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39話

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 貴奈津がバスルームから出てきてみると、レイはまだ机に向かっていた。
 座ると手が届かないので椅子の上に立ち上がり、一心不乱になにかを書いている。
 机の袖には色とりどりのマーカーが転がっていた。
「ずいぶん熱心だこと……」
 レイがなにをやっているのか、貴奈津は知らない。
 声をかけても生返事をするだけなので放っておいたのだが、シャワーを浴び、パジャマに着替えて出てきても、作業は続いているようだ。
 ドサッと音をたてて貴奈津がベッドに横になる。
 伸びをしながら目をやると、レイはまだ、忙しなく手を動かしていた。
「やけに没頭してるわねー。ま、静かでいいけど」
 パチリとレイがマーカーのキャップを閉めた。
「ニャハッ」
 満足そうな声があがる。
「なにか出来上がったの?」
「そうだ。しかも傑作だ。ボクはグラフィック・デザイナーとしての才能もあるみたいだな」
 にんまりと振り向き、椅子の上でふんぞり返る。
 あれだけ時間をかけて、そこまで言うからには、きっと素晴らしい物なのだろう。
 貴奈津は興味をひかれて起き上がった。
「どれどれ、見せてみなさいよ」
「うん。看板なんだけどな、これをドアに張り付けるんだ」
 ザブトン大のプレートである。
「ちょっと待って。どこのドアへ張り付けるの」
「この部屋に決まっている」
「え……変な物だったらいやだからね、わたし」
「傑作だと言っただろう」
 気を悪くしたらしい。
 レイが頬を膨らませる。
「そ、そう? じゃあ、とにかく見せてくれる?」
 貴奈津の顔には疑惑の二文字が浮かんでいたが、それでもレイは機嫌を直した。
 早く傑作を見せたいのだ。
 ヘッヘッヘッと、おかしな笑い方をしながら、レイが看板を取り上げる。
 もったいぶって表は伏せてあった。
「すごいんだぞ。自分の才能が怖いくらいだ」
「講釈はいいから」
「チェッ、かわいくないヤツ。いいか、見て驚くなよ。それっ!」
 かけ声と共に、看板を高く掲げる。
 腕が短いので、顔の上半分が看板に隠れてしまう。
「うっ……」
 としか、貴奈津には感想できない看板だった。
 複雑な模様が色取り取りのマーカーで丹念に描かれている。
 力作であることは充分にわかる。
 わかりはするが、レイと地球人の美的感覚には大きなずれがあるのか、あるいはただたんに、レイに芸術的センスが欠如しているのか、そのどちらかだと貴奈津は思った。
「ううーむ」
 しかし、模様や色合いより、貴奈津を呻かせた物があった。
 看板にはものすごくヘタな漢字で、
「異世界宮殿対策本部」
 と大書されていたのである。
 貴奈津は無言でベッドから飛び下りた。
 すたすたとレイの正面へ近付く。
 足音を聞いてレイが掲げていた腕を下ろす。
 椅子に乗っても、頭一つ分レイが低い。
 貴奈津は看板から覗いたレイの顔を睨み付けた。
「こんなものをドアに張り付けるわけにはいかないわよ」
「ゲッ! こ、こんなものとはなんたる言いぐさ」
「異世界宮殿対策本部なんて看板、出せるわけないでしょ。常識でものを考えなさいよ、あんたは」
「あ、そういうことか。なら心配ないぞ。もともと異世界宮殿なんて、非常識すぎて誰にもわかりゃしないって。
 それにほら、おまえたち、戦闘要員のくせに危機感薄いだろう。だからこういう看板を掲げることによってだな、戦意の高揚をはかろうという狙いもあるんだ」
「危機感の足りないのはあんたのほうじゃないの。のんびり看板を描く時間があったら、異世界宮殿攻略方法の一つも考えなさいよ。
 いつまた異世界宮殿のシールドが揺らぐか、わかったものじゃないんだから」
