事なんか忘れて遠くで幸せになった方がいいって頭では分かってる。けど……。心が、もうお前を失いたくないと叫んでるんだ。お前を弟の代替品として扱う内に、俺はお前に絆されていた。家族を失って空いた大穴を、無邪気に慕ってくれたお前だけが埋めてくれたんだ。敵地で単身潜入する殺伐とした日々の中で、お前だけは唯一の光だった。体を重ねたのだって今にして思えば無意識の内に理由をつけて誤魔化していたけれど、単純にお前の体を味わいたかっただけに過ぎない。だって俺は、ずっとお前に惹かれてたんだから」
 呆然とする俺の目の前で龍吟ロンインが体を起こす。自由になった手を伸ばして俺の頬に添え、サラリと一撫でする。苦しそうに顔を歪めた龍吟ロンインの目尻からは、一筋の涙が零れていた。
「本当はお前が国を出る選択をしたら引き止めないつもりだった。でも、もう駄目だ。俺はお前が居ないと生きられない。思い返せば、待ち合わせ場所に一人で行って、怪我をしたお前を見つけたあの瞬間に、どうしても手離したくないと思ってしまっていた。酷い事を願っているのは百も承知だ。茨の道をお前に歩ませる事になるのも分かってる。それでも、どうかここに残って俺と共に生きてくれないか? 俺にはお前が必要なんだ、虎嘯フーシア
 今や龍吟ロンインの目から溢れ落ちる涙は留まるところを知らない。彼はさめざめと泣いていて、それは俺も同じだった。思わず溢れた涙が滂沱と流れ、頬を熱く濡らしていく。
「俺、あなたの隣で生きていていいの?」
「いいに決まってる」
虎嘯フーシアのままでいていい?」
「それはもうお前の名前だよ」
「愛してるって……あなたに伝えてもいいのか?」
「むしろ、何回だって伝えて欲しい」
 一言ごとに涙が溢れ、とうとう最後にはしゃくりあげて何も話せなくなる。そんな俺を龍吟ロンインは優しく抱き締め、何度も背中を撫でてくれた。上から降ってくる暖かい雫がまた俺の涙を誘い、俺は声を上げて泣き続ける。結局、何事かと船乗り達が集まってきても、俺を連行する役人が戻ってきても、俺達は泣くのを止められなかったのだった。





 一頻り泣いた後俺の身柄は龍吟ロンインの手に託され、二人で出てきたばかりの都に蜻蛉返りをする事となる。無駄足を踏まされたと役人はボヤいていたが、俺達の身の上話を聞いて涙ぐんでいて、そのボヤキにはあまり真剣味が感じられなかった。港を出たのはもう午後だったので、都に行くまでにはどこかで一泊しなくてはならない。昼間はひたすら歩いて太陽も沈む頃、見つけた宿の一番いい部屋を抑えた龍吟ロンインは、案内の下女が下がるなりいきなり俺を床に押し倒した。
龍吟ロンイン、待ってくれ! 風呂に入って汚れを落とさないと!」
「俺はもう我慢できない」
「汚い体のまま寝床に転がったら宿に迷惑だ! 折角いい宿を取って貰えたんだから、少しは堪能したい! 龍吟ロンインもそう思うだろ? な!」
 俺の衣服の前を肌蹴て鎖骨を熱心に舐っていた龍吟ロンインだったが、この言葉に少し動きを止める。よし、ここでもう一押し。俺は龍吟ロンインの首に腕を搦め、思いっ切り甘えた声で囁いた。
「なぁ、龍吟ロンイン。ここの部屋高いから、湯殿が一部屋ごとに着いてるだろ? 折角だから二人で洗いっこしようぜ?」
「……分かった」
 龍吟ロンインは体を起こすとヒョイッと俺の体を横抱きにして持ち上げ、いそいそと湯殿がある方に歩いていく。よし、作戦成功。気持ちが通じあったんだ。性急なのも悪くないが、折角なら身綺麗になって彼と向き合いたい。
虎嘯フーシア、何してるんだ早く入るぞ」
 いつの間にか全裸になった龍吟ロンインが湯殿の入口でもどかしそうに俺を見ている。あんまり待たせるとひん剥かれそうだ。俺は慌てて服を脱ぎ、その後に続いた。
 湯殿の広さは二人で入るには広過ぎず狭すぎず、と言ったところか。事前の触れ込みでは湧き出る源泉を水で冷まして掛け流しにしているとの事だったが、嘘はないらしく湯気の立つお湯が湯船に並々と溢れていた。俺はその様子にホウッと感心したが龍吟ロンインの方には目の前の光景を観察する余裕や情緒はもうないらしく、サッサと歩いていって風呂椅子に腰かける。
「ほら、虎嘯フーシア。こっちにおいで」
