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番外編(2) 目覚めた朝に
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ほんのりと甘い匂いがする。耳に届く声は澄んだソプラノだった。匂いも声もあまり馴染がないのだが、まるっきり初めてというわけではないらしく、やけにしっくりくる。
誰なんだろう。いや、誰だったかな。
本間の頭の中は混乱していた。黒なのか白なのかもわからない無の世界。重心がわからなくなって、まるで体が宙に浮いているような感覚。自分がどこにいるのかさえわからなかった。
「…──さん、本間さん、起きてください」
そのとき本間の体がガクンッと落ちた。ほんの一瞬、恐怖にさらされた。さらにほぼ同時にすぐ近くで、「きゃっ!」という声がする。何がなんだかわからない。
しかし次に気づいたとき、視界がパッと明るくなり、見ると目の前に他人の顔がドアップで映し出されていた。
本間は思わず悲鳴に似た声を上げそうになったが、ぐっと飲み込んだ。それから目の前にある顔をじっと見つめた。色白のきめ細かい肌。ずっと見ていたいと思うような綺麗な顔立ちだった。驚きよりもその魅力に惹きつけられたのだ。
本間は我慢できなくなってその顔に手を伸ばし、フェイスラインに手を添える。触れた指先にあたたかさは伝わってくるが、その表情は人形のように変わらなかった。
だからこそ目が離せなくて、本間はその顔を自分に引き寄せようと軽く力を入れた。けれどここで異変が起きる。見つめていた唇がかすかに動いたのだ。
なんだ? そう思っていたらその唇から声が発せられた。
「ほ、本間さん?」
「えっ?」
自分の名前を呼ばれ、遠くにあった意識が少しずつ手繰り寄せられていく。そして脳内で瞬時にそれらが組み立てられ、本間は目の前にいる人物のことを思い出したのだった。
至近距離にあったのは目を見開いている宮原つぐみの顔だった。
「宮原さん……?」
どうして彼女がここにいるのだろう。あと数センチ近ければ互いの鼻と鼻がぶつかる距離だ。しかも横たえた本間に覆いかぶさるようにして、カーペットの床に四つん這いのような状態でいる。
「あの……お、おはようございます」
震える声でつぐみが言った。
広報課に配属されて約1か月。ほとんど交流のない本間を前にどういうリアクションをしていいのかわからないつぐみは、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしていた。
無理もない。見ようによってはかなり際どい体勢だ。
どうしてこんなことになったのか。このときの本間にはわからなかったが、つぐみの右手は本間によってしっかりとつかみ取られていた。
「あの、手……」
つぐみがか細い声で言う。そこで初めて本間は自分の置かれている状況を把握したのだった。
「うわっ! ごめん!」
本間はつかんでいた手を離す。
手が自由になったつぐみは立てひざでゆっくりと体を起こすと、ちょこんと正座をした。
本間も取りあえず上体を起こした。どうやら会社の床で熟睡していたらしい。
本間は数時間前の自分を思い出した。残業し、そのまま会社に泊まった。明け方の4時頃まで仕事をしていたが、頭がぼーっとしてきて、どうにもはかどらない。OAフロアのタイルカーペットは3か月前に張り替えたばかり。本間はたいして汚れることはないだろうと、仕事を途中で諦めて床の上にごろんと寝転がったのだった。
「なんか変な夢を見てたみたいで。俺、何やってんだろう」
本間が頭をかきながら床の上であぐらをかいた。
夢の中で体が落ちた瞬間、とっさに近くにあったつぐみの手をつかんだのだろう。うっすらとそんな記憶があった。そのため彼女は手を引っ張られた拍子に四つん這いの体勢にならざるを得なかったのかもしれない。
誰なんだろう。いや、誰だったかな。
本間の頭の中は混乱していた。黒なのか白なのかもわからない無の世界。重心がわからなくなって、まるで体が宙に浮いているような感覚。自分がどこにいるのかさえわからなかった。
「…──さん、本間さん、起きてください」
そのとき本間の体がガクンッと落ちた。ほんの一瞬、恐怖にさらされた。さらにほぼ同時にすぐ近くで、「きゃっ!」という声がする。何がなんだかわからない。
しかし次に気づいたとき、視界がパッと明るくなり、見ると目の前に他人の顔がドアップで映し出されていた。
本間は思わず悲鳴に似た声を上げそうになったが、ぐっと飲み込んだ。それから目の前にある顔をじっと見つめた。色白のきめ細かい肌。ずっと見ていたいと思うような綺麗な顔立ちだった。驚きよりもその魅力に惹きつけられたのだ。
本間は我慢できなくなってその顔に手を伸ばし、フェイスラインに手を添える。触れた指先にあたたかさは伝わってくるが、その表情は人形のように変わらなかった。
だからこそ目が離せなくて、本間はその顔を自分に引き寄せようと軽く力を入れた。けれどここで異変が起きる。見つめていた唇がかすかに動いたのだ。
なんだ? そう思っていたらその唇から声が発せられた。
「ほ、本間さん?」
「えっ?」
自分の名前を呼ばれ、遠くにあった意識が少しずつ手繰り寄せられていく。そして脳内で瞬時にそれらが組み立てられ、本間は目の前にいる人物のことを思い出したのだった。
至近距離にあったのは目を見開いている宮原つぐみの顔だった。
「宮原さん……?」
どうして彼女がここにいるのだろう。あと数センチ近ければ互いの鼻と鼻がぶつかる距離だ。しかも横たえた本間に覆いかぶさるようにして、カーペットの床に四つん這いのような状態でいる。
「あの……お、おはようございます」
震える声でつぐみが言った。
広報課に配属されて約1か月。ほとんど交流のない本間を前にどういうリアクションをしていいのかわからないつぐみは、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしていた。
無理もない。見ようによってはかなり際どい体勢だ。
どうしてこんなことになったのか。このときの本間にはわからなかったが、つぐみの右手は本間によってしっかりとつかみ取られていた。
「あの、手……」
つぐみがか細い声で言う。そこで初めて本間は自分の置かれている状況を把握したのだった。
「うわっ! ごめん!」
本間はつかんでいた手を離す。
手が自由になったつぐみは立てひざでゆっくりと体を起こすと、ちょこんと正座をした。
本間も取りあえず上体を起こした。どうやら会社の床で熟睡していたらしい。
本間は数時間前の自分を思い出した。残業し、そのまま会社に泊まった。明け方の4時頃まで仕事をしていたが、頭がぼーっとしてきて、どうにもはかどらない。OAフロアのタイルカーペットは3か月前に張り替えたばかり。本間はたいして汚れることはないだろうと、仕事を途中で諦めて床の上にごろんと寝転がったのだった。
「なんか変な夢を見てたみたいで。俺、何やってんだろう」
本間が頭をかきながら床の上であぐらをかいた。
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