「口だけは達者だな、おまえ。そういうからには、おまえもなにか考えているんだろうな」
 上目遣いでレイに睨まれ、貴奈津が半歩後退る。
「な、なに言ってんのよ。戦略とかそういうことは、地球人より遥かに高等な知的生物のレイの仕事に決まってるでしょ。
 当然レイには、なにか考えがあるわよね」
 今度はレイが「ウッ」と身を引く。
「だ、大丈夫だ、この前シールドをかけ直してきたからな。異世界宮殿内部からどうこうはできっこない。
 気がかりなのは正体不明の外部圧力のほうだが、そっちはとりあえずほっとくしかないしな」
 故意にはずした答えをレイがする。
「つまり、出たとこ勝負があんたの戦略なわけ? さすが高等な異世界猫の考えることは違うわね」
「作戦はローユンが考えていると思う」
「思う、って無責任ね、あんた」
「あくどい戦略とか考えるのは、地球人のほうが向いているんだからしかたがない。昔からそうやってたじゃないか」
「そうだったかしら」
 貴奈津は首を傾げた。
 このあたりになると、ナーディの記憶にはまだ濃い霧がかかっている。
「ともかくっ、ボクのこの傑作、はやくドアに飾ってくれ」
「異世界宮殿対策本部」の看板がパタパタと振られ、ぼんやりしかけた貴奈津はハッと現実に立ち戻った。
「だめ」
「なぜだっ」
「だって、センスが悪いんだもーん」
「な、なんだとーっ! センスが悪いのはおまえのほうじゃないのか? 額に汗して完成させた労作に、よくもケチをつけたなあっ!」
「猫に額なんか、あったかしらね?」
「おのれ、真の芸術を理解できない無教養な地球人め。悪口雑言の数々、天が許してもボクが許さーん!」
 レイは飛び掛かりかけたが、浮き上がったところで看板がじゃまなことに気づいた。
 丁寧に机の上に看板を戻し、貴奈津に向き直る。
 それをのんびり待っている貴奈津ではない。
 すでにベッドわきまで飛び離れ、すきなく身構えていた。
 宙に浮かんだレイと、床に立った貴奈津が睨み合う。
 先に飛びかかったのはレイだった。
 頭突きの体勢で突っこんでいく。
 ベッドに転がって貴奈津がかわすが、レイはその行動を予測していた。
 すかさず急カーブを描いて貴奈津の前に先回りする。
 自信作をけなされた怒りで、気合いの入りかたがいつもとちがう。
「逃がさん!」
「あんたみたいなノロマな猫に掴まるわたしじゃないわ」
 行く手を塞がれてひやりとしたものの、貴奈津が素早く方向転換をかける。
 しかし、よけいなことを言い返していたぶん動きが遅れた。
 飛び下りようとベッドを蹴った瞬間、レイに足を掴まれる。
「天誅っ!」
 貴奈津の片足を引っ張り上げ、勢いをつけてひっくり返す。
「キャーッ!」
 空中で回転させられ、貴奈津は背中から床へ叩きつけられた。
 超人的な運動神経で受け身をとったが、手足を強く打ちつける。
「痛いじゃないのっ!」
 だがボディ・プレスの体勢に入っているレイを真上に発見して、悲鳴もそこそこに跳ね起きる。
 降下途中で急きょレイは姿勢を立て直した。
 足で床を蹴ると、逃げる貴奈津に後ろから飛びかかる。
「フライング・アターック!」
「きゃあっ!」
 強烈な体当たりを背中に受け、貴奈津が吹っ飛ぶ。
 支えを求めて机に手を伸ばすが、掴みきれない。
 腕が机上を薙いでいき、ペンケースやマーカーをばらばらと床に飛ばす。
 ぶつかった椅子もろとも、貴奈津は床へ倒れこんだ。
「ニャーッハッハッハッ」
 宙に浮かんだレイが、貴奈津を見下ろし、両手両足を打ち合わせていた。
「い、いたたた……こ、この猫ーっ」
 呻きながら貴奈津が上体を起こす。
 床についた手に、転がってきたマーカーが当たって止まった。



 続く……
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