 手を広げて俺を見る龍吟ロンイン。腰掛けているせいでその中心が緩く立ち上がっているのが丸分かりだ。本人が堂々としてる分、なんだか俺の方が恥ずかしい。取り敢えずいつまでも躊躇ってばかりでは先に進めないので、黙って龍吟ロンインの元に歩み寄る。すると彼の太い腕に優しく抱き締められ、あっと思った時には口付けをされていた。
「ん、ふ……」
 口付けを楽しみながら石鹸で泡立たせた手ぬぐいを持った龍吟ロンインの手が、俺の体の上を滑っていく。脇腹を撫でられれば甘い声が漏れ、尻を撫でられれば身を震わせ、胸の飾りを掠められれば身を攀じる。俺の方も龍吟ロンインのそそり立った性器に手を添わせ、優しく扱いて気分を高めた。そうして俺の全身をヌメヌメにし終えた龍吟ロンインは、一旦手拭いを濯いでまた泡立たせてから、今度はお前の番だと言わんばかりにそれを俺の前に差し出す。
 泡まみれの手拭いを受け取った俺は龍吟ロンインの体を洗おうとするのだが……。これがなかなか難しい。いや、相手の身体を洗う事自体は難しくないのだ。龍吟ロンインの悪戯さえなければ、という但し書き付きではあるが。
 龍吟ロンインは俺が彼の前に回って胸板を擦ればこっちの胸の辺りをまさぐってくるし、後ろに回って背中を洗おうとすれば今度は後ろ手に足を撫で回される。これに一々感じてしまって、こっちは手付きが覚束なくなって仕方がない。
龍吟ロンイン。ちょっと、もう」
「ふふ、お前は怒っても可愛いな」
 そんな事言われては怒るに怒れなくなってしまう。何とか怒ってるという意思表示をする為に膨れっ面をしてみても、ただただ愛しげに見られて終わりだった。それでも何とか龍吟ロンインの全身を洗い終え、後は茹で泡を流すだけという所まで来たのだが……。
「ちょ、龍吟ロンイン!? どこ触って」
「どこって、も洗わないと駄目だろ?」
 窄まりに指を伸ばされて、慌ててその手を押し遣る。まさか、今日はヤル気なのか!? 本気で!? 一生来ないと思っていたその瞬間が目前に迫っていると知らされ、期待より先に羞恥で俺は青褪めた。
「待って、洗うなら一人でやる!」
「俺はお前の全てを見たい」
「一人でやらせてくれないなら、絶対に最後までしないぞ!」
 俺が涙目でそう訴えると、龍吟ロンインは渋々手を引いてくれる。この人はなんだかんだ俺には弱い。更に渋るのを湯殿から追い出して、俺は何とか一人で後ろの処理を済ませた。
 洗っている間に今まで踏み込んだ事のなかったを想像してしまって、グルグルモヤモヤとしていたのだが、それも湯殿から上がって先に床で待っていた龍吟ロンインを見た瞬間に全て終わる。少し肌蹴た寝巻きでボウッと窓から月を眺める彼の姿は美しく、見ているだけで全ての迷いが晴れるようだった。
「悪い、待たせた」
「全然。それよりほら、こっちにおいで」
 招かれて龍吟ロンインの腕の中に行くとそのまま抱き締められ、チュ、チュ、と顔中に口付けを落とされる。擽ったくて笑いながら身を捩っているうちに、そのまま布団の上に押し倒された。唇に深い口付けが落ちてくる。
「ん、ふ」
 角度を変えつつモゴモゴと口付けを堪能していたら、殆ど羽織っただけだった寝巻きが開かれた。龍吟ロンインの手が中に入り込んできて、俺の肌の上を滑る。擽られて漏れ出る快感に蕩けた声は、丸ごと彼に食べられた。
 龍吟ロンインは口付けを解くと焦れた様子で性急に肌に跡を残しながら下に体をずらしていき、最後に俺の胸の尖りを口に含む。俺が甘く鳴いて擦り合わせた膝を彼は優しく強引に割って、自らの股間を俺のものに擦り付けた。滾った性器の熱を感じて、俺はゴクリと唾を飲む。
 まるで赤ん坊のように彼が俺の胸を吸う。その頭を優しく抱き寄せ身悶えていたら、触れ合っていた二人分の性器を纏めて握って擦られた。胸と性器の二点攻めが堪らない。思わず胸を突き出すように背中を逸らせば尖りをジュッと強く吸われてしまって、それをきっかけに俺は勢いよく吐精した。
「はぁ、はぁ……」
「ふふ、気持ちよかったみたいだな」
 火照る体で射精の余韻に浸りピクピクと身体を震わせる。俺を見下ろす龍吟ロンインはその様子を見て酷く満足気だ。彼は体を屈めて、また口付けを落とされた。舌を絡めてそれに応える。口付けを交わしながら、龍吟ロンインの手が俺の後ろに伸びた。俺は腰を持ち上げてやりやすいように協力する。先程俺が吐き出した白濁を纏っているらしき龍吟ロンインの指が、ゆっくりと後ろに挿入された。
