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第1章 ディストピア
凍てつく檻
しおりを挟む冷え切ったコンクリートの壁が、渚の吐息を吸い込むように静寂を纏っていた。薄暗い検査室は、まるで世界の果てに忘れ去られた墓標のようだ。天井の蛍光灯は、まるで命の終わりを告げるかのようにチカチカと点滅し、耳障りな唸りを漏らす。空気は湿気と鉄の匂いで重く、息をするたびに肺が錆びていくような感覚が一之瀬渚を苛んだ。
部屋の中央には、錆びた金属の椅子が一つ、まるで拷問器具のように不気味に佇んでいる。渚はそこに座らされ、両手と首には手錠と首輪が背もたれに固定されていた。手錠の冷たい縁が皮膚に食い込み、動くたびに鋭い痛みが走る。支給された服は汗と土で灰色に染まり、破れた裾が彼女の膝を覆うように垂れ下がっていた。髪は乱れ、額に張り付いた前髪が、視界を狭める。
重々しい金属音とともに、ドアが開いた。三人の管理局員が無表情で入ってくる。灰色の制服に身を包んだ彼らは、まるで人間ではなく、感情を剥ぎ取られた機械のようだ。リーダー格の背の高い男が、クリップボードを手に渚を見下ろした。その目は、まるで彼女を人間ではなく、ただの“物”としてしか見ていない。
「一之瀬渚、No.587。本日の負荷試験を開始する。」
男の声は、まるで氷の刃のように冷たく、渚の心を切り裂いた。彼女は唇を噛み、目を逸らした。抗議しても無駄だと、最初の数日で学んでいた。叫べば喉が潰れ、抵抗すれば手錠と首輪がさらに食い込むだけだ。それでも、心の奥では、消えかけた小さな炎が「なぜ」と問い続けていた。
「資質の安定性を確認するため、労働並び身体試験を行う。準備しろ。」
渚の胃が締め付けられるような感覚に襲われた。
試験。それは、彼女の体と心を極限まで追い込むための、名ばかりの「検査」だった。
最初の試験では、氷水のタンクに何時間も浸けられ、震えが止まらないまま放置された。別の日には、重い鉄の塊を延々と運ばされ、掌が血で濡れるまで繰り返した。彼女の体はすでに限界に近く、筋肉は悲鳴を上げ、関節は軋む。それでも、試験は終わらない。
ー
「立つんだ。」
管理局員の一人が、渚の手錠を外し、着衣も破り脱がされ、彼女の首輪に付いた鎖を乱暴に引っ張った。よろめきながら立ち上がった渚は、部屋の隅に積まれたコンクリートブロックを指さされた。
「これを、向こうの壁まで運べ。30往復だ。時間は2時間以内。遅れれば、追加の負荷が課される。」
渚の視界が揺れた。コンクリートブロックは、彼女の体重に匹敵するほど重い。すでに手の平には、前の試験でできた傷が赤く腫れ、触れるだけで激痛が走る。それでも、選択肢はない。管理局員の無慈悲な視線が、彼女の背中に突き刺さる。
最初のブロックを抱え上げた瞬間、腕が震えた。重さで膝が折れそうになり、コンクリートの粗い表面が彼女の胸に食い込む。よろめきながら、指定された壁まで運ぶ。汗が額を伝い、目に入って滲みる。1往復、2往復……10往復目で、彼女の手の平から血が滴り始めた。床に赤い点が散るたび、渚の心は少しずつ砕けていく。
「遅い! 動け!」
管理局員の怒声が響き、渚の背中に鞭のようなものが振り下ろされた。革のベルトだったのか、ただの棒だったのか、わからない。ただ、焼けるような痛みが背中に走り、彼女は悲鳴を噛み殺した。涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。泣いても、誰も助けてくれない。この部屋には、慈悲も希望もない。
20往復目。渚の呼吸は乱れ、胸がゼイゼイと鳴る。足は鉛のように重く、膝がガクガクと震える。ブロックを落としそうになり、慌てて抱え直した瞬間、指の傷が裂け、鮮血がコンクリートに滲んだ。
「あと10往復。時間は残り30分だ。」
管理局員の声が、遠くで響く。渚の意識は朦朧とし、目の前が白く霞む。それでも、彼女は動いた。止まれば、もっと酷い罰が待っていることを知っていたからだ。
ー
29往復目。渚の体は、まるで壊れた人形のようだった。腕は感覚を失い、背中の傷は焼けるように疼く。血と汗で濡れた髪が顔に張り付き、彼女の表情を隠す。ブロックを壁に置いた瞬間、膝から力が抜け、彼女は床に崩れ落ちた。
「立て! あと1往復だ!」
管理局員が近づき、渚の腕を掴んで引きずり起こす。彼女の体は抵抗する力を失い、ただ引きずられるままに動く。血の滴る手で、最後のブロックを抱え上げる。世界がぐるりと回り、耳鳴りが彼女の意識を飲み込む。それでも、渚は歩いた。まるで、死へと向かう行進のように。
最後のブロックを壁に置いた瞬間、彼女の体は糸が切れたように倒れた。冷たい床に頬を押し付け、渚は動けなかった。呼吸は浅く、胸が焼けるように痛い。管理局員たちの足音が近づき、彼女を見下ろす。
「試験終了。資質の反応は……安定。次の試験は明日だ。」
彼らはそれだけを言い残し、部屋を出ていく。ドアが閉まる重い音が、渚の心に響いた。
ー
静寂が戻った部屋で、渚は動かなかった。体は痛みで震え、心は空っぽだった。かつての彼女——笑い、泣き、夢を見ていた少女——は、この部屋のどこかで消えてしまった。残されたのは、ただの殻。国家の「所有物」として、生きる意味すら奪われた存在。
それでも、彼女の心の奥底で、微かな声が響いた。それは、絶望の淵で生まれた、かすかな願いだった。
*誰でもいいから……神様でも、悪魔でもいい……誰か……助けて。*
その声は、誰にも届かない。神も悪魔も、この冷たい部屋には存在しない。それでも、渚は繰り返した。まるで、それが彼女の最後の抵抗であるかのように。
*誰か……助けて。*
涙が、静かに床を濡らした。蛍光灯の点滅だけが、彼女の孤独を照らし続けた。
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