愛してやまないこの想いを

さとう涼

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第1章 発覚! 隠れ肉食系

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 ここは都内にあるラグジュアリーなホテルのレストラン。
 わたしは目の前の人の発言に耳を疑った。だって、こんなことを誰が予想できただろう。
「今、なんておっしゃいました?」
「“結婚したい”と言ったんだよ」
「誰とですか?」
「もちろん、亜矢《あや》ちゃんと」
 そう言って、まっすぐ見つめてくる彼の瞳は真剣。とても冗談とは思えない。おまけにいつも以上にフェロモンを大量生産中らしくて、男の人なのにめまいがしてしまうくらいに色っぽい。
「でも、わたしたち、おつき合いをしていませんよね?」
 そうなのだ。この人とわたしはただのお友達関係。一年ほど前からふたりでお酒を飲んだり、ごはんを食べにいったりすることはあったのだが、告白すらされていない。
 それなのに、いきなりプロポーズされても困るんですけど。その前にですね、わたし、あなたの気持ちを今日、初めて知りました。
 どうしてわたしなんですか? だって、あなたは女性に不自由なんてしていないはずでしょう?

 わたしが彼に初めて会ったのは今から六年前。短大卒業後に就職した高嶋《たかしま》建設株式会社だった。会社設立から五十年近くの中堅の建設会社で、わたしはそこの受付嬢だった。
 彼もその会社の社員だった。
【氏名:世良文哉《せらふみや》】【所属:営業本部設計課】【ハイスペックで将来有望】【独身】【ひとり暮らし】【彼女ナシ】【女性は基本、来る者は拒まずで、年上・年下なんでもOK】
 当時から世良さんは社内で大人気。入社間もないわたしのもとにも、そんな情報が入ってきていた。
 不思議なことに世良さんはずっと特定の彼女がいないらしく、フリーの女性社員はもちろん、既婚者の人も彼を狙っていたとか、いないとか。
 そんな世良さんは毎朝「おはよう」と、新人のわたしにも必ず声をかけてくれた。もちろん、わたしだけではなくてほかの人たちにもそうしていたわけだけれど。そんなところも世良さんの評判が高い理由だった。
 誰にでもわけ隔てなくそそいでくれる彼のやさしさは、人を惑わすほどの威力がある。それに加えて仕事にもまじめに取り組む人だから、上司の受けもよくて会社からも信頼されている。
 世良さんを悪く言う人を聞いたことがない。それくらい人望も厚くて、同僚や後輩からも慕われていた。
 だけど、わたしは世良さんに恋をすることはなかった。素敵な人だとは思っていたけれど、当時のわたしにはおつき合いしている彼がいたので、遠くから目の保養として眺めているだけで満足だった。

 その後、いろいろあって、わたしは春山《はるやま》デザイン事務所に転職した。働きはじめて一年八ヶ月になる。
 デザイン会社といってもいろいろあるけれど、春山デザイン事務所はライティングデザインの会社。
 クリスマスイルミネーションのような華やかなデザインもあれば、オフィスや商業施設、住宅のデザインもする。
 たとえばオフィスのライティングの場合。照明器具の数を減らしても、配置の仕方や照明のあて方を工夫することによって明るさを保つことができる。なおかつ、最適な明るさは仕事のストレスの軽減をもたらす。ライティングデザイナーが提供するオフィス空間は、そういったことまでをしっかりと計算しており、結果的に仕事の効率を上げ、電気代の節約にもなるのだ。
 わたしは春山デザイン事務所で経理を含めた一般事務の仕事をしている。
 代表が父方の叔母の元旦那さんという、ちょっと複雑な縁で雇ってもらった。
 世良さんとは仕事の関係で再会した。転職して間もない頃、偶然に高嶋建設からクリスマスイルミネーションの仕事を請け負うことになり、打ち合わせのために世良さんがうちの事務所に来たことがきっかけだった。
「あれ?」
「お久しぶりです。世良課長が担当されることになったんですね」
「うん。うちは大がかりなライティングの事例がほとんどないものだから。まずは僕が手さぐりでやることになったんだ。それより、大久保《おおくぼ》さん、ここで働いていたんだね」
