狂愛アモローソ

夜月刹那

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   古谷ふるや澄人すみとが通う出水いずみ音楽教室は青森のこじんまりとした小さな音楽教室だが、昔から多くのコンクール受賞者を出している本格的なクラシック音楽教室だった。
   それもそうだ、何故ならこの音楽教室の先生は音大を主席で卒業した超一流スパルタな音楽講師だからだ。
   演奏に失敗すると泣く子が続出するほど怖いことが有名で、皆毎日怒られないよう必死に練習していて、秋に行われる年に一度の発表会でも楽しい雰囲気は一切なく、他の生徒は皆ライバル同士。ピリピリと張り詰めた会場内はいつしか音楽を楽しむ場所ではなくなっていた。
   先生にとってはそれが切磋琢磨する環境に相応しいと、とても好ましく思っているようだが、澄人は幼い頃からこの雰囲気がとても嫌いだった。
   それに小さい頃からステージの上に立つということも苦手。         
   本番にもめっぽう弱かった澄人はライバルを見ている余裕などこれっぽっちも無いというのに、出水音楽教室のトリを飾る実力者には毎年選ばれるので勝手なライバル心を向けられることも多々あった。

「いい?澄人くんは本当に凄いんだからもっと自信を持ちなさいね。先生の言ったこと、覚えてるわよね」

  出水いずみ知世ともよ先生は、下手しもてで待機している澄人の肩に手を置き、念を押すようにそう言った。
   澄人はバクバクした心臓を抑えつつ、静かに頷く。
   澄人は10歳の時には既に最年長の高校2年生を差し置いて、トリに選ばれていた。
「最後だからって先生、贔屓しすぎだよね」
「美奈ちゃんだって最後なのにあの子がいっつもトリじゃん」
  控え室での居心地は本当に最悪だった。それはもうコンクール並みの酷さだ。
   特に、トリに選ばれなかった子達の陰口が凄かった。
   ちなみに彼女たちの言う「美奈ちゃん」とは、澄人と同い年で同じく今回の発表会でピアノをやめる子の事だ。
   本当なら澄人は彼女にトリの座を譲りたいところだったが、先生はどうしても澄人にピアノを続けて欲しいらしく、トリを澄人に委ねたのだった。

「良い?テンポを保つこととフォルテからだんだん優しくして……」
    澄人の鼓動は既にはち切れそうだった。逃げ出したい。怖い。いつも舞台裏ではそんな気持ちになる。
   周りからの視線や眩しすぎる照明。そして先生からの期待の目。全てから逃れたいと思うのだ。
   いっそーーーー全てを破ってめちゃくちゃに弾きたい。
   けれど、それは出来ない。
   期待される重みに答えなければ、自分なんかじゃダメだったとがっかりされてしまう。失敗したら、ダメなんだ。
   でも、これが最後ならーーーー
「澄人くん、もうステージに上がる準備して」
「はい……」

