1 / 1
言語ウイルス
しおりを挟む昔、世界は沈黙に満ちていた。
心と心が直接触れ合い、偽りのない感情が光のように伝わるテレパシーの世界。憎しみも愛も、恐れも喜びも、すべてが透明だった。空気は清浄で、人々の瞳には嘘がなかった。
しかし、ある朝を境に異変が始まった。
最初は遠い街角からの小さな呟き。やがて人々は口を震わせ、奇怪な音を発するようになった。「おはよう」「ありがとう」「愛してる」──偽物の言葉と音の連鎖。
これはウイルスによるものだ。
感染者との接触で広がり、テレパシー機能を破壊していく。感染者の記憶から、透明だった世界の記憶さえも消し去ってしまう。そして音は嘘を生んだ。笑顔の下に憎悪を隠し、「大丈夫」と囁きながら心では泣いている。
言語ウイルスによって嘘と欺瞞に侵された世界で、私だけが免疫を持っていた。
街を歩けば、人々の口から漏れる不協和音が耳を刺す。彼らの表情は歪み、目は虚ろで、まるで糸の切れた人形のようだった。時折、誰かが私を振り返り、哀れむような視線を向ける。私が心で語りかけても、もう誰も答えてくれない。
「調子はどう?」
白い服の女が音を投げかけてくる。彼女の心を探ろうとするが、霧のような静寂が広がるばかりだ。いや、私の頭が霧に閉ざされているのか? 彼女の目は私を哀れむように、でもどこか遠くを見ている。
彼らは私を「異常」と呼んで、この白い部屋に閉じ込めた。壁は私の叫びを吸い込み、返すのは沈黙だけだ。
「薬の時間よ」
小さな錠剤が差し出される。それを見つめる私の指は震えていた。これはウイルスなのか、それとも私の声を奪う何か別のものか?
私は錠剤を飲み込み、目を閉じた。頭の中で響いていた声が、かすかに、だが確かに、遠ざかっていく。
看護師が近づき、いつものように囁く。「話してみなさい。ほら」
私は目を閉じ、心で叫ぶ。*聞こえる? ねえ、聞こえるの?
だが、喉が震え、知らない音が漏れ出す。
「…聞こえる」
看護師が唇が僅かに歪む。彼女の目の奥で、まるで私の心を見透かしたような光が揺れた気がする。しかし今の私には何も分からない。
私の声は、もう私のものではなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる