愛してやまないこの想いを

さとう涼

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第3章 守らせてほしい

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 世良さんとのデートから二週間がたとうとしていた。
 あれ以来、わたしのなかで多少の心境の変化があったのは事実で、信頼できる世良さんのアドバイスだからこそ、それを参考に外国のライティング事例の勉強をするようになった。
 調べてみるとおもしろい。行政の力の入れ具合もさることながら、その国の地形や気候も影響を与えているのだと知る。川の水面に映り込む光、厳しい冬に暖かさを感じる色合い。ただ明るく照らすのではなく、緻密《ちみつ》に計算されているのだ。
「亜矢、最近なにかいいことでもあったのか?」
 春山社長がニヤニタしている。カマをかけていることはわかっているので、落ち着いて言葉をさがした。
「春山社長が期待しているようなことはなにもありませんから」
 パソコンの画面から視線をそらさないで答える。
「つまんねえなあ。世良くんも同じことを言っていたんだよな」
 それを聞いて、ハッとして顔を上げた。
 まったく、世良さんにまでズケズケと。人のプライベートに首を突っ込むのは、いくら社長でも許せない。
「気をつけてくださいね」
「なにがだよ?」
「世良さんに嫌われると、仕事に支障がでちゃいますよ」
「どうしてだよ?」
「今度のコンペに参加できるのは世良さんのおかげなんですよ」
 というのは、来年早々に東北で最大級のコンベンションセンターが着工予定なのだが、その建物のライティング計画があるのだ。
 地域のランドマークとしての役割も担うことになるであろうコンベンションセンター。しっかりとしたコンセプトをもとに建築デザインされている。それに合わせて、ライティングにもテーマが与えられていて、うちの事務所もコンペに参加させてもらえることになったのだ。
 そのことがどれだけラッキーな話かというと、このコンペは公募による公開コンペではない。設計会社からの指名によって参加資格が得られる指名コンペとなっていた。
 本来だったら、うちの事務所はコンペに参加できなかった。しかし、世良さんが知り合いの設計会社の方にうちの事務所を推薦してくれたおかげで指名がもらえた。
「俺の知名度と事務所の実力も理由だよ。相手はそれを認めたから指名してきたんだ」
「それはそうですけど。まずは推薦してもらわなければ、なにもはじまらなかったわけですし」
「運も実力のうちだ」
 この人、仕事のことになるとかなり頑固。謙虚さが少しばかり不足しているけれど、言われてみれば春山社長の言う通り。実力がなければ、こんなチャンスはめぐってこない。この場合、実力が運を引っ張ってきたといってもいい。
 コンペの審査が通れば、うちの事務所の代表作のひとつになる。
 選ばれたとしても施工の準備期間が短く、かなり厳しい条件だが、春山社長ならそれもクリアできるはず。それを確信している世良さんだからこそ、うちの事務所を推薦してくれたのだし、設計会社の方も評価してくださったのだ。
「……はい、認めます」
「わかれば、よろしい」
「ですが、どちらにしても余計な首は突っ込まないでくださいね」
「言うようになったな」
「姪ですから」
「ああ、そうだったな。おまえは萌の姪だった」
 春山社長と萌さんが離婚したのは一年と少し前。離婚の原因はいろいろあるのだが、一番の理由はやはり子どもができなかったことだろうか。ふたりとも子どもを望んでいた。それなのに、なかなか子宝に恵まれず、萌さんは仕事に打ち込むようになった。
 その熱意に拍車がかかり、同じ職場だったふたりはいつしか夫婦というより同士となった。仕事のパートナーとしての結束は強くなったが、その分夫婦の愛情が薄れていった結果が離婚。その後、萌さんは春山社長が再婚しやすいようにと、この事務所を辞めて今の建築設計会社に移った。
 だけど春山社長は、萌さんがそこまで考えて事務所を去ったことを知らない。酔っぱらった萌さんがぽろっとこぼしていたのを、たまたまわたしが聞いてしまったのだ。
 と、これだけ聞くと切なくなる話だけれど、実際のふたりはかなりあっけらかんとした関係だ。
 離婚してからも、萌さんは仕事のことで事務所を訪ねてくることがあるのだが、会えば普通に話をしている。逆にどうして離婚をしたのだろうと思うくらい。
 でも夫婦のことは夫婦にしかわからない。別れてうまくいく関係もあるのだろう。

 午後二時過ぎ。
 出かける準備を終えると、近くの人に声をかけてから、春山社長のデスクに寄った。
 うちは二階建ての建物で、社長室は二階にあるのだが、一階にも自分のデスクを置いていて、普段はそこで作業している。経理などを担当しているわたしのデスクも一階で、備品や消耗品なども一階に集約しているので、一階のほうが便利なのだ。
「銀行と郵便局に出かけてきます。印紙、多めに買ってきますね」
「ああ、頼むよ。来週、大きい契約がいくつかあるから。気をつけてな」
「はい、行ってきます」
 手に持っていたバッグを肩にかける。それから社有車のキーを保管してあるキーボックスへ向かおうとしたときだった。
 バッグのなかでスマホが振動していることに気がついた。電話の着信だ。
 しかし、間に合わなかった。電話がきれてしまい、スマホ画面に着信履歴だけが残る。相手はわたしが住んでいるアパートの管理会社からだった。
 いったい、なんの用だろう? 急用なのかな?
