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第10.5話:境界の夜、分かたれる慈愛
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「……逃がすな! 異端の職人と、穢れた聖女を捕らえよ!」
国境の検問所を、無数の松明の火が包囲していた。夜の静寂を切り裂くのは、教会の威信を懸けた聖騎士たちの怒号と、魔導矢が空を切り裂く鋭い風切り音だ。
「マスター、伏せてて! ここは私が……全部、片付けてやるから!」
馬車の御者台に立つラナが、喉を鳴らして吠えた。彼女の全身を包む魔導下着『疾風』が、主人の高揚した殺意に呼応し、青白い放電現象を起こす。
バキィッ、と空気が爆ぜる音がした。ラナの身体能力が、物理的な限界を越えて加速する。彼女は降り注ぐ魔導矢の雨の中を、重力を無視したような動きで駆け抜け、最前列の騎士たちの盾を次々と粉砕していった。
その凄まじい光景を、佐藤零助は揺れる馬車の中から無機質な瞳で見つめていた。
零助にとって、この絶体絶命の状況は「危機」ではなく、一種の「最終検品」に過ぎない。彼は瞳に鈍い銀色の光を宿す固有スキル【下着の禁書庫】を起動し、前方で躍動するラナの肉体と、彼女が纏う『疾風』の同調率をリアルタイムで解析していた。
(……左大腿部の筋肉収縮、設定値より0.02秒速い。心拍数160。魔力循環率92%。サイドパネルの加圧、あと3%上げられるな)
ラナは、零助を守るために命を燃やしている。彼女が剣を振るうたびに飛び散る汗も、荒い吐息も、すべては零助への報われない、しかし強烈な愛着からくる献身だ。だが、零助はそれを情緒として受け取ることをしない。彼は彼女の献身を「出力データ」としてのみ処理し、自身の技術が正しく機能していることに冷徹な充足感を覚えていた。
「っ……あぁ……っ!」
馬車の後部座席で、クラリスは零助の腕を震える手で掴んでいた。爆発音と怒号、そしてラナが放つ、人を寄せ付けないほど猛々しい魔圧。箱庭のような聖域で生きてきた彼女にとって、それは世界の終末にも等しい衝撃だった。
「サトウ様、ラナ様が……あんなに無理をして……! 私を置いて、お二人だけでも逃げてください!」
クラリスの悲痛な叫びを、零助は鼻で笑い飛ばした。
「黙って見てろ。あいつは壊れない。俺がそう作ったからな」
零助はクラリスの手を振り払い、窓から身を乗り出して指先を弾いた。
「――【遠隔調律:強制加圧(オーバー・ブースト)】」
その瞬間、ラナの脇腹を締め上げるベルトが、彼女の魔力を無理やり一段上のステージへと押し上げた。
「――っ! あああああああッ!!」
ラナの剣筋が、物理的な法則を置き去りにした「閃光」と化した。一振りで十数人の騎士を鎧ごと吹き飛ばし、国境を閉ざしていた重い鉄柵を、まるで熱したナイフでバターを切るように両断する。
「……計算通りだ」
零助は、自分の技術が正しく「機能」していることに満足し、小さく口角を上げた。ラナが自分に向ける、身を削るような重い情念。それを彼は「当然の機能」として冷酷に使いこなし、彼女の献身を糧に、追っ手を夜の闇の向こうへと置き去りにしていった。
そこに「恋人」などという甘い温もりはない。あるのは、設計者と最高傑作という、歪で強固な「機能への信頼」だけだった。
国境の喧騒が遠ざかり、馬車の車輪が刻む不規則なリズムだけが夜の静寂を支配していた。
追撃の手をひとまず振り切ったものの、周囲を覆う深い森は、どこまでも続く闇の迷宮のように三人を拒絶している。窓から差し込むわずかな月光は、馬車の中に座る零助とクラリスの横顔を、青白く不吉に照らし出していた。
「……サトウ様」
クラリスが、震える声で沈黙を破った。
彼女は自分の肩を抱くようにして、零助が貸し与えた厚手の外套に深く身を沈めている。その指先は、外套の下で自分を支えている『福音』の感触を確かめるように、絶えず胸元を彷徨っていた。
「私たちは、本当に……あちら側には戻れないのですね。私が祈りを捧げ、人々が跪き、神の光がすべてを包んでいた……あの温かな場所には」
「戻りたきゃ戻れ。今ならまだ、死刑台の特等席が空いてるだろうよ」
零助の返答は、あまりにも無慈悲だった。彼は馬車の揺れに身を任せながら、手元にある端切れで指先を拭っている。その瞳には、故郷を失った聖女への哀れみなど微塵もなかった。
「酷いお方。……ですが、本当ですね。私は今、あの重苦しい法衣を着ていた時よりもずっと、自分が生きていることを実感しています」
クラリスは自嘲気味に微笑んだ。
地位も、名誉も、信仰という名の平穏も失った。今の彼女はただのお尋ね者であり、一人の男に命を預けるだけの存在だ。しかし、鉄のコルセットから解放され、零助が仕立てた薄い布地に身を包んだ今、彼女の肺には驚くほど深く、清涼な空気が流れ込んでいた。
「教会では教わりました。愛とは、太陽のように等しく分け与えるものだと。神の慈愛は、すべての人に平等に注がれるべきだと。……ですが、ラナ様を見ていると、わからなくなるのです」
クラリスの脳裏に、先ほどのラナの姿が浮かぶ。
血の匂いを振り撒き、敵を蹂躙し、ただ一人「零助」という存在から愛されるためだけにすべてをなぎ倒した、あの凄まじいまでの暴力的な献身。
「彼女のあの、自分以外をすべて焼き尽くしそうな情念は、私が知る『愛』とはあまりにかけ離れています。あの方は、貴方という存在を、世界から奪い取ろうとしているように見える。……愛とは、これほどまでに独善的で、恐ろしいものなのですか?」
