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序の段 納屋御寮人の遭難 南蛮の帳(一)
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床を幾度も叩き、震えていた女は、やがて、のろのろと立ち上がった。
水風呂の水を桶に汲み、機械的に何度も何度も頭からかぶった。下半身にだけはげしく水を当て、男の残した精が少しでも流れ落ちるように願った。まだ痛む口腔に水を含み、吐いた。全身を覆う鈍い痛みと不快感は冷水で洗っても消えない。
座り込んだ。そこで、あやめに戻った。
(なんという失態……!)
松前納屋の女主人は顔を手で覆った。涙は乾いて、出ない。が、震えのやまぬ怒りが、まず自分に向けられた。逃げることもできず、なすがままにされ、あさましい姿を晒した。
(そも、なじょう(どうして)ここに来てしまったか。)
蠣崎新三郎が、油断のならぬ相手であるのはとうに知っていた。
弟の一人を死に追いやり、もう一人の弟を、死ねとばかりに北涯に追いやっていた―というだけではない。
もともと慇懃ですらあった態度の裏に、自分への劣情が潜んでいることは、若い女の本能で薄々気取っていた。
こちらを見る目に、かねてより、なにかあやしげな感情の色があった。
さらに、蝦夷代官蠣崎家の生業であるともいえる交易管理をめぐって、あやめは渦の中にいる。
あやめという女主人が堺から蝦夷地入りして以来、納屋・今井は、この足掛け三年で蝦夷地貿易に急速に力を伸ばした。新たに莫大な運上銭・関銭を稼がせてくれる一方で、蠣崎家の手に負えない獅子身中の虫だと、少なくとも次の当主はあきらかに警戒していた。
それも、ちゃんと意識していた。あやめは、他人に好んでそう見せているほど、無邪気でも野放図でもなかったのである。
ところが、そこに、あの「本能寺の変」である。
今井―堺の背後にあった巨大な中央権力の消滅で、この蝦夷地・松前でも、自分たちの間の危うい均衡が崩れた。
誰もが前右大臣信長公の突然の横死に茫然としたが、自分もそうだった。この北辺の地では、上方者の納屋こそが誰よりもひどく混乱していたかもしれぬ。切れ切れに集められる情報のなかで溺れ、考えをまとめることができぬままに、六月以来の日々を焦りながらも、実は呆けて過ごしてしまったのではないか。
新三郎がこの中央の異変に対して、蠣崎家のためにどう動くつもりか。いまは誰に尋ねるわけにもいかぬ。そこで、珍しく当の新三郎からの、大舘に新築の風呂の馳走などというものに、警戒感も薄く、供回りすらろくに連れずに乗ってしまったのは、……そうだ、相手の本拠に乗りこんで、風呂の後にはもうけられるだろう宴会の席ででも、直接、新三郎から何か考えを掴んでやろうというくらいのつもりだった。
あわせて、あやめにとって何より大事な十四郎のことも、どこまで本気でその横死を信じているのか、新三郎から直接探ってやるつもりだったのである。
思い上がりだった。やはり自分はどこかで、奥州や蝦夷地の田舎者と見くびっていた。この自分が先回りで手をうたれるとは、想像できなかったのではないか。
(その蝦夷地の若武家と二世を誓う仲にまでなりながら……!)
だから、風呂の馳走といいながら自分の他に客らしい客もいない大舘の居館の、今思えば家中で息をひそめたような雰囲気にも気づかなかった。
そこで、このようにむざむざと襲いかかられ、穢される羽目になったのだ。
「……御寮人様の賢さは、浄土には通じましょうが、この世は穢土と存じまするぞ。」
いつかのコハルの忠言が、あの深く響く声で耳に蘇った。
(またしても、そのとおりであったよ、コハル。)
あやめは頭を振って、自分の身に生じたあらゆる感覚の記憶を振り払おうとしたが、無駄だった。女の身も心も弄んで喜悦し、勝ち誇った男の表情も声も、頭にべったりと張りついてぬぐい取れない。
ひとの操を踏みにじり、腹違いとはいえ弟の想い女を、そうと知っていながら盗んだ。それが、どうしてあのような嬉し気な顔ができたものか。
日ごろの代官名代としてのやり方に同意はできないが、決してその凛質を軽侮はできなかった男が、はばかりもなく露わにした、獣じみた部分。あれがあの男の本性か。怒りが深まった。
(新三郎慶広、この報いは必ず受けよ。いまに、受けさせてやる。)
あやめは立ち上がった。頭が揺れたが、歩くことはできた。暗い土間をほぼ手さぐりに出て、自分が衣服を脱いだ前室に戻る。
濡れそぼった躰を拭けというのだろうか、布が何枚か重ねてあった。京渡りらしい、小さな鏡と櫛まである。おそれていたように衣服まで持ちさられてはいない。あやめの履物も並べてある。市女笠までが置いてある。これは自分のものではないようだ。
「また来い」とあの男はいった。今日は店屋敷に帰してはくれるらしい。
(この笠で顔を隠して帰れ、というか?)
あやめは一層の屈辱をおぼえた。手に取った笠を床に叩きつけた。鏡や櫛には手も触れず、髪はそのままにする。
板壁の向こうに、雨の匂いと、音がする。夕闇のなかを、人の目を誤魔化して帰れそうだ。
あの湯の係の侍女が戻ってくることをなかば恐れ、なかば待ちながら、あやめは衣服を濡れた躰にまとっていった。
もしもあの使用人があらわれでもしたら、何が北国の風呂のやり方か、とでもいいそうな自分を戒めた。
すでにあやめの頭の中に、いつもの不思議な帳(帳簿)があった。
水風呂の水を桶に汲み、機械的に何度も何度も頭からかぶった。下半身にだけはげしく水を当て、男の残した精が少しでも流れ落ちるように願った。まだ痛む口腔に水を含み、吐いた。全身を覆う鈍い痛みと不快感は冷水で洗っても消えない。
座り込んだ。そこで、あやめに戻った。
(なんという失態……!)