「はい。親戚の人の紹介で入社しました」
「そうだったんだ。また会えてうれしいよ」
 再会したとき、そんな会話を交わした。そのときの世良さんは本当にうれしそうだった。
 同じ会社だったときは社交辞令みたいな感じで言葉を交わしていたけれど、再会後少しずつ距離が縮まっていった。
 最初は事務所で軽く会話する程度だった。だけどある日、世良さんに飲みに誘われて、それ以来たまに食事をする関係になった。
 けれど、それだけの関係。実際、頻繁に会っていたわけでも連絡を取り合っていたわけでもないので、お友達というのも微妙なくらい。ふたりで食事をするようになって名前の呼び方が、「大久保さん」から「亜矢ちゃん」に変わったけれど、そもそも世良さんは人懐っこい性格なので、そのことに特別な意味を感じることはなかった。
 だから、突然プロポーズされて混乱している。つき合っていないのに、どういうつもりなのだろうと。

「世良さん、まさかとは思うんですけど……」
 赤ワインでほろ酔い気分ではあるが、意識はしっかりと保っている。わたしはできるだけ動揺していることを悟られないように冷静を装った。
「プロポーズの相手を間違えていませんか?」
 だって、このわたしがこんな素敵な男性に結婚したいと思われるわけがない。からかわれているだけだ。
 いや、もしかすると予行練習なのだろうか。ほかの人にプロポーズしようとしていて、今日はわたしを実験台にして模擬プロポーズとか?
「まさか。いくらなんでも、そんな間違いはしないよ」
「じゃあ、酔ってます?」
「お酒も飲んでないよ。今日は大事な日だからね」
 世良さんは澄ました顔でそう言った。つまり、本当にわたしと結婚したいと思ってくれているの?
「だって、今まで一度もそんな雰囲気になったことないじゃないですか」
「亜矢ちゃんはかなり鈍感だよね。この一年、僕がいくらアプローチしても、ぜんぜん気づいてくれないんだもん」
「アプローチ?」
 そんなことを言われても、手を握られたことも、好きと言われたこともない……とそこまで考えてハッとした。
 五月の第二土曜日の今日はわたしの誕生日。いつもは庶民的なお店だけれど、今日は特別な日だからとホテルのレストランに連れてきてもらっていた。
 いつもよりおしゃれをして、高級フレンチとワインを堪能した。
 そういえば世良さんと初めて飲みにいった一年前もわたしの誕生日だったということを思い出し、改めてこの一年を振り返る。
 月に一度は食事に誘われていた。映画を見にいったこともある。美術館や水族館にも行った。
 つまり一年前も今日の食事も世良さんにとってはれっきとしたデートで、そういう意味で世良さんは毎回わたしを誘ってくれていたの?
「あ……」
 わたしは、とんでもなく鈍い女だ。今までのほほんと食事をごちそうになって、気軽に家まで車で送ってもらっていた。
 でもそれらは世良さんの好意があってのことだったことに、今さらながら気がついた。
「あ、あの……すみません……」
 それしか言えない。自分のあまりの鈍感さに閉口してしまう。
「ようやく納得してくれたみたいだね」
 世良さんは、黙り込んでいるわたしの思考をしっかりと読み取っているようだった。わたしは「はい」とうなずく。
「それなら、これを受け取ってくれる?」
 差し出されたのは、薄いブルーの小さな箱。それは世界的に有名で、多くの女の子が憧れているハイブランドのものだ。
 ちょっと待って。それはもしかして……。
「指輪ですか?」
「そうだよ、婚約指輪」
 プロポーズもそうだけれど、いきなり婚約指輪を出されても困る。
 すぐに答えなんて出ない。というか今のところ、断る以外、考えられない。
「サイズがわからなくて困ったよ。もし合わなかったら、あとでサイズ直しに一緒に行こうね」
 世良さんがにこりとわたしを見るので、思わずうなずいてしまいそうになる。
 だが、これは婚約指輪。気軽に受け取っていいものではない。
「む、無理ですから! 結婚なんて考えられません。世良さんはとても尊敬できる方です。でも、それ以上の感情はないんです」
 こんなわたしでも今日で二十七歳。過去に結婚を考える人はいた。むしろ結婚願望は強いくらいだった。
 けれど今は違う。結婚も男性とのおつき合いも考えられない。ぶっちゃけ、こりごりなのだ!
