やめてよ、お姉ちゃん!

日和崎よしな

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第五章 染紅灘蔵

第30話

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 姉に課せられるお仕置き。

 今回、父によって選択されたその内容は、姉が小学生のころに一度受けて以来、一度もオーダーされていない重刑だった。

 このお仕置きには名前がある。刑のつく名前が。
 刑名だけ聞けば滑稽こっけいに思えるかもしれない。
 しかし、その実態は人としての尊厳を奪う、精神における極刑といえる。

「隼人、よく見ておきなさい。それもお仕置きの一部だからな」

 俺は姉の部屋にいた。
 俺と姉と父が、姉の部屋にいた。

 姉は散らかっているなんて言っていたが、とても整頓された綺麗な部屋だった。
 姉は父に言われるまま下着姿になり、机に納まっていた椅子を引き出して戸口側へ向けた。
 気取らない白いブラジャーと白いショーツ。そんな姿にあっても清潔感と上品さをかもすあたり、さすがは姉だと賛美したいところだが、姉はほおを赤く染め、俺や父から視線を逸らしている。
 風呂上がりに自ら下着姿を見せることはまれながらあるが、己が意思によらざれば、恥らうはまさに乙女。俺も視線を逸らしてあげたいところだが、父が怒るのでそれはできない。
 姉は下着姿のまま、格子状の背もたれがある木製椅子いすに、座面に敷いてあるクッションを取り除いてから座った。

 右手に手錠とロープを持った父が姉に近づき、その背後に回る。
 まず姉の右手に手錠をはめ、それを椅子の背もたれの格子に通してから左手にもはめる。
 さらに姉の右足首を椅子の右前足に、姉の左足首を椅子の左前足にくくりつける。
 姉は下着姿で完全に椅子に拘束された。
 両の膝をつけて脚を閉じ、こうべを垂れている。

「説明せずとも分かっているな?」

 姉は頭を上げず、口も開かず、ただコクッとうなづいた。

 俺も知っている。このお仕置きの重みを。
 忘れるはずがない。こんな刑が執行されることなど最初で最後だと、あのときは信じていた。

 俺はあのころを思い出していた。
 姉が小学三年生のころ、何をしてお仕置きされたのかは忘れたが、そのお仕置きの内容だけは決して忘れない。
 いまと同じように、姉は下着姿にひんかれ、椅子に縛りつけられた。そして廊下に放置された。
 父が姉を置いて去ろうとしていると、姉が泣きながら父に問うた。

「お父さん! トイレに行きたくなったらどうするの⁉」

「心配するな。このお仕置きはおまえがらすまでだ。ただしウンコな」

 つまり、これはそういうお仕置きなのだ。
 このお仕置きには名前がある。

 それは、《ウンコ椅子の刑》である。

 滑稽な刑名にして、人の尊厳を奪う凶悪な残酷刑。

 小学生の時分ならまだしも、これを高校生にもなって、それもうるわしき女子高生がいられるなんて、これ以上のはずかしめはない。
 姉は世界の終りを迎える人のような、その終焉しゅうえんを受け入れている人のような、そんな様相ようそうだった。
 頭を垂れ、長い黒髪が姉の上半身をまばらに隠す。それは意図して素肌を隠しているのではない。おそらく彼女が本当に隠したいのは心であり、その心が最も如実にょじつに表れる表情を隠しているのである。

 父は俺の肩をポンと叩き、出ていった。「しかと見届けろよ」と釘を刺したのだ。

 俺は自分の部屋から持ってきた椅子に座っていた。姉の対面に。
 父はわざわざこのお仕置きの執行を夕食後に指定した。
 姉は刑の内容を察していたのか、悪あがきに夕食の摂取せっしゅこばんだ。「苦しみが長引くだけだぞ」という父の忠告は、とても慈悲のために出た言葉とは思えなかった。