その問いは、独占欲を知らずに育った聖女の、根源的な恐怖だった。ラナが向ける「重い愛」は、クラリスがこれまで分け与えてきた薄く広い慈愛を、根底から嘲笑っているように感じられたのだ。
「愛だぁ? そんな曖昧な定義、俺に聞くな。……俺が知っているのは、お前のその服の『結び目』が、少しズレているということだけだ」
零助は、クラリスの戸惑いを一蹴するように、彼女の至近距離まで顔を寄せた。
馬車の狭い空間に、零助の放つ冷徹な威圧感が充満する。クラリスは思わず息を呑み、背中を座席に押し付けた。
「お前が信じていた『博愛』なんてものは、結局のところ、誰に対しても責任を取らない無関心の別名だ。だが、俺が作る服は違う。着用者一人ひとりの骨格、筋肉、魔力……そのすべてを俺が定義し、支配する。ラナが俺に執着するのは、俺が彼女の『個』を誰よりも深く暴き、作り替えたからだ」
零助の指先が、クラリスの顎をクイと持ち上げる。
彼の瞳は、彼女という「女性」を見ているのではない。その奥にある魔力の流れ、肉体の構造、そして『福音』という作品の整合性だけを冷酷にスキャンしていた。
「分け与える愛なんてものは、俺の辞書にはない。あるのは、俺が認めた素材を、俺の色で塗り潰すという独占だけだ。……クラリス、アンタもその端くれになったんだ。今さら綺麗事を吐いて、自分を守ろうとするな。いいから黙ってそのデカい乳と尻を守られて綺麗にしておけばいいだけだ」
「あ……ぁ……」
零助の言葉は、クラリスの心に深く突き刺さった。
神の慈愛という盾を失い、剥き出しになった彼女の魂は、零助という絶対的な個の「支配」に晒され、恐怖とともに言いようのない高揚感に包まれていく。
「……そうですか。私は、もう……ただ分け与えるだけの聖女ではないのですね」
クラリスの唇から漏れたのは、絶望ではなく、未知の領域への足を踏み出す者の、震える吐息だった。
外では、ラナが返り血を浴びながら周囲を掃討している。彼女の「独占」の意志が森の静寂を切り裂く中、馬車の密室では、零助の冷徹な言葉によって、聖女の価値観が静かに、しかし確実に瓦解を始めていた。
「……零助、少し鼻が利くわ。野犬か、あるいは教会の放った隠密か……どっちにしても、この辺りの『不純物』を根こそぎ潰してくる。アンタはその女と、大人しく馬車の中で待ってなさいよ」
ラナはそう言い残すと、嫉妬を押し殺したような鋭い視線を一度だけクラリスに向け、夜霧の立ち込める森の奥へと音もなく消えていった。彼女が放つ獰猛な魔圧の残滓が、周囲の空気をピリつかせ、やがて完全な静寂が馬車を包み込む。
狭く、暗い、二人だけの密室。
零助は魔導ランプを灯すと、迷いなくクラリスの方へと顔をあげた。
「……っ、あ……」
クラリスは反射的に身を竦めた。ラナが命を懸けて外を守っている、そのすぐ傍らで、彼女の想い人である男が自分に近づいてくる。その事実に、聖女としての理性が激しく警鐘を鳴らす。だが、それ以上に彼女の肉体は、零助が放つ絶対的な支配の気配に、抗いがたく惹きつけられていた。
「じっとしてろ。……激しい移動のせいで、『福音』のテンションが狂ってる。胸元の結節点が右に2ミリずれて、左のサイドパネルがアンタの肺を不必要に圧迫してるぞ」
「あ、ぁ……サトウ、様……っ。それくらい、私、自分でも……」
「アンタの未熟な手で触って、俺の設計をこれ以上乱すな。いいから、外套を脱げ」
零助の言葉は、慈悲を削ぎ落とした命令だった。
クラリスは震える指先で、外套の紐を解いた。破れた修道服の間から、零助が昨夜仕立てた光のレース――『福音』が、暗がりに淡く浮かび上がる。
零助は躊躇なく、その逞しい指先をクラリスの襟元から滑り込ませた。
「ひ……っ、あぁ……!」
肌に直接触れる、零助の指の温度。それは冷たく、しかし同時に、彼の体内で練り上げられた魔力が、暴力的なまでの熱となってクラリスの肉体を貫いた。
零助は彼女の脇腹から背中にかけて、指先で下着の繊維を一本ずつ弾くようにして、最適なテンションへと整えていく。彼の指が肌をなぞるたびに、クラリスの背筋に雷のような快楽が走り、肺が強制的に押し広げられる。
「サトウ様……。ラナ様は、外で……あんなに必死に、戦ってくださっているのに。私は……こんな……」
「愛は分け与えるものだって、アンタ自身が言ったんだろ。だったら、俺のこの『技術』も、アンタに分け与えてやる。……感謝して受け取れ」
零助の皮肉な言葉が、クラリスの胸を鋭く抉る。
彼は、クラリスの苦悩など意に介さない。ただ、自らが作り上げた「下着」という名の秩序が、完璧に機能することだけを追求している。その無機質さが、かえってクラリスの「個」としての飢えを刺激した。
零助の指が、今度はクラリスの胸間にある魔力の結節点に触れた。
「あ、ぁ……っ。そこは……そこ、だけは……っ!」
「うるさい。ここが一番乱れてるんだ。魔力が逆流して、アンタの心臓を焼こうとしてるぞ。……俺の指を信じろ。それとも、あの重苦しい鉄の檻に戻りたいか?」
「いいえ……、嫌、です……っ」
クラリスは、自分の唇から漏れる吐息が、自分でも驚くほど淫らな響きを帯びていることに気づき、顔を赤らめた。
聖女として、あまねく人々に慈愛を説いてきた。特定の誰かに独占されることも、ましてや誰かを独占したいと願うことも、罪であると信じてきた。だが、今、この狭い空間で、零助の指先によって「中身」を弄られ、肉体の構造そのものを書き換えられていく快楽は、どんな祈りよりも甘美で、残酷だった。
ラナの知らない、密室の調律。
外で彼女が鉄錆の匂いを纏い、零助への独占欲を武器に戦っている最中。その男は、別の女の肌に直接魔力の刻印を刻み、その精神を内側から支配していく。
