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第十章✪時空を越える儀

時空を越える儀

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それからというもの、
クラーザの様子は一変し、慌てるように荷をまとめ始めた。

「―――宴会場を設けて頂いているというのに..
ベルカイヌンは参加せずに、ここをすぐに発つというのか?」

新羅はクラーザの後を追いかけた。

仕事が無事に成功したので、
共に戦った者達で祝杯をというのが暗黙のルールだが、
クラーザはすぐに村に戻る支度を始めていた。

「ああ、急用がある」

「先程のやつか?
なんと書かれていたのか、わからんかったのであろう?
...まさか、もう暗号が解けたとでも??」

新羅も当たり前のように身支度を始める。

「いいや」

「では...何か胸騒ぎがするのか?何かの予兆が??」

クラーザは小さな袋を肩から下げて担いだ。完了だ。

「...俺は占い師じゃない。『予感』などでは動かない」

クラーザは鼻で笑ったようだった。
新羅はなおさら食い下がる。

「じゃあ...じゃあ...??」

「早く戻らなければならないという....『確信』をしたからだ」

最初、クラーザは少し迷ったような表情を浮かべたが、最後は『確信』と強く言い切った。

「こやつはどうする?
まだ邪気祓いが済んではおらぬぞ?」

今回の任務で得た玉石を、新羅がクラーザに示す。

「早急に頼む」

クラーザは早く村に帰りたがった。
新羅を急かす。

「うむむ...この玉石の邪気は強力じゃ..すぐにと申されても..」

『そうじゃ!』と新羅はあることを閃き、話を続ける。

「わしも共に連れて行っておくれ。少しの場所を貸してもらえれば、半日程度で邪気祓いをしてみせる」

新羅はクラーザに提案する。
クラーザは少し考えた後に、首を縦に振る。

「わかった。では、すぐにここを発つ」

「もちろん!」

新羅は満面の笑みを浮かべた。

クラーザには迷っている時間がなかった。
ここで邪気祓いするのを待っていたら、亜紀は死んでしまうかもしれない。

皆のいる村に、
新羅を連れて行くことを躊躇ったが、仕方がない。

クラーザは新羅を連れて、
一刻も早く、亜紀の待つ村に帰ることにした。

二人の行動を今回のメンバーは横目で見ていた。
さっさと旅立とうとするクラーザを、その場の皆が疎ましい目で見つめる。

「女かぁ..?」

一人がそう呟くと、他の者も口を挟む。

「噂の覚醒者も、女一人で廃れたものだな。
あんな高飛車な女..」

「まぁお似合いではないか?ご本人様も無愛想だしな」

皮肉たっぷりの捨て台詞。
もちろん、クラーザを怒らせると怖いと思う者ばかりなので、二人には聞こえないように噂するが、なんとなくの雰囲気で、クラーザは勘付いていた。

「....」

クラーザは仕事で得た褒美をしっかりと手にして、その場を離れた。

村に近づくにつれて、クラーザは無言となる。
元々、しゃべる方ではないが、新羅はクラーザの様子を気にしはじめた。

ザザ...

新羅は道中、立ち止まる。

「...どうした」

クラーザがふと新羅に振り向く。
森の中での出来事だった。

「そなた...何を心配しておるのだ?」

「は?」

新羅は持参していた包帯をいきなり袋から取り出す。

「そなたが今向かおうとしている場所...わしが他言すると思っておるのではないか?」

「....」

新羅は握りしめた包帯を自分の目に縛りつける。
何度も何度も巻き付け、
前が見えなくなるまで巻き付けた。

「わしは何も見ない。
そなたが連れて行く場所もわからなぬようにするし、
その場におる、そなたの仲間も見ないようにする。
安心しろ..」

新羅のささやかな気遣いだった。

「祈祷師...」

「わしは『新羅』じゃ。そう呼べ」

新羅は笑っているようだった。

「新羅..恩にきる」

クラーザのその言葉が、新羅には嬉しかった。
新羅に目隠ししたまま村にたどり着くと、クラーザはパザナの館ではなく、別の建物に新羅を案内した。

亜紀がのちに名付けることになる『女子寮』である。
そこは、まだ誰も住んではいない空き家だ。

すると、すぐに気配を嗅ぎつけたイルドナが飛んできた。

「クラーザ!」

ガタンッ!!

返事も待たずに、部屋に飛び込んでくる。

「―――」

クラーザはイルドナを見る。
新羅もイルドナの声に耳を傾けた。

「う..?何者だ?」

イルドナは目隠ししたままの異様な姿の新羅を凝視した。

「ベッ..ベルカイヌン??」

何事かと新羅は動揺していた。
クラーザは新羅の肩を叩き『目隠しを取ればいい』と促す。

「こいつは、イルドナだ。
邪気祓いに何か必要な物があれば、こいつに頼んでくれ」

「もしや祈祷師か?」

クラーザの言葉でイルドナは、新羅の正体を知る。

シュッ...

「初めまして、イルドナ。
わしは『滝の果て村』の祈祷師・新羅じゃ。
すぐに、聖水を用意せい」

「はぁ..?」

いきなり生意気な態度の新羅にイルドナは顔を歪めた。
が、すぐに本題を思い出す。

「..そっんな場合じゃないんだ!クラーザ!早く来い!!」

イルドナは強引にクラーザの腕を引っ張った。
クラーザはコクリと頷き、新羅に向き直る。

「しばらく、そこにいてくれ」

「ああ..」

新羅はちょこんと部屋の隅に座り、じっとクラーザを待つことにした。






バタバタとパザナの館に向かっている間に、イルドナはクラーザに説明を始める。

「急にまた倒れたんだ!かなりうなされてる!
ランレートが言うには、もうすぐ死期が近づいていると!」

やはり亜紀のことだった。
イルドナの顔には緊張の色が見えていた。

「ランが言っていた奴は、もう来ているのか」

「ああ、少し前に到着しているみたいだ。
私はまだ会って確認はしていないが」

そう言ってイルドナは、亜紀の寝かせてある部屋の戸を荒々しく開いた。

ガタンッ!


