えぞのあやめ

とりみ ししょう

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終の段  すずめ(十)

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 七月、小田原城が開城した。かねてからの宣言通り、秀吉は「奥州仕置」のために、服属したばかりの伊達政宗に案内させ、宇都宮に入った。
 七月晦日にはここで、蝦夷島における蠣崎家支配を認める朱印状を発し、先年来の蠣崎志摩守家支配をあらためて正式に認めている。
 交易路の繋がりからか、敏速に上方情勢に対応し、早い段階で秀吉政権への服属を実行した蠣崎家は、上方の天下人への帰順をためらっていた奥州諸大名への最北部からの抑えの役目(多分に心理的な圧力に過ぎなかったが)を果たした。このたびの小田原攻めにも、越後の湊より上陸して上杉軍に合流、北方軍として参陣していた。
 朱印状発行は、その褒賞であった。中世以来の蝦夷島の支配権者を任じていた、旧主安東家の主張を封じ、名実ともに蝦夷島支配を確立したといえる。
 蠣崎志摩守の小田原参陣は、天下人である秀吉をひどく上機嫌にしたと記録にある。秀吉にとって、蝦夷島という化外の地からも、威徳を慕って「蛮族」の「酋長」が中原の支配者である自分の幕下に駆けつけるという図は、まことに好ましい。
 蠣崎志摩守もまた、この秀吉の気持ちをよく汲み、蝦夷の兵に伝統的な毒矢をもたせ、侍たちにもいわゆる「蝦夷錦」の華麗な戎服を揃えて、ことさらに遠方より馳せ参じた俘囚の長を演出した。 
 さらに、蠣崎志州自身の「南蛮風」の容貌が、諸大名の前で特に「蝦夷の軍」を謁見した秀吉のエキゾチシズムを刺激し、喜ばせたともいう。「南蛮風」というのは、その鎧兜の武装のみを指すという説が有力で、現に蠣崎家には当主着用の、欧州で製造された(諸説ある)銀色の「西洋甲冑」が伝えられる。
 だが、蠣崎本人に、なぜかコーカソイド風の容姿が備わっていたともいわれてきた。蝦夷島南部に蟠踞した「渡党」の一員であった蠣崎家の出自が、通説のようにアイノ寄りにあるとしても、人種的に白人風の特徴が出るはずはない。現に今に残る蠣崎の肖像画や彫像は定型的な「和人」のそれである。だが、長身痩躯、紅毛碧眼の若き武将のイメージが強烈なためか、この説は根強い。
 実際の蠣崎志摩守(二代)は、武家としての教養に欠けておらず、とりわけ茶をよくしたことで、小田原参陣中に逸話を残している。また、その軍に当時としては先進的な火器を大規模に導入していたのも、同時代から有名であった。昔から取次役として秀吉政権との間に立ってくれた前田利家が、志摩守の戦上手を高く評価する言葉を残している。
 九月、豊臣秀吉は奥州仕置を一応終え、京に凱旋した。蠣崎志摩守はとくにこれに付き従い、御礼のためのはじめての上洛を果たした。
 宮中に参内を許され、聚楽第での再度の謁見の後、秀吉にとくに勧められて大坂、さらに堺を訪問している。

「菖姫殿とおっしゃるか。姫、……いや、納屋の御寮人殿。約定をようやく守れ、こうして堺に参った。さあ、納屋のお仕事を一から学ぶ故、お教えあれ。」
 はしばみ色の瞳をもつ、鋼色の髪を結った青年が、型通りの挨拶のやり取りが終わるのを待ち兼ねたように、いきなり切りだした。下座に控えるあやめは、平伏から上げようとした頭を、驚きのあまり、止めてしまう。そのまま、がたがたと震え出した。
「あやめ、お答えせよ。……お受けせよ。直答お許しであろう。」
 兄宗薫の声が聞こえたが、眼の前が赤くなり、ふっと気が遠くなる。

