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幸運銀行
しおりを挟む幸運銀行
野崎貴幸は、握り潰したくなるような古い電話機を手に、窓の外を見つめた。十階建てマンションの最上階から見下ろす夜の街は、まるで彼の人生のように遠く、冷たく映った。時計は午前3時を指している。父の葬儀から一週間、眠れぬ夜が続いていた。
父の遺品を整理中に見つけたものだった――小さな黒い電話機と、封筒に入った一枚のカード。そこには、こう書かれていた。
『幸運銀行 - あなたの未来に投資します』
そして、電話番号。野崎は眉をひそめた。父、誠司の人生は不運の連続だった。会社の倒産、詐欺、病気。そして最後は、自ら命を絶った。「俺には運がない」と口癖のように呟いていた父の声が、頭の中で響く。
「こんなもの、気味が悪いだけだ」
それでも、野崎は番号を押した。失うものなど、もう何もなかった。
「幸運銀行でございます。野崎貴幸様、お電話お待ちしておりました」
女性の声は穏やかで、まるでこの瞬間を予見していたかのようだった。
「どうして俺の名前を…?」野崎の声が震えた。
「お父様、野崎誠司様よりお預かりしております。あなたは彼の唯一の相続人です」
「父とどんな関係だ? 何なんだ、この銀行は?」
「我々は、人の運を管理する機関です。人は生まれながらに定められた運の総量を持っています。それを預かり、必要な時に引き出せるよう運用するのが私どもの役割です。お父様は、自身の運のほとんどをあなたの口座に移されました」
「ふざけるな。そんな話、信じられるか」
「疑うのは当然です。試しに、少量の運を解放してみませんか? 何か小さな願いは?」
野崎は一瞬、言葉を失った。馬鹿げている。だが、疲れ果てた心に、かすかな好奇心が芽生えた。
「…明日の朝、晴れてほしい」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
電話が切れた。野崎はベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちた。
翌朝、眩しい陽光が部屋を満たしていた。野崎は窓に駆け寄った。天気予報は曇りだったはずなのに、空はどこまでも青く澄み渡っている。
「まさか…偶然だろ」
出勤途中、いつも渋滞する交差点が奇跡的に空いていた。コンビニでは売り切れ必至のサンドイッチが棚に並び、エレベーターはボタンを押した瞬間に開いた。些細なことばかりだったが、すべてが不自然なほどスムーズだった。
昼休み、野崎は再び電話をかけた。
「幸運銀行です。ご満足いただけましたか?」
「これは…本当なのか?」
「あなたの口座には、お父様が残された相当量の運がございます。小さな願いなら数滴、大きな願いならそれなりの量を消費します」
「残高はどれくらいだ?」
「数値では表せませんが、大きな願いをいくつか叶えられるほどです。ただし、運は有限です。使いすぎにご注意ください」
帰宅途中、野崎は考え込んだ。この力が本物なら、人生は変わる。だが、父の不運な人生が脳裏をよぎる。なぜ父はこんなものを残した?