「連れて来たぞっ!クラーザが来たぞ!!!
早く目を覚ませ!起きろよ!」

イルドナは部屋に響き渡る大きな声で叫んだ。

「――」

そこには亜紀が一人、蒼白な顔をして眠っていた。

ガサッ!

イルドナは亜紀に走り寄り、
目を閉じている亜紀に向かってわぁわぁと叫び散らした。

「目を覚ませ...!」

亜紀は血の気の全くない顔色をしていた。
まるで死人のようだった。

クラーザは驚き、あまり近付くことができないくらいだった。

苦しむ様子もなく、人形のようである。

「...一体どんな状況なんだ」

クラーザは小さく呟いた。
イルドナは亜紀を見つめたまま、クラーザに答える。

「2日前までは、まだ起き上がっていたんだ...!
それが...それが...
昨日から全く布団から起き上がらない..!
今朝からはもう...ずっとこのままで、目を開けることもできないんだ..!」

イルドナの焦りようといったら、かなりのものだった。
しばらくの間で、亜紀に相当な情がわき、今ではもう放っておけなくなってしまった。

「クラーザに会いたいと...そればかり言っていた..!」

「...」

クラーザから言葉は発することはなかった。
茫然と立ち尽くしている。

「クラーザ、どうする!?このままでは死んでしまうぞ!」

イルドナがクラーザに詰め寄った。
頭の良いクラーザだ。
危機には必ず良い解決策を生み出してきた。

何か、良い案はないものか?

「...」

「クラーザ!」

何も答えないクラーザに、イルドナは苛立ちさえ感じ始めた。

「―――なにか、他に言ってはいなかったか。
なにか..ヒントになるようなことは...」

「お前のことしか言ってなかったと言ってるだろっ!!!!
なんとかしろよ!」

ドンッ!

あまりのじれったさに、イルドナは畳みを蹴り付けた。

「―――」

クラーザは口をふさぎ、苦い表情を浮かべた。
なんの対処法も浮かばない。




「―――クラーザ?帰ったの?中に入るよ」

その時、部屋の外からランレートの声が聞こえてきた。

二人の会話をよそに、
ランレートが客人を連れて、部屋に入室してくる。
ランレートに連れられてやってきたのは、可笑しな格好をした男だった。

女物の着物を着て、かと思ったら、所々に武士が身に付けるような鎧を身にまとっている。

髪型は長髪のような、部分的に短髪に切られた、不恰好なものだった。

「わぁお~。イケメン揃いで緊張しちゃうなぁ♪」

その第一声に、クラーザもイルドナも眉間に皺を寄せ、訝しんだ視線を送った。

「クラーザ、紹介するよ。こいつはダグ..」

「魔導士!!!!」

ランレートの言葉を掻き消すように、魔導士はそう言い切った。

「ダグリ、早速だけど、もう時間がないんだ。
例の黒魔術を使えるかい?」

ランレートはダグリに本題を進めた。

魔導士・ダグリ。ランレートの同期生である。

「おいっ!こんな奴、信用できるのか!
どこの輩だ!?」

イルドナが魔導士に喧嘩を売りはじめる。

すると魔導士は、いきなり顔色を変えた。

「君、どいて」

「はぁ?」

「どいてってば!」

魔導士の睨みにイルドナは半分怒りを込み上げながらも、黙って場所をどいた。

ズズ..

魔導士は部屋の隅に横たわっている亜紀に注目し、真顔になった。

「これは...」

近くにいるクラーザが、魔導士の様子を伺う。

「治せるか」

クラーザの問いに魔導士は厳しい目付きになる。

「治せるかだって?無理に決まってるじゃん。
こんなもの、この世にあるべき人じゃないよ」

それは『異世界人』という意味を表していた。

ランレートは魔導士の言葉に頷き、そうして言葉を発した。

「ダグリ、時間を戻す黒魔術を。
この女の子を、元の世界に帰すのを手伝ってほしい」

「...うん。私達にしかきっと出来ないことだろうからね」

交渉成立だ。
亜紀を元の世界に戻すことになった。

ドダドダドダッ―――!!!

