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そんな嘘もときにはいいよね
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ある日の午後。
社内で設計課のミーティングの最中だった。僕のスマホに着信があった。
ミーティング中のときはなるべく電話に出ないようにしているが、今日はそういうわけにいかなかった。
「すみません、妻からなんです」
「もしかして……?」
上司の言葉に僕は、「かもしれません」とうなずく。すると上司は、「早く電話に出てやれ」と言ってくれた。
亜矢から、『陣痛がきたの』という連絡を受けて、すぐに会社を早退した。だけど病院には直行せず、先に幼稚園に預けている息子を迎えにいった。
息子が産まれたときは、亜矢の両親が住む北海道の病院での出産だったために立ち会うことができなかった。たが二人目の出産は東京の病院なので、僕も立ち会う予定でいた。
それなのに……。
「遅いぞ、文哉!」
「そうよ。赤ちゃん、もう産まれたわよ。安心して、母子ともに健康だから」
二世帯住宅で同居している僕の両親が病院の玄関先で待っていて、着く早々に言われてしまった。
「亜矢も赤ちゃんも元気ならよかった……。でも電話をもらってから、まだ二時間くらいしかたってないよ」
一人目のときは出産まで十時間近くかかった。そのため、二度目の出産ということを考慮してそれより少し短いくらいかなと、まったく根拠のない予測をしていた。
「スーパー安産だったのよ。なんでも朝からなんとなくお腹が張るなあと思ってたらしいのよ」
「朝から!?」
知らなかった。今朝もいつも通り、元気そうだったのに。
「予定日よりも二週間も早いお産だったし、やっぱり直前までお仕事をしていたからなのかしら?」
母さんが僕にたずねる。
「そんなの、僕が知るわけないだろう。むしろ母さんのほうが詳しいだろう、元看護師なんだから」
亜矢は二人目の余裕なのか、臨月まで働いていた。産休に入ったのはなんと今日。そのタイミングで出産するとは! 今朝も心配する僕に向かって、「平気だよ」と笑っていたほどで、母親になって本当に強くなったなあと感心していた。
「でもありがとう、父さん、母さん。亜矢につき添ってくれて。たぶん、すごく心強かったと思う」
「なに言ってるんだ。家族なんだから、あたり前だろう」
普段、口数の少ない父さんが真っ先に答える。母さんが、「そうよねえ」とニコニコしながら賛同していた。
お産が軽かったせいか、亜矢はすでに病室に戻っていると母さんに言われ、息子を連れて亜矢に会いにいく。病室に入ると、ちょうど授乳中だった。
「ごめんなさい、文哉さんが来る前に産まれちゃった」
出産直後で身体がつらいはずの亜矢がおどけて言う。
「陣痛がきてたけど、まだまだ大丈夫かなと思って、のんびり病院に行く準備をしていたの。だけど病院に着いた途端にすぐ……。もちろん大変だったけど、蒼士《そうし》のときよりは楽なお産だったよ」
「無事に産まれてくれれば、それでいいんだよ。よくがんばったね、ありがとう」
赤んぼうの顔をのぞくと、亜矢に似たかわいい女の子。まるで天使だ。
「蒼士、妹が生まれたんだよ」
まだ三歳の蒼士だが、妹ができることを楽しみにしていた。
だけど赤んぼうを見るのはほぼ初めてなので、きょとんとしている。それを見た亜矢がクスクス笑って言った。
「蒼士、赤ちゃんの頭をいい子いい子してあげて」
すると恐るおそるという感じで、赤んぼうの頭を小さな手でちょんちょんと触った。
「かわいいだろう?」
僕がそう言うと、蒼士は慣れてきたのか、さっきよりもしっかりと赤んぼうの頭を撫ではじめた。
「……かわいい」
蒼士の言葉に僕と亜矢はうれしくなって顔を見合わせた。
「今日から蒼士はお兄ちゃんだ」
「うん! ぼく、おにいちゃん!」
「そうだぞ、お兄ちゃんだ。女の子だから、やさしくしなきゃだめだぞ」