三ヶ月後、野崎の生活は一変していた。
幸運銀行の力を使い、彼は会社で重要なプロジェクトを成功させ、主任に昇進した。長年の片思いだった同僚の香織と交際を始め、偶然見つけた投資で小金を手に入れた。だが、野崎は慎重だった。小さな願いにのみ運を使い、大きな賭けには手を出さなかった。銀行に問い合わせるたび、口座の運が少しずつ減っていく感覚があった。
ある夜、香織が興奮気味に言った。「素敵な物件を見つけたの! でも、競争率が高くて…」
野崎は迷った末、電話を手に取った。
「その家を手に入れたい。運を…引き出してくれ」
「かしこまりました。ただし、これで口座の半分以上を消費します。よろしいですか?」
「…構わない」
翌日、売主から連絡が入った。より高額なオファーを差し置いて、なぜか野崎たちの申し出が選ばれた。
新居での生活が始まり、野崎は父の遺品を整理していた。古いアルバムから、若い頃の父の写真が出てきた。笑顔で、希望に満ちた姿。野崎の知る、疲れ果てた父とは別人のようだった。その奥から、一枚の紙が落ちた。父の筆跡で、こう書かれていた。
『幸運銀行 残高照会 - 1978年』
そこには、運の貸し借りの記録があった。膨大な運の借入と、その後の返済記録――不運として。
野崎は震える手で電話をかけた。
「父は…なぜ俺に運を残した?」
「お父様は、あなたのために運を借りました。あなたのお母様との結婚、そしてあなたに幸運な人生を残すためです。彼は借りた運を返済するため、残りの人生で不運を受け入れました」
「何のために…そんなことを?」
「お母様との結婚は、周囲の反対と経済的困窮で不可能でした。お父様は運を借り、奇跡を起こしました。そして、あなたが生まれた後、将来のあなたの幸せのために、さらなる運を借り入れました」
野崎は言葉を失った。父は母との短い幸せのために、人生のすべてを差し出したのだ。愛だったのか、愚かな選択だったのか。答えは出なかった。
息子、佑樹が生まれた日、野崎は病院の廊下で電話を握っていた。
「残りの運をすべて、子の無事な出産に使ってくれ」
「口座が空になります。新たに運を借りることもできますが…」
「いや、借りない。父のようにはならない」
看護師が笑顔で出てきた。「健康な男の子ですよ」
野崎は安堵の息をついた。だがその直後、携帯が鳴った。会社からだ。担当していたプロジェクトが失敗し、責任者として降格が決まった。
「これが…運のない人生か」
数年が経った。野崎の生活は厳しかった。給料は減り、香織との関係も時にぎくしゃくした。交通事故に遭い、階段でつまずき、些細な不運が積み重なった。それでも、家族はなんとか絆を保っていた。
一方、佑樹は不思議なほど運に恵まれていた。試験の日はいつも絶好調。サッカーの試合では決定的なゴールを決め、友達に囲まれ、笑顔を絶やさなかった。野崎は思った。自分の犠牲は、間違っていなかったのかもしれない。
佑樹の十歳の誕生日、玄関に差出人不明の小包が届いた。中には、見覚えのある黒い電話機とカード。
『幸運銀行 - あなたの未来に投資します』
野崎の心臓が凍りついた。「なぜ…息子に?」
電話を手に、番号を押した。
「なぜ佑樹に送った? 彼から運を奪うな!」
「ご安心ください。お子様には、生まれながらの運の口座があります。私どもは強制しません。選択は彼に委ねられています」
「父も俺も、そして息子まで…この呪いは終わらないのか?」
「呪いではありません、野崎様。選択です」
電話が切れた。野崎は電話機を握りつぶしたい衝動に駆られた。
その夜、香織にすべてを話した。幸運銀行、父の犠牲、佑樹のために運を使い果たしたこと。香織は静かに耳を傾け、手を握った。
「信じられない話だけど…あなたと結婚したことは後悔してない。運がなくても、私たちには選ぶ力がある」
野崎は涙を堪え、初めて安らかな眠りに落ちた。
翌夜、野崎は決意した。電話機を川に投げ捨て、すべてを終わらせよう。月明かりの下、水面を見つめ、手を上げたその瞬間――
「お父さん、何してるの?」
振り返ると、佑樹が懐中電灯を持って立っていた。無垢な瞳で父を見つめる。
「なんでもないよ」野崎は電話を握りしめた。
「その電話、変だね」
野崎は黙った。投げようとした瞬間、佑樹が口を開いた。
「それ、捨てても無駄だよ」
その声は、10歳の子供とは思えない落ち着きを帯びていた。
「…何?」
「前にも捨てたよね。でもまた届いてた。捨てても、明日また来るよ」
野崎の背筋が冷えた。「お前…なんでそんなことを…?」
佑樹は小さく笑った。月明かりに照らされたその瞳に、野崎は父の面影を見た。
「だって、僕…もう使ってるから」
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