廊下から、慌ただしい足音が聞こえた。
そして、こちらの部屋の前で立ち止まる。

「うん?誰だい?」

ガッと魔導士が戸を開けると、一気に式神の子供と、
それを追いかけてきたグラベンが部屋の中にへと、傾れ込んできた。

「このクンガキ!
ランレートの部屋で盗みを働きやがったぞ!捕まえろっ!!」

グラベンが大きな声で指示をする。
言われるまでもなく、戸を開けた魔導士が、
たまたま子供とぶつかり、犯人を確保することになる。

「ええっ?やだぁ!私の部屋で何を盗ったのー?」

ランレートはそれ程に驚いてはいなかったが、とりあえずそう言ってみる。

「知らねぇ!着ぐるみ剥がしてやれ!」

グラベンはカンカンになって怒っている。
元々、子供に対して異様に厳しい。

「うわぁん!ばかぁ!
放せ!放せ!はなっ....―――――――あ...!!」

興奮していた子供は魔導士の顔を見上げて、ピタリと黙りこくった。

「うん?」

魔導士は子供を取り押さえて、首をひねる。

「ま...ま...魔導..し..さま..」

子供は魔導士の姿を見て、硬直してしまった。
尊敬する魔導士が、自分の目の前にいる。
子供の親変わりだった魔導士。

「なんだい?可笑しな子供だね」

この時の魔導士は、子供の存在など知る由もない。

「魔導士さまぁ...」

他人面の魔導士に子供はとても淋しくなり、切なく感じた。

「さっさと離れないか。私は子供と女が大嫌いなんだよ。
触られるだけで失神しそうだ」

グイッ

魔導士は子供を突き放し『やだやだ』と呟いて、
あからさまに子供に触れられた所を、埃をはたくように手で払った。

「魔導士さま!魔導士さまぁ!うぅ...わぁ~ん...!」

子供は魔導士に..
親に突き放されたような気持ちになり、悲しみのあまり騒ぎ出した。

「おい..!ここをどこだと思ってんだ。
場所をわきまえろ!」

イルドナは亜紀に気を使っていた。
いくら子供といえども、死を目前にした人を前にして騒ぐとは、言語道断、黙っておくことなどできない。

「こいつ、ちょっと来い!」

イルドナは子供の首根っこを掴み、
部屋の外にへと連れ出していった。

「魔導士・ダグリ。
あんたとランならば、時間を巻き戻し―――この女を元の世界に帰すことが、本当に可能なのか」

クラーザがようやく口を開いた。
ランレートは魔導士に視線を送る。

「...試したことはないけれど、
私とランレートならば、確実に出来るはずだよ」

「出来る『はず』ってなんなんだよ?
結局、予想でしか答えられねぇのかよ」

グラベンがクラーザの横に立ち、頭をボリボリと掻き毟った。

「―――というか、
私とダグリしか出来ないということだよ。
黒魔術師にしか出来ない術。
しかも、二人以上揃わないと、なしえない術なんだ」

ランレートが難しい顔をして話す。
それ程までに、困難な術ということだ。

「黒魔術を使える魔術師は、
今の時代に、たぶん数えるくらいしか存在しない。
もしくは、いたとしても、
世間からは身を隠している為、
簡単に出会うことなんてできやしない。
つまり二人以上集まることなんて、あり得ないということだ」

魔導士は、自慢気に言った。

「では早速だが、時を戻す方法が知りたい」

クラーザはうざったい自慢話などに付き合う気はなく、早々と次の段階へとうつろうとした。

「時を戻す方法としては、ふたつ、必要なものがある」

クラーザの問いに、ランレートが即答した。
クラーザの急ぐ理由は、誰にでも理解出来た。
『亜紀は死に近付いている』一分一秒を争う。

「なんだ?その必要なものってのは...?」

グラベンも真剣に話を聞いた。
次は、魔導士が口を開く番だ。

「簡単なことさ。『黒魔術』と『時間』だよ」

「黒魔術と.....時間?」

グラベンが魔導士の言葉を、ゆっくりと繰り返した。

『黒魔術』というのは聞かなくても、魔導士とランレートの行う術だということは分かる。
では『時間』とは?

「人を一人、時間を巻き戻すということは、自然の原理に相反することだよ?それには、かなりの負担を要するんだ」

魔導士が回りくどく説明しようとすると、クラーザが単刀直入に説明しろというような合図をする。

「一言で話せ」

今のクラーザは短気に思えた。
さすがに魔導士は頬を膨らませ、つまらなそうな表情をしてみせる。

「もぉ...ちょっとは私の話に付き合ってくれないかなぁ?」

「つまり、この子が存在した分の私達の記憶を引き換えに、彼女の時間を戻すんだ」

ランレートが短く説明した。
更にそれを、グラベンが自分なりに解読しはじめる。

「じゃぁ...こいつとの記憶を俺達から消す...ってことか?」

「そういうことになる」

ランレートがグラベンに頷く。

「記憶を消すだと?」

クラーザが不機嫌な顔をした。
そんなことがあり得るのか。

「仕方ないでしょ~。
『無かった』ことにするんだからさぁ~。
『消す』っていうより『空白に戻す』って思った方が、
気持ちが楽なんじゃない??」

お気楽そうな魔導士。
それに対して、いつになく深刻そうなランレート。

「確かに魔導士の言う通り、
『無かったことにする』『白紙に戻す』
って考えりゃなんだか自然な気がするな..」

グラベンは自分の顎を触りながら、
横たわっている亜紀の顔を見つめた。

ランレートも同じく、亜紀の眠った顔を見つめながら、
深いため息をついた。

「仕方がないよ。迷っている暇はない」

「...」

クラーザは黙った。

「どうする?早速、儀式を行う?
早い方がいいんでしょ?
私もさっさと終わらせて早く家に帰りたいんだよねぇ~」

魔導士が欠伸をしながら、皆に意見を求めた。

「...そうだな。
こうやってる間にも、どんどん衰弱していっちまってるし、早い方がいいんじゃねぇか?」

グラベンはランレートに意見を求めた。

「うん、そうだね。
私達の術の準備次第、早々に取り掛かろう」

ランレートはチラリとクラーザの方を見て、そう言い切った。

早々に儀式を執り行うと決まったが、結局のところ、儀式の準備にはかなりの時間を要した。

だがしかし、グラベンやクラーザの出る幕はなく、
魔導士とランレートの二人に全てを任せるしかなかった。






「―――だからって、
易々と妖魔女を元の世界に帰してしまうのかぁ?」

イルドナは、クラーザの後を付き纏って歩いた。

「ああ」

「クラーザはそれでいいのか?
記憶もいっさいがっさい消されてしまうんだろ!?」

クラーザは新羅の待つ部屋に向かっていた。

「どうせ必要のない記憶だ。
有っても無くても、何の支障もない記憶だ」

「そんなこと...」

イルドナは一瞬、声が小さくなる。
あんなに必死になっていたではないか..

イルドナの脳裏に、クラーザの変化が思い出されたが、あえてそれは口には出さない。

「そうだ...!妖魔女は妊娠してるんだろ?
しかも、蛇威丸の子らしいじゃないか!そんな奴の子供をはらませたまま、私達の知らぬ世界とはいえ、放り出してもいいのか!?」

ギッ...

「―――」

クラーザはいきなり立ち止まる。
イルドナは『どうだ!』と言わんばかりに、クラーザの正面に立つ。

「蛇威丸の子供など、
どこの世にも出すべきじゃないはずだ!」

もう一度、イルドナは繰り返した。

――その時クラーザは、いつかの亜紀との口論を思い出した。

「あの女が子供を望むなら、それは世が定めた運命だ。
誰の子であろうと関係ない。あの女の子供。それだけだ」

「クラーザ...」

イルドナはそれ以上に何も言わなかった。
クラーザが決めたことだ。もう何も言わない。



『あんたが死んで、誰が困る?あんただけだろ』
 

クラーザは亜紀が何も返せなくなるのを待っていた。

『いるだけ邪魔だ』とクラーザが亜紀を邪険にあしらった時、亜紀はまだ何を言おうとしていた。
クラーザに何かを訴えようと。

そして、こう言った。

『アタシは..赤ちゃんを産む..
アタシがいないと、赤ちゃんは、産まれてこれないの...!』

その時のクラーザは、
亜紀が何を伝えたいのかよくわからなかった。

ただ冷たく、
『あんたがいなくとも女は腐る程いる。
あんたが死んでも、世の中が壊滅するはずがない』
そい言い放ってしまった。

『―――それに、妖魔女の子供など誰も望んではいない。
あんたは子供を産む『女』としても必要ない』

亜紀は寂しそうに黙った。
クラーザの目を見つめたまま、ただ黙った。

『必要のない人間だ』

そう言ってしまったことが今更、悔やまれた。

「―――」

クラーザは亜紀への想いを断ち切るかのように、また歩き出した。
ただ、何も動揺せず、前だけを歩いていくのだ、と。

亜紀は蛇威丸の子を産みたがっている...
蛇威丸の元に帰りたがっている..

