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51話

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 夜になると、涼しいのを通り越して肌寒かった。
 吹き抜けになった広い居問の、デルタ型暖炉に火が入っている。
 暖房が必要なほどではないが、別荘気分の演出という狙いだ。
「うう、わたしまだ体が暖まらないわ」
 貴奈津は暖炉の一番近くに席をとっていた。
 絨毯の上に座り込み、低いテーブルを置いての夕食時である。
「調子にのって、いつまでも水に浸かっているからだよ」
 パンを口に放りこみながら、月葉の声がそっけない。
 献立はパンの他にシチューだけだが、とりあえずレトルト・パックのお世話にはなっていなかった。
 レイがペロリとスプーンをなめる。
「あれしきのことで弱音を吐くとは、根性が足りないんじゃないか? ボクは平気だ」
「あんたはドライスーツを着てたでしょうが。体を張ったわたしと、いっしょにしないでちょうだいね」
「貴奈……」
 言いかけてパンを飲み込み、月葉が一呼吸置く。
「貴奈津、そういう言いかたはちょっと……」
「わたし、なにかおかしなことを言った?」
「いや、とくにおかしくはないけど、その言いかたって変に誤解したがる男もいるからさ」
 あえて名指ししないが、イーライとローユンのことを月葉は気にしていた。
 だが貴奈津にはよくわからない。
「イーライ、わたしなにか変なこと言ったかしら?」
「別に。……ねえ?」
 関心なさそうに答え、隣でシチューを口へ運んでいるローユンに相槌を求める。
 ローユンが、ただ黙って肯く。
 それみなさいと言わんばかりに月葉を見て、貴奈津はシチューの残りにとりかかった。
 そこでふと気付き、顔を上げる。
「ところでお父さん、マスのアーモンド・ソテーはどうなったの?」
「釣果、不如意」
 わけのわからないことを呟く。
 貴奈津が眉をしかめて視線をふると、月葉は無言で肩をすくめた。
「ふーん、要するに釣れなかったわけね。いいわ、明日はわたしが釣ってあげようじゃないの」
「ボクもいっしょにやってやろう」
 即座にレイが参加表明をする。
「うん、いいわよ」
「まだ釣りはやったことがないんだ。湖にマットを浮かべて昼寝をしてもいいな、気持ちいいぞ。
 仕かにもマウンテン・バイクに乗ったり、あと芸術的に風景画を描いてみたりとか」 「あんたの絵は……」
「なにっ!」
「いえ、べつに」
「それから、森の中へ探検に行ったりもしような」
 次から次へと遊びの計画を立てまくるレイに、眞鳥が遠慮がちに言う。
「レイくん、せっかくの楽しみに水を差すつもりはないが、君を見ていると少々不安になるのだが」
「なにがだ?」
「もちろん異世界宮殿のことだがね」
 ニャハハハハとレイは笑った。
「あれなら大丈夫だ、心配するな。とりあえず今、小康状態ってやつだからな、緊急にどうこうっていうものじゃない。それにな、時には戦士にも休息は必要だ」
「言うことだけは一人前ね、あんたって」
「そうか? ウヒャヒャヒャ」
 なぜかレイは嬉しそうに笑った。
 ほめられたのだと勘違いしたらしかった。