 連絡事項があると、いつもは書面で通知してくれる。それなのにわざわざ電話をくれるので何事かと思ってしまう。
 なんともいえない不安が襲った。
「どうした?」
 春山社長がスマホを持ったまま突っ立っているわたしに向かって言った。
「アパートの管理会社から着信があったんです」
「電話してみろよ。重要なことかもしれないぞ」
「はい」
 不安な気持ちを押し込めて、折り返し電話をしてみた。
 きっと他愛もないことだよね。
 けれど電話の向こうで『落ち着いて聞いてください』と言う管理会社の男性の声はとても深刻そうで、スマホを持つ手に力が入った。
『実は大久保さんがお住まいのメゾン・ド・シンフォニーで──』
 管理会社の男性がゆっくりと話す。わたしの住むアパートの名前を告げ、そして言った。
『火災が発生しました』
「かさい?」
 えーと、えーと。火災って言った?
「え-!! 燃えちゃったんですか!?」
『幸いにも大久保さんのお部屋への延焼はまぬがれました』
「じゃあ、全焼ではなかったんですね!?」
『はい、ご近所の方の初期消火のおかげで、焼けたのは一部のお部屋です。怪我をされた方もいらっしゃらなかったようです』
 とりあえず、よかったあ。日中だから、みんな外出していたのかな。お隣さんもOLさんだし、ほかの部屋に住んでいる方たちもサラリーマンみたいだったから。
「それで、火元は?」
 わたしの部屋だったらどうしよう。煙草は吸わないので、考えられるのはガスコンロの消し忘れと漏電くらいしか思いつかない。
『今、現場検証中なのですが、放火の可能性もあるようです』
「放火!?」
『最近、近所で不審火が相次いでいたようなので、その線でも捜査するようです』
「そ、そうなんですか……」
『それでですね、今警察と消防の方がいらっしゃっていますので、お忙しいところ申し訳ないのですが、アパートに来ていただくことはできますか?』
 入居者の事情聴取があるのだそうだ。もしかしてアリバイを証明しないといけないのだろうか。この場合、春山社長にお願いすればいいよね──なんて、呑気に考えている場合ではなかった。
 電話をきると、社内の人たちはもちろん、春山社長も目を丸くしてわたしを見ていた。
「亜矢、俺も行くから。運転は俺がする」
「は、はい!」
 事情を知った春山社長が車を出してくれるというので大急ぎで支度をした。

「忙しいのにすみません」
 隣でハンドルを握る春山社長に頭を下げる。
 三時から打ち合わせが入っていた春山社長は、先方に電話を入れて、日程を明日に変更してもらっていた。
「相手の方にまでご迷惑をおかけしてしまって……」
「そのことは気にするな。仕事には直接差し支えないから」
「……はい」
「それに萌は上海だしな」
「なんで知ってるんですか?」
「本人から聞いてたんだよ」
 萌さんは設計業界の視察旅行で上海に一週間の出張中だった。帰国は三日後。
 だけど、いつ聞いたのだろう。萌さんがうちの事務所に来たのは随分と前のことなのに。
「俺は亜矢の父親代わりみたいなもんなんだ。こういうときこそ、俺がそばにいなくてどうする?」
「ありがとうございます」
 父の転勤で、わたしは小さい頃から何度も引っ越しをしてきた。現在両親は北海道に住んでいる。実家に帰省するのは一年に一度か二度。そのため春山社長は普段から、自分を東京の父親だと思えと言ってくれる。
「たいしたことがないといいな」
 春山社長がぽつりとつぶやく。
「わたしの部屋には火はこなかったみたいです」
 けれど震えるほど緊張していた。とにかく現場を見て安心したい。たいしたことがなくてよかったと思いたい。
 最近、この街で不審火が何件も発生していることはテレビのニュースを見て知っていたけれど、まさか自分が被害に遭うとは思わなかった。なんでも火元と思われる場所にガソリンをかけられた形跡があったらしい。
 怖すぎる……。だけど怪我人が出なくて本当によかった。一歩間違えればわたしだって……。いやいや、そんなことを考えても仕方がない。無事だったのだ。もっと喜ばなきゃ。

 アパートに到着すると騒然としていた。辺り一面、焼け焦げた臭いが充満している。