「そう言うと思ったよ。亜矢ちゃんが僕に気がないことはわかってる」
「だったら、いきなりプロポーズするのはやめてください」
「でも、こうでもしないと、僕のことを男として意識してくれないだろう?」
「物事には順番があります」
「僕もそう思うよ。だけど正当な方法で口説いていたら、亜矢ちゃんは僕を前につき合っていた人と重ねて、離れてしまっていたはずだ」
 違うかい? と世良さんは微笑んだ。わたしは思わず目の前のきれいな顔に見とれてしまった。
「ええ、そうかも……しれません……」
 けれど、だめだめ! わたしは浴びせられるイイオトコ光線をなんとか振り払う。
「だとしても、世良さんにはもっとふさわしい女性がいると思います。わたしなんかで妥協しなくても、世良さんのまわりには美人で素敵な方がたくさんいるじゃないですか」
 世良さんは誰もが認める優秀な人。責任ある大きな仕事をまかされているのに、悩みや忙しさをおくびにも出さず、いつも涼しい顔で仕事をしている。彼の口から人の悪口や愚痴を聞いたことがなくて、怒った姿も見たことがない。それほどまでに完璧な人。
 そんな人がよりにもよって、どうしてこんな平凡なわたしを選ぶのだろう。
「亜矢ちゃんは明るくてかわいらしくて、とても素敵な女性だよ。亜矢ちゃんと一緒に過ごしてきて、僕は亜矢ちゃんからたくさんの元気をもらった。亜矢ちゃん以外に考えられないんだよ」
「世良さん……」
「会うたびに惹かれていくんだ。そんな女性は初めてだよ」
 その言葉に泣きたくなるほど感動した。世良さんの声は品があって穏やかで、それだけで癒やされる。刺々しいわたしの心をふんわりと包み込んでくれるようなあたたかさは今日に限ったことではない。
 こうして深い愛を知って、触れてしまったら、そのあたたかさはさらに温度を上げ、鼓動を激しくさせた。
 だけど一方で冷静な自分もいる。
 自分を認めてもらえたからといって、安易に結婚を決めてはいけない。
 どうせ世良さんも、いずれわたしに愛想を尽かし、こんなはずじゃなかったと思うに決まっている。 
「ありがとうございます。ですけど──」
「待って、それ以上は言わなくていい」
「でも……」
「覚悟していたとはいえ、一日に何度も聞かせられると気力も体力も奪われるからね。今日はそれくらいにしておいて」
 世良さんが白い歯を見せる。さわやかすぎて、かえって胡散臭い気もしないでもないけれど、知り合ってそれなりに長いので、そこに嘘はないことはわかる。世良さんは本気だ。
「だったら、わたしはどうしたらいいんでしょう?」
「亜矢ちゃんは今まで通りでいいよ。ただ、少し時間をくれないか? 必ずその気にさせるから」
 なんとも軽い口調に肩の力が抜けてしまう。わたしは気を取り直すために赤ワインをひとくち飲んだ。口のなかで芳醇な香りが開き、葡萄の味わいが広がった。
 今日のワインもとてもおいしい。もともとワインを飲むことがなかったわたしにワインのおいしさを教えてくれたのは世良さんだった。それくらいよくしてもらっていたのに、その関係が壊れてしまうことはわたしだって嫌だ。
 だけど言わなくてはならない。こんなことになってわたしも困っているけれど、それよりも世良さんだ。世良さんは三十六歳。結婚願望があるのなら、こんなところで足踏みしている場合ではないのだ。
「時間の無駄です」
 ちょっと冷たい言い方かなと思いながらも、きっぱりと言った。
「厳しいね」
「思いやりのつもりで言っているんです」
「そうなんだ。でも、それって逆効果だから。それこそ男の闘争本能をかき立てていることに気づいてる?」
 そう言って、ゆっくりと瞬きをする世良さんは魅惑的。瞳がギラリと光って、息をすることを忘れてしまいそうになる。
「世良さんって……」
「ん?」
「肉食系でしたっけ?」
「知らなかった?」
「はい、ちっとも」
「ごめんね。実はそうなんだよ」
 世良さんはどこまでも明るく朗らか。ここまでポジティブな態度でいられると、プロポーズを断った罪悪感が薄れていく。
「そのワザ、反則です」
「亜矢ちゃんをお嫁さんにするためだったら、なんだってする。覚悟して。断られても何度でもプロポーズするよ」