「ぼく、いっぱい、いい子いい子してあげるんだ!」
「そうか。いい子いい子、してくれるのか。偉いぞ、蒼士」
蒼士はきゃっきゃ、きゃっきゃと興奮している。その様子を、赤んぼうを抱いた亜矢が目を細めて微笑んでいた──。
病室の窓から外を見ると西の空が茜色に染まっていた。もうすぐ完全に日が落ちる。
お腹が空いたという蒼士を両親に預け、僕だけが病院に残っていた。そのあたりは両親も気を使ってくれたのだと思う。
赤んぼうも今日だけは新生児室で預かってもらい、この部屋には僕と亜矢のふたりだけ。
「きれいだね」
ふいに亜矢の声がした。
少しの時間、眠っていた亜矢だったが目が覚めたようだった。身体を起こそうとしていたので、背中に手を添えた。
「蒼士が生まれた日はブルーモーメントがきれいだったよな」
「うん」
蒼士という名前は僕が名づけた。北海道の産院の個室から見た空があまりにも美しくて、そのときの空の色にちなんで蒼士。『蒼』とう漢字は大海原という意味を持つ蒼海《そうかい》という言葉にもあるように、青を表している。
「子どもの名前はどうしようか。いくつか候補があったけど決めた?」
「優花《ゆうか》がいいなあ。やさしくて女の子らしく育ってほしいから。どうかな?」
「優花……。うん、すごくいいと思うよ。世良優花。ずっとこの名前のままでいてほしいな」
「まさかお嫁に行かせないつもり?」
「だめかな?」
「当然でしょう。もう……その分だと、文哉さんは優花に振りまわされそうだね」
亜矢はあきれたように言った。
「自分でもそう思うよ。でも優花のためならかまわないよ。たとえ『お父さん嫌い』って言われても僕は優花の味方だ」
「さっそく親ばかなんだから」
「蒼士のときも同じこと言われたよ」
とにかく蒼士がかわいくて、首も座っていないのにベビーシューズを買ってきてしまったし、休みの日は一日中カメラを手放せなかった。
「そういえばそうだったね。でも文哉さんの溺愛ぶりは予想通りだったけど」
もちろん、最初はなにもかも初めてで不安でいっぱいだった。けれどある日、「悩んだときは蒼士の寝顔を見ればいいんだよ」と笑っていた亜矢を見て、僕もなにかが吹っ切れたんだ。
亜矢だって最初は不安だと口にしていたのに。僕を置いて、いつの間にか頼もしい母親になっていた。
蒼士を身ごもる前はあんなに泣き虫だったのにな。亜矢が変わりはじめたのはきっとあの日からなのかもしれない。
結婚して初めて迎えた亜矢の誕生日。お祝いにブルーモーメントが望めるレストランを予約して、僕が昔プレゼントしたネイビーのワンピースを着た亜矢を連れていったら、突然のどしゃぶり。
楽しみにしていた亜矢に申し訳なくて、どう励まそうかと思っていたら、そんな僕に亜矢が満面の笑みで言った。「赤ちゃんができたの」と。亜矢の誕生日なのに、逆に僕がとびっきりのプレゼントをもらったんだよな。
「僕は父親としてあまり成長してない気がするんだけど、亜矢はますますたくましくなったなあ」
「母親になるってそういうことだよ。でも文哉さんも、しっかりお父さんしてるよ。ちょっと甘すぎるところがあるけどね」
これが二人目の貫録なのか。我が妻ながら尊敬するよ。
だけど話の流れが蒼士のことになったせいか、急に亜矢が心配し出した。
「蒼士、大丈夫かなあ」
「心配ないよ。駐車場でちょっとだけぐずってたけど、『夕ごはんはミートボールだよ』って母さんが言ったら、機嫌よく帰っていったから」
「よかったあ。あっ、お父さんとお母さんにお礼を言い忘れた! お父さんが車を出してくれて、お母さんがずっと身体をマッサージしてくれたの。おかげで慌てることもなかったし、リラックスできたんだ」
こんなときにも両親のことを気遣ってくれる。亜矢は本当にやさしい。
「お礼なら僕から伝えておくよ。だから亜矢はゆっくり休んで」
「ありがとう。いつもみんなには感謝しているけど、こういうときに特に強く思う」
「みんなも亜矢に感謝しているよ。父さんも母さんも。僕だっていつも思ってる。仕事をしながら家事と子育てまでしているんだ。亜矢はすごいよ」