「ねえ、お姉ちゃん。なんで俺のためにあそこまでしてくれたの?」

 俺がそうたずねると、姉は首をわずかに動かした。ただ右を見たようにも見えるし、そっぽを向いたようにも見える。
 答える気はないようだ。

「いい気味とか、思っているでしょ?」

「そんなことないよ」

「でも、日頃の恨みが溜まっているでしょ?」

「うん、それはある。でも、今回のことは俺のためにやってくれたことだから、嬉しかったんだ。人のお金を盗る……いや、勝手に借りるってのは、道徳的に外れているとは思うけれど、お姉ちゃんがそんなことをした驚きより、お姉ちゃんが俺のためにそこまでしてくれた感激のほうが大きかったよ」

 あ、つい姉を普段は道徳的人間みたいに言ってしまったが、俺の金に対しては搾取さくしゅの常習犯だった。

「べつにあんただけのためにしたことではないわ」

「何かお姉ちゃんに得があるの?」

「あんただけでなく、あずさやトシ君のためでもあるってこと」

 つまり、今回の一件では姉に私欲は皆無だったということだ。姉が俺のために身を削るなんて、本当にどうしてしまったのやら。

「ほんと、なんでそこまでしてくれるの? 封筒には11万円入っていたけど、お父さんの言っていたお金は7万円だった。4万円はお姉ちゃんが出してくれたってことだよね?」

「2万よ。残りの2万はあんたから巻き上げた金なのよ」

「あ、そうなんだ……」

 俺から巻き上げた金は自分の貯蓄とは分けて管理していたということか。いざというときに困らないよう、姉は勝手に俺の金を貯蓄管理してくれていたようだ。
 それはまさに今回のような案件のためだろうが、いかんせん、金額が大きすぎた。

 姉が膝を上下に二度三度擦り合わせた。さっきから人形のようにピクリとも動かなかった姉が動きはじめた。
 同じ姿勢を取りつづけることが辛くなってきたのか、あるいは……。

 しばらく、互いに沈黙した。

 かける言葉がない。

 かけられる言葉もない。

 この沈黙に差し挟む言葉などありはしない。

 …………。

 …………。

 …………。

 俺は昔のことを思い出していた。
 昔の姉は優しかった。
 何かあってもいつも俺をかばってくれたし、母親が赤ん坊の世話をするように俺に手を尽くして面倒を見てくれた。

 そんな姉が変わったのは、ほんの二、三年前だ。

 きっと思春期の弊害へいがいだろう。
 ベタベタとつきまとう姉のことを俺が避けるようになってから、姉が変わった。
 姉は強引になった。
 俺は恥じらいや開放感どころではなくなったが、時すでに遅く、もはや姉の変性は止まらなかった。
 姉は俺に体裁ていさいというものをあきらめさせたかったのだと思うが、独占欲を満たしていくうち、いつしか独占欲は所有欲へと変貌へんぼうした。
 姉の愛情は深いが、異常だった。
 思春期の少年が好きな子に意地悪をするのと似ているのかもしれないが、そういう少年たちの、好きな子に何らかの形で関わりたいという願望とは少し異なり、姉は愛情を向けた先に自分を刻み込もうとしているように思えた。

 姉の愛情は異常だ。
 しかし姉をそう変えたのは、おそらく俺だ。
 俺の罪は重い。

「…………」

「隼人?」

 俺は椅子から立ち上がった。それに気づいた姉が、ほんのわずかに顔を上げる。俺からは姉の顔は見えない。姉は俺の膝の辺りを確認しているのだろう。

「俺、ちょっと行ってくる」

「トイレ?」

「違うよ。お父さんのとこ」

「やめときなよ。養子ようしに出されるよ」

 養子って? ああ、あれか。
 あの常時ヒステリックな叔母おばのところだ。
 それは絶対に嫌だ。
 その叔母というのは父の妹だが、俺も姉も母も、全員が苦手な人だ。
 独り身の叔母は老後のために養子を欲しがっていた。しかも最寄りのコンビニまで一時間はかかるド田舎だ。
 人も環境も最悪だ。

「それは嫌だな。じゃあ、トイレに行ってくる」

 俺は姉の部屋を出た。

 父は居間のソファーで脚を組み、もの静かに新聞を読んでいた。
 テーブルには湯気の昇る上品なコーヒーカップが、受け皿付きで置いてあった。

 ゴクリと生唾なまつばを飲み込んで、口内の環境を整える。

「お父さん、お姉ちゃんは俺のためにやったんだ。私利私欲のためじゃないんだ」

 父は新聞を下ろさなかった。俺の言葉なんて聞く気がないのだろうか。
 しかし、有無を言わさずに追い返すでもない。俺が席を離れたことを怒るかと思っていたが、その予想外は俺の父に対する見くびりにより生じたものである。父はきっちりと俺を論破してから配置に戻すつもりのようだ。