なぜか心は沈むが、この真意を追求してはいけない。

亜紀を..
亜紀のことを忘れるんだ。
亜紀との記憶を消してしまえばいいんだ。
何もかも、それで終わらせてしまえばいいんだ..

『蛇威丸の女』
いつまでも、グラベンが言ったその言葉が頭から離れない。

いっそのこと、蛇威丸からも亜紀を引き離してしまいたい。
蛇威丸に亜紀を渡したくない。

自分の物にできないのならば、
誰の物にもならない、遠い遠い遠い場所へ、
亜紀を遠ざけてしまえばいい。






「えぇぇぇ―――――っ!!!!」

みーちゃんの叫び声が建物中に響き渡った。

「あ゙ぁ~!うるせぇ!」

グラベンがわざとらしく耳を塞ぐ仕草をした。
グラベンとランレートの目の前には、
かゆ、みーちゃん、桜と百合の四人がいた。

妖魔女である亜紀に、元の世界に帰す儀式をすると、
四人に詳しく説明していたところである。

「だってだってだってだって!
記憶を消されるって、どーゆーことよっ!!!
どっからどこまで消されるって言うの!?」

みーちゃんは、いつもながらグラベンに食って掛かる。

「そうだわ...記憶を失うってそんな簡単に言われても、なんだか不安だわ」

百合も桜も、心配そうな顔をしている。
ランレートは苦笑いしながら、女達を説得に入りだす。

「大丈夫、そんなに不安がることはないよ。
ここ数日の記憶が全部消えてしまうって言う訳じゃなくて、
妖魔女に関する記憶だけがスポッと抜けるだけだよ」

「スポッと抜ける...」

みーちゃんが言葉を噛みしめながら、少し考えごとをした。

「なんだよ、みね?賛成できねーってのか?」

グラベンからそう言われると、
みーちゃんは、急に表情を明るく変えて、首を横に大きく振った。

「ううん!全~然、賛成よ!
ってか、記憶がなくなるのはクラーザさんも同じなワケ?
クラーザさんもあの気味悪い妖魔女の存在を忘れるってことよね!??」

不謹慎にも、目がキラキラと輝くみーちゃん。

「クラーザだけじゃなくて、私達、全員だよ。
妖魔女との記憶は一切なくなる。
妖魔女がいたこも、妖魔女と関わったことも、
何もかも白紙になる」

ランレートがグラベンの変わりに、念を押して言った。

「ふぅ~ん!んじゃ、賛成ー♪」

大喜びで大賛成するみーちゃん。
意地汚い感じで、かゆも桜も百合も顔を引きつらせた。

「良かったわぁ~♪とっとと姿を消してほしかったのよね!
ウザイこと言ってきたしさ!ねっ?かゆ?」

「え...あぁ...」

かゆも亜紀のことは良く思っていなかったが、みーちゃんみたいに、こんなに嬉しそうに話すことはできない。

みーちゃんのことを性格が悪いと思っていたが、
ふと、かゆは密かに心の中で、ガッツポーズしている自分の方が、明らかに性格が悪いのではないかと思い始めた。

「そうと決まれば、
さっさと儀式とやらをやっちゃってほしいもんだわ」

みーちゃんの自分に素直過ぎる態度は、いかがなものかと、その場の全員が思った。

「まぁ..とりあえず、準備が整うまでは四人で待っていてね」

ランレートが待機を促すと、みーちゃんは元気良く『はぁーい!』と手を挙げて笑った。

儀式の用意が整うまで、あとしばらく...



 


亜紀はいつの間にか、目が覚めていた。

かなり長い間、深く眠っていたので、
目が覚めた時には、自分がどんな状況に置かれていたのか、少し忘れかけていた。

仕事に行く日だっけ..
お休みだったっけ..

ああ...

クラーザと野宿してたんだっけ..

違う。
蛇威丸のお城なんだっけ..

えっ..と....


「....」

高熱のせいで、頭が朦朧としていた。

だが、変に身体が軽く感じる。
ランナーズハイみたいな感覚だった。

トサッ..

布団から起き上がっては、
足元がふらつき、再び布団に座り込む。


ここはどこだっけ...


吐く息から火が出そうなくらい、
自身でも高熱を感じとっていた。


そうだ..
アタシ、死んじゃうんだっけ..

よろめきながら、亜紀は再び立ち上がった。
着ている白い着物が少し乱れていたが、帯を結び直す気力はなかった。

下を向けば、吐き気が襲ってきそうだったからだ。

歩けるうちに、この部屋を出てみよう...


カタン..

部屋から出ると、亜紀は廊下を壁をつたって歩いた。
フワフワと雲の上を歩いているようだった。

「お水...」

喉は渇いていないが、
火を吹きそうな熱い口の中を冷やしたかった。


ドダダダダダダ...!!!!!


