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異本 蠣崎新三郎の恋 その十
しおりを挟むひとりになったとき、蠣崎新三郎は、久しぶりに床から立ちあがってみた。
だが、惧れていた通り、足がひどくなえていた。歩こうとすると雲を踏むようで、すぐによろけた。仕方なく、横を向いて体重を支え、そろそろと足を運ぶ。
(蟹か、おれは?)
内心で腹立たしくてならなかったが、ここは耐えることだ、と自分に言い聞かせた。
病室になってしまった自分の部屋を、蟹歩きで廻ってみる。いけそうだ、と思って前に足を運ぶと、とたんにまたよろめいた。
「ご免。」
ふくの声がした。下女が出たらしいが、取次も待たず、そのままずいずいと上がりこんでくる気配だ。勝手知ったる他人の家だというのだろうか。
「おふく殿。今日は二人とも出ておる。じいじ殿も。」
呼ばわってみたが、ふくはそのまま新三郎の部屋に入ってきた。あなたに用があるのです、という顔だ。
「立ち上がられましたか。善哉にございます。」
そこに座りこまれると、新三郎もすとんと腰を落とした。疲れたし、どうやら話がありそうだ。
「お寝床の上でようございますよ。」
「そうはいかぬ。寝間着姿は勘弁をいただきたいが。」あっ、と気づいて、「まさか姫さまがお越しなのですか?」
それならばこの恰好ではいられないのだが、ふくはいいえ、と首を振り、今日はわたくしめひとりで、と言った。
「……しかし、姫さまのお使いならば、やはりこの恰好では」
「わたくしの一存で参りました。……お見舞いに。」
とはいうが、ふくはもう何度もこの病室に世話をしに来てくれている。目を醒ましてからもしばらくは、半身さえ満足に起こせぬ日が続いていた頃である。
では何しに来た、という訝しさよりも、姫さまが来てくださるのか、という期待が消えた落胆が大きい。
(姫さまはあれ以来、お顔をお見せでない。)
それが新三郎には、気懸りでもあった。
(おれが、あんなことをしてしまったからか?)
死の淵から蘇えったとき、あろうことか、そばにさ栄姫が付き添っていてくれた。
夢かとも、あるいはもう極楽とやらに来てしまったのかとも思ったほどで、自分などの病床に姫さまが侍るように介抱してくれているなど、あろうことではない。
夢でも何でもない、と気づいたとき、そして座ったままがくりと頭を落して眠りに引き込まれていたさ栄が、睫毛の美しい瞼をはっと開け、二人の目が合ったとき、新三郎の感情が弾けた。
(おれの手が、姫さまの背中を抱いていた。引き寄せて倒すように、姫さまをおれに覆いかぶらせていた。お髪のよい匂いを嗅いでいた。)
そんな不埒を、姫さまは許してくれた。声もあげず、抵抗もしない。
本望を遂げられたと思った新三郎は、これでもう死んでもよい、と心からの言葉を漏らした。
しかしそのとき、さ栄姫は涙を浮かべながら、うつけを申すでないよ、と微笑んでくれたのだ。そして、もう一度、痛みのあまりまだあまり動けなかった新三郎の胸にすがってくれた。
そして、夢のような言葉を囁いたのだ。
(つっと一緒にいたい、とおおせになられた。そして、主従というだけではない、別の契りを持ちたいと仰った。そういう意味のことをたしかにおれは聞いた。)
だから新三郎は、生涯決して口に出せないはずの言葉を、口にしてしまったのだ。
ずっと慕っていた、と告白した。自分でも思いがけない言葉のようで、不思議な気がした。だが、そう言ってしまったときに、すべてがわかった。さ栄姫さまという女を、おれという男が恋しているのだ。
(そして、さ栄さまはうれしいといってくださった! 自分も前々から望んでいた、と。)
新三郎は叫び出したいほどの喜びに震えたのだ。だが、医者を呼ぶ、と立ち上がられたきり、部屋に戻ってはこられなかった。
以来、さ栄姫には会えていない。姫さまが、お姿を見せなくなって久しいのだ。
(あれは、ほんとうのことだったのだろうか? あのとき、おれはまだ熱のなかで、うれしい夢を見ていただけなのではないか?)
その後、何日も寝たり起きたりを繰り返しているうちに、ふとそうした疑いすらきざした。
たしかに夢のはずはない。あのお背中の温かみや、どこまでも柔らかい感触が片手に残っている。快い軽さが、泣きたいほどのはかなさとともに胸板に残っている。髪や肌の香りを覚えている。
(だとすれば、お怒り? やはりお考え直しになれば、臣下が弁えなかったのに気づかれようか。あのような怪我のさいには大目に見て下さったけれど、癒えてしまえば、もうお許しになれなかった?)
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