「私利私欲には変わりない。おまえを旅行に行かせたいという華絵の望みのために華絵は金を盗んだ。仮に私利私欲でなかったとしても、窃盗は刑法に抵触する立派な犯罪だ」

「家族でしょ? 家族でそこまでする必要があるの?」

「おまえは家族なら許されると思うのか? たしかに刑法244条により直系血族の窃盗罪は免除されるが、窃盗ではなく殺人だったらどうする?」

「窃盗と殺人とでは罪の重さがぜんぜん違うよ。スピード違反とひき逃げくらい違う。お父さんだって高速道路でもないのに、いつも60キロをオーバーしているじゃないか」

「窃盗は罪が軽いから許せと? 被害者に向かって、おまえはよくそんなことが言えるな」

「家族じゃないか! お父さん、さっき自分で刑事罰は適用されないって言っていたよね? それなのに、なんでお姉ちゃんにこんなひどい罰を与えるの⁉ 説教して終わりでいいじゃないか。頭のいいお姉ちゃんなら一言で理解してくれるよ」

「華絵にはチャンスをやったが、華絵の選択は悪あがきだった。これは教育だ。しつけによって悪いことをしてはいけないと思い知らせる。手遅れにならないうちにな。それが我が子のためになると俺は信じている。悪いことをしても運よく許されることがあるなんて、そんな甘えた考えを持ってはならない。もし華絵が将来、軽い気持ちで友人に今度のようなことをやったとしたら、そのときこそ華絵の人生は台無しになる。刑事告訴され、前科を背負い、友人を失うと同時に多くのものを失うことになる」

「それは……」

 すぐには反論の言葉が出てこなかった。
 しかし、父は俺が反論の言葉を見つけるまで待っていてくれる。どんな言葉を投げても論破する自信があるから。そうして納得させ、お仕置きをその精神に受け入れさせる。

「それは?」

「口で説明したら分かると思う。いまお父さんが俺に言ったようなことを詳しく説明すれば。お姉ちゃんが聡明なことはお父さんも知っているでしょ?」

「窃盗という愚行に走っておいて聡明といえるのか? 身内なら構わないなどという軽薄な考え方をする者が聡明か? 現に口ではさんざん説明してきた。しかし事件は起こった。こうなってはもうお仕置きが必要だろう? 自分の行為の罪深さを思い知る機会を与えなければなるまいよ」

 うう……、やはり父にはロジックでは勝てない。人生経験に大きな差があるうえに、父は論理的思考の玄人くろうとでもある。俺なんかが勝てるはずもない。

 でも、引き下がれない。姉は俺のためにやったんだ。姉は重々承知していたはずだ。父のテリトリーに踏み込むリスクを。それでも、俺のために挑んでくれたのだ。

 だから、俺は、諦めない。

 父の土俵で俺が勝てないのは当たり前だ。だったら俺の土俵で挑むしかない。
 俺の土俵、それは姉のお仕置きにきたえられ、しごかれて、その結果として身についた、この忍耐力だ。

「俺は正義の味方! 悪と信じる者には断固として立ち向かう!」

 俺は叫び、そして父の新聞を取り上げた。

 普段の温厚な父ならば、それくらいのことは笑い飛ばすだけだ。しかし怒っているときの父は沸点が低く、容赦ようしゃをしない。これくらいのことが戦線布告とみなされる。

「隼人、新聞を置いて華絵の部屋に戻れ。いますぐにだ」

「嫌だ!」

 俺は父に熱い視線をぶつけた。
 父が立ち上がった。父の冷たい視線が俺の背筋を凍らせる。怖い。怖いが怯まない。そういう視線を、俺はさんざん浴びてきている。

「やぁああああっ!」

 俺は父に飛びついた。何か技をかけようと思ったわけでも、押し倒そうと思ったわけでもない。ただ、父にまとわりつこうとした。
 しかし、父が俺の腕を捻って俺をひざまづかせる。父の右手によって俺の全身がぎょされている。
 俺はこうなることを分かっていた。