 世良さんはもう一度指輪を差し出してきた。
 でもわたしは受け取らなかった。「ファッションリングだと思って」と言われたけれど、そんなふうに思えるはずがない。
「参ったなあ」
 世良さんはにこやかに言う。
 でも、きっとそれが世良さんのやさしさなのだろう。わたしが過去に受けた恋愛の苦しみを理解してくれる彼だからこそ、そうやって半ば強引に、そしてゆっくりと溶かそうとしてくれる。
 だけど、いまだに引きずっているわたしの後遺症は、いくら世良さんでも治すことはできないと思う。わたしを心から愛してくれる人なんて存在しないと実感したあの日に、二度と恋はしないと決めたのだ。



 今から二年以上前のことになる。わたしは大失恋をした。高嶋建設に勤めていた頃の話だ。
 当時わたしは入社四年目の二十四歳。同じ会社のひとつ年上の建築課の人とおつき合いをしていた。
 つき合って二年以上たっていて、わたしはその彼と結婚したいなと考えていた。
 だけどわたしが結婚という言葉を口にした途端、彼は別れ話を切り出してきた。少なくともあと数年は結婚を考えられないので、わたしを待たせるのが悪いということだった。
 わたしは泣いてすがって、別れたくないと何度も懇願した。今すぐ結婚しなくていいからと。だけど彼は聞き入れてくれず、そのときは「ごめん」としか言ってくれなかった。
 でもあとから社内のうわさで知った。彼が言っていたそうだ。わたしの気持ちが重くて疲れるのだと。
 たしかにあの頃のわたしは仕事よりも彼氏が大事だった。わたしの生活の中心に彼がいて最優先事項だった。結婚する気も満々で、そんなわたしの意気込みもプレッシャーだったみたい。
 こうして彼の本心も知ることになり、さらに傷ついてボロボロになって、それでも会社では普通に振る舞った。受付だから暗い顔なんてできない。どんなにつらくても悲しくても、常に平常心を保って笑顔でいなくちゃいけなかったから。
 それなのに彼は、わたしと別れて一年もたたないうちにほかの人と婚約した。それも社内の人と。
 わたしには結婚に興味がないと言っていたのに、ほかの女性とはあっさりと結婚を決めてしまったことで、わたしからありとあらゆる自信が奪われていった。
 わたしと彼がつき合っていたことを知っている人は多かったから、ひどくみじめだった。彼が結婚式を挙げる月に逃げるように会社を辞め、それから再就職するまでの二ヶ月近くも家に閉じこもる生活をしていた。
 世良さんは、わたしのそれらの過去を知っている。元彼とのことは社内のうわさとしても聞いていたとは思うけれど、わたしからすべてを打ち明けた。
 何度目かの食事のとき、ふいにその失恋のことを思い出してしまい泣き出したわたしは、世良さんにうながされるまま溜め込んでいたものを思う存分吐き出させてもらったのだ。世良さんに、「つらかったよね」と言葉をかけられ、ほんの少しだけみじめさから解放されたような気がした。



 そのときのことは今でも感謝している。
 だけどそれはそれ。世良さんには恋愛感情はない。
 結局この日、プロポーズの話は平行線のままだった。食事のあと世良さんに家まで送ってもらったのだけれど、「また誘うから」と微笑みながら言われ、困り果ててしまった。
 だけど……いつか世良さんを好きになる日が来るのかな。
 彼の車を見送りながら、ふとそんなことを思ったが、わたしは慌てて打ち消す。
 世良さんだってすぐにあきらめるはず。あんなに素敵な人をまわりの女性だって放っておかないはずだから。そのうちきっと、わたし以外の女性に心を奪われるに決まってるんだ。

 プロポーズの翌々日の月曜日の午前中。春山社長との打ち合わせのためにうちの事務所を訪れた世良さんは、わたしを見つけるなり、さわやかな顔で軽く右手をあげた。わたしも会釈をして、さっそく給湯室に向かうと、世良さんたちに出すお茶の準備をした。
「どうぞ」
「ありがとう」
 応接室にいる世良さんにお茶を出すと目が合った。途端に甘い眼差しになって、わたしの頬が熱くなる。