 二階建てアパートの角部屋はかなり焼けていて、壁も二階まで真っ黒。初期消火したといっても、木造ということもあり、被害は予想よりも大きいものだった。
 しかし事態はそれだけで終わらなかった。一階の自分の部屋に入って唖然とした。
「これって……」
「とてもじゃないけど住めないな」
 部屋は消火活動の際の放水で水浸し。布団も床もびしょびしょだった。仕方ないとはいえ、これはかなりへこむ。
「ひでえな」
 春山社長がため息まじりに言った。
 わたしはショックのあまり、言葉が出ない。貴重品などは無事だと思うけれど、テレビもパソコンもアウトだ。
 せっかく買ったのに。パソコンは今年になって買い替えたばかりだった。まだ数ヶ月しか使っていない。
「どっちにしても今日はここで寝るのは無理だな。萌がいればなあ。さすがに俺のマンションというわけにはいかないからな」
「ホテルにでも泊まります」
 家に泊めてもらえる友達がいない。
 学生時代の友達とは疎遠で、前の会社の同期の女の子とは今も連絡を取り合っているけれど、彼女は結婚している。
「萌が帰国するまではそうするしかないな。そのあとのことはゆっくり考えるとしような。萌のところに住むっていうのもアリだしな」
「それだと萌さんに迷惑がかかっちゃいます。それに事務所までも遠いので、落ち着いたら家具と家電つきの部屋をさがしてみます」
「そういう賃貸物件は家賃が高めだぞ。どうせなら必要なものを買い替えろよ」
「でも……」
「金のことは心配するな。火災保険もあるし、会社の規定で見舞金も出せるから」
「……はい」
 なんとか返事をしてみたが、うまく頭がまわらない。正直、先のことを考えられない。それなのにすぐにでも泊まるところをさがさないといけないなんて……。
 そのときドアが開く音がして、聞き慣れた声が部屋に響いた。
「亜矢ちゃん!!」
「世良さん?」
「大丈夫!?」
「わたしなら無事です。わたしもさっき来たばかりなんです」
 だけど世良さんは顔をくしゃくしゃにしながら、「亜矢ちゃん」と今にも泣き出しそうな声を出し、わたしを抱きしめた。
「やだな、大げさですよ。わたしはこの通り、ピンピンしてますから」
 初めての世良さんの胸のなか。心臓のドクンドクンという音まで感じる。ワイシャツ越しでも、頬に体温が伝わってくる。羽毛のなかに埋もれているみたいに、ぬくぬくしていた。
 そして鼻をくすぐる世良さんの匂い。ベイエリアの海風に乗って届いたものと同じさわやかな香りだった。
 すごくほっとする。なぜだろう。世良さんだからなのだろうか。
「わざわざ来てくださってありがとうございます。だけど、どうしてここに?」
 抱きしめられた胸のなかでなんとか顔を上げた。
「春山社長から電話があったんだよ」
「いつの間に……」
 事務所を出る間際、慌ただしい状況でアポイントのキャンセルの電話をしていたのは知っていたけれど、世良さんにまで電話をしていたとは知らなかった。
「春山社長も急いでいたみたいで、あまり詳しいことを聞けなかったんだ。だから、ここに来るまで生きた心地がしなかった」
「心配かけてごめんなさい。お仕事中なのに」
「そんなことはどうだっていいよ」
「よくないです。世良さんは管理職なんですから、お仕事を放り出すなんてだめです」
「放り出してないよ。ちゃんと早退してきたから」
「え!」
「亜矢ちゃんがこんなときに仕事なんてできるわけないよ」
 世良さんほどの人がそう簡単に早退できるはずがない。今日やるべきことを今日やらないと、明日が大変になるに違いないのに。
 同じ会社なら仕事を手伝うことができるのにな。会社が違うと、それもできない。
「ごめんなさい」
「謝らないでよ。僕が勝手にしたことなんだから」
 世良さんは泣き出しそうなわたしの頭を撫でる。「いい子だね」と泣くことを我慢している二十七歳のわたしをほめてくれた。
 世良さん、そういうの弱いんです。男の人にやさしくされたことがあまりないから、頭を撫でられただけで涙腺が刺激されて、意地っぱりのわたしが崩れてしまうんです。
「僕に亜矢ちゃんを守らせてほしい」
