えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段  なやみ  さまざまな糸(三)

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 納屋が夏の戻りの船を出してすぐに、早い秋が来た。
 この秋から冬にかけ、中央では羽柴秀吉の栄達が凄まじい。
 天正十二年十月、従五位下・左近衛権少将にのぼったかとおもうと、同年十一月、従三位・権大納言に叙された。
 蠣崎新三郎慶広は、遠い畿内の動きにあきらかに刺激され、空が冷え、雪が降りしきるこの時期に、半島東部を攻めている。常識外れの行軍であった。
 すでに上の国に敷いている新しい統治の方法を、まだ抑えていない東部にも強要した。かつて「下の国」と呼ばれた、和人との混住地ともいうべき、最も(和人の目からみて)拓けた土地のアイノたちであった。当然の反発に対しては、羽柴左近衛少将が背後にいることを匂わせたが、このときは、あまり効果はなかったようである。半島で和人に馴染んだアイノたちにはそれなりの情報が入る。十万の大軍が控えていると脅しても、疑うのが正しかった。
 また、安東家の分家の末すら、この半島には、まだいるのである。実権はなにもないとはいえ、蠣崎家が主家扱いして遠慮しなければならない存在で、その目の前で、主家を飛び越して中央につながり、官位を得ようとしているのはあまり大っぴらにはできない。
 ついに無理攻めになった。最初、かつての和人の舘の跡を奪還占領したかにみえた先陣は逆襲をうけ、一時は、真っ先に占領したシリウチにまでアイノが侵入した。松前とは目と鼻の先といえるこの舘を支えきれず、大舘に退いた。
 勢いにのったアイノの兵は、我勝ちに雪を蹴って、松前の東に迫った。むろん松前市中は騒然とし、納屋も大舘への避難の籠城か、船を使っての対岸への脱出かを考えねばならなかった。
(故右大臣に攻められたときの堺のようよ。)
 お方さまに許されて大舘からいったん店に駆け戻り、慌ただしく万が一の避難の用意をしながら、あやめは妙にのんびりとしたことをふと思う。
 あやめは大舘で知っていたが、家中における新三郎の地位も、もし敗戦となれば大いに揺らぐであろう。新三郎は誰にも相談しない。独断専行が目立つ。それがうまくいっていたから不満の声は抑えられていたが、此度こそあやうい。先代の対蝦夷政策に馴染んだ保守的な一派が盛り返し、秋田の安東家に働きかけて、新三郎が蝦夷代官の座から引きずり降ろされる事態すらもありえた。
 いや、それどころか、あえなく討ち死にの可能性も捨てきれないのだ。アイノの兵はどうやら諸悪の根源らしい今の代官への闘志に充ち、強悍であった。雪でも降って火縄が湿れば、鉄砲などなんの役にも立たないと知っている。
 そうでなくてもいざ敗戦ともなれば、すべての責任を負わせて代官の首をアイノに差し出そう、という意見すら、家中ではこっそり囁かれた。アイノに融和的な考えをもつ、新代官を立てればよい。その候補は血縁にいくらでもいる。たとえば、安東家の覚えもめでたい五男など……。
(だが、新三郎は、決して慌てていない。)
(この状態ですら、おのが武勇に絶対の信頼を置いているらしい。)
 蠣崎新三郎慶広の軍事上の癖(へき)といったものを決定づけたのは、このとき、松前という土地の防御力がまたもや生かされたことであった。
 夏に倒したはずの西部のセナタイアイノが、「下の国」こと東部のアイノの蜂起に応じて立った。だが、諸村にはすでに和人に直接入りこまれ、規模も質ももはや一揆でしかない乏しい兵力では、上ノ国から松前に至り、海岸線の細い道の固い守りを容易に抜くことはできない。
 そう判断できた新三郎は浮足立たず、西の守りをまったく手薄にしても、一気に東を屠ると決意した。松前ひいては大舘の防御力への絶対的な信頼があった。
 その決意は正しく、そしてその実行は神速であるといえた。新三郎はさらに大量の鉄砲を、いわば味方にも隠し持っていた。知っていたのは、それらを売ったあやめたち、納屋の者だけである。
 鉄砲は防衛線で最も効果を発揮するのを、新三郎は理解していた。
 新三郎にとって都合のよいことに、敵は火縄の発火を妨げるほど雪が降りしきる日には、自分たちもやってこない。むしろ、そうでない日に一斉に攻めかかった。
(これを待っていた。)
 新三郎は、笑ったであろう。アイノを東の守りで撃退すると、これを追って逆にシリウチを簡単に奪還した。
 アイノ部族の連合がこれで揺らいだのを知ると、ここから一気に箱館―ウシュケシまで進んで陥落に追い込み、海岸沿いのアイノ勢力をことごとく伏せしめた。家中の反対派も目を見張る早業であった。これで、西におけるセナタイの残党も、やむなく和を乞うた。
 百年近く前の康正年間以来、蠣崎季広の講和まで縮小を続けた半島の和人旧領は、蠣崎慶広ひとりの手で、驚くべき短時間で回復されたのである。松前から箱館(ウシュケシ)までのあいだに、およ部、穏内、脇本、中野、といった館が、松前大舘のいわば支城として復活した。

