えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ 「堺の方」(一) 

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 蝦夷島は、もはや秋の気配が濃い。ということはすぐに冬がくる。 
 蠣崎季広老人はこのたび、ついに正式に家督を息子に譲るのだという。書院に一族の男たちがひしめいていた。
 末席のあやめは少しも面白くないが、賀意を述べながらも、自分の企て―描いている「図」のためにはこれはこれで好都合なのだ、と心の中で嘯いた。
(新三郎、そうやって喜ぶがよい。いまに……!)
「檜山屋形(安東家)のお許しもこのたび正式にいただいた。お目見えは少し後になるが、今日より、乏しきをもってこの新三郎慶広が、蠣崎家督を継ぎ、蝦夷代官職に就く。」
 一同があらためて平伏し、上座の新しいおやかたさまを仰いだ。隠居する季広老人は微笑んで、息子の傍らにある。

 あやめは、この欲のなさげな枯れた老人も使うつもりで、「図」をひそかに描いている。さほど親しく話したことのない老人から、このとき声をかけられ、訝しく思いながら内心で手を打った。
「納屋の御寮人。隠居の茶の湯につきあってくれぬか。」
 御屋形の居場所から離れ、隠居所代わりの一角をなお大舘の中に与えられている。最近、茶室を新しく作らせた。
(まあ、前よりは……。これでようやく、茶室といってよいか。) 
 あやめは今井宗久の女弟子として、そこは部屋の造作の程度を値踏みしてしまうが、主人たる季広の目的は新しい茶室や茶器の自慢ではないようだった。
「新三郎を」と老人が口にしたので、あやめの表情が強張った。「幾重にもよろしく頼みまするぞ。」
「ご隠居様、なんのことでございましょうか。まことに失礼ながら、おっしゃられることに手前、見当もつきませぬが。」
「いや、あれは、納屋殿に頼っておる。迷惑をかけたが、蠣崎家のために、これからも頼む。」
(なんの俄(滑稽な小芝居)か。)
 と、あやめは怒声をあげたいが、老人は心底からそう懇願するようだった。
「迷惑、とはなんでございましょう?」
 そう問うためだけに、あやめは息を鎮めねばならない。
 老人は目を炉に落として、炭を掻きながらなにも答えない。知っているのだ。さとっていたこととはいえ、あらためてあやめは恥辱に打ちのめされる。
(迷惑、の一言であれが済まされるのか。それに、このひとにとって、新三郎も十四郎さまも同じ子ではないのか。想い者を盗まれたもう一人の息子のことは、どう考えるのか。あのような没義道をした者に、家督とらせてよいという考えか。)
 唇を固く結んで目を見開き、眩暈するように思いをめぐらしている納屋の御寮人を、老人はさすがに痛ましげに見つめたが、さらにあやめにとって途方もないことを告げた。

「このあと、お屋形がおぬしを呼ぶ。」
「?」
「皆の前で告げる。奥(慶広正室)にもじゃ。」
「いかなる……いかなることでございますか。」
 新しい御屋形の最初の仕事は、納屋今井家のあやめを側室に迎えることだというのだ。
(しまった。まさか、わたくしにそこまで執心があったか?)
「おやかたさま、いえ、ご隠居様。手前は女とて、当地の納屋の主でございます。店がございます。商いもして……」
 あやめは動転している。商い、という言葉に突き上げるような痛みがあった。
「それを、お側女にとるなどと、……。いえ、いえ、とてもわたくしのような身には、おそばでのお仕えはつとまりませぬ!」
 老人は頷いた。
「店を畳めとは、あれも決していわぬ。いわさぬよ。今まで通り、堺の大店、今井宗久殿の店の当地におけるご名代、松前納屋の女主人でいてほしい。だからこの大舘に居住まいして仕えることも、要らぬ。店を切り盛りしていては、左様なことはできぬからな。ただ、新三郎の室のつもりではいてほしい。」
「何でございますか、それはっ?」 
 まるで通いの遊び女ではないか、とあやめは愕然とする。
「そういう風に決まったのじゃ。新三郎から命があれば、受けてやってほしい。」
 混乱から醒めて、しかし現実が受け入れがたく、あやめはぼんやりとしてしまった。 
(なぜ、そんな真似を、このわたくしがせねばならぬ……?)

 考えるまでもなかった。もしも断れば、今すぐにもこの身や、店が、危ないからだ。蝦夷島の松前というこの地では、さすがの納屋今井といえども、領主ともいうべき武家が力を振おうとすれば、身を屈めて我慢するしかない。さもなければ、のちのことは知らず、まずは取り返しのつかない目に遭うだろう。
 ふと気づいて、意味のないことだと思いながらも、訊ねた。
「なぜ、ご隠居さまから、そのことをわたくしに?」
「御寮人よ。おぬしがそれを新三郎から初めて聞くとしたら、むごい。」
(そこまでいわれるのなら!)
「だが、黙って聞いてやってほしい。新三郎がおぬしをそばめに迎えたいと申したので、そんなことができるかと問いただした。御寮人の商いまでを邪魔してはならぬ。そう話をし、本人も左様だと納得した。」
色と欲の双方を追うには、それがむしろ都合のいいことだ、と新三郎も腑におちたのであろう。
 あやめは懸命に頭をめぐらせたが、まだぐらぐらと躰が揺れる心地がする。自分自身にとっても、蠣崎家により深く潜りこむのであれば、そのほうがいいのではないか。「図」はいっそう描きやすいではないか。それに、今後、どうせ何度も無理やりに暴力を振るわれて襲われるのに比べれば、まだ、流れのひと(遊女)も同然と後ろ指をさされる方が……?
(いや、……厭じゃ。厭、厭あっ。)
 あやめの本当の心、童女のような部分が、無表情になった顔、固まってしまった躰の底で、悲痛な声をあげ続けていた。
 それを深く押し殺したのは、老人の次の言葉を聞いたからだ。
「のう、御寮人よ。わしは、最後に新三郎を拝んだぞ。上座において、平伏してやった。」
「?」
「商人とはいえ、上方の大店、それも天下に響く今井宗久殿の娘子殿を室に迎えるというのだ。この蝦夷島の者がじゃ。安東様の一被官にすぎぬわしには到底できなかったことではないか。」
武将政治家として、蠣崎季広は我慢のし通しでここまできた。秋田安東家の臣、蝦夷島の南端にとりついた国人としてのの忍耐が、重い鬱屈となって積み重なり、卑しいともいえる歪みを人格に与えてしまったのではないか。
あやめはそれを知っているつもりだったが、急にひどく生々しい体臭を嗅がされた思いだ。
「納屋の御寮人は、上方の有徳人のお家。輝くようじゃ。新三郎は、その御方を家に迎え、手に手を携えて、大きな世に出られるのではないか。」
(決めた。このご老人も、ただでは済ませぬ。)
 あやめは肚が冷え切るのを覚えた。どこまでも残酷になれる。この家の者ども、みな思い知るときがくるであろう、と確信した。

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