「それはみんなが協力してくれるからできるの。わたしひとりでは子育てはできないよ。恵まれた環境だと思ってる」
亜矢は謙虚に言うけれど、僕はいつも感心している。
仕事から帰ってからも家事や育児で休む暇もない。僕の両親ともうまくやってくれている。たまに夫婦喧嘩もするけれど、それだってよっぽどのときだ。
泣き虫だった亜矢は妻となり、母となり、ますますきれいになった。そんな亜矢をお嫁さんにできた僕は世界一の幸せ者だ。
でも今の幸せがあるのは、僕のちょっとした邪《よこしま》な考えのおかげなのかもしれない。
というのは、春山デザインで亜矢と再会したときのことなんだけど。亜矢は今でもあの再会は偶然だと思っているよね。でも実はそうじゃないんだよ。
このことを亜矢に言おうか言うまいか、今も迷っているんだ……。
*
亜矢が退職する日。出先から戻った僕は一階のロビーで花束を手に退社する亜矢とすれ違った。亜矢は、「お世話になりました」と笑顔で言ってくれた。
でも社内のうわさを知っていたから、亜矢がどんな思いで会社を辞めたのだろうと考え、その笑顔が目に焼きついて離れなかった。あのとき「元気でね」と言って亜矢を見送ったが、気の利いた言葉をかけてやれなかった自分が悔しかった。
それからというもの、亜矢のことが気になって仕方がなかった。
一階のロビーで新聞を読んで過ごしていたときもあまり意識していなかったのに、亜矢が会社を去ってしまった途端、無性にさみしさを覚えたんだ。
元彼がほかの女性と社内結婚したのがつらいという理由で会社を辞めてしまうような人間を社会人失格という人もいるかもしれない。だけど人はみんながみんな強くない。泣きたいときは泣けばいい。逃げたいときは逃げればいい。ときには、そういう弱さや失敗もあっていいと思うんだ。
大切なのはそこから立ち直ることだと僕は思っている。過去がひとつの人生経験となって成長できれば、それでいいんじゃないかな。そうやって変わることのできた人もすばらしい魅力を持っているものだから。
亜矢には過去の自分を乗り越えられる力があるような気がした。別れ際、亜矢の振り絞るような強がりの笑顔を見て、秘めている大きな力を感じたんだ。
この子はきっとがんばれる。なにかきっかけさえあれば……。本当は僕がそのきっかけを与えてあげたかった。だから最後の日に悔しいと思ったんだ。
でも亜矢はいつの間にか自分でそれを見つけていたんだよね。大久保さんや春山社長が亜矢を導いてくれた。そのおかげで、亜矢は変われたんだと思う。
そんなある日、高嶋建設でクリスマスイルミネーションの仕事を請け負った。真っ先に春山デザインが思いついた。亜矢の再就職先として、亜矢の同期の女の子から聞いていたからね。本当はその仕事は電気工事会社に丸投げしてもよかったんだけれど、春山デザインに仕事を依頼すれば、亜矢に会えるかもしれないと思ったんだ。
もちろん仕事を依頼したのは亜矢のことがあったからだけじゃないよ。春山デザインのことを調査していくうちに、春山社長に惹かれたというのも大きかったんだ。不純な動機からだったけれど、彼と出会えたことだけをとっても大きな収穫だった。
けれど最終的に僕の判断は正しかったことが証明された。お客様が喜んでくれて僕の会社にとってもプラスになった。そして亜矢をお嫁さんにできたのだから。
そんなこんなで偶然をよそおって近づいちゃったけれど、そのことを白状して謝ったほうがいいのかな。でも今さら言うことでもないのかな。もう何年もそのことを考えている。
でもまあとりあえず──。
そんな嘘もときにはいいよね。
*
「退院したら、大変な毎日がはじまるね」
「育児は僕も協力するから」
「ありがとう、ぜひお願いね。でも蒼士が赤ちゃん返りをしないか心配」
「蒼士は甘えんぼうだからなあ。お兄ちゃんの自覚はあるみたいだけど、亜矢と優花が退院したら、やきもちを焼くだろうな」
「文哉さんも、やきもち焼くもんね」
