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34話

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 翌日の明け方、ベッドで熟睡していた貴奈津は、誰かに頬を突かれ目をあけた。
 焦点のはっきりしない視線ながら、レイの姿を認める。
「なによ、猫……」
 気怠そうに、不機嫌そうに、口を開く。
 完全に目覚めてはいないのだ。
 貴奈津の意識は半ば以上、夢の中に留まっていた。
 レイはそれを察して、貴奈津の目の前で手を振ってみた。
 貴奈津の半眼がさらに狭められる。
 とりあえず見えてはいるようなので、用件を伝える。
「ローユンと一緒に、ちょっと異世界宮殿の偵察に行ってくる」
「んー」とも「うー」とも言えないような音が、貴奈津の喉から漏れた。
 口を動かして返事をするのも億劫らしい。
「わかったのか、おまえ? いいか、朝食までには戻ってくるからな、ちゃんとボクのぶん、残しておけよ」
 レイは念を押したが、貴奈津はもう目を閉じてしまい、今度はなんの反応もしなかった。
「大丈夫かな、聞こえたかな」
 貴奈津の顔を覗き込んだレイは、しかしすぐに諦め、肩を竦めると姿を消した。
「もう、帰ってこなくていいわよ、化け猫ー」
 夢と現実の狭間で、貴奈津はレイに呼びかけた。
 もちろん、声にはなっていない。
 意識が急速に拡散し希薄になる。
 貴奈津は速やかに夢の世界に沈み込んでいった。


 なにもない、ただ一面の雪原を、二つの影が進んでいた。
 固く凍った白い大地に、新雪が積もっている。
 ローユンとレイがその上を歩くと、二筋の足跡が残る。
 しかし、その足跡はいくら歩いても、長さを増すことはない。
 二人の後方数十メートルで、足跡は見えない波に洗い流されるように消えていく。
 どんなに時を経ても、けっして形状を変えない世界。
 二人がいるのは、一つの亜空間内に閉じこめた、作り物の世界だった。
 地球という実在の世界と、封印された異世界宮殿の存在する世界、二つの現実世界を結ぶ仮想空間が、この雪と氷の世界なのだ。
 異世界宮殿偵察に向かう通過ポイントである。
 歩幅の狭さを回転数で補おうと、忙しなく足を動かすレイを見て、ローユンが笑った。
「レイは飛べばいいのに」
「いいんだ、たまには歩く」



 行く手のなだらかな丘の上に見える神殿を、二人は目差していた。
 他に適当な呼称がないので神殿といっているが、もとより宗教的な建造物ではありえない。
 冷たい輝きを持つ巨大な氷柱が立ちならぶ神殿は、雪原の中で唯一の人工的な造形物だった。
 この空間の中では、レイはもちろんローユンにしても、じつは足で歩く必要はなかった。
 歩いているのはローユンがそれを望んだからだ。
「久し振りに生きているという実感がわく」
 というわけだ。
 レイは肯いて、ローユンに付き合った。
 レイは相変わらずパタパタと足を回転させながら、ローユンを見上げた。
「なんだかえらいことに巻きこんじゃってゴメン」
「突然なにを言い出す」
「一万八千年前のときはな、まあ、ああいう牧歌的な時代だし、おまえとか他のみんなを異世界宮殿戦に引きずり込んでも、いいだろうって、気楽に考えられたんだ。
 ナーディとかスゥーディなんか、もともと剣を振るうのが生業みたいなもんだったしな。たいして生活変わらんだろうって思えたんだ」
「今は、違うと?」
「うん、そういうことだ。なんと物質文明の真っ只中に、今ボクたちはいるわけだ。だから、なんか調子狂うんだ。
 それにな、前のときは、なんていうか、もっとみんなシリアスに、生きかた決めてたと思わないか。ところがだ、いまの貴奈津なんかはだ、ぜんぜん真剣にならないわけなんだ」
「わざわざ深刻になる必要もないと思うが」
「そりゃ、そうかもしれないけどな」
 二、三歩勢いをつけてから、レイは前方の雪を蹴り上げた。
 そのまま、飛び石を渡るように雪原を跳ねていく。
 ローユンの数歩先へ着地して、レイはくるりと振り返った。
「ボクはいいんだ。もともと、現在の地球より遥かに進んだ科学文明の世界からやってきたんだからな。
 だけどおまえは、ずいぶん長いことシールドの中にいて、目覚めたら、たった一人で異世界に放り出されたようなもんだろう。キビシイことないか?.」
 真顔で見つめるレイに追いつき、立ち止まると、ローユンは優しく微笑んだ。それからレイの頭を撫でてやり、また歩き出す。
「レイ、昔きみはこの星に、たった一人でやってきた。そのときの自分のことを思いだし、今のわたしに重ね合わせているのだろう?.」
 レイがあとを追う。
「うん、まあ……」
「心配するな、レイ。あのときのきみと、今のわたしとでは、取りまく環境がまったく違う。わたしのほうが格段に有利な状況にあるよ。ここはわたしの星で、なおかつ、わたしは自分から望んでここにいる」
「ごめん、ローユン。ごめん。いつもおまえに付き合わせちゃって。おまえもみんなみたいに転生すれば楽だったのにな」
「いや、わたしはわたしのままで目覚めたかった。あのままでは終わりにしない。わたしを守って倒れた戦士のために、きっといつか決着を……」
「ラッガートのことは、ボクも痛手になってるんだ」
「よくわかっているよ、レイ」
 ローユンは歩きながら、もう一度レイの頭を撫でた。
 レイは撫でられるのが好きである。
 だから、撫でられているときは、喉を嗚らさんばかりにうっとりしていたが、ローユンの手が離れるとすぐに手の主を見あげた。
「おまえなー、ボクを子供扱いするクセ、なおってないな」
「それはしかたがない。きみはわたしよりずっと小さいし、第一わたしのほうがずっと大人だ」
「そうか? ほんとにそうかあ?.」
 レイとしては、じつは自分のほうがローユンより年上なのではないかと考えている。
 しかし、それぞれの宇宙にはそれぞれの時間の流れがある。
 時間の速さは相対的なもので、絶対的な尺度など存在しない。
 とすると、おなじ宇宙で育ったわけではないローユンと自分、どちらが年長とは言い切れない。
 さらに、言っても誰も納得してくれないのだった。
「そうだ。それともう一つ。わたしのほうがずっと強い。どうかな、これなら文句はあるまい?」
 そう言って、ローユンはにこりと笑った。
 レイをからかっているのだ。
「ボクはもともと頭脳労働者だ。原始的な地球人の異能力者なんかと比べたら、パワーで負けるのはしかたがないんだ」
 レイはローユンの前に飛び上がって主張した。ローユンは屈託のない表情でひとしきり笑い、それから丘の上の神殿を見あげた。
 ちょうど二人は、なだらかな斜面に差し掛かったところだった。
 レイもつられて神殿に目をやり、面倒だからこのまま宙に浮かんでいこうと決めた。



 続く……
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