【完結】碧血の墓標 ――新選組最後の局長、明治の闇を斬る

高杉 優丸

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第13章 碧血の夜明け

エピローグ 語り継ぐ者

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 明治四十四年、十二月。
 北の果て、小樽おたる

 窓の外では、重たい牡丹雪が音もなく降り積もっていた。
 世界を白く塗り潰す、沈黙の雪だ。
 室内の火鉢で、炭がパチリとぜた。

「……というのが、俺の知る『真実』だ」

 老人は、手酌で酒を注ぎながら言った。
 白髪。深く刻まれた皺。だが、その眼光だけは老いていない。
 杉村義衛すぎむらよしえ。かつて、永倉新八と呼ばれた男だ。
 七十三歳になっていた。

 何度もここに通ってきた小樽新聞の記者は、万年筆を握ったまま固まっていた。
 インクがにじむのも忘れているようだった。
 長い物語だった。
 京の不動堂村から始まり、箱館の凍土、そして明治十一年の東京へ。
 死んだはずの男が蘇り、巨大な権力に牙を剥き、土方歳三の魂を取り戻した復讐劇。

「……おきな。今のお話は」

 記者が、恐る恐る口を開いた。
 のどが鳴る音が聞こえる。

相馬主計そうまかずえが……明治八年に死んでいなかった、ということですか?」

 永倉は、茶碗の酒をすすった。
 安い酒だ。喉を焼く熱さが、今は心地よい。

「さあな」

 永倉はニヤリと笑った。
 歯が抜けているが、その笑顔は悪戯を企む少年のようだった。

「俺は、ただの老人の妄想を語っただけかもしれんぞ。……死人が蘇り、東京の悪党を叩き斬る。講談師だって、もう少しマシな嘘をつく」

「ですが……! 」

 記者は身を乗り出した。
 この若者は鋭い。永倉が語る言葉の端々に滲む「熱」が、作り話のものではないと直感しているのだ。

「翁は、先ほど仰いました。『相馬は、立派な最期だった』と。……それは、切腹のことではなく、その後の……」

「そこまでだ」

 永倉が、ぴしゃりと手で制した。
 空気が凍りつく。
 老人の身体から放たれる気迫が、記者の言葉を物理的に押し戻した。

「相馬主計は、明治八年に東京の蔵前くらまえで腹を切った。……それが歴史だ。それが正史だ」

 永倉の声は低く、重かった。

「あいつは、幕府に殉じて死んだ悲劇の最後の侍だ。……お前が書く記事は、それでいいんだよ」

 記者は息を呑み、やがて諦めたように肩を落とした。
 これ以上踏み込めば、虎の尾を踏むことになる。そう悟ったのだろう。
 そして何より、永倉が守ろうとしている「嘘」の重みに、記者自身が打たれていた。

「……分かりました。そのように、記事にさせていただきます」

 記者が帳面を閉じ、立ち上がる。
 永倉は、それを見上げることなく、手酌で酒を注いだ。

「雪が深くなるぞ。気をつけて帰んな」

「はい。……貴重なお話を、ありがとうございました」

 記者が部屋を出て行く。
 襖が閉まり、廊下を歩く足音が遠ざかる。
 玄関の戸が開く音。冷たい風が吹き込み、そして閉じる音。

 部屋に、静寂が戻った。

 永倉は、火鉢の縁を指でなぞった。
 指先が熱い。だが、体の芯は冷えていた。
 嘘をついた。
 だが、後悔はない。
 真実など、安っぽい新聞の紙面に載せるようなものではない。
 あれは、俺たちだけの秘密だ。
 墓場まで持っていく、狼たちの最後の神話だ。

「……おい、相馬」

 永倉は、虚空に向かって問いかけた。

「あれで、よかったんだよな」

 返事はない。
 相馬主計――いや、新島省吾にいじましょうごは、もうこの世にはいない。

 風の噂で聞いた。
 あの戦いの後、相馬は東京の片隅、本所ほんじょのあたりで車屋として暮らし続けたという。
 妻・まつのと、その家族を影から支え続けた。
 決して名乗り出ることなく、金だけをそっと届け、遠くからその笑顔を見守る日々。

 孤独だったろうか。
 いや、そうではあるまい。
 永倉は思う。
 あいつは、自分の人生を「土方歳三の魂」と「妻の幸福」を守るためだけに使った。
 それは、侍として戦い抜き、最後は一人の人間として愛を貫いた、見事な一生だったはずだ。

