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第五章 泥の呼吸
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午後遅く、山から水の色が変わった。
空は鉛、川は茶。気圧の耳鳴りが町のいたるところで低く鳴く。警報アプリが震えるより先に、湊は救急車の運転席に滑り込んでいた。
「山裾の旅館“月白”裏で土砂崩れ、複数名の声あり」
消防の無線が重なる。
「二次崩落の危険、高所待機を基本。医療チーム、出動準備」
現場は旅館の離れの裏手。裏山の斜面が抉(えぐ)れて、湯の溝に泥が流れ込んでいた。あたりは湯気と雨で境界が溶け、ライトの円だけが世界を切り取る。
「誰か——誰かいます!」
女の声。瓦と竹垣の隙間、濁流に半ば埋まった人影が手を振った。
「救助隊は迂回で固定点作る。——医療はここで待て」
葛城が言う。
湊は頷き、しかし手だけが勝手にポーチのジッパーに触れる。ヘルメットのライトに雨が乱反射して、世界が点描になる。
「早瀬さん」
背後から、緋色。防水のフードにヘッドライト、マスクのうえの目が鋭い。
「必要最小限、今日は“近づかない勇気”が最優先」
「了解」
そのとき、瓦礫の影から低い唸り声。
「……足が……抜けない……」
男の声。ライトを向けると、板塀に挟まれて腰から下が埋まり、太ももの内側から鮮やかな赤が水に滲んでいた。
(動脈)
湊の胸が一拍跳ねた。
「圧迫、今すぐ必要。——行く」
緋色が言い終わる前に、葛城が肩を掴んだ。
「待て、そこは流路だ。二次崩落で持っていかれるぞ」
雨の音が強くなる。湊は一瞬だけ呼吸を止め、声を低くした。
「ロープを一本、俺に。固定点はその角。距離は三メートル。圧迫が遅れれば、ここで失う」
緋色の目が、判断の速度で灯る。
「ロープ二本で相互確保。私は後方から止血材と圧迫バンドを渡す。——入り口で三分まで」
葛城は短く舌打ちし、頷いた。
「三分で戻れ。合図はホイッスル二回」
ロープが湊のハーネスに掛かり、体が雨と泥の温度に沈む。ライトの円が狭まり、男の顔が浮かぶ。土の色の唇。
「救急です。名前、言えますか」
「た、田嶋……」
「田嶋さん、しゃべれるのは強い。今から圧迫する。痛いけど、生きるほうに寄せる」
湊は片膝を泥に埋め、両手で股の付け根に深く圧をかけた。指先に、血の拍動が“噴き”から“押し”に変わる感触。
「緋色先生、止血材!」
背中越しに差し込まれたヘモスタティックガーゼを創に押し込み、圧迫。バンドで上から固定。
「脈、弱い。顔、白い」
「輸液ルートはここじゃ取れない。——リリース前提のクラッシュ対応、戻ってから」
緋色の声が低く落ちた。
「心電図監視できないのが怖い。——でも、ここは生きて帰る」
ホイッスルが二回、雨に切り込む。
湊は最後にもう一度ガーゼを押し直し、田嶋の額に額を近づけた。
「絶対に戻る。ここで、我慢」
「……頼む」
ロープが体を引いた。足元の泥が滑り、湊は手を伸ばして板塀に腕をかける。緋色の手が肘を掴み、ぐっと引き上げた。二人で地面に転がり、雨が顔を叩く。
「止血、効いてる?」
「拍動、弱くなった。多分効いてる」
緋色は短く頷き、葛城に向き直る。
「機械で塀を持ち上げられる?」
「支点を作れば三分。だが二次崩落——」
「だったら、三分で終わらせる」
救助隊のスプレッダがうなり、板塀が数センチだけ浮く。泥の圧が吐息のように抜け、流路が変わって足元を打つ水の音が高くなる。
「今!」