「でもわたしはまだ──」
 プロポーズの返事どころか、気があるような態度だけとって、世良さんに自分の気持ちを伝えていない。わたしの気持ちは、今も定まらないというのが正直なところ。あと一歩のところで踏み込めないでいる。
「守りたいんだ。亜矢ちゃんだけはほかの男には譲れないんだよ」
「世良さん……」
「僕はわがままだね」
「そんなこと……」
 だめだ、ちゃんと答えなきゃいけないのに、声に出して伝えられない。
 一緒にいて心が穏やかになる。ときめきやドキドキも感じている。
 初めて出会ったときも再会のときも、こんなふうに思わなかった。プロポーズの日以来、わたしは世良さんにほかの男性には感じない特別な感情を覚え、自分でも不思議に思うくらいに世良さんでいっぱいになっている。
 それなのに、その胸に飛び込めない。
 でもそのことを正直に伝えたら、世良さんに去られてしまいそうで怖いの。
 ずるいよね。プロポーズを受け入れられないのに離れたくないなんて。こんな身勝手な考えを理解してとはやっぱり言えない。
「あのさ、お取り込み中、悪いんだが」
 そのとき、世良さんとわたしを引き裂くように現れたのはまぎれもない春山社長。いや、現れたのではない。彼はずっと、ここにいたのだ。
「……わ、忘れてました」
「すみません、僕としたことが」
 とっさに身体を離し、世良さんとふたりで気まずくなって目を合わせる。よりにもよって春山社長に一部始終を見られてしまうとは(自業自得だけど)。
「やっと俺のことを思い出してくれたか」
 春山社長はわざとらしくため息をつくと、居心地が悪いのか、ネクタイをゆるめた。
「いやあ、世良くんの熱い想いがこっちまで伝わってきて汗が出る出る」
「お恥ずかしいです」
「恥ずかしがることなんてないよ。うちの亜矢でよければ、いつでももらってくれてかまわないよ」
「いいんですか?」
「もちろんだ。俺が許可する」
「では遠慮なく」
 もう、世良さんまで。
 ふたりの会話をわたしは半ば呆れながら聞いていた。
「そうそう、亜矢。保険会社の人間も来ていたみたいだから、あとで声をかけとけよ」
 春山社長に言われて、初めて気がつく。そうだった。鑑定する専門の人に現場検証に来てもらわないと保険金が下りないんだ。
 それまでは部屋のなかのものを触ってはいけないのかな。そうだと困る。着替えなどすぐに必要なものがたくさんあるのに。
 でも、そんなことで悩んでいる暇はなかった。
 すぐに事情聴取がはじまった。まずは警察署の人に今朝からの行動を事細かく聞かれた。
 これがかなりの時間を要してしまい、どっと疲れが押し寄せた。その途中で春山社長が部屋を出ていこうとするのが見えた。
「世良くん、ちょっといい?」
 世良さんも呼び寄せ、ふたり一緒に外に出ていった。
 なんの話だろう?
 それから少しして、ふたりは部屋に戻ってくると、何事もなかったかのように部屋の隅に立っていた。
 ようやく警察の事情聴取が終わると、春山社長がわたしに言った。
「亜矢、俺はこれから仕事に戻るよ。夕方のアポイントはどうしてもキャンセルできないから」
「わたしだったら大丈夫です。お仕事を優先してください」
「悪いな」
「いいえ、今日はありがとうございました」
「世良くん、亜矢のことをよろしく頼むよ」
 春山社長はなぜか世良さんに向かって言う。
「わかりました。亜矢ちゃんは僕が責任を持ってお預かりします」
 世良さんは満面の笑み。だけど、わたしはあまりのことに世良さんを凝視していた。
 今、なんて言いました? 預かるって聞こえたような気がするんですが。
「亜矢ちゃん、今日は僕と一緒に帰ろうね」
「帰るってどこにですか?」
「僕の家だよ」
「世良さんの家?」
「大久保さんが上海に出張中なんだってね。だったら僕の家のほうがいいと思うんだ。もちろん寝室は別にする。だから安心して」
 なにがどうなって、そうなって、こうなったの? どうしてわたしが世良さんの家に泊まることになっているんですか?
「春山社長!!」
 もしかして世良さんを外に連れ出したときにふたりでそんな相談をしていたの!?