 しかし思っていたより痛い。

「ギブギブギブ!」

 大袈裟おおげさなどではなく、その苦痛相応にゆがめた顔で俺は叫んだ。
 父はつかんでいた俺の腕をヒュッと持ち上げて俺を立たせ、俺の胸を左手でポンと押す。
 俺は三歩、四歩、五歩と想定外な距離をよろめきながら後退した。

「戻れ、隼人はやと。おまえが見ていることもお仕置きの一部なんだぞ」

「ギブ! アンド、テイク!」

 俺は再び父に飛びかかった。

 普通なら涙目になって腕をさすりながら肩を落としてトボトボと退散するところであるが、今日の俺は違う。
 覚悟していた。

 腕一本までなら、くれてやる。

 そんな覚悟をしていた。
 父はおそらく俺の腕を折ることなく極限の痛みを与えるスベを持っているが、俺は腕を折られるまではどんなに苦しくても立ち向かっていく所存だ。

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

 またしても父が俺の手首を掴んでひねり、俺を跪かせた。そして今度はねじりを加えてさらなる苦痛を送り込んでくる。

「もうやめるか?」

「やめないけど離して!」

 嘘をつくと即座にお仕置きモードへ突入するから、嘘でやめるとは言えない。
 いまのこの行為自体ギリギリの綱渡つなわたりだが、自分のためではなく姉のためという背景が、俺を誠実という土俵内に押し留めている。
 しかし土俵際にいるのは間違いない。父の教育方針にイチャモンをつけているのだから。

「痛い痛い痛い! やめてよ、お父さん!」

「おまえがやめると誓うまで駄目だ」

 父の視線は相変わらず人を氷漬けにする鋭さで放たれているが、いまの俺は痛みによる苦しみが支配していて恐怖の入り込む余地はない。

 ……痛い。

 痛い。

 とにかく痛い。

 忍耐でどうにかなると思っていた俺が甘かったのだ。
 論争でも忍耐でも勝てない。

 でも、とにかく食い下がる。
 ひたすら気持ちをぶつける。
 初志貫徹しょしかんてつ。己の信念を貫き通す。
 人の心を大事にすること、それが俺の《誠実》であり、信念である。

「お父さん、こんなの理不尽だ。不誠実だよ。力で相手を屈服させて信念を曲げさせるなんて。お父さんがやっているのは虐待ぎゃくたいだよ」

「いいや、しつけだ」

「過剰なしつけは虐待だ。俺は認めない。絶対に認めない。折られたら傷害で訴えてやる。折られなくても暴行で訴えてやる」

「正当防衛だ」

「いいや、過剰防衛だ」

「いいや、正当防衛だ。屁理屈を並べるな、隼人」

「屁理屈も理屈じゃないの? 俺には何が理屈で何が屁理屈だかさっぱり分かんねーよ」

「いい加減にしろ!」

「そりゃ、あんたが、だぁあああああっ!」

 俺は無理矢理立ち上がろうとした。このままいけば俺の腕は折れるだろう。しかし父は俺の手首を掴んだその右手を引かない。

 痛い……。

 自分から腕を折りにいくなんて、辛すぎる。
 でも、俺はやる。
 それくらいの気概がなけりゃうそだ。普段から姉のお仕置きを受け、こらえてきた日々が嘘になる。あれだけ理不尽で辛い思いをしてきて、そうして得たものが何もないなんて、俺の人生はゴミクズ以下だ。自分で自分をかわいそうに思ってしまう。
 俺は自分の人生を無意味でただただ不幸だったことにはしたくない。ただの不幸者、運悪く他人より不幸な人生を送る者、それが俺にとっては何よりもみじめなことだ。
 姉を受けとめられるのは俺しかいない。俺はそんな気持ちで、いつも姉の理不尽な仕打ち、もといお仕置きを受け入れてきたのだ。

 俺はさらに体を持ち上げる。
 下半身にありったけの力を入れ、片腕を固定されたまま全身を持ち上げる。
 痛くて涙が出てきた。
 胸が熱いのはきっと痛みのせいではない。

