昭和の夫婦 百人一首

神泉朱之介

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昭和の夫婦 百人一首

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 信子がゆっくりと目覚めた。
 医者からは、今夜が峠だと、聞かされていた。
 妻は自分がもうすぐ死ぬことを知らない。
「よく眠ってたな」
 これが、最後の会話になるかもしれなかった。
 それでも、なるべく普段どおりに聞こえるよう、素っ気なく仁衛は告げた。
 すべてが白く映る病室で、パイプ椅子に腰を据えたまま、動こうともしない。
 見合いで互いに妥協した、始まりの日から五十年以上、ずっとよい夫ではなかったのだ。
 この期に及んで、情けない姿を見せようとは思わなかった。
「アンタこそ……アタシが苦しんでるってのに……そこで眠りこけてたんでしょ」
 弱々しい声ではあったが、今日も信子は辛辣だった。
 口の悪さは、仁衛以上だ。
「この薄情者! アンタなんか、さっさとくたばっちまえ」
「なんちゅういい様だ。お前こそくたばっちまえ!」
「お生憎様。アタシはね、アンタの死に顔を拝める日が早く来ないかと、それだけを楽しみにしているのさ」
「緑起でもないことを、しゃあしゃあとぬかしやがる。はあ、どうしてこんな女とくっついちまったんだろう」
「それはこっちのセリフだよ。アンタみたいな甲斐性なしを面倒見てやってんだ。ありが
たく思うんだね」
「なんだと、このクソ女!」
「どっちがクソだい。このクソ男!」
 そんな罵り合いが、子供のいない夫婦の間で、毎日のように続いた。
 続いたということは、途切れなかったということだ、半世紀も。
 信子の口元が喀痰で汚れていた。
 仁衛はティッシュを探したが、数年前に煩った緑内障のせいで、視野が狭い。
 棚の上にティッシュは見つかったが、今度は膝の疼痛のために、立ち上がることができない。
 やっと信子の口元を清めると、仁衛は見つめた。
 若いころ、ふくよかだった頬には、骨と筋が浮かんでいる。
 野良仕事のパートに明け暮れて、女だてらに焼けていた肌は、透き通るように白かった。
 互いに歳をとった。
 けれど信子の場合は、それだけではない。
「どうしたの……薄情者……元気、ないわね」
 薄情者と口火を切って、妻はいつもの会話を望んでいる。
 だが、あれほど豊富に取り揃えていた返し文句が、いまは―つも浮かんでこない。
 本当に薄情な夫だ。
 せめてものつもりで、信子の手を握る。
 潤いを失ったしわくちゃな手が、温かい。
「ねえ……覚えてる? 五十二番……」
 信子がか細い声で訊いた。
 五十二番とは、何のことだっただろう。
「忘れちゃったの? あんなに付き合ってあげたのに……」
 思い出した。
 かつて二人の問で流行った、他愛もないやりとりだ。
「明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしきあさぼらけかな」
 小倉百人一首、五十二番目の歌。



 二十年も前のことだ。
 部品工場を定年退職して、無為な日々を過ごしていた仁衛に、信子は、
「モーロクされても困るから」
 と趣味を持つことを勧めた。
 百人一首を選んだ理由は、もう記憶にない。
 子供の遊びだと甘く見ていたのだろうが、還暦過ぎの衰えた頭には、かなりの難業だった。
「ああ、もう。どうしてそんなにダメなのかしら。イライラするわね」
 四苦八苦する仁衛を見かねて、信子が助け舟を出してくれた。
 信子が上の句を詠み、仁衛が下の句を諳んじる。
 歌かるたの定法の日々が、数年は続いたろうか。
「いい加減にして。いつまでアタシに上の句を詠ませるのさ」
「物覚えが悪いにも程があるわ。何とかならないの」
「アホ! そこは、名こそ流れてなほ聞えけれ、でしょ」
「どうしようもないわね、このウスラトンカチは。モーロクする前に、さっさとくたばっちまえ!」
 悪罵も月日の分だけ重ねられた。
 一進一退を繰り返しながら、夫に諳んじることのできる下の句が増えていく
 やがて仁衛がすべての下の句を覚えると、信子の役目は、一から百まである番号から、一つを選ぶだけになった。
 仁衛はその番号の歌をそらで吟ずるのだ。
 一覧を片手に正否を確認する妻の姿を見て、
「毎日付き合っているんだから、お前も覚えたらどうだ」
 と誘ってみたこともある。
 信子は、
「なんでアタシが。モーロクしそうなのは、アンタなのよ」
 と、まるで興味を示さなかった。
 容赦のない叱咤激励は、さらに数年間続いた。
 そして仁衛の脳裏に、百ある歌のすべてが刻まれた。