「え、僕?」
なんのことだか思い出せない。
「蒼士が生まれたばかりで、わたしが慣れない育児で余裕がなかった時期にちょっとだけムスッとされたことがあったよ」
「そうだっけ?」
「夜、ベッドでそういう雰囲気になったときに蒼士が泣き出しちゃって……」
「だってそういうの、何度もあっただろう。僕だって一応ギリギリまで我慢していたんだよ」
そう言いながら情けない自分に苦笑い。やっぱり男はだめだね。いつまでたっても子どもだ。
「今度は気をつける」
「本当かな?」
「本当だよ。でも今日だけは許してよ」
「え?」
なんのことかわからず首を傾げている亜矢に、僕はすかさずチュッとキスをした。
物足りないけど今日はこれで我慢……。
「ごめん、もう一回だけいい?」
だけど、やっぱり我慢できなくて、おねだり。
「うん」
亜矢が許してくれたので何度も唇を重ねた。「一回だけ」なんて言いながら、何度もキスをした。「止まらなくなりそうだよ」とつぶやいたら、頭をペシッとたたかれたけれど、それでも亜矢は拒むことなく受け入れてくれた。
「愛してる」
だからお願いだよ、僕より先に死なないで。亜矢に先立たれた僕はまるで自信がないんだ。ごはんを食べることもできなくなって、弱り果ててしまうんじゃないかと思うんだよ。
永遠じゃないから今を輝ける。それはわかっているんだけれど、最期を思うとやっぱり悲しいね。だからその分、一緒に過ごす時間を大切にしよう。亜矢には僕より長生きをしてもらって、毎日亜矢の笑顔を見ながら過ごすことができれば、きっと僕の人生は満足して終えることができると思う。
「わたしも、愛してる」
亜矢の薬指の指輪に触れながら、僕はあの日の夜の感動を思い出していた。結婚指輪の上に重ねづけられているダイヤモンドの婚約指輪。
婚約指輪がこの薬指におさまった日のことは今でもよく覚えている。それは僕たちが初めて結ばれた日だから。
「僕と結婚してくれてありがとう」
亜矢に出会えてよかった。
そして君に心からの感謝を。
《番外編SS・2019.2.28 up&完結》
社内で設計課のミーティングの最中だった。僕のスマホに着信があった。
ミーティング中のときはなるべく電話に出ないようにしているが、今日はそういうわけにいかなかった。
「すみません、妻からなんです」
「もしかして……?」
上司の言葉に僕は、「かもしれません」とうなずく。すると上司は、「早く電話に出てやれ」と言ってくれた。
亜矢から、『陣痛がきたの』という連絡を受けて、すぐに会社を早退した。だけど病院には直行せず、先に幼稚園に預けている息子を迎えにいった。
息子が産まれたときは、亜矢の両親が住む北海道の病院での出産だったために立ち会うことができなかった。たが二人目の出産は東京の病院なので、僕も立ち会う予定でいた。
それなのに……。
「遅いぞ、文哉!」
「そうよ。赤ちゃん、もう産まれたわよ。安心して、母子ともに健康だから」
二世帯住宅で同居している僕の両親が病院の玄関先で待っていて、着く早々に言われてしまった。
「亜矢も赤ちゃんも元気ならよかった……。でも電話をもらってから、まだ二時間くらいしかたってないよ」
一人目のときは出産まで十時間近くかかった。そのため、二度目の出産ということを考慮してそれより少し短いくらいかなと、まったく根拠のない予測をしていた。
「スーパー安産だったのよ。なんでも朝からなんとなくお腹が張るなあと思ってたらしいのよ」
「朝から!?」
知らなかった。今朝もいつも通り、元気そうだったのに。
「予定日よりも二週間も早いお産だったし、やっぱり直前までお仕事をしていたからなのかしら?」
母さんが僕にたずねる。
「そんなの、僕が知るわけないだろう。むしろ母さんのほうが詳しいだろう、元看護師なんだから」
亜矢は二人目の余裕なのか、臨月まで働いていた。産休に入ったのはなんと今日。そのタイミングで出産するとは! 今朝も心配する僕に向かって、「平気だよ」と笑っていたほどで、母親になって本当に強くなったなあと感心していた。