「――っ!」

前方から、慌ただしい足音が聞こえ、
咄嗟に亜紀は近くの部屋に隠れてしまった。

「やったやったぁ!!!
あの薄気味悪い、性悪女がやっといなくなるんだ!」

それは桜の声だった。
すぐに、百合の声も聞こえる。

「しぃっ!桜、声が大きいわよ!
誰かに聞こえたらどうするのよ、もぅ!」

「でもさぁ!百合も嬉しくない?
みーちゃんが両手を上げて大喜びした時は、さっすがにどうかと思ったけど~」

そこには、桜と百合の二人しかいなかった。
桜と百合は皆の前では大人しいが、二人だけになると本性を現す。
亜紀に嫌がらせをしたのも桜と百合だ。質が悪い。

「....」

亜紀はボヤボヤとしながら、そこで静かに身を隠した。
桜と百合は亜紀に気付かずに、そこで立ち話を始めた。

「妖魔女と関わった記憶を全部消してくれるんでしょ?
ラッキーよね!」

「確かにそうね..
妖魔女を追いやるだけだったら、
嫌な後味が残っちゃうけど、
私達全員の記憶から、あの女を抹消してくれるんでしょう。
良かったわ..」

桜と百合の会話に、亜紀は表情を固くした。

私の存在を消す...?

「ランレートさんも、やっぱり不気味に思ってたんじゃないかしら?」

「クラーザさんにとっても、あの女は無かったことにした方が、断然いいしね!」

残酷な話を二人はケタケタと笑いながらしゃべった。
そうして、気が済んだのか、また廊下を歩き始めた。

どういうこと...?
なんなの...?

亜紀は一気に不安に襲われた。
泣きそうになる。
そして、すぐにクラーザを求め始めた。

「クラーザ...!」

クラーザに会いたい...!

亜紀の心臓がバクバクと脈をうちはじめる。

今度はなにをされるの...!?

ガタガタと身体も震えだす。

今の亜紀には、冷静な判断がつかず、
とにかく居るかどうかもわからないクラーザを探し始めた。

亜紀の心のより所は、
結局のところ、クラーザしかいない。

夕陽が眩しかった。

「んっ...」

夕陽に向かってかざした自分の手が、透けて見えたのは今日が初めてだ。

自分はなんて非力で..
なんて弱いのだろう...

このまま意識を失ってしまいそうだった。

朦朧としたまま、亜紀はフラフラと宛てもなく歩き出す。


キシィィ....カタン..

扉を開け、階段を降り、壁をつたいながら、
夕陽に目を瞑りながら、
誰にも見つからないように祈り、
亜紀はただひたすら進んだ。

「...痛っ」

気付けば、裸足で外を歩いていた。

森に向かう..?
また引き返す...?

どうしよう....

すると今度は、女子寮の方から微かにイルドナの声が聞こえてきた。

「...イルドナ..さん....?..ああ....イルドナさん....!」

迷っていた亜紀は、助け船が現れた気分になった。
今度はイルドナに救いを求める為に、女子寮に向かって歩きだす。


ザザザザザ...


多少の風にも、
亜紀は身体をどこかに持っていかれそうになる。

「あ..やだ...」

フラフラと歩きながら、
亜紀はようやく、女子寮の玄関にたどり着いた。

女子寮の中を、亜紀は把握している。
なので、ためらいなく女子寮の中に入っていった。

ガタガタッ

近くで物音がしたと思ったら、奥の方からイルドナが現れた。

亜紀は『助かった』と安堵し、
イルドナに声をかけようとしたが、
イルドナはそんな亜紀に気付かずに、別の勝手口から女子寮を出ていってしまった。

「..ったくクラーザは。
グラベン達に見つかったらどうする気なんだ..」

イルドナはブツブツとそうボヤキながら、さっさと立ち去ってしまった。

え...?クラーザ...!?

亜紀は、イルドナが呟いたその名前に敏感に反応した。

クラーザがいるの?

「―――ク...ラーザぁ...」

名を呼び掛けた時、自分の息が切れていることに気付いた。
額に手を当てれば、尋常ではない程の大量の汗。

拭った汗を確実しようと、
手を見つめれば、その手は血の気が引いて震えがきていた。


アタシ..やっぱり死ぬ...


恐怖を感じた。

トサッ..

後一歩のところで、体力が尽きてしまう。
ついに座り込んで立ち上がれなくなった。

「...ぁ――...はぁ...」

頭が朦朧として、見上げた天井がグルグルと回りだす。

玄関先で、寒いのか...熱いのか...
気温すらわからなくなってきた。

きっとすぐ近くに、クラーザがいるのに...!

「...ん」

それから、どのくらいだろう。
しばらくの間、意識が遠退いていた。

たった15分程度だったと思うが、
亜紀は一瞬、意識が飛んでいた。

今度は、猛烈に身体が熱い。
そして、身体が異様に重い。

クラーザに会いたいという一心で、
ここまでやってきたが、ある疑問が浮かび上がってきた。

「....」

イルドナが先ほど出てきた部屋を亜紀はぼんやりと眺めた。
クラーザはあの部屋にいる。

何をしているの..

クラーザが部屋にこもって何をしているのかと、疑問に感じてきた。

動けないの...?
怪我をしているの..?

クラーザは行動派だ。
じっと一人で暇を持て余しているはずがない。
ならば、もしかして身動きが取れない状態ではないのか。

亜紀はまた急に心配になり、
身体を奮い立たせて、立ち上がった。

フラフラの自分に何も出来ないことは、百も承知であったが、クラーザの身が急に心配になっていてもたってもいられなくなってきた。

お願い..!
アタシの足、ちゃんと歩いて..!
アタシの身体、もう少し頑張って!

亜紀は悲鳴を上げている身体を奮い立たせて、立ち上がった。

「...ぅ...はぁ...」

亜紀はフラフラと蛇行しながら、目的の部屋の前にたどり着いた。

「..クラー..ザ...」

擦れた声を出したと同時に、
部屋の戸を数センチ程、そっと開けた。





そこには――――――







部屋の中には、クラーザと新羅が...


(え....!!??)


互いに抱きしめ合っていた。


ドクン....


亜紀の心臓が変な音をたてる。

(や....やだっ!!!!)

亜紀はその場に崩れた。
あまりの驚きに腰が抜ける。

トサッ..

廊下に座り込む亜紀。

(...嘘―――....)


亜紀は茫然として、
今自分の目で見た事実が信じられなかった。

だが、目に焼き付いていて離れない。

前にも同じ光景を...同じようにして見たことがある。

何かの間違いじゃない。
今度は見間違いなんかじゃない。

新羅だけでなく、クラーザも自ら、新羅の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめ合っていた。


(もう―――いやだ.....)


