父のプロポーズ

神泉朱之介

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父のプロポーズ

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「……お父さん。お父さんってば!」
 誰かが私の体を揺すっている。
 いけない。
 いつの間にかうとうとしていたようだ。
 眠気をなんとか抑えつけ、私はゆっくり顔を上げた。
 目の前に、心配そうに私の顔を覗き込む娘の姿があった。
「……どうした? まだ式までは時間があるだろ」
「なんだか心配になっちゃって」
 と、娘は眉を顰める。
 晴れの舞台だからだろう、普段よりかなり化粧が濃い。
 ドレスはレンタルだが、時間を掛けて選んだだけあって、とてもよく似合っている。
「大丈夫なの? 朝からやけにフラフラしてるけど」
「……ああ。ただの寝不足だよ。心配しなくていい」
 と、私は苦笑してみせた。
「昨日の夜はほとんど眠れなかったんだ。なんとか寝ようとしたんだが、スピーチのこと ばかりが頭に浮かんでくるんだよ」
「なーんだ。心配して損した」
 娘が、子供の頃を偲ばせるあどけない笑顔を浮かべた。
「そんなに緊張することないよ。リラックス、リラックス」
 彼女は私の後ろに回って、両肩をぽんぽんと叩いてくれた。
「うん。ありがとう」
 私は娘の手に触れてから、ポケットの中の便箋を取り出した。
 薄っぺらなその紙には、今日、結婚式で私がやるスピーチの内容がつらつらと書かれている。
 数日前から暗記しようと頑張っているが、覚えた端からぼろぽろとこぼれ落ちていってしまう。
 緊張のせいで、全く原稿に集中できない。
 そもそも、私は人前で話をするのがものすごく苦手だ。
 高校生の時分、全校生徒の前で読書感想文を読まされたことがあったが、あの時も一週間ほどひどい不眠症に悩まされたものだ。
 しかし、いくら苦手でもやらねばならない。
 少しでも内容を頭に入れておこうと、 何重にも折り目が入った便姿を睨み付ける。
 あと二年で五十歳。
 気持ちはまだ若いつもりでいるが、そろそろ老眼鏡のお世話にならねばならないようだ。
 スピーチ原稿を眺めているうちに、大学の研究室にいた頃、セミナーの準備で四苦八苦した記憶が自然と蘇ってきた。
 セミナーといっても、大したものではない。
 研究室のメンバーの前で、その月の自分の研究成果を報告するだけだ。
 それだけのことで、私は自分でも嫌になるほど緊張した。
 不安を打ち消すため、研究室で助手をしていた妻に頼んで、セミナーの発表練習に毎月付き合ってもらっていた。
 アドバイスが欲しい、という気持ちが二割。
 少しでも彼女と一緒にいたい、という気持ちが八割。
 私は、妻に片思いをしていた。
 考えてみれば、私が妻にプロポーズしたのも、二人きりの発表練習の場でのことだった。
 あれは寒い時期で、その当時、私は大学四年生だった。
 暖房が効いた会議室で、長時間ディスカッションをしていたせいで、私の思考力はかなり低下していた。
 のぼせた頭で妻を見つめているうちに、これはもしかすると、千載一遇の好機なのでは、という自分勝手な閃きが舞い降りた。
「あの!」
 発作的に立ち上がった私を見て、
「はい?」
 と、妻は首をかしげた。
 その仕草は、素晴らしく可愛かった。
 私はただ本能の赴くままに、
「ぼっ、僕と結婚してくださいっ!」
 と叫んでいた。
 唐突すぎる求婚。
 妻は目を大きく見開いたまま、完全に動きを止めてしまっていた。
 そこでようやく、私は自分がとんでもない失策をやらかしたことに気づいた。
 プロポーズの台詞はともかく、順番が大問題だった。
 私は別に彼女と交際していたわけでもないし、そもそも好きだという気持ちすら伝えていなかった。
 通常のプロセスをすっ飛ばした、極めて非常識なプロボーズだったのである。
 やっちまった……。
 自らの勇み足っぷりに絶望しかけた私だったが、次の瞬間、予想もしていない答えが返ってきた。
「お受けします」
「へえ?」
 と、私は間抜けな声を出した。
「ほ、本当ですか?」
「ええ。本当です」
 妻は恥ずかしそうに微笑んでいた。
 信じられなかった。
 彼女は私のプロポーズを受け入れてくれたのである。
「ただ、籍を入れるのはもう少し待っていただけませんか」
 私は奇跡的な展開に戸惑いつつ、
「その、もう少しというのは、どのくらい少しでしょうか?」
 と慌てて訊いた。
「いまやっている実験が終わって、論文が出るまで、ですね」
 と妻は明言した。
 論文というのは、化学の専門誌に載る学術論文のことである。
 当時、彼女は論文執筆に必要なデータを集めるために、昼も夜もなく実験に没頭していた。
 私はそんな彼女のひたむきさを尊敬し、また魅力を感じもした。
 だから、それが終わるまで待って欲しいという気持ちは理解できた。
 重要な研究に取り組んでいるから、うつつを抜かすようなことはできない。
 妻ははそう考えて、あんなことを言ったのだろうと勝手に納得していた。
 私が妻の言葉に秘められた真意を知ったのは、彼女の実家に挨拶に行った時のことだった。
 彼女の父親、私にとっての義理の父は、極めて純枠な有機化学者だった。
 出世や派閥争いに興味がなく、教授になってからもずっと実験を続けていたそうだ。
 そんな彼は、化学者として、一つの目標を持っていた。
 それは、自分の名を冠した 化学反応を開発することだった。
 鈴木カップリング、根岸カップリング、玉尾酸化、園頭反応、光延反応……これらは全て、日本人の名前がついた化学反応である。
 有機化学で使われる反応には、その反応を開発した研究者の名前が付いているものが多い。
 妻の父は、どんなマイナーな反応でも構わないから、何としても後世に名を残したいと願っていた。
 自分の生きた足跡を歴史に刻みつけたいと希求していた。
 しかし、努力の甲斐なく定年を迎え、願いを叶える前にアカデミックの世界を去ることになってしまった。
 退官の日の朝、すでに研究の道に入っていた私の妻は、父親に言った。私が反応を開発すれば、お父さんと同じ名字の人名反応ができあがります、と。
 妻の父は、その話を本当に嬉しそうに語ってくれた。
 それから数年。
 懸命な努力と圧倒的な化学センス、そして一握りの幸運が後押しをしてくれたおかげで、妻はある画期的な反応を見出しかけていた。
 そんな大事な時期に、私はうっかりプロポーズをしてしまった。
 結婚で苗字が変われば、反応に使われる名前も変わってしまう。
 論文に旧姓を併記することもできるが、 それでは名前としての純度が低下してしまう。
 だから彼女は、
「論文を出すまでは結婚しない」
 と言ったのだ。
 妻もまた、純粋な化学者だった、というわけだ。
 何も考えずにプロポーズをしたものの、私は学生だったし、結婚を急ぐ必要はなかった。
 私は妻の論文が専門誌に掲載されるのを待って、改めてプロポーズをし直した。
「僕と、結婚してくださいますか」
「はい。ずいぶんお待たせしました」
 と、妻は照れくさそうに笑っていた。ほとんど化粧をしていない彼女の素顔を、私は他のどんな女性より美しいと思った。