「ーーーー32番、古谷澄人さん」
   そうアナウンスがかかると、澄人は嫌々表ステージに出た。
   トリの時は今までの演奏と違い、一段と拍手が大きい。
   皆から向けられる視線から目をそむけながら澄人は早々とお辞儀をした。それから、ピアノの椅子に座ると改めて頭の中で音楽をイメージする。
(先生の言ったこと…先生の言ったこと…)
  考えるほどにわからなくなりそうだった。先生にとって、クラシックは楽譜が全てという。しかし実際この作曲者は書いたことを完璧に弾きこなすことを望んでいるのだろうか?自分のイメージを望んでいるのだろうか?そもそもこの曲は、どんなイメージで作ったかは本人にしか分からないというのに。
    ーーーーそういえば昔、楽譜を見ずに音楽を聴いたそのまま自由に弾いたことがあった。
   その時はこっぴどく叱られてもうレッスンしないと言われ、無理やり帰らされたのだ。
   その後母親に泣きついて、何とか先生の気持ちを取り戻すことが出来たけれど、あの日から先生の前ではそういうことをしないようにしてきた。けれど本当は満足していなかった。
   もっと自由に弾きたいとおもった。正直、期待されない子の自由な演奏の方が聴いていて心地よかったのだ。何も縛られないで楽しそうで、そんな事言えば皮肉だと言われそうだけど。               
  そうーーーーもっと自由になりたかったんだ。
  ふと、彼の演奏を思い出す。
  小さい頃、同じジュニアコンクールの中学生の部の最後を飾った青年の演奏。
   コンクールだというのに自由奔放で、なのに美しかった。
   あの日から自分の演奏が生真面目すぎて聴くに絶えなかった。
それでも期待のピアニストの卵だと宣伝されると期待に応えない訳にはいかなかった。プレッシャーが日々の重圧になっていった。いつからか学校は卒業モードに切り替わり、本格的に先を考えなくてはいけなくなった。
   別に音楽が嫌になったわけじゃない。音楽はいつだって、自分の全てだった。だからできるなら続けたい。けれど、音大に行きたいだとか、もっと自由に弾きたいだとかそんなことを言うと、結果的に金銭面などでも困らせてしまう。夢を見すぎだと言われてしまう気がしてーーーー
   結果的に自分から音楽をやめたいと母親に言い、やめる形になったけれど、母親は浮かない表情でいた。
   ーーーーごめんお母さん、何も出来なくて。
   澄人がそんなことを思っているうちに演奏は終わってしまった。
(あれ、俺ちゃんと弾けてたかな…)
   鍵盤から下ろされた自分の手が小刻みに震えていた。
   大丈夫だろうかーーーー?観客の方に目を向けると暫くして拍手が聞こえ始めた。  
(良かった…)
    澄人は急いで椅子から立ち上がるとピアノの前に行き、軽くお辞儀をしてステージから降りた。



「澄人、本当に良かったわよ。お母さん感動して泣いちゃったわ」
  会場のロビーで澄人の母ーーーー川邊智恵子ちえこは涙ぐみながらにそう言った。
「母さん、泣かないでよ」
  澄人にとってはトリという立場もコンクールでの受賞もそこまで自分が望んでやっているわけではなかったけれど、母親の泣き顔を見ると、これで良かったんだなーーーーと思える。
  澄人の家庭は母親と澄人の二人暮らし、所謂母子家庭だった。
  澄人が3歳の時父親は他界したので顔は覚えていないし、思い出もほぼ無いから寂しいという気持ちは全くと言っていいほど無かった。けれど母親が再婚を望んでいるということは小さい頃からわかっていたし、母親の口から直接聞いてはいないけれど、どうやら今相手がいるようでその人がきっと新しい父親になるんだろうとも思っていた。
   澄人は母親には幸せになって欲しいと思うので反対は一切しなかった。それにいずれ高校を卒業すれば自分は上京し、東京に就職するために家を出るだろうしその時に母親が1人で寂しく暮らす方が不安だと思ったからだ。
   ーーーーなんて、実際は母親が新しい人に夢中なのを寂しいと思う気持ちは少しあった。その度にピアノに没頭したり、好きなピアニストのCDを聴き続けた。
    澄人はふとポケットに入れた写真をチラリと見る。
    それは東京の全国大会を終えたロビーで撮った一枚の写真。いつも御守りとして演奏する時に持ち歩いているものだ。
   そこには10歳の澄人と、コバルトブルーの瞳をしたまるで彫刻のように整った顔立ちの少年がスーツを着こなして映っている。右手には金賞のトロフィーを掲げていて満面の笑み。
   その青年の名は、川邊かわべ瑠偉るいーーーー澄人の5個上、ロシアと日本のハーフで音楽の才能が昔から凄く、ジュニアクラシックコンクールでのライバルでもあり、澄人の幼い頃からの憧れの人であった。
   彼の演奏に魅入られたのは僅か7歳の時だった。
   初めてコンクールに出た澄人にとって、普通の演奏会と違い沢山の人や審査員がいる空間が特別で新鮮に思えた。その中でもジュニアクラシックコンクールの先輩の演奏は手に届かないほど凄いものに思えた。
    みんな楽譜通り完璧にーーーーそれが正しいんだと澄人は思っていた。
    しかし最後の演奏でそれが覆された。
   「ラヴェルーーーー組曲「鏡」より道化師の朝の歌」愉快で優雅で、実に楽しい曲だがテクニックが求められる難曲だった。彼はそれをわずか、12歳の時に弾きこなしたのだった。
     今までの堅苦しい演奏を覆すかのような自由奔放さに澄人はすっかり心を奪われた。それからコンクールに出る度に彼の出番を待つようになった。
    そして彼の演奏が終わると澄人はまっさきに彼に会いに行った。そして話をしたり写真を撮ったり一緒に遊んでりもしてもらった。勿論、他の子に取られることもあったがいつでも優しく皆の注目の的であり、王子様のような人だと澄人は思った。
   けれど、15歳の春、突然彼がコンクールを辞めると言い出し、姿を消した。
    それからというもの、コンクールを引退した彼とは二度と会うことは無かった。彼のその後について知っていることといえばーーーー16歳になった時彼の両親が離婚したということと、突然ドイツの名門校に特待生で入ることが決まり日本にはもういないということだけだ。だから、あれから日本に帰ってきたかはわからないし、どんな身なりをしてるかも今何をしてるかも全く知らないのだ。でも澄人の中ではずっと、彼はいつかまた戻ってきてくれるーーーーなんて気持ちがあった。
   結局そんなの自分が楽になりたいから考えていただけだったから確証はなかった。そして気付いたら約8年もの月日が流れていた。