亜紀の目からは、
溢れるような涙が惜しみもなく流れてきた。

ギャーギャーわめく気力も無く、
ワーワー泣き崩れる体力も無い。

亜紀の心はズタズタにされたようにどこかに散らばってしまったようだった。



なんで新羅がここにいるの..
どうして..

もう嫌だ....







新羅はクラーザの首元に、しっかりと手を回していた。

畳みに座ったままのクラーザに、
新羅が覆い被さるように抱き付いている。

「ベルカイヌン...もっと...もっと引き寄せて..」

新羅がそう催促すると、クラーザは新羅の首に回していた手を頭に置いて、グッと新羅を引き寄せた。

「...」

クラーザはうっすらと眼を開けている。
新羅の方は熱い抱擁を味わうかのように、目をしっかりと閉じていた。
クラーザの引き寄せる力が弱まると、新羅は更に要求する。

「喉を当てて..」

新羅は互いの喉を擦りつけることを要求した。

ググ..

クラーザは言われる通りにする。

「ああぁ...ベルカイヌン...」

新羅はいやらしい声を上げた。
このまま、どうにかなってしまいたい..

「....」

が、クラーザは無表情のままだ。

すると....

コォォォ――...

二人の喉辺りを、小さな光が包んだ。

グッ

その光を感じ取って、クラーザは新羅を自分から引き離した。

「――これで、契約成立だな?」

「..ああ」

新羅は随分と分かりやすいくらいに、面白くなさそうな顔をした。
二人が抱き合っていたのは..というか、喉を押しつけあうのは、二人の契約を意味していた。

「たった今、そなたとわしの生気を少しだけ交換した。
これは、互いに互いの命を奪い合う行為を『不可』とする。
そなたがわしを殺そうとすれば、そなたも死ぬ。
その逆も同じことだ」

クラーザと新羅は、こうして手を組むことになった。

「契約を終了させる為には、
また同じことをすればいいんだろう?」

「ああ、その通りじゃ。
そなたが望む『玉石の邪気祓い』が全て終了したら、契約を解除しよう..」

新羅はクラーザから離れ、衣類をなおした。

「――では、イルドナが帰り次第、
お前を村へと送り届けさせる」

今回の『玉石の邪気祓い』は既に済んでいた。

「今度からは、そなたがわしの村に来るんだったな?
玉石を手に入れ次第、わしに会いに..」

新羅はクラーザとの別れを惜しんだ。

「ああ。その時は頼む」

そう言って、クラーザは立ち上がった。

クラーザが部屋から出ようとする頃、イルドナが帰ってきた。
部屋の外で座り込んでいる亜紀を見つける。

「おっ―――....!!お前っ!こんなところで何を...!!!」

イルドナはすかさず亜紀に駆け寄り、茫然としている亜紀に話かけた。

「ぁ―――」

亜紀はイルドナに気付いたが、
涙で目を張らし、息を詰まらせていた。

ガタガタ...

部屋の戸が開きそうになり、イルドナは慌てた。

クラーザに、新羅を連れ込んでいるのを誰にも悟られるな、誰もこの部屋に近寄らせるなと忠告されている。

「ちょっと...こっちに!」

イルドナは亜紀を抱きかかえ、急いで部屋を移った。

ガァ―――...

タッチの差で、クラーザが部屋から出てきた。

「....」

「ベルカイヌン?どうしたのじゃ?」

後方から新羅が話し掛けた。
クラーザは首をかしげ、辺りを見渡した。

「たった今、イルドナが戻ってきたと思ったんだが..」

「別に良い。わしは村に帰るのをいそがんし、
ここで、しばらく待っておる。
そなたも、イルドナが戻るまでここにおれば良いではないか」

新羅がクラーザの腕に手を沿わせたが、クラーザはあっさりと断った。

「いや、俺は用がある」

クラーザは新羅に部屋で待つように指示し、さっそうと新羅の前から去っていった。

「危なかった....」

イルドナは亜紀を元の部屋へと連れ戻していた。

「ふっ...ぅぅ..」

亜紀は口元を押さえて涙を零す。
イルドナは亜紀が苦しみだしたのだと思い込み、再び慌てだす。

「だっだっ大丈夫か!?息が出来ないのか!」

「ごめっなさい....」

亜紀は首を横に振り、イルドナに心配をかけまいとした。
が、泣けて泣けて仕方がない。

「どうしたんだ...!?」

「違うの...ただ...ただ...クラーザがぁ..」

亜紀の号泣に、イルドナはようやく苦しんでいるのではないと気付く。

「なんだ...?それ程までにクラーザに会いたかったのか...?」

イルドナが可愛い奴だと、少しだけ落ちついた。

「でもっ...うっ...」

亜紀はイルドナに頭を撫でられて、ますます泣き出す。

「なにか見てしまったか?」

「中にクラーザと...」

「あの女は仕事上での奴だ。
クラーザの慰めとかそんなんじゃあないぞ。
そうそう...元々、クラーザは性欲などないようだし..
あっいや、お前となんかそーゆー関係になりつつあったが..」

イルドナは自分で言っておいて自分で突っ込むという、
グダグダな状況に陥った。

「まぁ...なんて言うか、
あの女のことは見なかったことにしてくれないか?
私がクラーザに怒られてしまう」

「..ひっく...うぅ...んっ..」

イルドナは亜紀が可愛くなり、つい抱き寄せた。
ポンポンと頭を撫でる。

「――クラーザはお前が倒れたと知って、飛んで帰ってきたんだぞ。それに...」

ガタッ...