「……よし。これで呼吸の通りが良くなったはずだ。魔力の循環も正常値に戻った。ご自慢の胸の形も綺麗になったんじゃないか」
零助が手を抜いたとき、クラリスの身体は力が抜けたように座席に崩れ落ちた。
全身を駆け巡る新しい魔力の奔流と、肌に残る零助の指の残熱。
彼女は乱れた呼吸を整えようとしながら、潤んだ瞳で零助を見上げた。
「サトウ様……。あなたは、本当に……悪魔のよう。私を、元の私には、もう戻れなくしてしまった……」
「元のお前なんて、ただの『機能不全』だ。俺がそれを直してやった。……それだけのことだ。それに、今のお前の方が、教会に縛られていた時より綺麗に見えるがな」
零助は平然と答え、再び魔導ランプの灯りを落とした。
闇の中で、クラリスは自分を包む『福音』の感触を、先ほどよりもずっと重く、濃密に感じていた。それはもはや救済の光ではなく、零助という男に繋がれた、不可視の「鎖」のようだった。
聖女としての博愛精神を盾にしながらも、彼女の心には、ラナが抱いているものと同じ「独占」という名の黒い火種が、静かに、しかし確実に宿り始めていた。
馬車の扉が、外側から乱暴に蹴破るようにして開かれた。
流れ込んできたのは、夜の森の凍てつくような冷気と、それ以上に生々しく、鼻を突くような鉄錆――鮮血の匂いだった。
「……零助、掃除は終わったわよ。当分、あのクソ汚い野犬どもは近づけないわ」
そこには、肩で激しく息を切らせたラナが立っていた。銀色の髪は激しい運動によって乱れ、頬には返り血が筋となってこびりついている。だが、彼女の瞳は疲れを見せるどころか、獲物を仕留めた獣特有の、ぎらついた興奮と熱を帯びていた。
ラナの視線は、瞬時に馬車の中の光景を捉えた。
乱れた着衣を慌てて整えるクラリスと、その傍らで指先を拭っている零助。密室に漂う、独特の甘く重い魔力の残滓。
「……何してたの、二人で」
ラナの声は低く、そして地を這うような殺意を孕んでいた。彼女の全身を包む『疾風』が、主人の激しい嫉妬に呼応してギチギチと音を立て、過剰なまでの加圧を肉体に強いる。
「フィッティングの調整だ。移動の衝撃で魔力の循環が乱れていたからな。……お前の『疾風』も、診てやる。こっちへ来い」
零助の返答は、あまりにも無機質で、日常的なものだった。彼はラナの殺気など意に介さず、当然のように自分の隣、指し示した。
「……っ、ふぅ。そう。そうよね……アンタはそういう男だもんね」
ラナは毒気を抜かれたように息を吐くと、次の瞬間、泥のように崩れ落ちながら零助の首筋にしがみついた。
戦場帰りの彼女からは、死の匂いと、限界まで高まった「雌」としての熱が立ち上っている。彼女はクラリスのことなど視界から消し去ったかのように、零助の胸板に顔を埋め、その体温を確かめるように強く、強く抱き寄せた。
「……はぁ、はぁ……。零助。私、アンタのために戦ったんだから。アンタが私を見ててくれるから、私は最強でいられるの。……ねえ、私のこと、もっと……もっと見ててよ。アンタの装備(下着)がなきゃ、私、もう立ってられないんだから……っ!」
ラナは、クラリスに見せつけるように零助の首筋に歯を立てた。それは甘えるというにはあまりに激しく、自分の所有物であることを刻み込もうとする「マーキング」の儀式だった。
彼女は知っている。零助の愛は、世俗的な甘い言葉ではない。自分という素材を、誰にも真似できない精緻な技術で支配し、強化し、自分の色に染め上げることなのだと。
零助は、そんな彼女の乱れた銀髪を無造作に、しかし力強く撫でた。
彼の指がラナの下着のストラップをなぞり、限界を超えて高まった魔力を指先から「解体」し、鎮めていく。
「わかっている。お前は俺の最高傑作だ。……誰にも、代わりはさせないさ」
「……あ、ぁ……っ」
零助の冷徹ながらも絶対的な「所有宣言」に、ラナは悦びに身体を震わせ、その腕の中で恍惚と目を閉じた。彼女にとって、この支配の感覚こそが唯一の安らぎであり、自分が零助の「一番」であるという確信を得るための薬だった。
その光景を、馬車の隅で息を潜めて見ていたクラリスは、喉の奥が焦げ付くような感覚を覚えていた。
自分には、あんな風に零助を独占し、獣のように縋り付く権利はない。先ほどまで自分の肌を弄んでいた指先は、今、自分よりもずっと深く「繋がって」いるラナを鎮めるために使われている。
「……サトウ様。愛とは、そのような……剥き出しの狂気なのですか?」
クラリスの唇から、震える問いが漏れた。
彼女の中の「聖女」が、ラナの一方的な重愛と、それを当然のように受け入れる零助の歪な関係性を目の当たりにし、音を立てて瓦解していく。
「……狂気? 違うな。これは、最も純粋な『依存』という名の機能だ」
零助はラナを抱いたまま、クラリスを射抜くような視線で言い放った。
その瞬間、クラリスは悟った。ラナが零助に求めているのは「救い」ではなく「支配」であり、零助もまた、彼女を「素材」として愛でることで支配を完成させているのだと。
自分に与えられた『福音』という名の優しげな下着は、まだ甘い。
ラナが纏う、あの肉体を抉るような『疾風』の冷たさ。それこそが、零助という男の「本気」なのだと思い知らされ、クラリスの胸には、教会の教えにはないドロドロとした暗い情念が芽生え始めていた。
深夜。焚き火の爆ぜる乾いた音だけが、森の深い闇をわずかに押し返していた。
馬車のすぐ傍ら、零助の膝を枕にするようにして、ラナは泥のような眠りに落ちていた。激戦による肉体の疲弊と、零助の放つ冷徹な魔力に包まれているという安堵感が、獣のような彼女の警戒心を完全に解かせている。時折、夢の中で獲物を追っているのか、彼女の指先が零助のズボンの生地を小さく掻いた。