 やめてください、世良さん。そんなふうに見ないでください。
「亜矢、どうかしたのか? 顔が赤いんだけど?」
 ほら、やっぱりだ。春山社長に突っ込まれたわたしは、とっさにお盆で顔を隠した。
「熱があるんなら無理するなよ」
「大丈夫です、健康です」
 お盆から顔を出すと、世良さんが笑いをこらえているのが目に入った。
 ひどい、世良さんのせいなのに。春山社長までニヤニヤしちゃって気分が悪い。
「今日は俺も紅茶なんだ?」
 春山社長がテーブルの上のカップを見て言った。
「春山社長は朝からコーヒーを何杯も召し上がっていたので紅茶にしてみました」
「気が利くな。亜矢はいいお嫁さんになるよ」
「え」
 思わず世良さんの顔を見てしまった。ドキリとして目をそらしたけれど、時すでに遅し。春山社長がなにかを察知したらしく、「なるほどねえ」と言うと、紅茶のカップに口をつける。
「し、失礼します!」
 わたしは慌ててその場を離れた。ドアを閉めて給湯室に直行し、お盆を胸に抱えたまま、まずは深呼吸する。
 一応プロポーズを断った立場なのに、なにをドキドキしているのだろう。世良さんを期待させてしまうような態度をとってはいけないのに、春山社長のなにげない言葉に動揺して顔を真っ赤にしていてはだめだ。
 だけど、あの目に見つめられると弱い。やさしい印象とは真逆で、世良さんは実は計算高くて強引。ぼーっとしていると、まんまと彼の策略に落ちてしまいそうになるから油断ならない。
 世良さん、隠れ肉食系なんてずるいです。その手口、かなり卑怯です。
「どれ、仕事に戻ろう」
 うちは十人ほどのスタッフの小さな事務所だけれど、やることがいっぱい。
 電話応対や受付業務はもちろん、今週は請求書作成と入金管理の仕事がある。それから会計ソフト入力。そうそう、銀行にも行かなくちゃ。来週は給料計算が待っているし、月初めには会計事務所の人に経理データを提出しなくてはならない。仕事をやり残していたら大変なことになるのだ。
 自分のデスクに戻ると、さっそくパソコンの画面に向かった。前の会社では経理の仕事をやったことがなかったので、最初は戸惑うことが多かった。でも最近は仕事もひとりで難なくこなせるようになった。
 もともとこの仕事は、わたしの叔母で、春山社長の奥さんであるデザイナーの萌《もえ》さんと、パートの女性がふたりで手分けして担当していた。
 けれど萌さんが春山社長と離婚して事務所を辞めてしまい、パートさんも出産を機に家庭に入ってしまった。パートさんには無理を言って臨月まで働いてもらって、なんとか仕事を引き継いだけれど、わからないことが多くて、萌さんに頼ることもあった。
「亜矢」
 そのとき春山社長が応接室から顔を出した。「はい」と言って席を立つと、春山社長から一冊の紙の束を渡された。
「忙しいところ悪いけど、この資料をカラーコピーしておいて。各一部な」
「わかりました」
 仕事は大変だが、やりがいを感じる。デザイン設計の知識も経験もないけれど、時間があるときは自宅で図面を書くためのCADソフトの操作の勉強もしている。いつか勉強したことを生かせればと思いながら、日々精進している。
 春山社長への感謝は言葉では言い尽くせない。事務職の経験がないわたしを快く引き受けてくれただけでなく、勉強のために社外の現場にも連れていってくれる。だから少しでもこの会社の役に立ちたいと思うのだ。
「コピーしました」
「ああ、どうもな」
 原稿とコピーの資料を手渡すと、テーブルの上のカップがふたつとも空になっているのが目に入った。
 紅茶、気に入ってくれたのかな。打ち合わせのとき、コーヒーを飲み残すことが多い春山社長だから珍しいなと思った。
「お茶のお代わりを持ってきますね。紅茶のほうがよろしいですか?」
「ああ、頼むよ」
 春山社長はすでに資料に目を落としていた。
 わたしはなるべく音を立てないように応接室を出ていこうとする。だけどドアを閉めようとしたとき、また世良さんと目が合った。
 世良さんの瞳はいつもわたしを見ている。もしかして今までもそうだったのだろうか。
 こんなふうに、いつもやさしく見つめてくれていたの?