 娘が、私の肩を揉みながら呟いた。
「それにしても、お父さんがいきなり大学に入るとか言い出したときはビックリしたよ。なんて言うの? 届かなかった夢を掴み直す、みたいな?」
「ま、そんなところかな」
 私は若い頃から働き詰めの生活を送ってきた。
 給科の大半を賢産運用に回したおかげで、バブル期にはかなり儲けさせてもらった。
 貯金が、もう働かなくてもやっていける、という額に達したところで、私は思い切って会社を辞めた。
 寂しい思いをさせた分を取り返すように、私は娘との時問を大切にするようになった。
 そんなある日、娘に化学を教えていた私は、自分がちっとも化学の原理を理解していないことに気づいた。
 教科書を読んでも、説明不足でよく分からない。
 それならいっそ、大学で基礎から学び直そう、と私は考えた。
 そして、四十を過ぎてからの猛勉強の末、私は遅れてきた新入生となった。
 懲りずに原稿に目を通していたが、余計なことばかり思い出されてしまい、ちっとも覚えられない。
 もういい。
 私は便箋を丸めて、くずかごに放り込んだ。
 どうせ新郎のスピーチなど、添え物のようなつまらない儀式に過ぎないのだ。
 緊張するのは仕方ない。
 きっと失敗もするだろう。
 それでも、スピーチをする私の隣には妻がいてくれる。
 それに、式には私の娘も同席してくれる。
 物心が付く前に母親を亡くしているとはいえ、きっと少なくない葛藤があったはずだ。
 それをおくびにも出さず、再婚する私を笑顔で送り出してくれる娘を、私は誇らしく思う。
 私は胸に手を当て、背筋をぐっと伸ばした。
 優しい娘と年下の妻に恥をかかせないように、せめて胸を張ることにしよう。
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