「痛くないか?」
「ん、平気だ」
 俺の様子を伺いながら、慎重に進んでいく指。少ない本数で慣らしてから、徐々に本数を増やしていく。やがて龍吟ロンインの指を三本グップリ咥えられるようになり、その指で中を広げられるくらいトロトロに解された頃。龍吟ロンインはようやく俺の中から指を引き抜いた。……いよいよだ。
 ようやく、ようやくここまで来た。とうとう龍吟ロンインと本当の意味で交合する時が。本当はここまで望んでいなかったし、望んでいいとも思いもしなかった。でも、他でもない彼自身が俺を求めてくれたんだ。俺はその気持ちに応えたい。
 龍吟ロンインが様子を伺ってきたので、俺はゆっくりと頷き返す。いささか緊張した面持ちでゴクリと唾を飲み下した彼は、静かに腰を動かし始めた。
「くっ……」
 龍吟ロンインが小さく呻く。ゆっくりと彼が俺の中に入ってきた。いくら解したとは言え俺の中は彼の長大なものでキツキツだ。それがジワリジワリと中を拓きながら押し入ってきて、俺は恍惚と溜息を漏らした。
 時間をかけて行きつ戻りつし慣らしながら、龍吟ロンインは腰を進めていく。そうして途方もない時間をかけて、俺は後ろ手で彼の性器を全て飲み込む事ができた。達成感に惚けていると、俺の耳元に唇を寄せて、龍吟ロンインがこう囁く。
「動くぞ」
 ズリッと先ずは少し引き抜かれ、男根の張り出した雁首で中を抉られた。快感が生まれ、女のような甲高い嬌声が漏れる。押し戻されればまた同じ所を刺激され、俺は背をしならせて善がった。何度も何度もそんな事を繰り返す内にだんだん抽挿は大きくなっていき、俺の腹は自身の性器から零れ落ちた先走りでしとどに濡れていく。龍吟ロンインに揺さぶられる度俺はあられもない声を上げ、それに煽られた龍吟ロンインの性器はどんどん滾っていく。
「あ、あっー! ロンイン……! 俺、もう……!」
虎嘯フーシア……!」
 髪を振り乱して身悶えし、喘ぐ俺を龍吟ロンインが強くかき抱いた。同時にズドンと最奥に強く性器を叩きつけられ、爆発するように生まれた快感で目の前がチカチカ明滅する。声にならない悲鳴を上げて、俺は勢いよく射精した。同時に体内に熱が広がり、龍吟ロンインも達したのだと察する。彼は出した精液を馴染ませるように何度か緩く腰を動かした。
 その後も何度も同じような事を繰り返し、沢山楽しんで精も根も尽き果てた頃。二人でもう一度湯に浸かり、後始末をしてもらって俺は彼の腕の中でウトウト微睡んでいた。夜空を見上げれば月は一番高い所から降り始めている。もういい加減休まなくては。
「なあ、虎嘯フーシア
 声をかけられ閉じかけていた瞼を持ち上げる。暗闇の中、こちらを見つめる一対の瞳と目が合った。
虎嘯フーシア。これから先きっと、思う通りにならない事やままならない事、一筋縄じゃいかない事が沢山あると思う。それでも、俺はお前を手放せない。……最後まで俺の側に居て、一緒に地獄に落ちてくれるか?」
「……そんなの当たり前だ。俺は最初からそのつもりであなたの手を取ったんだ。そっちもそのつもりでいてくれないと困る」
虎嘯フーシア……」
「なあ、龍吟ロンイン。俺が死ぬ時は、あなたの腕の中で死なせてくれ。それであなたは俺を看取ってから、直ぐに後を追うんだ。俺の死をあなたにやるから、代わりにあなたの死を俺にくれ。そうすればきっと、死んでもずっと一緒に居られる」
「ああ……そうだな。必ずそうすると誓うよ。お前が死ぬのはこの俺の腕の中で、お前の全ては俺のものだ」
 龍吟ロンインが腕の中の俺を優しく抱き締める。まるで宝物でも扱うみたいに、優しくソッと。俺はそれに応えて彼の胴に腕を回し、同じように抱き締め返した。こんな誓いなんの意味もない。子供がままごとでするような、叶う宛もないものだ。それでも、こうして言葉にして貰えただけで俺の魂は救われた。彼の腕の中で死ぬいつかの為に、俺はこれからを生きていける。
 龍吟ロンインの腕の中で俺は静かに微笑む。そのままトロトロと眠りの中に落ちていき、静かに体の力を抜いていく。大きな手が頭を撫でてくれるのを感じながら、俺は意識を手放した。
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