イルドナの話の途中で、クラーザが部屋に入ってきた。
クラーザは部屋に入ってきた途端、イルドナを冷たい眼で見つめた。

「イルドナ―――。
お前...さっさと俺のところに戻れと言っただろ」

「あっ..すまん」

イルドナは言い訳が出来ずにあたふたした。

「早く行け」

クラーザは顎で新羅のところに向かうように合図した。

「だがっ...!滝の果て村にまで送っていったら、私は1週間は帰ってこれないぞ?」

クラーザは村名を口に出すイルドナに、白い眼をした。

「少しは考えろ。
とにかく村から連れ出せばいいだろ。後は誰かに頼め」

「私はクラーザと違って...」

イルドナが何度も言い訳をするので、クラーザは頭にきた。

「つべこべ言わずにさっさと行け」

クラーザが怒りを露にしているので、イルドナはお得意の苦笑いをしながら、ついに了承した。

「わかったよ..」

イルドナは亜紀を置いて、部屋から出ていった。
元から、ふたりきりにしてやるつもりではあった。

「..うっ...ひっ....」

亜紀のしゃっくりだけが、部屋の中の唯一の音になった。

亜紀の涙は、クラーザが現れた途端、
一気に引っ込んだ。

しばらく、沈黙が続いた後、
クラーザが亜紀に何かを差し出した。

カサ...

亜紀がクラーザに送った手紙だ。

「―――なんて書いてあるんだ」

クラーザの口調が優しくなる。
亜紀は『なんでもない』と言うように首を横に振った。

「....」

クラーザも黙ってしまう。
早く会いたいと急いで帰ってきたものの、亜紀を目の当たりにすると、どう扱っていいのか悩んだ。

本当は...腹を割って話したい。

クラーザは、自分から歩み寄り始めた。
亜紀の真正面に座り、亜紀に手を差し伸べる。

「またあんたが、俺を呼んでいるのだと思って...
急いで帰ってきた」

亜紀はクラーザの優しい言葉に、一瞬、耳を疑った。

「え...」

クラーザは差し出した手を伸ばし、亜紀の頬にそっと触れた。
クラーザの大きな手の温もりが、亜紀の頬を包む。

「...あんたが眠っている間、色々と考えた」

あんなに刺々しかったクラーザが、今はこんなにも優しい。

「クラーザ..」

「抱き締めてもいいか」

クラーザはそう言って、返事も待たずに亜紀を抱き寄せた。
優しく引き寄せる。
そして、胸の中に亜紀をおさめ、強く包み込んだ。

「....」

亜紀は戸惑った。
クラーザがどういうつもりなのか、全くわからない。

けれど...
心が柔らかくなり、温まる。

「...」

「...」

二人はしばらく抱き合った。
亜紀はふらつく身体をクラーザにまかせる。


「誰にでも...こうするの..?」

亜紀は涙声で呟いた。声が震える。

クラーザは亜紀の髪を撫でた。
柔らかいイイ香りがする。

「いいや、しない..」

クラーザの変わらない優しい声。
嘘を言っているようには思えなかった。

ギュッ..

クラーザは何を思ったのか、
苦しいくらいに、力を込めて抱き締めてきた。

「ん――..」

クラーザは積極的に、亜紀に近付いてくる。

「自分でも理由はわからない。
あんたのことが頭から離れないんだ..」

クラーザをこれだけ素直にさせるのは、別れが迫ってきているからだ。
もう二度と会えなくなる。
一生の別れ..

「俺を必要として、呼んだんじゃないのか..
何度も..俺の名を呼んだんだろ」

そうであって欲しいという、クラーザの願いだった。

「けど...あなたはアタシが邪魔だって..
名前を呼ぶなって言ったよ..」

小鳥の鳴き声のような、小さな亜紀の声。

「もういいんだ..」

クラーザは自分の身勝手さをわかっていた。
前に亜紀を突き放した時と、今とでは矛盾し過ぎている。

「クラーザぁ..」

今度は亜紀がクラーザにすがり付く。
クラーザにしがみ付いて、枯れた声を絞りだす。

「アタシのこと...忘れちゃうの?
アタシとのこと、全部、クラーザは忘れちゃうの?」

クラーザははっとして、亜紀を引き離す。
そして、亜紀の黒い大きな瞳を見つめた。

「あんたを元の世界に...
時間を巻き戻すのに、仕方のないことだ」

「アタシ...」

亜紀のつぶらな瞳から、大きな涙が零れる。

「クラーザがいない世界は嫌...本当に嫌だよ...」

亜紀の身体は震えていた。
寿命のせいか、恐ろしさのせいか、これからの不安のせいか..

スッ――...

クラーザは亜紀の涙を拭った。
硝子を扱うように、優しく撫でた。

「―――あんたの名..なんと呼べばいい?」

前に亜紀が自ら教えたが、クラーザは再度聞く。

「紅乃...亜紀。亜紀と...」

「あき」

クラーザは亜紀の頬に手を当てる。
真剣な眼差しで、亜紀を見つめる。

「例え、記憶がなくなって、
互いのことを忘れても、
あきが、生きていればそれでいい。
もう一度笑顔になり、あきには何度でも笑ってほしい」

「クラーザ...!」

亜紀はクラーザの手を握った。
まさかこんなことを言ってくれるだなんて...!

「あき...」

クラーザの表情が悲しみの色に染まる。

「今までのこと...
お前を傷付けたこと、本当に悪かった..許してくれ」















「敵襲だ――――――っ!!!!」

イルドナの大声が、夕暮れ時の村中に響いた!

「敵襲だって!?」

大広間で儀式の準備をしていた魔導士が顔を上げる。

近くにいたランレートは、持っていた荷物などを下ろし、
窓に向かって走り出した。

「グラベン君!またあの連中だよ!
場所を嗅ぎ付けてきたんだ!」

「くそっ!イルドナの奴が尾行されたんじゃねーかぁ!?」

ランレートがいう『あの連中』とは、
最近、グラベン達を悩ませている野盗グループのことだった。

「もぉっ!だから最初にちゃんとした場所を確保してって言ったでしょー!」

魔導士がプリプリと腹を立てる。
グラベンとランレートはそんなことはお構いなしだ。

「俺達が行ってくるから、魔導士は準備を進めててくれ」

グラベンは、ポキポキと首の骨をならし、戦闘態勢を整えた。

ドタンッッ!