 数年前、相馬は畳の上で穏やかに息を引き取ったという。
 誰にも看取られず、誰にも知られず。
 葬儀もなかった。無縁仏として、どこかの寺に葬られたのだろう。

「……馬鹿な奴だ」

 永倉は酒をあおった。目頭が熱い。

「だが、格好いいじゃねえか」

 永倉は立ち上がり、窓辺に立った。
 硝子の向こうは、真っ白な闇だった。
 雪が降っている。
 しんしんと降り積もる雪が、地上のすべての汚れを覆い隠していく。

 その白さは、あの日と同じだ。
 箱館の五稜郭で見た雪。
 日野の甲州街道で見た霜柱。
 そして、明治十一年の冬、上野の山で見た、夜明け前の朝霧。

(……碧血へきけつ、か)

 永倉はふと、函館の山に建つ石碑のことを思った。
 『碧血碑へきけつひ』。
 義に殉じて流された血は、三年経てば碧い玉になるという伝説になぞらえて建てられた、戦死者たちの墓標。
 そこには、土方歳三や中島三郎助ら、多くの同志たちの名が刻まれている。

「だがな、相馬。……俺は思うんだ」

 永倉は、窓ガラスに映る己の老いた顔に語りかけた。

「石の塊なんざ、要らねえ」

 あの石碑の下に、土方の骨はない。
 本当の土方は、相馬が埋めた場所に眠っている。

「お前だ、相馬」

 誰にも知られず、泥にまみれ、名を捨てて、それでも「誠」を貫き通した男。
 自分の人生すべてを犠牲にして、土方の眠りと名誉を守り抜いた男。

「お前のその生き様こそが、俺たち新選組の……本当の『碧血の墓標』だったんだよ」

 永倉の声が震えた。
 涙ではない。
 五臓六腑から湧き上がる、誇りと、そしてどうしようもない寂しさだった。

 みんな、逝ってしまった。
 島田魁も、明治三十三年に京都で死んだ。あいつも最後まで、西本願寺の警備員として、仲間たちの墓を守り続けたという。
 斎藤一も、数日前に……いや、あいつはまだ生きているか。だが、もう会うこともないだろう。

 残っているのは、俺一人だ。
 語り部として、生き恥を晒して生き残った、最後の狼。

 ふと、雪の向こうに光が見えた気がした。
 幻影だ。
 老いぼれの見る夢だ。
 だが、その影はあまりにも鮮烈で、懐かしかった。

 雪原の向こう。
 彼らが、待っている。

 腕を組み、不敵に微笑む土方歳三。
 その隣で、豪快に盃を干す近藤勇。
 愛用の槍を担いで、何やら自慢話をしている原田左之助。
 「うるさい」と顔をしかめながらも、楽しげな斎藤一。
 巨大な野太刀を杖にして立ち、みんなを見守る島田魁。
 そして、藤堂平助や沖田総司、井上源三郎たちの顔もある。

 みんな、若いままだ。
 新しい時代など、どこ吹く風と笑い飛ばして、彼岸で酒盛りをしている。

「……待たせたな」

 永倉は、幻影に向かって酒杯を挙げた。

「俺も、もうすぐそっちへ行く」

 死ぬのは怖くない。
 むしろ、楽しみですらあった。
 土産話なら、たっぷりある。
 お前たちが死んだ後、あの一番若かった相馬が、どれほどの男になったか。
 どうやって牙を研ぎ、どうやって吠え、どうやって勝ったか。
 酒を酌み交わしながら、朝まで語って聞かせてやろう。

 幻影の中の男たちが、一斉に笑った気がした。
 土方が、顎をしゃくって「早く来い」と言っているようだ。

 その中心で、相馬主計が、あの日と同じように深く頭を下げている。
 はにかんだような、実直な笑顔。
 『最後の局長』の顔で。

「……いい夢だったぜ」

 永倉は酒を一気に煽った。
 喉が焼ける。
 その熱さが、生きている証だった。

 明治四十四年。
 新選組、最後の生き残り。永倉新八。
 彼が筆を置き、その瞳を閉じるまで、あと三年。

 物語は、雪の彼方へかえっていく。
 誰にも知られることのない、あおき血の記憶と共に。

(完)
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