「でもありがとう、父さん、母さん。亜矢につき添ってくれて。たぶん、すごく心強かったと思う」
「なに言ってるんだ。家族なんだから、あたり前だろう」
普段、口数の少ない父さんが真っ先に答える。母さんが、「そうよねえ」とニコニコしながら賛同していた。
お産が軽かったせいか、亜矢はすでに病室に戻っていると母さんに言われ、息子を連れて亜矢に会いにいく。病室に入ると、ちょうど授乳中だった。
「ごめんなさい、文哉さんが来る前に産まれちゃった」
出産直後で身体がつらいはずの亜矢がおどけて言う。
「陣痛がきてたけど、まだまだ大丈夫かなと思って、のんびり病院に行く準備をしていたの。だけど病院に着いた途端にすぐ……。もちろん大変だったけど、蒼士《そうし》のときよりは楽なお産だったよ」
「無事に産まれてくれれば、それでいいんだよ。よくがんばったね、ありがとう」
赤んぼうの顔をのぞくと、亜矢に似たかわいい女の子。まるで天使だ。
「蒼士、妹が生まれたんだよ」
まだ三歳の蒼士だが、妹ができることを楽しみにしていた。
だけど赤んぼうを見るのはほぼ初めてなので、きょとんとしている。それを見た亜矢がクスクス笑って言った。
「蒼士、赤ちゃんの頭をいい子いい子してあげて」
すると恐るおそるという感じで、赤んぼうの頭を小さな手でちょんちょんと触った。
「かわいいだろう?」
僕がそう言うと、蒼士は慣れてきたのか、さっきよりもしっかりと赤んぼうの頭を撫ではじめた。
「……かわいい」
蒼士の言葉に僕と亜矢はうれしくなって顔を見合わせた。
「今日から蒼士はお兄ちゃんだ」
「うん! ぼく、おにいちゃん!」
「そうだぞ、お兄ちゃんだ。女の子だから、やさしくしなきゃだめだぞ」
「ぼく、いっぱい、いい子いい子してあげるんだ!」
「そうか。いい子いい子、してくれるのか。偉いぞ、蒼士」
蒼士はきゃっきゃ、きゃっきゃと興奮している。その様子を、赤んぼうを抱いた亜矢が目を細めて微笑んでいた──。
病室の窓から外を見ると西の空が茜色に染まっていた。もうすぐ完全に日が落ちる。
お腹が空いたという蒼士を両親に預け、僕だけが病院に残っていた。そのあたりは両親も気を使ってくれたのだと思う。
赤んぼうも今日だけは新生児室で預かってもらい、この部屋には僕と亜矢のふたりだけ。
「きれいだね」
ふいに亜矢の声がした。
少しの時間、眠っていた亜矢だったが目が覚めたようだった。身体を起こそうとしていたので、背中に手を添えた。
「蒼士が生まれた日はブルーモーメントがきれいだったよな」
「うん」
蒼士という名前は僕が名づけた。北海道の産院の個室から見た空があまりにも美しくて、そのときの空の色にちなんで蒼士。『蒼』とう漢字は大海原という意味を持つ蒼海《そうかい》という言葉にもあるように、青を表している。
「子どもの名前はどうしようか。いくつか候補があったけど決めた?」
「優花《ゆうか》がいいなあ。やさしくて女の子らしく育ってほしいから。どうかな?」
「優花……。うん、すごくいいと思うよ。世良優花。ずっとこの名前のままでいてほしいな」
「まさかお嫁に行かせないつもり?」
「だめかな?」
「当然でしょう。もう……その分だと、文哉さんは優花に振りまわされそうだね」
亜矢はあきれたように言った。
「自分でもそう思うよ。でも優花のためならかまわないよ。たとえ『お父さん嫌い』って言われても僕は優花の味方だ」
「さっそく親ばかなんだから」
「蒼士のときも同じこと言われたよ」
とにかく蒼士がかわいくて、首も座っていないのにベビーシューズを買ってきてしまったし、休みの日は一日中カメラを手放せなかった。
「そういえばそうだったね。でも文哉さんの溺愛ぶりは予想通りだったけど」
もちろん、最初はなにもかも初めてで不安でいっぱいだった。けれどある日、「悩んだときは蒼士の寝顔を見ればいいんだよ」と笑っていた亜矢を見て、僕もなにかが吹っ切れたんだ。
