恋い焦がれて

さとう涼

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8.儚い時間

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 静かに過ぎていく毎日に少しずつ焦りが募っていく。なにも変わらなくて当然なのに、変わらないことに絶望する日々。
 でもいい加減慣れなきゃ。失恋なんてみんなが経験していること。わたしだけが特別じゃない。程度の違いはあれど、ほとんどの人は過去の思い出として昇華させているのだから。
 どうせわたし自身も過去になる。もしかすると佐野先生はわたしを振ったことで罪悪感を抱えているかもしれないけれど、どうせいまだけ。もっと大変なこと、大切なことが増えていって、思い出すこともなくなるんだ。
 わたしだってそうだ。わたしに好意を持ってくれた智樹や渋谷店長のことを気にかけることなんてほとんどなくて、もはや最近は自分のことばかり。自己中極まりない。
 佐野先生とは泣きながら別れたまま、あれっきり。そのままでもよかったのかもしれない。だけど佐野先生の重荷のままでいるのが許せなかった。せめて最後は──と考えてしまうのも自己中なあらわれ。単に自分がすっきりしたかったからだ。

 午後七時半。ゆっくりと歩いて向かったのは佐野先生の住むマンション。
 花火大会の日に借りていたハンカチを返さずにいたのは無意識に会う口実を持っていたかったのかもしれない。最後の最後までわたしは卑怯者だ。佐野先生が弱っているときに近づいた上に、なんだかんだで冷たく突き放せないことをわかって、こうして会いに来た。

 部屋を訪ねると、あまりにもすんなりと鍵を開けてくれたので、ちょっと拍子抜けした。

「突然来てしまってごめんなさい」
「こっちこそ、こんな格好で悪いな」

 シャワーを浴びたばかりだったらしい。佐野先生は白いTシャツと黒いスエットのズボン姿で、髪も濡れていた。

「あがって」

 玄関先に突っ立っていたら、ドアがさらに大きく開かれた。

「いいえ、ここでいいです」
「遠慮するなよ。うれしいんだ。こうしてまた訪ねてきてもらえて」
「おかしいですよ。わたしのこと振ったくせに」
「そうだけど。なんでなんだろうな。会いたいと思ってた。実際、会いに行っちゃってたしな」

 照れくさそうに笑う。
 わたしはこういうところが好きなんだと思う。気まずい別れ方だったのに、心配でわざわざ様子を見にきてしまうやさしい心の持ち主。自分の恋に関しては不器用で臆病なくせに、他人のためなら自分を犠牲にすることもいとわない。それって強いということなのかな。
 渋谷店長も強い人。もしかしてふたりは似ているのかもしれない。
 油断していると、佐野先生の濡れた髪がわたしの恋心を乱してしまいそうになる。無防備すぎて。思わず手を伸ばして触れそうになった。

「今日はハンカチを返しにきたんです」
「ハンカチ?」
「花火大会のときに借りていたものです」
「あっ、ああ。あれか。わざわざ悪いな」

 ハンカチを持つ手が震えていた。勢いで来てしまったから自分でも気づいていなかった。わたし、緊張しているんだ。
 佐野先生はわたしの手が震えていることに気づかないフリをしてくれた。ハンカチを受け取ると、「ありがとう」とやさしい笑みを浮かべる。その顔を見ていると、もっともっとという欲が出てくる。
 だけど最後だから。叶えてくれなくていいから。嘘でも「わかった」と言ってほしい。

「最後にお願いがあるんです」
「いいよ。なんでもきくよ」

 なんでもって……。わたしがとんでもないお願いを言ったらどうするの? その場合は「俺にできることなら」と予防線を張っておくものだよ。佐野先生らしいといえばそうなんだけど。そんなところも好きなんだけど。

「わたしのこと、ちゃんと覚えていてほしいんです。美術館に行ったことも花火大会に行ったことも、全部忘れてほしくないんです。この先、誰を好きになっても。誰と結婚しても」

 本当はさわやかにサヨナラするつもりだったのに。最後にこんなわがままを押しつけてしまってごめんなさい。ううん、わがままじゃないか。意地悪だね。だって悔しかったんです。佐野先生はわたしより、心変わりした実紅さんをいまも大切に思っている。自分の価値というものを考えたとき、裏切り者の実紅さんより劣るんだと思ったら悲しくてたまらなかった。

「……なあんて。嘘です」
「嘘?」
「はい、冗談です。なので、いま言ったことは忘れてください」

 ああ、やっぱりわたしは佐野先生に弱い。困らせたくない。佐野先生はなにも悪くないんだから。

「帰ります」
「あっ、待って!」

 いたたまれなくなって、玄関を飛び出した。全力疾走してエレベーターにのって、マンションのエントランスを出た。
 引きとめようとした佐野先生を振りきってしまった。
 これこそ後悔につながらないのかな。迷いが生じて、ふと立ち止まり、考え込んでしまう。
 でも頭を振って否定する。これ以上、格好悪い姿をさらしてどうする? 未練たらたらな自分を。
 踏切が近づいてきた。家まであと少し。この道をまっすぐ行けば、もうすぐマンションだ。
 そう安堵したとき、聞こえた足音。まさかと思って振り返ると、息を切らしてこちらに駆けてくる佐野先生がいた。
 どうしてなの?

「やっと追いついた。車を出すんだったよ。まさか輝がこんなに足が速いなんて。昔はそんなに運動神経よくなかったよな?」

 額に汗を滲ませている。着替える間もなく出てきたんだ。さっきと同じ服装だった。

「佐野先生は大ばかだよ」
「そうだな」
「放っておいてくれても、わたしは平気なのに。普通にごはんを食べて、いつものように大学に通って、バイトもちゃんとこなせるんだから。わたしってけっこうしぶといんですよ」

 それなのにごめんなさい。また心配かけちゃいましたね。でも今度こそ最後にします。
 わたしは精いっぱいの笑顔を向けると、くるりと振り向いて一目散に駆け出した。踏切を通っていたとき、ちょうどカンカンと音が鳴り出し、遮断機がおりた。

「輝!!」

 踏切の反対側から力強くわたしを呼ぶ声が聞こえる。うれしくてがまんしていた涙があふれた。

「もう、追いかけて来ないで!」

 バイバイ、佐野先生。好きになってよかった。
 電車が通り過ぎる音がけたたましく響き渡る。
 これでいいんだ……。わたしは何度も自分に言いきかせ、前だけを向いて歩いた。
 やがて自宅マンションのエントランスが見えた。
 もうすぐだ。これでやっとベッドに入って、思いきり泣ける。考えることは、ただそれだけ。でもその気のゆるみがわたしを恐怖へと誘うことになる。

「キャッ──んぐっ、んんっ!」

 いつもなら警戒して気をつけていたのに、このときどうして用心しなかったのだろうと、わたしは悔やんでも悔やみきれないほどの後悔をした。
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