「澄人、先生に挨拶はした?」
   ふと母親に聞かれ、澄人はハッと顔を上げる。
「あ、まだ…」
  その時だった。
「澄人くーん!」
   控え室の奥から先生の声が聞こえた。
   澄人が向かうと控え室では高校生の子達が1列に並んでいた。
「あ…」
「きたきた、お疲れ様。みんな、よく頑張ったわね」
   知世先生はそう言いながらみんなの顔を見渡した。
   どうやらここにいる子達は今日で音楽教室をやめるという子達のようだ。けれど、実際に音楽を辞めるというのは澄人と美奈の2人だけだった。

「たとえどんな道に向かっても音楽を好きでいてね。そしてまた戻りたくなったらクラシックに戻っておいで」
   先生の声が優しいと感じたのはいつぶりだろうか。いつも怖くて鬼のような形相をするけれどこんなに涙ぐむ先生は見たことがなかったから驚いた。
   ああーーーー本当に最後なんだ。
   澄人はそうおもった。幼い頃から何度も行っているこの市民ホールも最後だ。もうここで弾くこともない。コンクールも出ない。練習生活も終わる。そう思うと自然に涙が込上げる。
「ありがとうございました!」
   みんながお辞儀をする中、澄人は必死に涙を堪えた。
    それから先生の最後の挨拶は終わり、解散となった。
   澄人は控え室から出た廊下で、涙をそっと拭いた。
   その時後ろから声をかけられた。
「澄人くん」
「あ、美奈ちゃん!?ごめん俺……」
「ううん、たげい演奏だったよ。やっぱり才能あるね。やめちゃうの意外だった」
    美奈はステージ用の髪飾りを外しながらそう言った。
    美奈はこの音楽教室に片道2時間もかけて通っていて実家は青森の更に田舎の方だったためたまに方言が出る。その喋り方と顔が可愛いことから音楽教室の中でも男子たちからモテていたらしい。けれど美奈はほかの男子と特別絡むことはせず、いつも澄人の所にだけ来てくれた。
    澄人自身も、美奈だけが唯一音楽教室で仲良くできた相手かもしれないーーーーそうおもっていた。それもそのはず、3歳の時にこの教室に同じタイミングで入ってグループ強化レッスンでもずっと一緒だったのだ。
    それに数々の発表会やコンクールも一緒に出た相手だった。 
    なんでも話せるという程でもないけれど、いつだって澄人が一人でいると傍にいてくれた。
「卒業したら本当に東京いくの?」
「うん……やりたいこと決まってないけどね」
「本当はまだ音楽したいんでしょ?もっと自分に自信もてばいいのに、澄人くんは」
(そんなの……)
「……っところで、美奈ちゃんは今後どうするの?」
「んー……私は学校の先生になりたいと思ってるから大学行ぐよ」
「そうなんだ、応援してる」
「うん、ありがとう」
(そっか、みんな進路なんてもう決めてるよな……。俺結局どうしたいんだろう) 
   本当はーーーー
「…あ、あのね!」
   美奈はそう言うと突然澄人の手を握りしめた。
「わたし、ずっと澄人くんのこと好ぎだった!」
   美奈に真っ直ぐ見つめられ、澄人は瞬きすらせずに硬直してしまった。
「最後だから言いたくて」
(美奈ちゃんが俺を好き…?) 
   信じられなかった。それに澄人は美奈のことは音楽仲間の友達としか思ったことがなかったのだ。
   まさかそんな気持ちを持っていたなんて思うはずもなく過ごしてきた。
「ごめん、ごめんね。聞き流して」
「いや…あの…」
(そんな、俺はなんて言えばーーーー)
いの!いいの!いはんでいいから!、澄人くんが他に好きな人いるってこと分がってる!」
(あ……)
「……ごめん。」
   澄人は俯くとそう呟いた。こんな言葉だけ言うのはずるいかもしれないけれど今の澄人にはそれしか言えないと思った。
   やっぱり気持ちは気付かれていたのだ。
「うん、やっぱり……そうだよね。澄人くん見てればわかるよ。分がってたけど、東京いぐなら最後になるかなと思ったからごめん。それじゃあ……」
  美奈はそう言うと歯を食いしばるようにグッと何かを堪えながら澄人に背を向けた。
(あ……)
  ーーーーこれでいいんだろうか。最後ーーーー
    美奈が背を向けて歩き始めた時だった。
「あ、あのさ!!」
    澄人が止めると美奈はハッとした表情でこちらを向いた。
「良かったらこれからもメールだけはやり取りしよう?」
   こんなこと、自分から提案するのは間違ってるかもしれないーーーーけれど全く音楽からかけ離れてしまうのも物寂しく感じる。だからこうして音楽をやってきた仲間だけは、うしないたくないとおもったのだ。
「いいの……?」
「うん、いや美奈ちゃんが良ければだけど」
    澄人が遠慮がちにそう言うと美奈は先程と打って変わって満面の笑みを澄人に向けた。
「もちろんだよ!ありがとう!離れても頑張ろうね!」
「……っうん!」
  それから澄人は美奈と分かれると、会場を抜け車で待つ母親の元へ向かった。