大広間に飛び込んできたのは、
血まみれになったイルドナである。

「イルドナ!!!」

その姿にグラベンが目を丸くした。
よく見れば、その血はイルドナのものではなく返り血である。

「大群だ!この人数じゃあ、手に負えないぞ!」

「なんだって?たかが、碧の盗賊団だろう?」

『碧の盗賊団』とはグラベンとランレートが話していた連中の名だ。

「碧の盗賊団は私も知っている。
だが、それだけじゃないぞ!
....クラーザは!?あいつ狙いの奴らだ!」

グラベンとランレートは、顔を見合わせる。
クラーザの追っ手か?
まさか、クラーザが何かをミスったというのか。

「クラーザが帰ってきてるのか?」

「いや知らないよ。妖魔女のところではないかな?」

二人の会話を聞いて、イルドナはクラーザがまだ帰ってきたことを二人に報告していないと知る。

「クラーザが仕事でミスった!
その時に手を組んだ者達が、クラーザを狙い打ちにきやがったようだ!」

「クラーザを呼んでこいっ!!!」

グラベンが舌打ちして叫んだ。

あいつ...妖魔女に気を取られていたな!

グラベンはクラーザの尻拭いに向かおうとした。

カタッ..

物音がし、その場の皆が機敏に反応して振り返った。

「―――俺ならここにいる」

そこには、亜紀を抱えたクラーザがいた。
クラーザに抱えられた亜紀はぐったりとしている。

「おいっ!てめぇの追っ手が来てっぞ!
どうなってやがんだ!!!」

グラベンがクラーザを睨み付けた。
クラーザは冷静な態度でグラベンに近付く。

「あきには、もう時間がない。
今すぐ、儀式を執り行えるか」

「....!」

ランレートがすぐさま、亜紀の手首を掴み、脈拍をはかる。

「―――ダグリ!まずい!」

亜紀の命の火は、もう消えかけていた。
亜紀が死ねば、亜紀を元の世界には戻せなくなる。

「ランレート!今すぐ、妖魔女を飛ばすよ!
早くこちらへ!」

魔導士の顔色も一瞬にして変わる。
準備も整いきっていない儀式を始めなければならなくなった。

「外は、三人だけじゃ無理だ!300はいるんだぞっ!」

イルドナが叫ぶ!

儀式には、魔導士とランレートが必要だ。
となると、大群に向かうのは、
グラベンとクラーザとイルドナの三人だけになってしまう。

「文句たれんなっ!行くぞ!」

グラベンはイルドナの背中を叩いて喝を入れた!

「ラン、頼んだ」

クラーザは亜紀をランレートに託す。ランレートは無言で頷いた。







「クラーザ...」

クラーザの腕から離れた時、亜紀がクラーザを呼び止めた。

「...」

クラーザは立ち止まり、亜紀の顔を覗き込む。

亜紀の瞳の色が、白く濁り始めていた。
もうじき目が..見えなくなる。
それでも、クラーザの姿をとらえようと、亜紀はクラーザをその目で追っていた。

一緒に亜紀の顔を覗き込むグラベンが、亜紀に話かける。

「大丈夫か?後少し踏張れよ!
俺達が邪魔されねぇように外の虫を払ってくっからよ!」

300人もの敵を相手に、グラベンの力強い自信に満ちた言葉。
亜紀は微かに笑っていた。

「大..丈夫。絶対..グラベンさんた..ち..負けない..必ず..」

グラベンに負けないくらいに、勝ちを宣言する亜紀。
グラベンも自然と笑顔になった。

「うん!ありがとなっ!」

グラベンは亜紀の前髪辺りを、クシャクシャにして頭を撫でた。

「....」

「....」

「....」

全員が亜紀を見守った。

その一瞬の沈黙を破ったのは、
笑顔一つ見せないクラーザだった。

ランレートに抱きかかえられた、亜紀の頬に触れる。

「さよならだ..あき」

クラーザのクールな姿勢の中にも、
どこか淋しげな様子を皆は感じていた。

冷徹なクラーザが亜紀との別れを惜しんでいる。
そう感じた。

一生の別れ。
もう二度と会うことはない。
そして、今日の日のこともまた、全員が忘れてしまう。

全てが消える...

「好きよ...クラーザ...あなたが..一番好き...」

まるで物語の主人公とヒロインの素敵なワンシーンのようだった。

グラベンもランレートもイルドナも、そして魔導士も、
クラーザと亜紀の別れを黙って見守る。

亜紀に想いを伝えられたクラーザは急に息苦しそうな表情をした。
心臓がギュッと縮んでしまったかのように、心が苦しい...

「俺もあんたが好きだ」

クラーザの手が少し震えていた。
まだ何か言い足りない。
もっと色んなことを伝えたい。
だが...言葉が出てこない。胸が締め付けられる。

「無事を願っている。どうか...幸せになれ」

クラーザの口から出た言葉は、たったこれだけだった。

あまり長く亜紀を見ていると、
気が弱くなりそうで、クラーザは亜紀から手を離した。

「待って...これを―――」

「....」

亜紀は最後の力を振り絞って、クラーザに手を伸ばした。

そして...


プチッ...!


亜紀は腕に巻き付けていた腕輪を引きちぎった。

「これを....」

亜紀は腕輪に付いていた石――――クラーザの紅い眼と同じ、紅い石をクラーザに手渡した。

「これは..」

クラーザは以前にそれを見たことがあった。
亜紀を牢に閉じ込めていた時に、
亜紀から『御守りなんだ』と見せられたものだ。

「御守り..あなたを..守る..
どこにいても..あなたを..クラーザを守るから..」

クラーザは亜紀から、紅い石を受け取った。
亜紀が微笑んだので、クラーザは心が熱くなった。

「...ありがとう」













「よっしゃ!行くぞっ!!!」

グラベンの威勢の良い掛け声と共に、グラベン、クラーザ、イルドナは、部屋を飛び出して行く!

三人が出て行ったのを確認して、
魔導士は厳しい目付きに変わる。

「さぁ....いくよ。準備はいいね.....!?」

魔導士とランレートの二人が、黒い光に包まれる。


コォォオオオオ.......!!!!!!


そして、冷たい風が吹き荒れる!


ヒョオオオオオオ.......!!!!!!



「――――この女の『時』を戻したまえ....!
一刻も早く...女の記憶を消し去り―――速やかに、在るべき『時』に帰還させよ!」

魔導士の声が、どんどん遠ざかっていた。

耳が聞こえなく...なる...

亜紀は意識を、失いつつあった。









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