 ただ箱館は、またも焼けた。納屋の新しい倉も損壊した。
(だが、これは奇貨とすべきだ。)
 あやめは逆に、箱館復興の大義名分を得たといえる。航海の成功で得た富を、ここで化けさせる算段がたっていた。
 春に敦賀から戻ってくる松前下りの船は、貯えた松前納屋の儲けをあやめにとって役に立つ様々なものや人の形に変えて、運んで来てくれるだろう。
(荒っぽいことをしてくれたな、新三郎。この無理攻めは高くつくぞ。)
 あやめは内心でほくそ笑んだ。
 実際、半島南部から蝦夷地をうかがう蠣崎の軍事行動は、上ノ国が和人の手に落ちたことで指呼の間に迫られていた唐子のみならず、今度は下の国のはるか北に隣接する日ノ本のアイノたちも激しく刺激している。
(十四郎さまは、この機に乗じられる。なに、あの広大な蝦夷地にくまなく布武されようというのでは、最初からないのだ。)

 十四郎の動きは、再度活発化した。
 これまでなかなか服さなかった日ノ本のとりわけその南部のアイノたちが、半島からの衝撃に態度を変え、歩み寄りをはじめたからである。妥協しない者をすかさず共通の敵とし、十四郎の兵は小さな戦闘で勝利を続ける。ここから、新三郎が切り取った和人の土地に覆いかぶさるように、十四郎を統領とする、アイノ部族独自の服属や同盟の範囲が一挙に広がっていった。
 蠣崎十四郎愛広が「蝦夷地宰領」の判を使い始めるのは、このあたりからであった。旗差しものまで、あやめに頼んできた。おやおやと思いながら、あやめは頼られるのがうれしい。ただ、その図柄の案を目にしたときには、思わず恐ろしいものを目にしたときのように反射的に目を閉じた。自分でもなぜかはわからない。
 
 一方、蠣崎彦九郎季広老人は、旧知のアイノの首長たちの助命工作に忙しい。かれらは、老人の青年期と壮年期にともに衝突と妥協を重ねあい、蠣崎家が積み重ねてきた陰惨な争闘を終わらせた同志ともいえる顔馴染や、その子たちである。
(きゃつらの思い上がりから多少の行き違いがあったとはいえ、盟約を破ったのは、我らではないか。それを相手に科ありとして、命までとるのか。)
 だが、ほぼ無駄に終わった。父子の会話は漏れ聞こえた―コハルが教えてくれたし、家内の噂にもなっていた―が、子は父の政策の歴史的使命は既に終わった、という意を伝えたらしい。アイノの武力行使を、これよりは正しく蠣崎蝦夷代官家支配への「叛乱」と位置付け、容赦しないとわからせる。もはや妥協や交渉の余地はない、それどころか双方にとって有害となるのだと。
「強い君臣の理を通して、その地を治める。それが天下の趨勢と存じます。」
「おや、いつからこの蝦夷島までが天下に入った。」
 いいこめられがちな父が、皮肉に笑った。新三郎は動じない。いつものように、父に対しては態度ばかりは恭しく、温順なのであった。
「入りましょう。それは避けがたく存じます。」
「世の流れ! 世の流れか。二十年も昔か、さようなことを申した者がおったな。」
 このとき、はじめて新三郎の口調がやや激したのだという。
「兄上がたや姉上の頃とは、違うのでございます。……わたくしも、南条の義兄上とは違いまする。」
「……。」
 父親は黙って立ち上がり、話はそれだけであったという。

「堺納屋や両岸商人がこの松前に来てくれたのは、……」
 と、自慢めいたことを口にしたことのない季広老人が、あやめだけを招いてくれた茶の席でぽつりと漏らしたことがある。
 あやめは引き取った。ここで、嘘は何もいわなくてよい。
「まことに、先代さまの並々ならぬご尽力あらばこそ、戦も途絶え、安心して商いができました。われら上方よりの者はいつも感謝いたしておりまする。それを……」
 わざと口を濁してみせると、季広老人は若い娘に親身になって注意してくれた。
「堺。いや、御寮人。いわずともいいことを、おぬしらが口にせんでもよい。」
「畏れ入り奉りまする。」
「口にすべきは、……わしら、蠣崎の者であるよな。」
 
 どの糸も、かなりぴんと張ってきたとあやめは感じている。
「秋田の安東さまも、蝦夷島の騒ぎは御憂慮とのことで。」
 コハルがしらっとした顔で、呟いたこともある。その糸も使えそうだ。
(あとは羽柴権大納言様のいっそうの御栄達にかかるが、……)



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