「やめろ。折れるぞ」

「折ってやる。こんなもん、折ってやるぅううう!」

 理不尽をへし折るかのように、俺は自分の腕を折りにいった。

 だが次の瞬間、かすんでいた俺の視界が激しく乱れた。流星群さながらに、いろんな色が線になって一瞬で右から左へと流れ、気がつけば俺は土色の絨毯じゅうたんに顔をこすりつけていた。
 父が合気の術を変更したのだ。
 ひねられた右腕が背中方向いっぱいに持ち上げられていて体の自由が利かない。もはや自分から腕を折りにいくとか、そんな力ずくがいっさい利かない体勢。

 バッドエンド?

 いいや、それでも俺は諦めない。

 俺の体はいっさいの自由を奪われたが、俺の思考が支配されたわけではない。
 俺がいつまでも逆らいつづければ、父はいつまでも俺を拘束しつづけなければならない。

 いや、ロープでしばりつけられるだろうか。
 ここまで手間を取ったのだから、ウンコ椅子の刑は固いだろう。
 へたをしたら本当に叔母のところに養子に出される。

 でも俺は諦めない。
 ウンコ椅子の刑なら、俺は永遠に父を不誠実だと叫びつづける。
 養子に出されるようなら、その前に家を出て二度と戻らない。
 俺は断固として闘いつづける。

 激情にまかせ、俺がそこまでの思考をしたところで、何かが俺の視界を横切ってポトッという振動が脳髄のうずいに響いた。
 視線を絨毯の上で走らせると、そこには銀色の小さな鍵が落ちていた。
 柄にはクローバーみたく三つの丸がくっついている。

 これは手錠の鍵だ。

 そして、ふっと体が軽くなる。
 拘束が解かれ、体の自由が戻った。
 痺れて思うように動けなかったが、なんとか起き上がり、絨毯の上の鍵を拾った。

「隼人、それをおまえに預ける。お仕置きが完了したらお姉ちゃんを解放してやりなさい」

「お父さん……」

 まったく、父娘そろって実に遠まわしな優しさを見せるものだ。ここで鍵を渡したら、お仕置きが終わる前に俺が姉を解放することは分かりきっている。

「もし華絵がバイトしてでも隼人を修学旅行に行かせてやりたいと言っていたら、隼人の旅費は出してやって、無理矢理にでも母さんを働かせていたところなんだがな」

 《内助の功》支持者で、母が家にいることを誰よりも強く望んだのあの父が、母を働かせるなどと言うとは……。俺のオクラホマの無責任はそれほどに罪深いものだったのだろう。
 しかも例の予算見直しは、なんとか俺の修学旅行費用を捻出ねんしゅつできないか検討するためのものだったらしい。
 それを聞いてどうしようもなく申し訳ない気持ちになった。

 父は普段の柔らかい表情で、さらにこう続けた。

「華絵は俺の教えをよく聞く。勉強や運動から立ち居振る舞いに至るまで、すべてが優秀だ。ただ、狡猾こうかつすぎて悪知恵に自信を持ち、それを実行に移してしまうところが欠点だ。だがやはり俺は華絵のことを、他家のどこの子よりも優れている子として誇りに思っている。その一方で隼人、おまえはただ単にかわいい我が子だった。だが、おまえも成長していたようだ。それも俺の想定を遥かに越えて。華絵にまさる何かを持っている子はそうそういないと思うが、おまえは確かにそれを持っている。ここでおまえにその鍵を預けるのは、そんなおまえへの贈り物だ」

「ありがとう……」

 父の話を聞いて、俺は複雑な気持ちになった。
 複雑とはそのままの意味で、ごちゃごちゃしてよく分からない気持ちだ。
 きっと後からじわじわと込み上がってくると思う。それが喜びにしろ、怒りにしろ、哀しみにしろ。
 でもいま、この気持ちだけは確かにここにある。
 それは姉を救い出せる喜びだ。

 俺は玩具おもちゃみたいな小鍵を握り締め、すでにソファーで新聞を手にしている父を背にした。

「あ、隼人」

「何?」

「手錠と鍵は回収したら俺に返せよ」

 お父さん、いま、何かが台無しになった気がするよ。
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