湊は匍匐で戻り、固定していたバンドを押さえたまま男の体を引く。緋色がシーツで股関節を包み、骨盤ごと抱え出す。
「三、二、一——引く!」
田嶋の体が泥から抜け、同時に再度の出血が暴れようとする。湊は肘で押し潰し、緋色が上から体重を預けた。
「止まれ。——止まれ」
二人の声が雨に紛れて震え、やがて血の色が鈍る。
担架に移し、退避線へ。
「クラッシュのリスクあり。心電図見たい」
救急車に押し込むと、モニターの波が雨だれみたいに不規則に跳ねた。T波の尖り。
「高カリウム、来る」
緋色がすぐに命じる。
「カルチコール、ゆっくり。重曹も。ルート確保、二本。——換気は弱めに一定」
湊は薬を押し、BVMの圧を微調整する。田嶋の目が一度だけ開き、濁った光が走った。
「田嶋さん、まだこっち側ですよ」
モニターのQRSが広がりかけ、そして戻る。雨音が急に遠くなる。
「戻った。——行こう」
搬送の途中、緋色は湊の手の甲を一瞬、叩いた。
「さっきの圧迫、よく効いた。三分、守ったのも」
「あなたが線を引いたから」
「線を引いたのは、土砂。私は口でなぞっただけ」
手術室の前。緋色は田嶋とともに白い扉の向こうへ消える前に、湊の方を見た。ヘッドライトを外して、濡れた前髪が額に貼りつく。
「術後、文句を言うかもしれない。あなたの“先に動く癖”に」
「じゃあ、また傘で殴られる覚悟をします」
「殴らない。——屋根にする」
その言い方が、雨より静かに胸に落ちた。
扉が閉まり、湊は濡れた廊下にひとり残る。壁の時計は、雨の秒針で進んでいく。
ポケットの中、二本の折りたたみ傘が重なる音がした。
(約束は、まだ点のまま。だけど点と点が、細い線でつながる音がする)
外に出ると、雨は小降りになっていた。温泉街の屋根から滴る水が、今夜だけはやさしい。
湊は空に向けて、息を長く吐いた。泥の匂いが、少しだけ薄くなる。
空は鉛、川は茶。気圧の耳鳴りが町のいたるところで低く鳴く。警報アプリが震えるより先に、湊は救急車の運転席に滑り込んでいた。
「山裾の旅館“月白”裏で土砂崩れ、複数名の声あり」
消防の無線が重なる。
「二次崩落の危険、高所待機を基本。医療チーム、出動準備」
現場は旅館の離れの裏手。裏山の斜面が抉(えぐ)れて、湯の溝に泥が流れ込んでいた。あたりは湯気と雨で境界が溶け、ライトの円だけが世界を切り取る。
「誰か——誰かいます!」
女の声。瓦と竹垣の隙間、濁流に半ば埋まった人影が手を振った。
「救助隊は迂回で固定点作る。——医療はここで待て」
葛城が言う。
湊は頷き、しかし手だけが勝手にポーチのジッパーに触れる。ヘルメットのライトに雨が乱反射して、世界が点描になる。
「早瀬さん」
背後から、緋色。防水のフードにヘッドライト、マスクのうえの目が鋭い。
「必要最小限、今日は“近づかない勇気”が最優先」
「了解」
そのとき、瓦礫の影から低い唸り声。
「……足が……抜けない……」
男の声。ライトを向けると、板塀に挟まれて腰から下が埋まり、太ももの内側から鮮やかな赤が水に滲んでいた。
(動脈)
湊の胸が一拍跳ねた。
「圧迫、今すぐ必要。——行く」
緋色が言い終わる前に、葛城が肩を掴んだ。
「待て、そこは流路だ。二次崩落で持っていかれるぞ」
雨の音が強くなる。湊は一瞬だけ呼吸を止め、声を低くした。
「ロープを一本、俺に。固定点はその角。距離は三メートル。圧迫が遅れれば、ここで失う」
緋色の目が、判断の速度で灯る。
「ロープ二本で相互確保。私は後方から止血材と圧迫バンドを渡す。——入り口で三分まで」
葛城は短く舌打ちし、頷いた。