だが、馬車の車輪に背を預けて座るクラリスは、一睡もできずにいた。
隣で眠るラナの、あの剥き出しの欲情。そして、零助が彼女に向ける、無機質ながらも絶対的な所有の眼差し。それらが、クラリスの脳内で何度もフラッシュバックし、彼女が十数年かけて積み上げてきた「聖女」という名の殻を、内側からボロボロと削り取っていた。
(……愛は、等しく分け与えるもの。誰かを独占してはならない。神の慈愛は、すべての人へ……)
脳裏に響く教会の教典が、今はあまりにも虚しく、冷たい。
先ほど零助の指が自分の肌をなぞった時の、あの熱。ラナが零助の首筋に噛みついた時の、あの狂おしいまでの悦びの表情。それらを知ってしまった今、クラリスが守ってきた「博愛」は、ただの「空虚な孤独」に過ぎなかった。
「……サトウ様。起きていらっしゃいますか」
クラリスが、暗闇の中から這い寄るように、音もなく零助へ近づいた。
零助は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。彼はゆっくりと瞼を持ち上げ、銀色の瞳で、跪くクラリスを冷たく射抜いた。
「……何だ。調子が悪いのか?」
「いいえ……。私の、心が、壊れそうなのです」
クラリスは零助の前に跪き、その冷たい手を取って、自分の震える胸元に押し当てた。下着越しに、彼女の心臓が異常な速さで脈打っているのが伝わる。
「ラナ様のあの激しい愛を、私は理解できません。……いえ、理解したくないのです。分け与える愛しか知らない私は、あの方の隣にいることが、あまりにも苦しい。……教会の言葉ではない、あなたが教える『真実』を教えてください。私を……ラナ様のように、あなたの熱で塗り潰してほしいのです」
「……クラリス、アンタ。自分が何を言ってるか分かってるのか」
「わかっています……! 私にはラナ様のような、あなたを支える強さも、資格もない。でも……この下着を着てから、私は、私という『個』を愛してほしくて、支配してほしくて……たまらないのです!」
クラリスの瞳には、かつての清廉な聖女の面影はなかった。そこにあるのは、抑圧されてきた「女」としての根源的な飢えだ。
彼女は零助の無機質な視線に射抜かれながら、震える手で外套を脱ぎ捨て、修道服のボタンを一つ、また一つと外していった。
「サトウ様……。私を、壊してください。教会の教えも、聖女という肩書きも、すべて……。そして、あなたの所有物(モデル)として、再構築してください……っ!」
バリッ、という乾いた音を立てて、彼女は自ら服を左右に割った。
月光の下、透き通るような白い肌が、隠しようのない渇望を伴って晒される。零助が仕立てた『福音』のレースが、彼女の豊かな双丘を、そして震える下腹部を、残酷なほど美しく月光の光を吸い、キラキラと反射していた。
「見てください……。私の身体は、もうあなたの魔力なしでは、呼吸することさえ忘れてしまう。……お願いです、サトウ様。今夜だけでいい。私を、あなただけの『不自由』で縛って……」
クラリスはすべてを脱ぎ捨て、零助の足元で、ただ一人の「飢えた女」として、自分を支配する新たな枷を求めて喘いだ。
零助は、そんな彼女の狂態を、情欲を交えぬ冷徹な眼差しで見下ろしていた。しかし、その指先は、再び獲物を捕らえる職人のそれへと、静かに形を変えていた。
森の木々の隙間から、薄紫色の夜明けが差し込み始めた。地平線が白むにつれ、昨日までの自分たちを閉じ込めていた国境の山々が、遠く背後へと遠ざかっていく。
馬車の御者台で手綱を握るラナは、どこか充足感に満ちた表情で、隣に座る零助の肩に頭を預けていた。
「……ん、零助。なんか今日のアンタ、いつもより少しだけ……柔らかい気がする」
「気のせいだ。寝ぼけてないで前を見ろ。もうすぐ街道に出る」
零助は無愛想に言い放つが、その手はラナの腰を安定させるように、無造作に、しかし力強く添えられている。
ラナは満足げに目を細め、朝の冷気を肺いっぱいに吸い込んだ。彼女にとって、昨夜の眠りは至福だった。零助の膝の上で、彼の魔力に包まれて眠る安心感。自分こそが彼の「最高傑作」であり、唯一の想い人であるという確信。彼女は鼻歌を歌いながら、これから始まる新しい街での生活に想いを馳せていた。
一方、馬車の中。
揺れる車内で、クラリスは零助に貸し与えられた外套を深く羽織り、膝を抱えて座っていた。
その瞳にかつての聖女としての輝きはない。しかし、絶望しているわけでもなかった。彼女は、外套の下で自分の肌に完璧に密着している『福音』の、昨夜よりも一段と鋭くなった「加圧」の感触を噛み締めていた。
(……私は、もう戻れない。でも、これでいいのです)
昨夜、零助の指が彼女の肌に刻み込んだのは、単なる魔力の調整ではなかった。それは、聖女という「表の顔」を破壊し、佐藤零助という男の所有物であるという「主従」の刻印だった。ラナには決して明かせない、暗闇の中での再構築。自分は二番目であり、影の存在で構わない。その「不自由」こそが、今の彼女にとって唯一の救済となっていた。
「……愛とは、分け与えるものではなく。……奪われ、支配されるものだったのですね」
クラリスは、ラナには見えない角度で、自身の首筋に残る熱をなぞるように触れた。そこには、ラナへの罪悪感すらも快楽へと変換してしまった、歪な信徒の笑みが浮かんでいた。
馬車はやがて、黄金の光に照らされた平原へと躍り出る。
独占を誓う第一モデル・ラナ。共犯者として堕ちた第二のモデル・クラリス。そして、二人を冷徹な技術で支配し続ける仕立て屋・零助。
三つの異なる情念を乗せて、馬車は欲望と自由の港都フェリシタへと突き進んでいく。