松前納屋の女主人は顔を手で覆った。涙は乾いて、出ない。が、震えのやまぬ怒りが、まず自分に向けられた。逃げることもできず、なすがままにされ、あさましい姿を晒した。
(そも、なじょう(どうして)ここに来てしまったか。)
蠣崎新三郎が、油断のならぬ相手であるのはとうに知っていた。
弟の一人を死に追いやり、もう一人の弟を、死ねとばかりに北涯に追いやっていた―というだけではない。
もともと慇懃ですらあった態度の裏に、自分への劣情が潜んでいることは、若い女の本能で薄々気取っていた。
こちらを見る目に、かねてより、なにかあやしげな感情の色があった。
さらに、蝦夷代官蠣崎家の生業であるともいえる交易管理をめぐって、あやめは渦の中にいる。
あやめという女主人が堺から蝦夷地入りして以来、納屋・今井は、この足掛け三年で蝦夷地貿易に急速に力を伸ばした。新たに莫大な運上銭・関銭を稼がせてくれる一方で、蠣崎家の手に負えない獅子身中の虫だと、少なくとも次の当主はあきらかに警戒していた。
それも、ちゃんと意識していた。あやめは、他人に好んでそう見せているほど、無邪気でも野放図でもなかったのである。
ところが、そこに、あの「本能寺の変」である。
今井―堺の背後にあった巨大な中央権力の消滅で、この蝦夷地・松前でも、自分たちの間の危うい均衡が崩れた。
誰もが前右大臣信長公の突然の横死に茫然としたが、自分もそうだった。この北辺の地では、上方者の納屋こそが誰よりもひどく混乱していたかもしれぬ。切れ切れに集められる情報のなかで溺れ、考えをまとめることができぬままに、六月以来の日々を焦りながらも、実は呆けて過ごしてしまったのではないか。
新三郎がこの中央の異変に対して、蠣崎家のためにどう動くつもりか。いまは誰に尋ねるわけにもいかぬ。そこで、珍しく当の新三郎からの、大舘に新築の風呂の馳走などというものに、警戒感も薄く、供回りすらろくに連れずに乗ってしまったのは、……そうだ、相手の本拠に乗りこんで、風呂の後にはもうけられるだろう宴会の席ででも、直接、新三郎から何か考えを掴んでやろうというくらいのつもりだった。
あわせて、あやめにとって何より大事な十四郎のことも、どこまで本気でその横死を信じているのか、新三郎から直接探ってやるつもりだったのである。
思い上がりだった。やはり自分はどこかで、奥州や蝦夷地の田舎者と見くびっていた。この自分が先回りで手をうたれるとは、想像できなかったのではないか。
(その蝦夷地の若武家と二世を誓う仲にまでなりながら……!)
だから、風呂の馳走といいながら自分の他に客らしい客もいない大舘の居館の、今思えば家中で息をひそめたような雰囲気にも気づかなかった。
そこで、このようにむざむざと襲いかかられ、穢される羽目になったのだ。
「……御寮人様の賢さは、浄土には通じましょうが、この世は穢土と存じまするぞ。」
いつかのコハルの忠言が、あの深く響く声で耳に蘇った。
(またしても、そのとおりであったよ、コハル。)
あやめは頭を振って、自分の身に生じたあらゆる感覚の記憶を振り払おうとしたが、無駄だった。女の身も心も弄んで喜悦し、勝ち誇った男の表情も声も、頭にべったりと張りついてぬぐい取れない。
ひとの操を踏みにじり、腹違いとはいえ弟の想い女を、そうと知っていながら盗んだ。それが、どうしてあのような嬉し気な顔ができたものか。
日ごろの代官名代としてのやり方に同意はできないが、決してその凛質を軽侮はできなかった男が、はばかりもなく露わにした、獣じみた部分。あれがあの男の本性か。怒りが深まった。
(新三郎慶広、この報いは必ず受けよ。いまに、受けさせてやる。)
あやめは立ち上がった。頭が揺れたが、歩くことはできた。暗い土間をほぼ手さぐりに出て、自分が衣服を脱いだ前室に戻る。
濡れそぼった躰を拭けというのだろうか、布が何枚か重ねてあった。京渡りらしい、小さな鏡と櫛まである。おそれていたように衣服まで持ちさられてはいない。あやめの履物も並べてある。市女笠までが置いてある。これは自分のものではないようだ。
「また来い」とあの男はいった。今日は店屋敷に帰してはくれるらしい。
(この笠で顔を隠して帰れ、というか?)
あやめは一層の屈辱をおぼえた。手に取った笠を床に叩きつけた。鏡や櫛には手も触れず、髪はそのままにする。
板壁の向こうに、雨の匂いと、音がする。夕闇のなかを、人の目を誤魔化して帰れそうだ。
あの湯の係の侍女が戻ってくることをなかば恐れ、なかば待ちながら、あやめは衣服を濡れた躰にまとっていった。
もしもあの使用人があらわれでもしたら、何が北国の風呂のやり方か、とでもいいそうな自分を戒めた。
すでにあやめの頭の中に、いつもの不思議な帳(帳簿)があった。
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