 世良さんはすぐに春山社長との打ち合わせに集中していた。
「ほかの業者と工事が重なると思うので、不都合なことがあったらこちらに相談してください」
「わかったよ」
「あと、資材置き場は常に整理整頓をお願いします」
 テーブルには高嶋建設の名前の入った工程表や図面が散らばっている。想像だが、これらの資料は何日もかけて世良さんが準備したものに違いない。ほかにも担当している大きな仕事がいくつもあるのに。
 世良さんはすごい。背負っているものが大きすぎて、わたしにはまぶしい。
 現在、進めているプロジェクトは都内の公園整備の仕事。遊歩道整備を含め、敷地内のプラネタリウム建設を高嶋建設が一年ほど前に落札し、すでに着工している。その後、公園全体のライティングデザインをうちの事務所がコンペで勝ち取った。
 といっても、大規模なライティング工事のため、要件を満たしていないうちの事務所では工事ができない。加えて官公庁工事ということもあり、工事業者については指名競争入札の結果、都内の電気工事会社が行うことになっている。
 その工事を進めるにあたり、施工前にうちと高嶋建設でデザインや工程などの事前確認をする必要があったので、そのための打ち合わせだった。その窓口が世良さんというわけだ。
 高嶋建設が落札した工事は建築課の人が担当している。ライティング工事はそれとは別口のものだが、本工事と工程が被る部分があるので、それを含めていろいろと調整が大変なようだった。
 応接室に紅茶を出して、自分の仕事を再開した。
 二度目のお茶出しのときも世良さんと目が合った。春山社長になにか言われる前にと思い、今度はすばやく応接室を出ていったのだが、「なんだよ、あれ。子どもかよ」と、ドアの向こうから春山社長の笑い声がもれ聞こえてきて、悔しくて仕方がなかった。
 世良さんの振りまく色気は強烈だ。これからどうやってそれをかわしていけばいいのだろう。
「うーん、困った」
 事務所の大きな窓からは五月のさわやかな光が降りそそいでいる。それなのにわたしの心は混乱して、少し憂鬱さも感じている。
 それもこれも世良さんのせいだ。
 だけど今は考えるのはやめよう。やらなきゃいけないことがたくさんある。
 わたしは世良さんを遮断するようにブラインドを下ろした。

「それでは今日中に工程表のデータをメールしますので、入力して返信をお願いします」
「了解、明日までに送っておくから」
 世良さんと春山社長が話しながら応接室から出てきた。どうやら打ち合わせが終わったみたいだ。世良さんが春山社長と別れて、こちらに向かってくるのが見えた。
 いつもだったら、「ごちそうさま」と言って横を通り過ぎる世良さんに会釈をして見送るのだが、この日は違った。
「亜矢ちゃん」
 なぜか世良さんがわたしの名前を呼んだのだ。
「はい?」
 わたしは席を立つ。受付のカウンター越しに世良さんと向かい合い、なんの話だろうと見上げた。
「今日の紅茶もおいしかったよ」
「ありがとうございます」
「僕のため、なんだよね?」
「え?」
「前はコーヒーだったのに、何度かここに通ううちに、いつの間にか紅茶になってたから」
「ええ。普段は紅茶を飲むと、前にレストランでおっしゃっていたので」
 以前一緒に食事をしたとき、世良さんは食後にコーヒーでなく紅茶を頼んでいた。
「コーヒーだと胃がもたれるんだよ」と言っていたけれど、ふいに無邪気な笑顔になって「本当はね」と続けた。「毎回、打ち合わせでコーヒーを出されるから飽きちゃうんだ」と。それが妙に印象に残っていた。
「覚えていてくれたんだね」
「たしかにコーヒーはよその会社でも出されることが多いので、飽きちゃいますよね」
 春山社長なんて、打ち合わせが続くと飲む振りをして口をつけるだけ。せっかく淹れたコーヒーを堂々と全部残す。相手の会社でもそうらしい。
「やっぱりそうだったんだ。ありがとう」
「いいえ、たいしたことではありませんから」
「今日は春山社長との打ち合わせが楽しみだった。ここに来れば亜矢ちゃんに会えるからね」
「世良さん……」
「顔を真っ赤にしている亜矢ちゃんの顔も見ることができたしね」
 世良さんが目を細め、からかってくる。
「やめてください! あれは──」
「かわいかったよ」
「そういうのもです……。恥ずかしいです」
 世良さんは「ごめんね」と言いながら遠慮なく笑っている。
