えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
162 / 210

六の段  わかれ  名を……(三)

しおりを挟む
……
 夜明け近くまで、女は新三郎とともに臥した。庭に降り立ち、ひとけのまだない大舘の中を歩き、衛士とは無縁の場所から、抜け出た。
(これで、おセンという名は捨てた。……)
 今まで感じたことのなかった寂寥の思いがある。
(「もし孕んでいたら、流したりせず、大舘に戻ってこい」と、いいおったわ。)
 女は寂しく笑った。夜明けの光のなかを、飛ぶように歩く。まず松前の町中の自分たちの隠れ家で装束を整え、箱館に急ぐのだ。
(さて、叱られにいくか。)
(万が一だが、殺されるかもしれぬ。)
(お別れでございますな……おやかたさま。)
(おやかたさまは、ご自分の勝利を疑っていない。)
(箱館の十四郎様の背後に、納屋がぴったりとついていることも、今夜で一層はっきりとしただろうに。それでも、戦えば勝つのは自分だとお思いだ。)

「それが過信だ。儂らの勝機がそこにある。」
「左様でしょうね。」
「だから、ご宰領さまがエサシに入られた、今こそ一刻も早く戦開きがあらねばならぬ。……お前の抜かりは、意味があった。」
 箱館に新築の納屋の店屋敷で、女はコハルに会っている。できれば先に、そして直接、御寮人さまに新三郎の言葉を伝えておきたかったが、松前大舘の中でもなければ、このおかしらの目を盗んで御寮人さまに近づくのも難しい。それほどにコハルは、あやめの側をついて離れない。いまも、隣の部屋であやめは夜具の中にいる。
「意味が、といわれると?」
「間者が、雇い主まで含めて正体を見抜かれるなど、あってはならんことだ。新三郎が逃がしてくれたのは、男の気まぐれの、偶然にすぎぬ。死ぬべきであった。」
「はい。」
「いま、儂に咎めだてられて殺されたとしても、この稼業の者として、さほどの文句はあるまい。」
「言葉もございませぬ。」
「……ただ、新三郎はこれで確実に動くだろう。安東家からの命はすでに出たらしい。今日明日にも、箱館政庁の蠣崎家の方々を、安東家家中の謀反人として追捕する兵を出す。しかも、もう必ず自分で出てくる。納屋がついているとなれば、とるにたらぬ箱館の家中に十四郎さまのアイノ兵がついているだけの兵とて、さほどは侮れぬと思い直す。」
「たしかに、陣頭に立たれるとは決めておられなかった。」
「うまく吊りだした。御寮人さまと十四郎さまの『図』は、これで成る。」
 コハルは、やや満足げな色をにじませた。
(御寮人さまの「図」か。)
(おかしらは、今も、そういいたいのだろうが、……)
(御寮人さまは、もう、「図」は最後まではいいのだとお思いなのではないか。)
(十四郎さまはどうなのだ?)
「御寮人さまは、お休みでございますか。」
 コハルは頷いた。
「では、……おかしらに言付け申し上げます。どうか、お伝えください。」
「新三郎がお前に言付けたのだな。」
 女は、「おセン」として聞いた話をそのまま伝えた。むろん、その後、新三郎と、女のつもりでは愛しあったとしかいいようのない時間があったことまではいわない。
「新三郎がおぬしを逃がした理由が知れたわ。」
「ご伝言を望まれたのでしょう。やさしいお言葉だ。」
「……新三郎に抱かれたな。」
「は……?」
 当たり前ではないか。そうやって、最も身近で新三郎の動きを探っていたのだ。
「そういう意味ではない。こんな言付けを受けたあと、お前、落ちたな。」
「……!」
「裏切ったとまではいわぬ。寝ろ、と儂が命じて、お前はおやかたと寝た。その続きだが、続きではないな。お前の意志で、新三郎に抱かれた。」
「なぜ、おわかりになった?」
「何年、お前を使っていると思うか。……なんということだ、お前まで。」
 コハルは瞠目する。
「蝦夷島では、この稼業の者としては、ろくなことがなかった。手練れの者どもが、次々と人間になり下がりよる。」
「なり下がると申されましても。」
「もう、お前は同じ仕事はできぬ。」
「……。」
「それでもいい、それがいい、という顔をしよって。」
 コハルは優しい顔になった。
 
 戦場で拾った幼女の頃から、特殊な才質を見出して、便利に使ってきた。自分というものがないから誰にでもなれる、おそろしい間者になった。性愛も役者として演じつづけた。胤をうけて孕んでしまい、殺したり調略したりした相手の子を堕ろす羽目になったことも何度かあったが、一向に動じなかった。そのように、この稼業の者として自分を鍛えていた。
(そんなことは、しかし、もたぬ。)
(こやつが、もう際(限界)だったのだ。新三郎はきっかけにすぎぬ。)
(まだ、十年は使えると踏んでいた。才は申し分なく、器量もよい。経験もますます積む。)
(だが、こやつの容色とても永久ではない。それより先に、心が朽ちておったか。)
(このあたりが、潮時であろう。)
(これから教えたいこともあったが……)

「……おかしらさま。新三郎のおかげで、あたしは名前を取り戻した。」
(あたしは新三郎を、あのひとときだけは、心から好きだった。誰よりも愛おしいと思った。あいつも、ほんのひとときだけは、あたしを一番大切にしてくれた。抱いているときだけだが。……でも、男に抱かれて、男を抱いて、あんなにうれしかったことはない。これからもあるまい。)
「名前だと?」
「おかしらに拾われて、能があることがわかったときに、あたしは決まった名前を忘れるようにいわれたんだね。」
「ああ、お前のように様々に化ける奴には、その時々の名前でよいのだ。……左様か。知れたぞ。」
「おかしいよ。いまわのきわにあげられて、頭が真っ白くなったときに、母さんのあたしを呼んでいた声が聞こえたんだよ。それが、また、おかしいよ。」
「なんだったかな。」
 実は、おぼえている。
「小春だってさ。あたしの名は、コハル。」
「……そうだったな。不便なことだ。」
「おかしらさま。長くお世話になりました。御礼申し上げます。おかしら様に命を拾われたおかげで、この齢まで生きられた。たまに、おいしいものも食べた。いい思いもありはした。面白いことも多かった。いろいろな人の世を、この目でみちまった。……このたびの不手際でご誅殺なら、どうぞ痛くないようにしてくださいませ。もしお許しくださいましたら、このまま消え去りまする。」
 小春という、生まれたときに与えられた名になった女は、深々と低頭した。
「小春。」
「えっ。」
「まだ、放してやらぬ。しばらく、見届けよ。儂らの仕事の始末がどうつくかまで、みたくはないか。」
「それはそうだが……」
「儂も、お前と別れるのはもう少し後にしたい。頼みごとができるやもしれぬ。待ってくれぬか、小春。」
「おかしらさま……?」
小春は、聞いたことのない口調に、たじろぐような気持になる。
(頼みごと、だと?)


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...