「大声出すなよ。警察もいるんだぞ、勘違いされたら困るだろう」
 春山社長は不機嫌そうに眉間に皺を刻み、あげくにチッと舌打ちまでしてくる。
「だって世良さんにこれ以上迷惑をかけられません!」
 勝手に決めないでほしい。だいたい、男の人の家に泊まることを普通勧める?
「ひとりにしておけないんだよ。俺だって心配なんだ。だから俺から世良くんにお願いした」
 先ほどとは打って変わってまじめな顔になる。
「いくらなんでも世良さんに頼むなんて。泊まるところはなんとでもなります」
「あつーい抱擁をする仲なんだから、かまわないだろう?」
「あれはそういう意味ではありません」
「どういう意味でもいいんだよ。どっちにしても世良くんだから頼んだ」
 春山社長が世良さんの人柄を買っていたことは知っていたけれど、ここまでだとは思っていなかった。たしかにわたしも思う。世良さんが変なことをするはずがない。
 でも、だからといって世良さんの家にお世話になるなんて、そんなこと……。
 そこへ世良さんがさわやかに話に割り込んできた。
「亜矢ちゃん、友達の家に泊まるような感覚で気軽においで」
「でも……」
「なにも心配することはないから。大丈夫、全部僕にまかせて」
 世良さんがわたしをやさしく包み込むように言ってくれる。
 そうだよね、世良さんなら大丈夫。この人は信頼できる人。一年もの間、わたしをそばで見守り続けてくれたのだから。
「本当にいいんですか?」
「僕も、亜矢ちゃんをひとりにさせたくないんだよ。だいたい、だめなら春山社長に頼まれたときに、とっくに断ってるよ。だから、ね?」
 遠慮なく甘えてよ、と世良さんは微笑んだ。
 そのおおらかな笑顔はわたしの心を素直にさせてくれる。わたしはまっすぐな瞳に導かれるように、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「では春山社長、事情聴取が終わったら、まっすぐ家に戻りますから」
「わかった。いやあ、世良くんがいてくれてほんと助かった」
 春山社長が世良さんの肩を軽くたたき、「ありがとう」と言う。そのやり取りを見て、春山社長にもだいぶ迷惑をかけているんだなあと感じた。
「亜矢、保険会社の人に言って、明日にでも部屋と家財の鑑定をしてもらうよう手配してもらえよ。明日はちょうど会社が休みの日だしな」
「わかりました」
「それと、なにかあったら電話しろ。マナーモードにしておくから、いつでも大丈夫だ」
「はい」
「実家にもちゃんと連絡するんだぞ」
「わかってます」
 春山社長と玄関先でそんなやり取りをしたあと見送る。
「あっ、それから……」
「まだ、なにかあるんですか?」
 大事な打ち合わせがあるというのに。これだけうしろ髪ひかれまくっていると遅れてしまう。
「家に帰ってからでいいから、萌にも連絡してやってくれ。帰国してから知らされるのって、あんま気分よくないから」
「わかりました」
「それと、最後までついていてやれなくてすまない」
 春山社長の心配してくれている姿にジーンとした。ぜんぜんらしくないんだけれど、だからこそ心に響いた。
「謝らないでください。わたしも大人です。本当だったら、全部ひとりでやらないといけないことですから」
 わたしの父よりも八つ年下の春山社長は父親世代より若い。叔母である萌さんの元旦那さんというつながりだけで血縁関係はない。それなのに家族としてのあたたかい愛情をそそいでくれる春山社長は、やっぱりお父さんみたいだ。
 春山社長が帰ったあとも、引き続き消防による事情聴取が行われたが、暗くなる前にはなんとか終えることができた。
 わたしの部屋には火がまわってこなかったので、当分の着替えと生活用品を持ち出すことが保険屋さんから許された。わたしは大きめのスーツケースにつめられるだけつめ込んだ。
 明るいうちにこの部屋を出なければならない。この部屋に入ったとき、ブレーカーは落ちていたが、こんな水浸しの状態でブレーカーを上げたら大変なことになる。そのため照明を点けられないのだ。
「ありがとうございました。世良さんが来てくださったおかげで助かりました」
「なんの役にも立てなかったけど」
「いてくれるだけでいいんです。それだけで安心できました」
 部屋を出ると、外は相変わらず騒然としていた。
 火元に一番近い部屋の入居者は、すすで真っ黒になった部屋を見てすっかり憔悴《しょうすい》しており、気の毒でならなかった。
 世良さんや春山社長がいてくれなかったら、どうなっていただろう。わたしはふたりに心から感謝をしながら、アパートをあとにした。
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