 嫌なことを思い出させるんだから。肉食度がアップしただけでなく、イジワル度までもアップしちゃって、こっちはアップアップなんですけど。
 それから世良さんは腕時計に視線を落として時間を確認すると、「そろそろ次に行かなきゃ」と残念そうに言った。
「相変わらず、お忙しいんですね」
「仕事が入ってくることはありがたいことだよ。僕たちの部署が暇だったら、会社が大変なことになる」
「そうですよね」
 それはうちも同じだ。特にうちの会社の職種は特殊な分野。奇跡的に生き残れているが、それだっていつまで続くかわからない。
 だけどライティングにはさまざまな可能性が秘められている。光による癒やしだけでなく、町おこしや観光客の集客にも役立っており、経済効果をもたらしてくれる。
 また地方では、維持費が財政を圧迫しているという理由で、多くの歴史的建造物が取り壊されてきた。しかし、それらのライトアップを試みることで、地域住民が歴史的価値を見直す機会となり、観光施設としても役立たせることができるのである。
 この業界は待っているだけでは衰退する。大企業はもちろん、観光産業や自治体などにも常に提案し続けなければならない。観光客の減少や過疎化に喘いでいる地方に光が当たるように。そんな使命感も少なからず持っている。
「それじゃあ、またね」
「はい、お気をつけて」
「もし亜矢ちゃんの気が変わったらすぐに教えてね。飛んでいくから」
「こんなときにその話は……」
「そういう困った顔もかわいいよ」
 もう、この人は、この人は!
「世良さん!」
「はいはい、今度からは場所をわきまえるよ」
 明るく笑うたくましい背中を見送った。それは楽しそうなうしろ姿で、わたしはなぜか目が離せなかった。
 一方的に想われることは時に重荷になるものだけれど、世良さんに対してはそれほど感じない。むしろドキドキして、意識してしまう。
 どうしてだろう。これまでそんなふうに思ったことなんてなかったのに。
「ふたりは、なかなかいい雰囲気だな」
「うわっ!」
 気配なく近づいてきた春山社長がそっと耳打ちしてきたので、全身に鳥肌が立った。
「驚きすぎだ」
「いきなり現れないでください。心臓が止まるかと思いましたよ」
「大げさだなあ」
「そんなことないです。見てください、このイボイボ」
 わたしはニットの袖をまくって見せた。だけど春山社長はそれにはまったく興味がないらしく、いちべつするだけで話を続ける。
「あの紅茶は世良くんのためだったんだな」
「さっきの、聞いてたんですか?」
「聞こえたんだよ」
 この人、なにげに地獄耳だ。
「別に紅茶の件は、変な意味じゃないですから」
 世良さんに紅茶を出すようになったのは、だいぶ前からだ。決してプロポーズされたからではない。
「デートまでしておいて隠すなよ。俺はいいと思うよ、世良くん」
「だから、違うんですってば!」
「まあまあ、落ち着けって。でもあれだな。今日気づいたけど、紅茶もなかなかうまいな。俺も今度から紅茶にするかな」
「本気ですか?」
「もちろん。種類もいろいろあるんだろう? せっかくだから、いくつかそろえておけよ。こうなったら飲みくらべだ」
 きっと当分、世良さんのことで春山社長にからかわれることになるんだろうな。
 この人のイジワル度も結構、高い。
 バツイチの春山社長は四十代半ば。意外にといったら失礼だが、わりと女性にモテるタイプだ。萌さんと離婚してからはなおさらみたいで、仕事で知り合った女性からアプローチを受けることもたまにあるらしい。
「春山社長、仕事に戻りますよ」
「こんなときばっかりまじめになるなよ」
「わたしはいつだってまじめですから」
「はいはい、世良くんのことはみんなには内緒にしておくよ」
「ですから──」
「安心しろ。俺はこれでも口はかたいんだ」
 違うのに。話も噛み合っていないし。ついでに声も大きい。ほかのスタッフの人たちがこちらを気にしてチラチラと見ていた。
 春山社長もそれに気づいたようで。
「さあ、仕事すっかな」
 そう言うと、さっさと自分のデスクに戻っていった。
 相変わらず、調子がいいんだから。
 壁掛け時計を見ると、時刻は十一時半。あと少しで午前中が終わってしまう。
 あっという間に過ぎていく時間にため息をこぼし、わたしも残りの仕事に取りかかった。
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