そこは、王の法も教会の教えも届かない、零助の「下着」が世界を塗り替えるための、最初の戦場だった。
国境の検問所を、無数の松明の火が包囲していた。夜の静寂を切り裂くのは、教会の威信を懸けた聖騎士たちの怒号と、魔導矢が空を切り裂く鋭い風切り音だ。
「マスター、伏せてて! ここは私が……全部、片付けてやるから!」
馬車の御者台に立つラナが、喉を鳴らして吠えた。彼女の全身を包む魔導下着『疾風』が、主人の高揚した殺意に呼応し、青白い放電現象を起こす。
バキィッ、と空気が爆ぜる音がした。ラナの身体能力が、物理的な限界を越えて加速する。彼女は降り注ぐ魔導矢の雨の中を、重力を無視したような動きで駆け抜け、最前列の騎士たちの盾を次々と粉砕していった。
その凄まじい光景を、佐藤零助は揺れる馬車の中から無機質な瞳で見つめていた。
零助にとって、この絶体絶命の状況は「危機」ではなく、一種の「最終検品」に過ぎない。彼は瞳に鈍い銀色の光を宿す固有スキル【下着の禁書庫】を起動し、前方で躍動するラナの肉体と、彼女が纏う『疾風』の同調率をリアルタイムで解析していた。
(……左大腿部の筋肉収縮、設定値より0.02秒速い。心拍数160。魔力循環率92%。サイドパネルの加圧、あと3%上げられるな)
ラナは、零助を守るために命を燃やしている。彼女が剣を振るうたびに飛び散る汗も、荒い吐息も、すべては零助への報われない、しかし強烈な愛着からくる献身だ。だが、零助はそれを情緒として受け取ることをしない。彼は彼女の献身を「出力データ」としてのみ処理し、自身の技術が正しく機能していることに冷徹な充足感を覚えていた。
「っ……あぁ……っ!」
馬車の後部座席で、クラリスは零助の腕を震える手で掴んでいた。爆発音と怒号、そしてラナが放つ、人を寄せ付けないほど猛々しい魔圧。箱庭のような聖域で生きてきた彼女にとって、それは世界の終末にも等しい衝撃だった。
「サトウ様、ラナ様が……あんなに無理をして……! 私を置いて、お二人だけでも逃げてください!」
クラリスの悲痛な叫びを、零助は鼻で笑い飛ばした。
「黙って見てろ。あいつは壊れない。俺がそう作ったからな」
零助はクラリスの手を振り払い、窓から身を乗り出して指先を弾いた。
「――【遠隔調律:強制加圧(オーバー・ブースト)】」
その瞬間、ラナの脇腹を締め上げるベルトが、彼女の魔力を無理やり一段上のステージへと押し上げた。
「――っ! あああああああッ!!」
ラナの剣筋が、物理的な法則を置き去りにした「閃光」と化した。一振りで十数人の騎士を鎧ごと吹き飛ばし、国境を閉ざしていた重い鉄柵を、まるで熱したナイフでバターを切るように両断する。
「……計算通りだ」
零助は、自分の技術が正しく「機能」していることに満足し、小さく口角を上げた。ラナが自分に向ける、身を削るような重い情念。それを彼は「当然の機能」として冷酷に使いこなし、彼女の献身を糧に、追っ手を夜の闇の向こうへと置き去りにしていった。
そこに「恋人」などという甘い温もりはない。あるのは、設計者と最高傑作という、歪で強固な「機能への信頼」だけだった。
国境の喧騒が遠ざかり、馬車の車輪が刻む不規則なリズムだけが夜の静寂を支配していた。
追撃の手をひとまず振り切ったものの、周囲を覆う深い森は、どこまでも続く闇の迷宮のように三人を拒絶している。窓から差し込むわずかな月光は、馬車の中に座る零助とクラリスの横顔を、青白く不吉に照らし出していた。
「……サトウ様」
クラリスが、震える声で沈黙を破った。
彼女は自分の肩を抱くようにして、零助が貸し与えた厚手の外套に深く身を沈めている。その指先は、外套の下で自分を支えている『福音』の感触を確かめるように、絶えず胸元を彷徨っていた。
「私たちは、本当に……あちら側には戻れないのですね。私が祈りを捧げ、人々が跪き、神の光がすべてを包んでいた……あの温かな場所には」
「戻りたきゃ戻れ。今ならまだ、死刑台の特等席が空いてるだろうよ」
零助の返答は、あまりにも無慈悲だった。彼は馬車の揺れに身を任せながら、手元にある端切れで指先を拭っている。その瞳には、故郷を失った聖女への哀れみなど微塵もなかった。
「酷いお方。……ですが、本当ですね。私は今、あの重苦しい法衣を着ていた時よりもずっと、自分が生きていることを実感しています」
クラリスは自嘲気味に微笑んだ。
地位も、名誉も、信仰という名の平穏も失った。今の彼女はただのお尋ね者であり、一人の男に命を預けるだけの存在だ。しかし、鉄のコルセットから解放され、零助が仕立てた薄い布地に身を包んだ今、彼女の肺には驚くほど深く、清涼な空気が流れ込んでいた。
「教会では教わりました。愛とは、太陽のように等しく分け与えるものだと。神の慈愛は、すべての人に平等に注がれるべきだと。……ですが、ラナ様を見ていると、わからなくなるのです」
クラリスの脳裏に、先ほどのラナの姿が浮かぶ。
血の匂いを振り撒き、敵を蹂躙し、ただ一人「零助」という存在から愛されるためだけにすべてをなぎ倒した、あの凄まじいまでの暴力的な献身。
「彼女のあの、自分以外をすべて焼き尽くしそうな情念は、私が知る『愛』とはあまりにかけ離れています。あの方は、貴方という存在を、世界から奪い取ろうとしているように見える。……愛とは、これほどまでに独善的で、恐ろしいものなのですか?」
その問いは、独占欲を知らずに育った聖女の、根源的な恐怖だった。ラナが向ける「重い愛」は、クラリスがこれまで分け与えてきた薄く広い慈愛を、根底から嘲笑っているように感じられたのだ。
「愛だぁ? そんな曖昧な定義、俺に聞くな。……俺が知っているのは、お前のその服の『結び目』が、少しズレているということだけだ」