「お別れ大丈夫だった?」
「うん。あ、別に別れっていうか美奈ちゃんとはこれからも友達でいるし」
「そう、それは良かったわ」
  それから走り始めた車の中で遠ざかっていく会場を無言で眺めていると、暫くして母親が話しを切り出した。
「そういえば澄人。今日まで練習本当に大変だったでしょう?」
「え、うん」
「本当にお疲れ様。でもこれからは生活が落ち着くと思うし、卒業後の進路のこともたっぷり考えられると思うのよ」
「うん……?」  
  なにか含みのあるような言い方に澄人は首を傾げた。
  そういえばここ3ヶ月まともに母親と話せる時間がなかった。練習に明け暮れていたし、学校での宿題もあったため、普段から部屋にこもりきりだったのだ。
「なにかあったの?」
    澄人が訊ねると母親はゆっくりと頷いた。
「重大報告よ」
「重大報告……?」

「うん。お母さんねーーーー再婚することに決めたの。」

    暫くの沈黙のあと、澄人は「わあ!おめでとう!」と声をあげていた。
「ありがとう…澄人は本当に優しいわね。でね、これから相手の荷物とか運ぶから、手伝って欲しいの」
「ああ……!うん、任せてよ」
   ーーーー何となく思ってたけどやっぱりそうだよな。
   母親はこの時まで再婚を待っていたのだ。今までピアノ一筋の澄人が突然新しい人を家族として迎えることになれば練習も遠慮したりすると思ってのことだろう。
   その気遣いはたしかに嬉しいけれど、何もおもしえてくれないところはやっぱり少し寂しかった。
   でもここまで一生懸命に育ててくれた母親にはそんなことも言えるはずもない。
(どんな人なんだろう……?)
   そもそもまだ会ったこともない。再婚が決まったのであれば、発表会くらい見に来てくれてもいいじゃないかとは思うけれどきっと相手がそう言ったところで母親が断っていたかもしれない。変な所気を気を遣う人だし。
   まあ、初対面で暮らすことになったって自分はそこまで絡まないだろうし、母親の選ぶ人ならばきっと素敵な人だろうと思った。
   これが幼少期の自分なら合わない人となれば徹底的に嫌がっていただろうーーーーでも今ならもし合わなくても自分から家を出ることは可能だしバイトして何とかすれば大丈夫だろうと思う事ができる。その心の余裕ができたのも母親がこの日まで静かに待っていてくれたお陰だろうと澄人は思うことにした。


ーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーー


  家に着くと見知らぬ黒い車が一台、家の前に停まっていた。 
「相手の人もう来てるの?」
  澄人が聞くと、母親は慌てた様子で車のエンジンを切りながら答えた。
「そうね、きてるみたい。仕事が早く終わったのかしら」
(あ、仕事だったんだ)
  澄人はそう思いながら車を降り、自分の荷物を手に持つと玄関に向かった。
  そこには既に大量のダンボール箱が置かれていた。
  こんな山積みの荷物を発表会が終わったあとでやるのかと思うと少し気が遠くなる。
「ごめんね、澄人。これ運んでおいてくれる?」
「あ……うん」
  澄人は少し休みたい気持ちを我慢して、ふうっと意気込むと荷物を家の奥に運び始めた。
  再婚相手が家に来たらどの部屋を使ってもらうかはある程度決めていたから迷うことは無かった。勿論、母親の部屋との共有スペースと寝室だけで自分の部屋が失われることはない。
(はぁ、おわった。疲れたぁ)
  ダンボールをひたすら運んでいて気付けば時間すら忘れていた。
  時計を見るともうすっかり夜だ。
(母さん俺に任せっきりで一体どこ行ったんだよ……)
  澄人は先程から姿のない母親を探しに行くことにした。
  その時だった。
  自分の部屋から突然、ピアノの音色が聴こえた。
(え……?)
   母親はピアノを弾くことはないはずだ。それに、この音色は、どこかでーーーー
   澄人はいてもたってもいられず、急いで階段を駆け上がり2階の奥の自分の部屋に向かった。そして扉を思いきり開ける。
   するとそこには背の高い白髪の男が、自分の部屋のピアノを眺めながら右手を鍵盤に置いていた。
   息を飲むほどに美しい横顔、長く白い睫毛。綺麗な長い指。
   そしてどこか見覚えのある懐かしい雰囲気に澄人は心の奥が激しく震えた。
(嘘……だ……)
   男はコチラを向くと、「ああ、ごめんね。この部屋にピアノがあるって聞いたから弾きたくなっちゃって」とニコリ微笑む。
   その表情は自分がポケットにしまっていた青年の顔にまるでそっくりーーーーいや、紛れもなくこの人は川邊瑠偉、本人だ。

「大きくなったね、澄人」
  ドクンドクンと心臓が波打つ。その声が、顔がーーーー全部が、自分の心の奥を激しく揺さぶる。
「なんで、いるんですか……?え、あれ…ドイツに行ってたんじゃ……あれ?」
   澄人の頭の中は最早、パニック状態だった。とにかく何か言わなきゃと思うけれど言葉が見つからない。約8年間もずっと待ち望んでいた人との再会だというのに、こんな形で会うことになるとは思いもしなかった。
(どうしよう?どうして……じゃあ再婚相手ってこの人!?まてまて、この人まだ23歳だよね?!)
「え、えっといつから母親と付き合ってたんですか!?」
  澄人が混乱して瑠偉に前のめりになって質問すると、瑠偉は困ったように手を振った。
「澄人、落ち着いて。大丈夫?その様子だと母親から何も聞いていないのかい?」
「は、はい……」
「そう、わかった。なら僕から説明しようか」
  川邊瑠偉はそう言ってピアノの椅子から立ち上がると、ゆっくりとこちらに近付いた。
  澄人の心臓はもう超特急の新幹線より早い気がした。目眩がしそうだーーーーだってもう会えないと思っていた憧れの人がこんな近くにいるのだから。

「君の母親の再婚相手は、僕の父親なんだよ」
「え!?」
「2年前から付き合っていて今回再婚に至った」


「えええ!?」

 ーーーー川邊瑠偉の、父親と再婚!?しかも二年前から付き合ってた……!?

  澄人はその瞬間、目眩がして地べたに倒れ込んでしまったのだった。
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