「へえ……やるじゃない……そんなふうに思ったことなんて、一度もないくせに……」
 藤原道信朝臣の歌に、ただの出題者だった信子が、知ったような口ぶりだった。
「次の五十三番は……確か……女の人の歌だったわよね」
 女の人とは、右大将道綱母のことを言ったのだろう。
 いまさらなぜ百人一首の話をしたがるのか、わからなかった。
「嘆きつつ……」
 不意に信子は歌った。
「……ひとりぬる夜の明くる間は……いかに久しき……ものとかは知る」
 息は絶え絶えに、声は弱々しく、両眼は胡乱なまま、けれど確かに歌った。
 ぬるとは、寝るの意味だ。
 若き日の記憶が甦る。
 夜勤のある職場だった。
 夫は夜に家を出て、朝に帰る。
 日中パートで働く妻とは、すれ違いも多かった。
 興味がないのでは、なかったのか。
「信子、お前……」
「やっぱり……アンタは鈍いわね」
 悪態をつきながら、信子が手を握り返してきた。
 口元には、笑みさえ浮かんでいる。
「次も……女の人……五十四番、儀同三司母」
 信子は詠み手まで知っていた。
 あれほど多くの時間を二人で費やしたのだ。
 先にすべてを記憶した妻は、澄ました顔をして、物覚えの悪い夫を待ち続けたのだ。
 ならばきっと、歌の意味も知っている。
「忘れじの……」
 信子が震える声で紡いだ。
「行末までは難ければ……今日を限りの……命ともがな」
 今日を限りの命ともがな。
 そして、信子は知っている。
 まもなく自分が逝くことを。
 白い枕の上で緩慢に、首から上だけが仁衛のほうへと向く。
 瞳には慈愛、頬には哀惜。
 鼓動さえままならない身で、必死に訴えてくる。
「さあ……次は……男の人……アンタの番よ」
 五十五番、大納言公任。
 これから信子がしようとしていることが、仁衛にはわかっていた。
 妻の眼から一筋がこぼれる。
 情けないことだ。
 すでに夫は、どうしようもなく泣き濡れていた。
 もう時間がないのだ。
「滝の音は……絶えて久しくなりぬれど……」
 上の句を詠んだところで言葉に詰まった。
 下の句は、名こそ流れてなほ聞こえけれ、だ。
 忘れたわけではない。
 どうしても声にできない。
 口汚い妻の前で、口汚い夫が台無しだ。
 嗚咽がせり上がってくる。
「どう……したの……あんなに練習したのに……だらしないわねえ」
 消えかかった声だが、傲慢な物言い。
 間違いなく信子だ。
 何物にも代えがたい、仁衛の妻だ。
「信子……お前は……お前は……」
 五十五番の歌を詠めば、その次はー。
「五十六……」
 信子が言った。
「もう歌うんじゃない。お願いだ……」
 夫は懇願した。
 妻はかすかに首を振る。
「アンタ……何を言っているの……大事なことなのに……忘れちゃったの」
 意識が混濁しているのか。
 歌でなければ、何だというのだ。
 信子の視線が、仁衛の元に届いた。
 夫の手の中で、妻の手が力を失っていく。
「今年で……五十六年よ……アタシたちが一緒になって……本当に長かったわ」
 信子のまぶたが、閉じられようとしている。
 彼女の意志が、そうさせるのではない。
「こんな大事なことを……忘れちゃうなんて……本当に薄情よね……アンタもさっさと……くたばっちまえば……いいのよ」
 さっさとくたばっちまえ。
 ずっと信子の口癖だった。
 この五十六年間で何千回、いや、何万回聞かされたことだろう。
 そしてその数の分だけ、お前こそくたばっちまえと、返してきた。
 悔やんだ。
 望んでもいないのに、いまからかなえられるのは、仁衛のほうだ。
 それでも、信子は待っている。
「……お前こそ……くたばっちまえ……」
 仁衛は声を絞った。
 連綿と続けられた夫婦の儀礼だった。
 滲んだ視界の向こう側で、信子の頬が、淡い笑みを湛えた。
「次の歌よ……最後だから……ちゃんと……覚えておきなさい」
 まぶたはすでに閉じていた。
 夫に伝えるべく、唇だけが歌を詠む。
 五十六番、和泉式部。
「……あらざらむ……この世の外の……、思ひ出……に」
 歌は、上の句で途切れた。
「信子! 信子!」
 妻の名を、夫はただただ呼び掛ける。
 けれど信子は、いつまでもそのままだった。
 下の句が詠まれることもなかった。
 やがて仁衛は、自分が問われたのだと知った。
 あの頃のように、応えた。
「今ひとたびの……逢ふこともがな……」
 狭い病室には、残された者の嗚咽だけがこだまする。
 それは日々罵り合いながら、五十六年もともに歩んだという老夫婦の、最後の別れの時だった。



 現代訳(野ばら社「百人一首改版」より引用)


 五十二番 夜が明けて昼になれば、またその日が暮れて、日が暮れれば夜が来て、あなたに逢うことができる。それはわかり切っているのだが、やはり別れなければならない朝をうらめしく思われますよ。


 五十四番 いつまでも忘れないと言ってくださるお言葉は嬉しいけれど、あなたが、 いつまでもその約束を守ってくださることは難しいでしょう。いっそ、そういう優しいお言葉をきいた今日、この日を最後として、あなたに愛されながら、私は死んでしまいたい。


 五十六番 病んでいる私は、もう間もなくこの世に別れを告げることになるでしょう。せめて、死後あの世へ行ってからのなつかしい思い出になるように、もう一度お逢いしたいものです。
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