零助は、クラリスの戸惑いを一蹴するように、彼女の至近距離まで顔を寄せた。
馬車の狭い空間に、零助の放つ冷徹な威圧感が充満する。クラリスは思わず息を呑み、背中を座席に押し付けた。
「お前が信じていた『博愛』なんてものは、結局のところ、誰に対しても責任を取らない無関心の別名だ。だが、俺が作る服は違う。着用者一人ひとりの骨格、筋肉、魔力……そのすべてを俺が定義し、支配する。ラナが俺に執着するのは、俺が彼女の『個』を誰よりも深く暴き、作り替えたからだ」
零助の指先が、クラリスの顎をクイと持ち上げる。
彼の瞳は、彼女という「女性」を見ているのではない。その奥にある魔力の流れ、肉体の構造、そして『福音』という作品の整合性だけを冷酷にスキャンしていた。
「分け与える愛なんてものは、俺の辞書にはない。あるのは、俺が認めた素材を、俺の色で塗り潰すという独占だけだ。……クラリス、アンタもその端くれになったんだ。今さら綺麗事を吐いて、自分を守ろうとするな。いいから黙ってそのデカい乳と尻を守られて綺麗にしておけばいいだけだ」
「あ……ぁ……」
零助の言葉は、クラリスの心に深く突き刺さった。
神の慈愛という盾を失い、剥き出しになった彼女の魂は、零助という絶対的な個の「支配」に晒され、恐怖とともに言いようのない高揚感に包まれていく。
「……そうですか。私は、もう……ただ分け与えるだけの聖女ではないのですね」
クラリスの唇から漏れたのは、絶望ではなく、未知の領域への足を踏み出す者の、震える吐息だった。
外では、ラナが返り血を浴びながら周囲を掃討している。彼女の「独占」の意志が森の静寂を切り裂く中、馬車の密室では、零助の冷徹な言葉によって、聖女の価値観が静かに、しかし確実に瓦解を始めていた。
「……零助、少し鼻が利くわ。野犬か、あるいは教会の放った隠密か……どっちにしても、この辺りの『不純物』を根こそぎ潰してくる。アンタはその女と、大人しく馬車の中で待ってなさいよ」
ラナはそう言い残すと、嫉妬を押し殺したような鋭い視線を一度だけクラリスに向け、夜霧の立ち込める森の奥へと音もなく消えていった。彼女が放つ獰猛な魔圧の残滓が、周囲の空気をピリつかせ、やがて完全な静寂が馬車を包み込む。
狭く、暗い、二人だけの密室。
零助は魔導ランプを灯すと、迷いなくクラリスの方へと顔をあげた。
「……っ、あ……」
クラリスは反射的に身を竦めた。ラナが命を懸けて外を守っている、そのすぐ傍らで、彼女の想い人である男が自分に近づいてくる。その事実に、聖女としての理性が激しく警鐘を鳴らす。だが、それ以上に彼女の肉体は、零助が放つ絶対的な支配の気配に、抗いがたく惹きつけられていた。
「じっとしてろ。……激しい移動のせいで、『福音』のテンションが狂ってる。胸元の結節点が右に2ミリずれて、左のサイドパネルがアンタの肺を不必要に圧迫してるぞ」
「あ、ぁ……サトウ、様……っ。それくらい、私、自分でも……」
「アンタの未熟な手で触って、俺の設計をこれ以上乱すな。いいから、外套を脱げ」
零助の言葉は、慈悲を削ぎ落とした命令だった。
クラリスは震える指先で、外套の紐を解いた。破れた修道服の間から、零助が昨夜仕立てた光のレース――『福音』が、暗がりに淡く浮かび上がる。
零助は躊躇なく、その逞しい指先をクラリスの襟元から滑り込ませた。
「ひ……っ、あぁ……!」
肌に直接触れる、零助の指の温度。それは冷たく、しかし同時に、彼の体内で練り上げられた魔力が、暴力的なまでの熱となってクラリスの肉体を貫いた。
零助は彼女の脇腹から背中にかけて、指先で下着の繊維を一本ずつ弾くようにして、最適なテンションへと整えていく。彼の指が肌をなぞるたびに、クラリスの背筋に雷のような快楽が走り、肺が強制的に押し広げられる。
「サトウ様……。ラナ様は、外で……あんなに必死に、戦ってくださっているのに。私は……こんな……」
「愛は分け与えるものだって、アンタ自身が言ったんだろ。だったら、俺のこの『技術』も、アンタに分け与えてやる。……感謝して受け取れ」
零助の皮肉な言葉が、クラリスの胸を鋭く抉る。
彼は、クラリスの苦悩など意に介さない。ただ、自らが作り上げた「下着」という名の秩序が、完璧に機能することだけを追求している。その無機質さが、かえってクラリスの「個」としての飢えを刺激した。
零助の指が、今度はクラリスの胸間にある魔力の結節点に触れた。
「あ、ぁ……っ。そこは……そこ、だけは……っ!」
「うるさい。ここが一番乱れてるんだ。魔力が逆流して、アンタの心臓を焼こうとしてるぞ。……俺の指を信じろ。それとも、あの重苦しい鉄の檻に戻りたいか?」
「いいえ……、嫌、です……っ」
クラリスは、自分の唇から漏れる吐息が、自分でも驚くほど淫らな響きを帯びていることに気づき、顔を赤らめた。
聖女として、あまねく人々に慈愛を説いてきた。特定の誰かに独占されることも、ましてや誰かを独占したいと願うことも、罪であると信じてきた。だが、今、この狭い空間で、零助の指先によって「中身」を弄られ、肉体の構造そのものを書き換えられていく快楽は、どんな祈りよりも甘美で、残酷だった。
ラナの知らない、密室の調律。
外で彼女が鉄錆の匂いを纏い、零助への独占欲を武器に戦っている最中。その男は、別の女の肌に直接魔力の刻印を刻み、その精神を内側から支配していく。
「……よし。これで呼吸の通りが良くなったはずだ。魔力の循環も正常値に戻った。ご自慢の胸の形も綺麗になったんじゃないか」
零助が手を抜いたとき、クラリスの身体は力が抜けたように座席に崩れ落ちた。