「三分で戻れ。合図はホイッスル二回」
ロープが湊のハーネスに掛かり、体が雨と泥の温度に沈む。ライトの円が狭まり、男の顔が浮かぶ。土の色の唇。
「救急です。名前、言えますか」
「た、田嶋……」
「田嶋さん、しゃべれるのは強い。今から圧迫する。痛いけど、生きるほうに寄せる」
湊は片膝を泥に埋め、両手で股の付け根に深く圧をかけた。指先に、血の拍動が“噴き”から“押し”に変わる感触。
「緋色先生、止血材!」
背中越しに差し込まれたヘモスタティックガーゼを創に押し込み、圧迫。バンドで上から固定。
「脈、弱い。顔、白い」
「輸液ルートはここじゃ取れない。——リリース前提のクラッシュ対応、戻ってから」
緋色の声が低く落ちた。
「心電図監視できないのが怖い。——でも、ここは生きて帰る」
ホイッスルが二回、雨に切り込む。
湊は最後にもう一度ガーゼを押し直し、田嶋の額に額を近づけた。
「絶対に戻る。ここで、我慢」
「……頼む」
ロープが体を引いた。足元の泥が滑り、湊は手を伸ばして板塀に腕をかける。緋色の手が肘を掴み、ぐっと引き上げた。二人で地面に転がり、雨が顔を叩く。
「止血、効いてる?」
「拍動、弱くなった。多分効いてる」
緋色は短く頷き、葛城に向き直る。
「機械で塀を持ち上げられる?」
「支点を作れば三分。だが二次崩落——」
「だったら、三分で終わらせる」
救助隊のスプレッダがうなり、板塀が数センチだけ浮く。泥の圧が吐息のように抜け、流路が変わって足元を打つ水の音が高くなる。
「今!」
湊は匍匐で戻り、固定していたバンドを押さえたまま男の体を引く。緋色がシーツで股関節を包み、骨盤ごと抱え出す。
「三、二、一——引く!」
田嶋の体が泥から抜け、同時に再度の出血が暴れようとする。湊は肘で押し潰し、緋色が上から体重を預けた。
「止まれ。——止まれ」
二人の声が雨に紛れて震え、やがて血の色が鈍る。
担架に移し、退避線へ。
「クラッシュのリスクあり。心電図見たい」
救急車に押し込むと、モニターの波が雨だれみたいに不規則に跳ねた。T波の尖り。
「高カリウム、来る」
緋色がすぐに命じる。
「カルチコール、ゆっくり。重曹も。ルート確保、二本。——換気は弱めに一定」
湊は薬を押し、BVMの圧を微調整する。田嶋の目が一度だけ開き、濁った光が走った。
「田嶋さん、まだこっち側ですよ」
モニターのQRSが広がりかけ、そして戻る。雨音が急に遠くなる。
「戻った。——行こう」
搬送の途中、緋色は湊の手の甲を一瞬、叩いた。
「さっきの圧迫、よく効いた。三分、守ったのも」
「あなたが線を引いたから」
「線を引いたのは、土砂。私は口でなぞっただけ」
手術室の前。緋色は田嶋とともに白い扉の向こうへ消える前に、湊の方を見た。ヘッドライトを外して、濡れた前髪が額に貼りつく。
「術後、文句を言うかもしれない。あなたの“先に動く癖”に」
「じゃあ、また傘で殴られる覚悟をします」
「殴らない。——屋根にする」
その言い方が、雨より静かに胸に落ちた。
扉が閉まり、湊は濡れた廊下にひとり残る。壁の時計は、雨の秒針で進んでいく。
ポケットの中、二本の折りたたみ傘が重なる音がした。
(約束は、まだ点のまま。だけど点と点が、細い線でつながる音がする)
外に出ると、雨は小降りになっていた。温泉街の屋根から滴る水が、今夜だけはやさしい。
湊は空に向けて、息を長く吐いた。泥の匂いが、少しだけ薄くなる。
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