スッタモンダ・コクゴ

小池キーサ

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9、コネコネ・マイナ

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 思ったよりめんどうな仕事だったから、辞めてしまおうとも考えたが、三か月続いている。ひらがな、カタカナ、漢字のチェックは、「〇」にすべきか「✓」にすべきか、いまだに悩むことが多い。でも、「助詞・助動詞」を大切にすることは、採点者にとってはさほど難しいことではなかった。一字一句、解答書どおりに採点すればいいわけだから。
 マダム・アスカは言う。
「作者の言葉を抜き出し、設問の型に合わせて解答を書く練習って、大切なのよ」
 「設問の型」とは、「なぜですか」と聞かれたら、「~だから。」と答えたり、「何と何のことですか」と聞かれたら「~と~のこと。」と答えたりすることだ。 
 でも、文章中からミスなく語句を抜き出して、答えを作っていくのって、なんだかかた苦しい気がする。
「もっと自由に、自分の言葉で答えを書いていく方が、個性も発揮できるし、おもしろいと思うんですけど、国語の勉強って、それじゃダメなんですか?」
と、マダムに聞いてみたことがある。すると、マダムは、
「個性の光る言葉を自由に発することができるって、素敵なことよ。そのためにも、他者の言葉を大切に扱う勉強をする必要があると思うの。国語って、他者とともに生きるすべを身に着けることができる教科だと、わたしは思っているの」
と言った。
「他者ですか……」
「そう、わたしたちは、日常の中で、さまざまな人と言葉を交わし、励まされたり、傷ついたり、色々あるわよね。この『国語塾』では、頭や心を豊かにしてくれるような文章にたくさん出会ってほしいの。上質な言葉のシャワーを浴びて、自分の中に吸収し、それがそれぞれの個性となって、他者にも向けられるようになったら、素敵じゃない?」
 マダムの目が、キラキラとしていた。
 なるほど、まずは、魂が込められたような、品格のある他者の文章から学び、それを自分のものにしようというわけか。一人ひとりにあった作品を選び、それをプリントにするマダム・アスカの「国語」への情熱は、計り知れないものがある。
 6年生のマイナは今、サン・テグジュペリの『星の王子さま』を勉強している。レベルは高く、文字を抜き出すだけではなく、それを組み立てていく作業が必要なプリントだ。
「先生、ここ、わかんない」
 マイナはよく質問してくる。
「う~ん、『ぼくが腹をたてた理由を述べなさい』か……」
 わたしは、設問部分を声に出し、のらりくらりと時間をかせぐ。最初の頃は、すぐに文章を読んであげて、
「王子さまは、飛行機のことを知らないんだよね。それで、ぼくは王子さまに、飛行機の説明をしてあげてるみたいだよ」
 なんて、物語の内容をくわしく説明していたが、これがゼンのお気には召さなかった。
「ハラダ、文章の内容を耳から入れるな。目から入れてやれ!」
「は?」
 そう言われても、最初は意味不明だった。
「おまえが勝手に、作品の内容を語るなってこと!」
 どうやらゼンは、生徒自身が直接作品と向き合って、内容を受け止めることを望んでいるらしい。たしかに、文章を読み取る練習をしているのは、わたしではなく、生徒たちだ。その機会を奪っては、もうしわけない。
 だから今は、一緒に考えるふりをして、その間も生徒が文章を見るように仕向けている。
 1分近くたっても、マイナは悩んでいるようなので、
「文章中に『ぼく』とか『腹を立てた』とかあったら、線を引いてみたら?」
 とアドバイス。これが「目から入れてやる」方法だ。ヒントは設問の中にあるのだ。それをつかんで、文章を確認してもらう。すると、マイナは「ぼくは、とても腹が立ちました」という文を見つけ、その前後の言葉をくっつけたり、削ったりし始めた。コネコネと、言葉のねんどで作品を作っているようなマイナの姿は楽しそうにも見える。
「できた!」
――天から落ちるなんて、ありがたくないことなのに、王子さまが笑ったから。
 う~ん、これだと「△」だ。
「目のつけどころはいいね。あとちょっと足りないかな」
 そう言ってプリントを返すと、マイナはいやな顔ひとつせず、また、コネコネと文章をねりだした。
 国語って、謙虚な気持ちが必要なのかもしれない。設問を作った人の意図を正確に読み取り、作者の言葉を丁寧に拾って、採点者に正しく伝える。プリントに取り組むだけでも、三人の他者と向き合うことになるのだ。サン・テグジュペリの文章を、ああでもない、こうでもないと、一字一句大切に扱うマイナには、「自分」を押し付けるような傲慢さはみじんもない。
「できた!」
――天から落ちるなんて、ありがたくないことだから、しんけんに考えてもらいたかったのに、王子さまが笑ったから。
 今度は、花マルだ!
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