全身を駆け巡る新しい魔力の奔流と、肌に残る零助の指の残熱。
彼女は乱れた呼吸を整えようとしながら、潤んだ瞳で零助を見上げた。
「サトウ様……。あなたは、本当に……悪魔のよう。私を、元の私には、もう戻れなくしてしまった……」
「元のお前なんて、ただの『機能不全』だ。俺がそれを直してやった。……それだけのことだ。それに、今のお前の方が、教会に縛られていた時より綺麗に見えるがな」
零助は平然と答え、再び魔導ランプの灯りを落とした。
闇の中で、クラリスは自分を包む『福音』の感触を、先ほどよりもずっと重く、濃密に感じていた。それはもはや救済の光ではなく、零助という男に繋がれた、不可視の「鎖」のようだった。
聖女としての博愛精神を盾にしながらも、彼女の心には、ラナが抱いているものと同じ「独占」という名の黒い火種が、静かに、しかし確実に宿り始めていた。
馬車の扉が、外側から乱暴に蹴破るようにして開かれた。
流れ込んできたのは、夜の森の凍てつくような冷気と、それ以上に生々しく、鼻を突くような鉄錆――鮮血の匂いだった。
「……零助、掃除は終わったわよ。当分、あのクソ汚い野犬どもは近づけないわ」
そこには、肩で激しく息を切らせたラナが立っていた。銀色の髪は激しい運動によって乱れ、頬には返り血が筋となってこびりついている。だが、彼女の瞳は疲れを見せるどころか、獲物を仕留めた獣特有の、ぎらついた興奮と熱を帯びていた。
ラナの視線は、瞬時に馬車の中の光景を捉えた。
乱れた着衣を慌てて整えるクラリスと、その傍らで指先を拭っている零助。密室に漂う、独特の甘く重い魔力の残滓。
「……何してたの、二人で」
ラナの声は低く、そして地を這うような殺意を孕んでいた。彼女の全身を包む『疾風』が、主人の激しい嫉妬に呼応してギチギチと音を立て、過剰なまでの加圧を肉体に強いる。
「フィッティングの調整だ。移動の衝撃で魔力の循環が乱れていたからな。……お前の『疾風』も、診てやる。こっちへ来い」
零助の返答は、あまりにも無機質で、日常的なものだった。彼はラナの殺気など意に介さず、当然のように自分の隣、指し示した。
「……っ、ふぅ。そう。そうよね……アンタはそういう男だもんね」
ラナは毒気を抜かれたように息を吐くと、次の瞬間、泥のように崩れ落ちながら零助の首筋にしがみついた。
戦場帰りの彼女からは、死の匂いと、限界まで高まった「雌」としての熱が立ち上っている。彼女はクラリスのことなど視界から消し去ったかのように、零助の胸板に顔を埋め、その体温を確かめるように強く、強く抱き寄せた。
「……はぁ、はぁ……。零助。私、アンタのために戦ったんだから。アンタが私を見ててくれるから、私は最強でいられるの。……ねえ、私のこと、もっと……もっと見ててよ。アンタの装備(下着)がなきゃ、私、もう立ってられないんだから……っ!」
ラナは、クラリスに見せつけるように零助の首筋に歯を立てた。それは甘えるというにはあまりに激しく、自分の所有物であることを刻み込もうとする「マーキング」の儀式だった。
彼女は知っている。零助の愛は、世俗的な甘い言葉ではない。自分という素材を、誰にも真似できない精緻な技術で支配し、強化し、自分の色に染め上げることなのだと。
零助は、そんな彼女の乱れた銀髪を無造作に、しかし力強く撫でた。
彼の指がラナの下着のストラップをなぞり、限界を超えて高まった魔力を指先から「解体」し、鎮めていく。
「わかっている。お前は俺の最高傑作だ。……誰にも、代わりはさせないさ」
「……あ、ぁ……っ」
零助の冷徹ながらも絶対的な「所有宣言」に、ラナは悦びに身体を震わせ、その腕の中で恍惚と目を閉じた。彼女にとって、この支配の感覚こそが唯一の安らぎであり、自分が零助の「一番」であるという確信を得るための薬だった。
その光景を、馬車の隅で息を潜めて見ていたクラリスは、喉の奥が焦げ付くような感覚を覚えていた。
自分には、あんな風に零助を独占し、獣のように縋り付く権利はない。先ほどまで自分の肌を弄んでいた指先は、今、自分よりもずっと深く「繋がって」いるラナを鎮めるために使われている。
「……サトウ様。愛とは、そのような……剥き出しの狂気なのですか?」
クラリスの唇から、震える問いが漏れた。
彼女の中の「聖女」が、ラナの一方的な重愛と、それを当然のように受け入れる零助の歪な関係性を目の当たりにし、音を立てて瓦解していく。
「……狂気? 違うな。これは、最も純粋な『依存』という名の機能だ」
零助はラナを抱いたまま、クラリスを射抜くような視線で言い放った。
その瞬間、クラリスは悟った。ラナが零助に求めているのは「救い」ではなく「支配」であり、零助もまた、彼女を「素材」として愛でることで支配を完成させているのだと。
自分に与えられた『福音』という名の優しげな下着は、まだ甘い。
ラナが纏う、あの肉体を抉るような『疾風』の冷たさ。それこそが、零助という男の「本気」なのだと思い知らされ、クラリスの胸には、教会の教えにはないドロドロとした暗い情念が芽生え始めていた。
深夜。焚き火の爆ぜる乾いた音だけが、森の深い闇をわずかに押し返していた。
馬車のすぐ傍ら、零助の膝を枕にするようにして、ラナは泥のような眠りに落ちていた。激戦による肉体の疲弊と、零助の放つ冷徹な魔力に包まれているという安堵感が、獣のような彼女の警戒心を完全に解かせている。時折、夢の中で獲物を追っているのか、彼女の指先が零助のズボンの生地を小さく掻いた。
だが、馬車の車輪に背を預けて座るクラリスは、一睡もできずにいた。