亜矢だって最初は不安だと口にしていたのに。僕を置いて、いつの間にか頼もしい母親になっていた。
蒼士を身ごもる前はあんなに泣き虫だったのにな。亜矢が変わりはじめたのはきっとあの日からなのかもしれない。
結婚して初めて迎えた亜矢の誕生日。お祝いにブルーモーメントが望めるレストランを予約して、僕が昔プレゼントしたネイビーのワンピースを着た亜矢を連れていったら、突然のどしゃぶり。
楽しみにしていた亜矢に申し訳なくて、どう励まそうかと思っていたら、そんな僕に亜矢が満面の笑みで言った。「赤ちゃんができたの」と。亜矢の誕生日なのに、逆に僕がとびっきりのプレゼントをもらったんだよな。
「僕は父親としてあまり成長してない気がするんだけど、亜矢はますますたくましくなったなあ」
「母親になるってそういうことだよ。でも文哉さんも、しっかりお父さんしてるよ。ちょっと甘すぎるところがあるけどね」
これが二人目の貫録なのか。我が妻ながら尊敬するよ。
だけど話の流れが蒼士のことになったせいか、急に亜矢が心配し出した。
「蒼士、大丈夫かなあ」
「心配ないよ。駐車場でちょっとだけぐずってたけど、『夕ごはんはミートボールだよ』って母さんが言ったら、機嫌よく帰っていったから」
「よかったあ。あっ、お父さんとお母さんにお礼を言い忘れた! お父さんが車を出してくれて、お母さんがずっと身体をマッサージしてくれたの。おかげで慌てることもなかったし、リラックスできたんだ」
こんなときにも両親のことを気遣ってくれる。亜矢は本当にやさしい。
「お礼なら僕から伝えておくよ。だから亜矢はゆっくり休んで」
「ありがとう。いつもみんなには感謝しているけど、こういうときに特に強く思う」
「みんなも亜矢に感謝しているよ。父さんも母さんも。僕だっていつも思ってる。仕事をしながら家事と子育てまでしているんだ。亜矢はすごいよ」
「それはみんなが協力してくれるからできるの。わたしひとりでは子育てはできないよ。恵まれた環境だと思ってる」
亜矢は謙虚に言うけれど、僕はいつも感心している。
仕事から帰ってからも家事や育児で休む暇もない。僕の両親ともうまくやってくれている。たまに夫婦喧嘩もするけれど、それだってよっぽどのときだ。
泣き虫だった亜矢は妻となり、母となり、ますますきれいになった。そんな亜矢をお嫁さんにできた僕は世界一の幸せ者だ。
でも今の幸せがあるのは、僕のちょっとした邪《よこしま》な考えのおかげなのかもしれない。
というのは、春山デザインで亜矢と再会したときのことなんだけど。亜矢は今でもあの再会は偶然だと思っているよね。でも実はそうじゃないんだよ。
このことを亜矢に言おうか言うまいか、今も迷っているんだ……。
*
亜矢が退職する日。出先から戻った僕は一階のロビーで花束を手に退社する亜矢とすれ違った。亜矢は、「お世話になりました」と笑顔で言ってくれた。
でも社内のうわさを知っていたから、亜矢がどんな思いで会社を辞めたのだろうと考え、その笑顔が目に焼きついて離れなかった。あのとき「元気でね」と言って亜矢を見送ったが、気の利いた言葉をかけてやれなかった自分が悔しかった。
それからというもの、亜矢のことが気になって仕方がなかった。
一階のロビーで新聞を読んで過ごしていたときもあまり意識していなかったのに、亜矢が会社を去ってしまった途端、無性にさみしさを覚えたんだ。
元彼がほかの女性と社内結婚したのがつらいという理由で会社を辞めてしまうような人間を社会人失格という人もいるかもしれない。だけど人はみんながみんな強くない。泣きたいときは泣けばいい。逃げたいときは逃げればいい。ときには、そういう弱さや失敗もあっていいと思うんだ。
大切なのはそこから立ち直ることだと僕は思っている。過去がひとつの人生経験となって成長できれば、それでいいんじゃないかな。そうやって変わることのできた人もすばらしい魅力を持っているものだから。
亜矢には過去の自分を乗り越えられる力があるような気がした。別れ際、亜矢の振り絞るような強がりの笑顔を見て、秘めている大きな力を感じたんだ。