 あやめは沖で船に揺られていた。
 兵を乗せた無数の蝦夷船が湊に吸い込まれるのを眺め、震えながら祈っている。艤装された今井の大船に乗っているひともまた、上陸しようとしている。おやかたさまは、どうやらまんまとはるか東へ吊りだされた。その留守を攻めるあのひとの策はあたった。勝つ。あのひとの下知で、必ず勝てる。ああ、それなのに、なぜこんなに悲しいのか。おやかたさまが敗けると思うと、胸が痛くてならない。
 霰の降るような銃声が町から伝わってくる。お寺に火がついた。悲しい。あのお寺の蔵で、あのひとと何度も抱き合ったのに、それを焼いてしまうのか。
 大舘に向けて大筒の音が響いた。ああ、あの忌まわしい湯殿が焼けていく。こちらは燃えてしまえ。わたくしの恨みや痛みとともに消え失せえてしまえ。
 そして、あのひととおやかたさまとわたくしとが、みなが笑い合うて暮らせる蠣崎のお家になる。
 あのひと? 

 ……あのひとは嫌いだ。あの男など大嫌いだ。わたくしを裏切った。わたくしは身も心も捧げたのに。お命すら危ないと思うたから、全てなげうつ覚悟で、あのひとの痩せ細った胸に飛び込んだのに。
 春になれば、お武家を捨てて堺に逃げ、夫婦になると約束してくれた。幸せだった。
 それなのに、簡単に、わたくしを捨てた。突然現れた、自分と同じ顔をした同族の女に鼻を引かれて、義侠心か祖先の血への渇仰ゆえか、亡き母者が恋しくなられたのか、北の蝦夷地の、攻め滅ぼされかけている赤蝦夷の村に行ってしまった。わたくしが、どれほど泣いても、すまぬ、もう涙は枯れたなどといって……
 ついぞ知らなかったが、おやかたさまは、それを激怒されていた。隠居同然の父君の火遊びに巻き込まれた異貌の不運な弟を、ひそかに赦してやるお積り。愚かな堺女との道行きを見逃してやるお積りだった。それを、北の方さまと共に温められたやさしいお気持ちを、裏切られた。
 あの男が裏切ったのは、なにも、わたくしだけではなかったのじゃ。
 おやかたさまのお怒りが今はわかるぞ。女を捨て、お家のためでもない無名の師に身を投じた。なんという身勝手。なんという恩知らず。
 そしておやかたさまは、その愚かな弟を、みすみす自分が無惨に死なせてしまったと思われたのじゃ。嘆き悲しむ女を残して、死んでしまいおったと。
 そうじゃ、おやかたさまが狂ったのは、あのひとのせいではなかったのか? でなければ、あのお強くもやさしい方が、あんな目にわたくしを遭わせるものか? 
 お辛かったのだ。惚れた女は、いつまでも自分が見殺しにした弟に心を寄せている。わたくしを美しいと思ってくださった。わたくしの心までを、自分のものにしたかった。それが、どうしてもかなわないままだったのだから……。
 そしてわたくしは、死んだ者に愚かにもいつまでも心を寄せている。そんな風を自然に装っていた。あのお方には、それも耐えがたかったであろう。わたくしを大事に思われればこそ、悲しくてならなかったであろう。わたくしはそんなことに気づかず、痛い目にあうたびに、その分いっそう、おやかたさまを憎んだ。憎みぬいた。
 
 何とか生き残れた癖に、あのひとは、すぐにはわたくしのもとに帰って来てくれなかった。約束は破られたままだ。
 許せぬ。
 決して許しはせぬ。それでもわたくしが尽くしてあげたくて仕方がなかろうと、そしてこうして、わたくしの描いた図の通り、たくさんの兵とともに戻ってこられようと、……一度約定を破った男を、ひとの真心を自分の勝手で踏みにじった者を、許したりできようか。おやかたさまを欺き、嘆き悲しませ、斯様に窮地に追い込んだ大罪とて、わたくしとともに負うのだ。さような、あのひとなどを……。

(あのひと……とは、誰じゃった?)
(憎い、憎い、愛おしい……。)
(ありうべからざる、この世で一番美しい顔と思うた。)
(元服しても、お家の厄介者。部屋住み。……御曹司さま?)
(うまれた時から、きょうだいのように一緒であったと思いたいほどの、たったおひとりの……)

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