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72話

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「ジェーロが光の中に消えていくわ」
「炎が急速に収れんしていくぞ。なんだ、なにが起こるんだっ」
「変容する、本体が現れる!」
「魔獣?」
 爆発の逆回しフィルムを見るように、火炎が中心部へ吸いこまれた。
 直後、物理的な圧力を伴った衝撃音と共に、白光が炸裂する。
「ウギャッ!」
「キャッ!」
 束の間世界が真っ白になる。
 目が眩んでしまっていた。
 絞りこまれた瞳孔が、即座には回復しない。
 揺らめいているのは炎か、あるいはオーラなのか。
 青紫色の陽炎をまとい、ジェーロの波動を脱ぎ捨てて、その実体が姿を表していた。
 しだいにはっきりしてくる視界の中に、人の形が浮かび出る。
「あれは……まさか!」
 月葉が声にならない叫びを上げる。
 押さえが外れた。
 スゥーディの記憶が堰を切って、月葉の心へ流れ込む。
 翻る紫紺のマント、立ち上る陽炎になびく金髪。
 閉じられた瞼の下には、青灰色の瞳があるはずだった。
「……ラッガート!」
 あろうことか、再び目にすることはなかったはずの双刀の戦士、ラッガートの勇姿がそこにあった。
 忘れるはずもない、共に戦い続けた仲間。
 若かったスゥーディやナーディにとり、そしてローユンにとってさえ、常に心の支えだった最強の戦士。
 一万八千年前、三姉妹との決戦に望んだあの日、異世界宮殿の中でローユンを守って倒れた人。
 月葉の唇が震える。
 声もなくローユンが立ち竦む。
 貴奈津の瞳に涙が浮かび、溢れ、そしてこぼれ落ちた。
 レイが目を見開いたまま失神しかけ、危ういところで立ち直る。
「卑怯だ、卑怯じゃないかジェーロ! ラッガートの姿を作り出すなんて!」
 顔じゅう口にしてレイは叫いた。
 涙がぽろぽろと毛皮を伝う。
 ジェーロの声だけが、応じて空間にこだました。
「わたくしが作り出した影と思うか」
 驚愕にかえて、苦悩がローユンの面に滲んでくる。
「なんということだ……なぜラッガートがここに現れる」
 呟きをとらえて、レイが真顔で振り返る。
「バカなことを言うな、ローユン。ラッガートは一万八千年前に死んだんだ!
 これがラッガートのはずがない、ジェーロの嫌がらせに決まってるっ!」
「そうだったら、どんなにいいか。しかし、確かにラッガートの残留思念を感じるのだ」  空間がジェーロの邪悪な波動を伝えてきた。
「ようやく、おわかりか? この者は囲き去りにされたおまえたちの仲間だ。ジェナリマ姉さまはこの者に殺された。これくらいのことで恨みが晴らせるわけではないが、趣向としては悪くなかろう」
「ジェナリマが死んだ?」
 ラッガートは確かにジェナリマを大きく斬り下げていた。
 人間であればひとたまりもない深手のはずだが、ジェナリマが息絶えたのかどうか、レイたちに確かめる術はなかったのだ。
「じゃあ、相討ちだったのか。だ、だけど、いや、だからあのときラッガートだって、もう……」
「そのとおり、わたくしの手に入ったとき、この者の命はすでに消えていた。
 しかし思念の欠片は微かに漂っていた。同じ人間として再生することはできないが、姿を留めておくことはできる」
「ひどいぞ、ラッガートがかわいそうじゃないかっ!」
「何故わたくしを非難する? 逆に感謝されてもよいと思うが。こうして昔の仲間に会わせてあげたのだから。いかがか、懐かしかろう?」
「ううう……どこまで卑怯なヤツなんだ、バカヤロー!」
 レイの罵倒はジェーロにとっての褒め言葉である。
 嘲笑が辺りにこだまする。
「さあ、そろそろ感激の再会といってはどうか。おまえたちの相手はこの者がする。忠告の必要はないかもしれぬが、手強いぞ。なにしろジェナリマ姉さまを斃したほどの戦士なのだから」
 クックックッ……という陰険な笑い声が、次第に遠く退き、それとともにジェーロの波動が薄れ、霧散していく。
「ま、待て! 逃げるのか、ジェーロ!」
 気配を追って飛び出しかけたレイを、ローユンが片腕で押しとどめる。
「無駄だレイ、ジェーロの実体はここにはない。それよりも」
 閉じられていたラッガートの瞼が、ゆっくりと開き始めていた。
 ウッとレイが息を飲む。
 するどく強く激しい、だが同時に深く優しかったラッガートの青い瞳は、今赤光を放っていた。
「これは彼であって彼ではない。彼の心はすでにない」
「そ、それはわかっているけど、だからってどうするんだっ!」
 レイが頭を抱え込む。
 大事の前の小事とか、泣いて馬謖を斬るとか、そういった考えかたを、速やかにはできない精神構造をレイはしている。
「斬るしかない」
「ラッガートを斬るのか?」
「そうだ」
 ラッガートの双刀が、切っ先を上げつつあった。
 呼応してローユンが剣をかまえる。
