えぞのあやめ

とりみ ししょう

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四の段 地獄の花  こころ(一)

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 天正十二年が暮れていくなかで、あやめの心を掻き乱すことが立て続けにあった。

 松前納屋の主人と蝦夷代官の側女という二つの顔を持たされてから、もう二年になってしまう。あやめは、それに馴れるしかなかった。暴力に翻弄され打ちのめされた末に、心身ともにどん底に落ちた末、逆に前途にか細い希望の灯りを見つけていたが、十四郎との再会がかなった後ですら、それはなお、いかにも遠い。
 松前納屋はあやめのもので、利得を離れての蝦夷地の十四郎を助けるための出費は、女主人にとってはむしろ喜びだといえた。だが、それで複雑な性格を帯びてしまった店の経営は、ほんらい、あやめが理想とした合理的なものからはともすれば遠ざかったかもしれない。今井本店に助けを請わずに店をうまく回すためには、番頭や手代の助けこそあれ、絶えず気も張りつめておかねばならなかった。
 その忙しい合間を縫って、大舘からお呼びがかかる。不思議なほどに忙しさが一段落したときに限って、使いがやってきた。偶然ではなかろう。あやめは新三郎の監視が大舘にいないときの自分にもあるのを、それで意識した。
 違いなかったが、それで新三郎なりにあやめに気を遣っているつもりだとは、あやめには思いもよらない。
(お前の振る舞いなど、どこにいようとお見通しといいたいわけか?)

 新三郎との肉の交わりへの嫌悪は変わらない。ひとの目などは気にしてももう仕方がない、とあやめは思えるのだが、恋人の仇に躰を自由にされているという怒りと悲哀は消えず、理不尽な暴力を振るってきた男への恐怖と嫌悪が身を焼き続けていた。
 さらに、新三郎と床をともにする行為自体が、最初の頃とはまた違う意味で、だんだん恐ろしいものになっていた。
 新三郎が猛り狂い、打擲を加えたりする夜は減ったように思えるが、皮肉にもその分、あやめの心の底が冷えるようなおそれに襲われるのが増えた。新三郎はそれに気づいているのだろうか、と思うと、腹立たしさと恐れが同時に湧き上がる。
 つまり、あやめはこのところ、新三郎の肉体に馴染みはじめた自分を感じるのである。それに気づくと衝撃があり、つづいて、気が狂いそうな自己嫌悪の念に苦しめられる。
 その夜も、そうなった。あやめの心を掻き乱すできごとの一つは、そのために起きた。

 新三郎があやめを抱きすくめ、最後の動きに入ったとき、組み伏せられているあやめは息も絶え絶えになっていた。
 それまでに肌のすみずみにまでくわえられた無数の刺激で、全身が熱く、すべての水分が絞り出されたかと思えた。もう何も―新三郎を内心で罵る言葉すら―考えることはできず、男の筋肉の動きと体重だけを躰の内外に感じている。荒れ狂うものを、とめどようのない、やはり快感としかいいようのない感覚ともに受け止めるようになってしまった。そんな自分への嫌悪もなにも、もう吹き飛んでいた。
 なにかを待っている。自然に目を固く閉じ、やがて、戦慄とともに見開いた。そのときが来た。息が止まるようだった。そのままどこかに連れ去られる。
 戸惑うような、不思議がるような、小さな呻きが漏れた。
 それが、男にとっての合図となった。最後に力の限り抱きすくめた男にも、しがみついてくる女の小さな痙攣が伝わった。
 新三郎は、あやめが凍りつくように固まり、やがてその力が抜けていくまでの反応をおのれの身体の下に確かめて、満足した。
 ぐったりとしたあやめの、汗にまみれ、細かく震える頬を撫でた。少し膨れたような瞼の下にそよぐ長い睫毛の下から、火照りきった頬に、涙が流れている。新三郎は思わず、それを吸った。
 男の欲望が鎮まるとともに、躰の下の可憐な女の姿に、突きあがる感情がある。
「あやめ、……お前の花は、もう咲き始めているな。」
 新三郎からすれば自分が最初に襲いかかった頃、あやめの躰はまだ蕾のままも同然だった。中断もあったが二年にもわたる長い時間、出仕を強制されて自分と睦むうちに、女としての花がようやく開きはじめたのがわかる。
 あやめは齢のわりに経験に乏しく、娘でなくなってからも、未熟な若者を相手に手さぐりに睦みあうだけだった。細い躰は、その美しさに相応しい大きな花を開かせていなかった。それを、自分がようやくここまで持ってきたのだ。……そんな自足を新三郎は感じずにいられない。
(最初は、力づくで奪った。そのあとも、この哀れな女に何度も酷い仕打ちをした。おれは人でなしだ。憎まれて当然だ。)
 まだ息があがったままの女の顔の汗を掌で拭い、乱れてかかった髪を額から払ってやりながら、新三郎は子どものように泣き出しそうな思いに打たれる。
(だが、あやめよ、いまは快かったであろう? たとえ相手が憎いおれであっても、交わりの悦びだけは覚えたのではないか?……男である以上、おれにも女のことはわからぬが、現にお前は、美しくなった。この艶めいた肌よ。この菩薩のような表情よ。前よりも、ずっと綺麗だ。おれが、そうしてやったのではないか?)

「……花?」
 新三郎の呟きは耳に入っていた。あやめは薄く目を開けて、尋ねるでもなく自然に繰り返す。声がまだくぐもり、かすれている。
「女としての、花よ。まだ開ききってはおらぬが、これから盛りとなる。」
「左様でございますか。」
(なにをいいやがるか。なにが花かよ。いい気なものじゃ。)
 あやめは嗤う気持ちになった。それが表情に出てしまったのか、笑みが浮かぶ。新三郎はそれをみて、まったく勘違いをした。そうか、お前も喜んでおるのか、と唇を寄せる。それを受け止めてやり、唇と舌を交わしながら、たしかにあやめも自分の躰の変化に思うところがあった。
(この男の前に引き出されたときは、たしかに私の躰は、女としてまだ蕾がついたくらいであったのじゃろうな。酷い目に遭わされて、無理強いばかりじゃが、たしかに躰が変わってきたのかもしれぬ。わかる。花が開くといわれれば、そんな気もする。先ほどなどは、少し、雲を踏んだような……。)
 慣れてしまった唇が甘く感じられ、抱き締められる力が強くなると、あやめもつい抱き返してしまう。固い背中に抱きついていると、ついぞなかった安らぎを覚えてしまうのに気づき、当惑した。あさましい肉欲の塊であり、そもそも憎い仇ではないか。その男に……。
「もうお前は、堺のあやめではなく、この蝦夷島に咲くあやめよ。」
 柔らかい肌のぬくもりに、酔ったようになった新三郎が、らしくもない浮ついた言葉を吐いた。
 いつのまにか、濃い息をまた吐くようになっているあやめは、濁った頭のなかで、どこかで聞いたことがある言葉だ、と思った。
 それがなぜか、ひどくうれしく、快く響いてしまう。
(この男に、蕾から、花へ……か。)
 また陶然とした気分に近いものが躰の奥から湧き上がるのを、あやめは意識していた。男の重みが、快い。
(この男、……おやかたさまに、わたくしは花にされて、この地で咲く……。)
 そして、はっと気づいて、震えあがった。
(こわい!)

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