隣で眠るラナの、あの剥き出しの欲情。そして、零助が彼女に向ける、無機質ながらも絶対的な所有の眼差し。それらが、クラリスの脳内で何度もフラッシュバックし、彼女が十数年かけて積み上げてきた「聖女」という名の殻を、内側からボロボロと削り取っていた。
(……愛は、等しく分け与えるもの。誰かを独占してはならない。神の慈愛は、すべての人へ……)
脳裏に響く教会の教典が、今はあまりにも虚しく、冷たい。
先ほど零助の指が自分の肌をなぞった時の、あの熱。ラナが零助の首筋に噛みついた時の、あの狂おしいまでの悦びの表情。それらを知ってしまった今、クラリスが守ってきた「博愛」は、ただの「空虚な孤独」に過ぎなかった。
「……サトウ様。起きていらっしゃいますか」
クラリスが、暗闇の中から這い寄るように、音もなく零助へ近づいた。
零助は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。彼はゆっくりと瞼を持ち上げ、銀色の瞳で、跪くクラリスを冷たく射抜いた。
「……何だ。調子が悪いのか?」
「いいえ……。私の、心が、壊れそうなのです」
クラリスは零助の前に跪き、その冷たい手を取って、自分の震える胸元に押し当てた。下着越しに、彼女の心臓が異常な速さで脈打っているのが伝わる。
「ラナ様のあの激しい愛を、私は理解できません。……いえ、理解したくないのです。分け与える愛しか知らない私は、あの方の隣にいることが、あまりにも苦しい。……教会の言葉ではない、あなたが教える『真実』を教えてください。私を……ラナ様のように、あなたの熱で塗り潰してほしいのです」
「……クラリス、アンタ。自分が何を言ってるか分かってるのか」
「わかっています……! 私にはラナ様のような、あなたを支える強さも、資格もない。でも……この下着を着てから、私は、私という『個』を愛してほしくて、支配してほしくて……たまらないのです!」
クラリスの瞳には、かつての清廉な聖女の面影はなかった。そこにあるのは、抑圧されてきた「女」としての根源的な飢えだ。
彼女は零助の無機質な視線に射抜かれながら、震える手で外套を脱ぎ捨て、修道服のボタンを一つ、また一つと外していった。
「サトウ様……。私を、壊してください。教会の教えも、聖女という肩書きも、すべて……。そして、あなたの所有物(モデル)として、再構築してください……っ!」
バリッ、という乾いた音を立てて、彼女は自ら服を左右に割った。
月光の下、透き通るような白い肌が、隠しようのない渇望を伴って晒される。零助が仕立てた『福音』のレースが、彼女の豊かな双丘を、そして震える下腹部を、残酷なほど美しく月光の光を吸い、キラキラと反射していた。
「見てください……。私の身体は、もうあなたの魔力なしでは、呼吸することさえ忘れてしまう。……お願いです、サトウ様。今夜だけでいい。私を、あなただけの『不自由』で縛って……」
クラリスはすべてを脱ぎ捨て、零助の足元で、ただ一人の「飢えた女」として、自分を支配する新たな枷を求めて喘いだ。
零助は、そんな彼女の狂態を、情欲を交えぬ冷徹な眼差しで見下ろしていた。しかし、その指先は、再び獲物を捕らえる職人のそれへと、静かに形を変えていた。
森の木々の隙間から、薄紫色の夜明けが差し込み始めた。地平線が白むにつれ、昨日までの自分たちを閉じ込めていた国境の山々が、遠く背後へと遠ざかっていく。
馬車の御者台で手綱を握るラナは、どこか充足感に満ちた表情で、隣に座る零助の肩に頭を預けていた。
「……ん、零助。なんか今日のアンタ、いつもより少しだけ……柔らかい気がする」
「気のせいだ。寝ぼけてないで前を見ろ。もうすぐ街道に出る」
零助は無愛想に言い放つが、その手はラナの腰を安定させるように、無造作に、しかし力強く添えられている。
ラナは満足げに目を細め、朝の冷気を肺いっぱいに吸い込んだ。彼女にとって、昨夜の眠りは至福だった。零助の膝の上で、彼の魔力に包まれて眠る安心感。自分こそが彼の「最高傑作」であり、唯一の想い人であるという確信。彼女は鼻歌を歌いながら、これから始まる新しい街での生活に想いを馳せていた。
一方、馬車の中。
揺れる車内で、クラリスは零助に貸し与えられた外套を深く羽織り、膝を抱えて座っていた。
その瞳にかつての聖女としての輝きはない。しかし、絶望しているわけでもなかった。彼女は、外套の下で自分の肌に完璧に密着している『福音』の、昨夜よりも一段と鋭くなった「加圧」の感触を噛み締めていた。
(……私は、もう戻れない。でも、これでいいのです)
昨夜、零助の指が彼女の肌に刻み込んだのは、単なる魔力の調整ではなかった。それは、聖女という「表の顔」を破壊し、佐藤零助という男の所有物であるという「主従」の刻印だった。ラナには決して明かせない、暗闇の中での再構築。自分は二番目であり、影の存在で構わない。その「不自由」こそが、今の彼女にとって唯一の救済となっていた。
「……愛とは、分け与えるものではなく。……奪われ、支配されるものだったのですね」
クラリスは、ラナには見えない角度で、自身の首筋に残る熱をなぞるように触れた。そこには、ラナへの罪悪感すらも快楽へと変換してしまった、歪な信徒の笑みが浮かんでいた。
馬車はやがて、黄金の光に照らされた平原へと躍り出る。
独占を誓う第一モデル・ラナ。共犯者として堕ちた第二のモデル・クラリス。そして、二人を冷徹な技術で支配し続ける仕立て屋・零助。
三つの異なる情念を乗せて、馬車は欲望と自由の港都フェリシタへと突き進んでいく。
そこは、王の法も教会の教えも届かない、零助の「下着」が世界を塗り替えるための、最初の戦場だった。
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