 これはラッガートではないものだ。
 そう心に言い聞かせても、かつての仲間の姿を現実にして、胸に氷塊が重く沈みこむ。
 まさか、ラッガートと対峙することになろうとは。
「レイ、離れろ!」
 ラッガートのマントがひるがえった。
 左手の一刀を顔前に掲げ、真っ直ぐにローユンヘ向かって飛び込んでくる。
 右手のもう一刀は後方へ引かれる。
「この構え、紛れもなくラッガートのものだ」
 緊張がローユンを貫く。
 三姉妹を二人まで同時に相手取り、決して退くことのなかった最強の戦士。
「わたしでは彼に勝てない」
 怯んだのではない。
 認めざるを得ない力量の差があるのだ。
 だが、たとえ勝てなくとも、負けるわけにはいかないのである。
 大上段から振り下ろされる斬撃を、ローユンが斬り上げて迎え撃つ。
 鋭く激烈な刃音が嗚り響いた。
 一瞬の間もおかず、背後に回されたラッガートのもう一刀が、ローユンの死角から繰り出される。
 ローユンが剣を弾いて飛び退る。
「これだ。これが彼の双刀の恐ろしいところなんだ」
 あらかじめ予想されていた攻撃であるにも関わらず、ローユンは二撃目を完全にはかわしきれなかった。
 腰に結んだサッシュが切り裂かれる。
 一刀を受けとめることはできるかもしれない。
 しかし、思わぬ方向から襲い来るもう一刀を、いったいどうすれば避けられるのか。
「スゥーディでさえ……」
 かつてナーディとスゥーディが、ラッガートの剣技に興味を示したことがあった。
 二人とも剣は達人といってよい水準であったから、当然の成り行きである。
 ナーディのほうは「便利かも」と、自身も二刀流に挑戦してみたりした。
 しかし、その試みは「頭がこんがらかる」などといって、すぐに放り出すことになった。
 その後しばらく、今度はスゥーディが、ラッガートを相手になにやら練習していた。
 双刀をいかに防ぐか、という研究だったのだが、スゥーディはついに諦めてしまった。
「二刀を使う人はほかにもいますけど、それをこわいとは思わないですね。でも、ラッガートのはだめ。とても手に負えません」
 片手剣でありながら、並の両手剣をしのぐ破壊力、そのうえ速度が尋常ではないのである。
「スゥーディが手に負えないというものを、わたしが防ぎきれるわけもない。しかし!」
 横ざまの一閃を紙一重でかわし、ローユンは開いたラッガートの前面に斬りつけた。
 わずかな躊躇いが、あったのかどうか。
 ローユンの剣が達するより早く、ラッガートの一刀がそれをはね除ける。
 高い金属音の余韻を引いて、ローユンは大きく後ろへ飛んだ。
 ラッガートの斬撃が空を切る。
 それでも、身を離すのが一瞬遅かった。
 ローユンが体勢を整える間もなく、さらに迫ってもう一閃が襲い掛かる。
「この一刀を受けると、次が絶対に避けられない!」
 激烈な刃音があがった。
「月葉!」
 風のように躍り出て、ラッガートと剣を撃ちかわしたのは月葉だった。
 渾身の一薙ぎが ラッガートを押し返していた。
 一歩を退き、ラッガートが双刀を構えなおす。
 片腕を前面に、もう片腕を側面に引いて、二刀の切っ先が顔前で弧を描く美しくも威圧的なかまえ。
 紫紺のマントが背に流れた。
 呼蝶蘭を下段に流して、月葉は逆に半歩を踏み出した。
 正面からラッガートの瞳を覗き込み、唇を噛む。
 青灰色の瞳はすでに失われ、赤光が月葉の心を貫く。
「よくも、よくもラッガートをこんな目に」
 激しい怒りがわき上がる。
 怒りはスゥーディのものであり、また月葉のものでもあった。
 不可思議な二重性をもって、月葉のなかにスゥーディの記憶が顕現していた。
 ふたつの意識が完全に融合した状態で、なおかつ同一体ではない。
 そして表に現れているのは、いつもの月葉の印象だった。
 ただし、今のところではあるが。
「許さない、ジェーロ。おまえだけは決して許さないからな」
 決意と共に、月葉が飛び込む。
 構えた双刀の真ん中を斜めに切り上げ、即座に剣を返して、振り下ろされる一刀を受け、身をかわしながらもう一刀をなぎ払う。
「いつものスゥーディにまして苛烈な剣捌きだ。いや、あれは月葉なのか?」
 ローユンが思わず感嘆する。
 予期せぬ方向から予想を超えた速度でくり出される双刀を、月葉は完璧に防御していた。
 あるいは、月葉の攻撃をラッガートが防いでいたのかもしれない。
 だが、さらに二、三度剣を撃ちかわすと、月葉は身をひるがえした。
 ラッガートから飛び離れ、いったん剣を引いてしまう。
「ここまではラッガートの双刀もかわすことができる。しかし、これ以上の連続攻撃にはとても、こちらの反射速度が追いつかないんだ」
 限界なのであった。極限の緊張感で息が乱れる。
 それでもラッガートを前にして気を抜くことなどできない。
 剣を引きつけ身構える。



 続く……
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