 暗いテラスヘ出て一人、所在なげにイーライは夜を眺めた。
 貴奈津と月葉の二人は、夕食の後片付けをしている。
 イーライも手伝うつもりでキッチンヘ行ったのだが、月葉に冷たく追い出されてしまった。
「可愛げがないね、まったく」
 呟く言葉とは裏腹に、にやにや笑いを浮かべている。
 月葉の反応をおもしろがっているのだ。
 しかも、その事を月葉の前で隠しもしないものだから、よけい月葉に嫌われる、という図式をイーライはわかっていたが、だからといって反省も気兼ねもするつもりはなかった。
 月葉から見れば、始末におえないというやつであろう。
 イーライの視線がスッと湖に流れる。
 夜の湖面に彼の興味をひくものがあった。
 片手をついて軽々と手すりを飛び越え、イーライは斜面に張り出したテラスから身を躍らせた。
 三メートルほど下の地面に危なげなく降り立つと、急ぐでもなく湖へ向かう。
「いいねえ、便利そうだ」
 湖上に伸びるの桟橋の端まで行くと、イーライはのんびりと感想をもらした。
 おかしな感想ではあった。
 人の形をした黒鳥が舞いおりて、湖面に大きな円形の波紋を広げる。
 その中心に立ったローユンが、桟橋に佇むイーライを見て足を踏み出した。
 一歩ごとに細波を揺らし、水面のすぐ下にガラスの床でもあるかのように、湖の上をゆっくりと進んでくる。
 時々立ち止まっては水中を覗き見る。
 その行動になんの意味があるのか、イーライにはわからない。
 桟橋に後数メートルというところで、ローユンは水面を蹴った。
 優雅に宙に舞い、物理法則を無視した放物線を描いてイーライの隣に着地する。
「夜の湖面を散歩とは、なかなかに風情があるね。いや、よい見ものだったよ」
 あまり熱心とはいいがたい拍手を、イーライはして見せた。
 かといって皮肉な感じではない。
 ローユンが笑みを溢す。
「あなたは少し変わっているな」
「きみほどではないよ」
「わたしはなにも変わっていない、ごく普通の人間だ」
「普通、という言葉の定義を間違って憶えているね。それとも、努力して忘れることに したのかな。
 たとえば鯨が空を飛んで、狸が水面を走っても、きみはやはり、普通だというの?」
 イーライのおかしな例えに、唐突になにかを思い出したらしくローユンが首を捻った。
「たしか水面を二本足で走るトカゲがいると聞いたことがある」
「バシリスクのことかな。あれはみごとなものだ、速い、速い」
「見たことが?」
「テレビで」
 夜の湖畔に佇む二人の美青年。
 眞鳥家のメイドたちが見たら、うっとりするような光景であろうが、会話の内容を知れば、もう少しましなことを口にしてくれと懇願しそうだ。
 さらにましな展開が望めない声が、別荘のほうから聞こえてきた。
「おーい、ローユーン」
 両手になにか持ち、一直線に宙を飛んでくる。
 二人の前まで来て、レイは急停止した。
「なんだ、イーライもいたのか。暗くてよく見えなかった」
「都合が悪いようなら……」
「そうじゃないけど」
 言ったもののレイは少し困った顔をして、両手に一つずつ持ったカップ・アイスを眺めた。
 だがすぐに割り切ったらしい、イーライを無視してローユンにカップを差し出す。
「眞鳥がアイスクリームをくれたんだ。二つもらってきたから、いっしょに食べよう。ハーゲンダッツのクッキーズ&クリームだ、これはおいしいんだ」
「ありがとう」
 ローユンが受け取ると、レイはカップのフタを取りながらイーライをチラリと見た。
「おまえのぶんはないからな」
 声を出さずにイーライは笑った。
「気にすることはないよ、レイ。わたしはもともと、間食をほとんどしない」
「なんで? ボクは間食、大好きだけどな」
「太るよ」
 レイに向けた一言だったが、なぜか、ローユンがスプーンを動かす手をピタリと止めた。
 しかし、貰っておいて食べないわけにも行かないと思ったのか、またアイスクリームを突き出す。
 その一部始終をイーライは横目で見ていたが、自分にも思い当たることがあるのか、余計な突っ込みはしなかった。
 この地球人男性の複雑な心理は、永遠にレイにはわからない。
「太ると何か困るのか、おまえ」
「……体重が増えると動きが鈍くなる。わたしの場合、それは仕事に差し支える」
 嘘ではなかったが、口に出さないもう一つの理由があった。
 女性受けの問題である。
 ハンサムでスタイリストのイーライも、プロポーションの維持に、何の努力もしていないわけではないのだ。
 レイが首を傾げる。
「そうかなあ。おまえくらいの身長があったら、もうちょっとお肉がついていてもいいと思うけどなあ」
「こう見えてもわたしは、けっこう体重があるのだよ」
 口に出してから、イーライは目を伏せた。
 よけいなことを言ってしまった。
 その傷口をローユンが広げる。
「それはわかるな」
「……」
 イーライがしばし言葉を失う。
 内心で「この野郎は」と思ったかもしれない。
 しかし悪気があったわけではなく、ローユンの意図は別のところにあった。
「細身に見えるが、イーライのようなタイプは見た目より体重がある。無駄がないだけなんだよ」
「そうなのか?」
 聞きながらレイは空中にパンダ座りして、せっせとアイスクリームを食べ続ける。
「貴奈津と月葉を比べてみればわかる。レイは、あの二人のどちらが体重があると思う?」
 おかしな方向へ会話が展開していく。
 とりたてて問題のある内容ではないが、引き合いに出された貴奈津はいい迷惑だ。
「貴奈津に決まってる」
「違うな。月葉のほうが重いはずだ。見た目が似たようなものなら、男のほうが確実に体重がある」
 ローユンが視線をふると、イーライが大きく肯いた。
 しかし、レイは納得しない。
「そうかあ、そうかあ? 身長は月葉のほうがあるけど、触ってみると、貴奈津のほうがお肉がついているぞ」
「触った……?」
「うん、色々ぷよぷよしていて柔らかいからな。触ると気持ちがいいんだ。たとえば……」
「待て待て待て! レイ、それ以上言ってはいけない。貴奈津のいないところで、それ以上聞くと、わたしの人格が疑われる」
 真剣に焦ってローユンが止める。
 イーライも加わりなかば必死で訴えた。
「レイ、きみにはわからないかもしれないが、そういう話は非常にまずい。
 知られたら貴奈津に嫌われてしまうし、へたをすると月葉に殺される。貴奈津のその手の話は、わたしたちにしてはいけない」
「なぜだ。ローユンが先に言い出したんじゃないか」
 レイが口を尖らせる。
「わたしが悪かったよ、レイ。謝る。つまり……」
 うまい説明がみつからない。
 なにもわかっていないレイに、どう言えば納得してもらえるのか。
 束の間考えたが諦め、ローユンは話を逸らすことにした。
「湖を調べてみたのだが」
「で、どうだった?」
 興味の向きが切り替わった。
 レイが身を乗り出す。
「水深も問題ない。いけると思う」
「そうか」
 満足げにレイはニタリと笑った。
 なんのことかとイーライは二人を見たが、特に口を挟むことはしなかった。



 続く……
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