この子はきっとがんばれる。なにかきっかけさえあれば……。本当は僕がそのきっかけを与えてあげたかった。だから最後の日に悔しいと思ったんだ。
でも亜矢はいつの間にか自分でそれを見つけていたんだよね。大久保さんや春山社長が亜矢を導いてくれた。そのおかげで、亜矢は変われたんだと思う。
そんなある日、高嶋建設でクリスマスイルミネーションの仕事を請け負った。真っ先に春山デザインが思いついた。亜矢の再就職先として、亜矢の同期の女の子から聞いていたからね。本当はその仕事は電気工事会社に丸投げしてもよかったんだけれど、春山デザインに仕事を依頼すれば、亜矢に会えるかもしれないと思ったんだ。
もちろん仕事を依頼したのは亜矢のことがあったからだけじゃないよ。春山デザインのことを調査していくうちに、春山社長に惹かれたというのも大きかったんだ。不純な動機からだったけれど、彼と出会えたことだけをとっても大きな収穫だった。
けれど最終的に僕の判断は正しかったことが証明された。お客様が喜んでくれて僕の会社にとってもプラスになった。そして亜矢をお嫁さんにできたのだから。
そんなこんなで偶然をよそおって近づいちゃったけれど、そのことを白状して謝ったほうがいいのかな。でも今さら言うことでもないのかな。もう何年もそのことを考えている。
でもまあとりあえず──。
そんな嘘もときにはいいよね。
*
「退院したら、大変な毎日がはじまるね」
「育児は僕も協力するから」
「ありがとう、ぜひお願いね。でも蒼士が赤ちゃん返りをしないか心配」
「蒼士は甘えんぼうだからなあ。お兄ちゃんの自覚はあるみたいだけど、亜矢と優花が退院したら、やきもちを焼くだろうな」
「文哉さんも、やきもち焼くもんね」
「え、僕?」
なんのことだか思い出せない。
「蒼士が生まれたばかりで、わたしが慣れない育児で余裕がなかった時期にちょっとだけムスッとされたことがあったよ」
「そうだっけ?」
「夜、ベッドでそういう雰囲気になったときに蒼士が泣き出しちゃって……」
「だってそういうの、何度もあっただろう。僕だって一応ギリギリまで我慢していたんだよ」
そう言いながら情けない自分に苦笑い。やっぱり男はだめだね。いつまでたっても子どもだ。
「今度は気をつける」
「本当かな?」
「本当だよ。でも今日だけは許してよ」
「え?」
なんのことかわからず首を傾げている亜矢に、僕はすかさずチュッとキスをした。
物足りないけど今日はこれで我慢……。
「ごめん、もう一回だけいい?」
だけど、やっぱり我慢できなくて、おねだり。
「うん」
亜矢が許してくれたので何度も唇を重ねた。「一回だけ」なんて言いながら、何度もキスをした。「止まらなくなりそうだよ」とつぶやいたら、頭をペシッとたたかれたけれど、それでも亜矢は拒むことなく受け入れてくれた。
「愛してる」
だからお願いだよ、僕より先に死なないで。亜矢に先立たれた僕はまるで自信がないんだ。ごはんを食べることもできなくなって、弱り果ててしまうんじゃないかと思うんだよ。
永遠じゃないから今を輝ける。それはわかっているんだけれど、最期を思うとやっぱり悲しいね。だからその分、一緒に過ごす時間を大切にしよう。亜矢には僕より長生きをしてもらって、毎日亜矢の笑顔を見ながら過ごすことができれば、きっと僕の人生は満足して終えることができると思う。
「わたしも、愛してる」
亜矢の薬指の指輪に触れながら、僕はあの日の夜の感動を思い出していた。結婚指輪の上に重ねづけられているダイヤモンドの婚約指輪。
婚約指輪がこの薬指におさまった日のことは今でもよく覚えている。それは僕たちが初めて結ばれた日だから。
「僕と結婚してくれてありがとう」
亜矢に出会えてよかった。
そして君に心からの感謝を。
《番外編SS・2019.2.28 up&完結》
応援ありがとうございます!
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