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83話

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 なにい、こんな時に、この猫は。
 と思わないでもないが、貴奈津は抑える。
 それを口に出したら、人でなしと誹られるのは確実だ。
「あああ、ううう……」
 かなり苦しそうな声が上がる。
 貴奈津はにわかに心配になった。
 地面に座り、レイを膝に抱いて覗き込む。
「どうしよう、そんなに痛いの、レイ」
「もう、意識がないみたいだな」
 かたわらに、いつの間にか月葉がひざをついている。
 靴音に貴奈津が顔を上げると、イーライが前に立ち、レイを見下ろしていた。
「かわいそうに、つらそうだ」
 うなされるレイの口もとから、丸く短い牙がのぞく。
 人間ならさしずめ、歯を食い縛るという状態であろう。
 この騒ぎはしかし、ローユンの耳には入らなかった。
 発光現象の中にあるとき、ローユンに外界の音は届かない。
 突如、爆発を思わせる轟音が響いて、レイを囲んでいた三人は、揃って音のするほうへ
振り向いた。
 道路一本向こうのビル街で、巨大なドーム状の火球が生じていた。
 六、七区画を飲みこむ半円形の中、ビルがたちまち形を失い溶けくずれていく。
 火球の外縁、境界面で、プラズマが間断なく閃いている。
 一種の障壁が作られ、灼熱のエネルギーをドーム内に押しとどめているのだろう。
 それでも、巻き起こった風が地を這い、貴奈津たちのところへゴミや砂塵と共に、熱波を吹き付けてくる。
 月葉は風に顔を背け、貴奈津はレイを庇って膝に突っ伏した。
「うっ、目にゴミが……」
 情け無い声を貴奈津が上げる。
 戦闘時なら、直後に命は無いものと思われる。
 目を閉じていたので、火球が一瞬にして収縮し、消滅するのを、貴奈津は観ることができなかった。
「終わったよ」
 イーライの声に、ようやっと顔を上げる。
 ビル街が地面からほぼ半円形に切り取られていた。
 手前のビルで見えないが、地表も同様にクレーターを作っている。
 貴奈津が大きく息を吸い込んだ途端、またもや激しい破壊音が轟く。
 不意をつかれて、貴奈津はうっと息を詰まらせた。
 半円形の火球は、その境界面でビルを、高架を分断していた。
 これで構造が持ち堪えられるはずもなく、今度は建造物の崩壊が始まったのであった。
「全然終わってないじゃない、イーライ」
「これは余興」
 爆破解体のように崩れていくビルを、イーライは平然と眺めた。
 彼は東京のビル街に、ほとんど愛着を感じていない。
「ああっ、あれは東急百貨店!」
 しかし、感慨をいだく者もいる。
 渋谷は、貴奈津がもっとも親しんだ繁華街なのだ。
 新宿より家から近いし、銀座よりはるかに青少年向きの街だから。
「……東急のイタリアン・レストラン、ピザがおいしかったのよね。ああ、とっても残念」
 崩れ、土煙を巻きあげる東急百貨店を眺めて、貴奈津はピザのことしか考えていなかった。
 隣で月葉が首を傾げる。
「ピザ? この状況でピザ?」
 口の中で呟く。
 月葉の考えていたこととは、あまりにも違う。
 空を覆う異世界宮殿、目の前で崩れていく渋谷のビル群。
 都市を壊滅させるほどの力を持つ異世界宮殿の主と、異能力をもって地上で戦うというのは、こういうことなのか。
 月葉は危機感をあらたにしていたところだったのだ。
 なのに、ピザ。
「うーん……」
 貴奈津の無念と月葉の困惑は、レイのうめき声で中断された。
「レイ、気がついたの?」
 貴奈津がひざに抱いたレイの顔を覗き込む。
 不意にレイが、勢いよく起きあがった。
「きゃっ!」
 顔面を押さえて貴奈津が仰け反る。
 頭突きの直撃を受けたのだ。
 地面にひっくり返る寸前を、イーライが飛び付くように受け止めてくれる。
 騒ぎを耳にして、ローユンが駆けつける。
「どうした」
「ず、頭突き……痛い……」
 顔を押さえたまま貴奈津は答え、ついでバッと起き上がった。
「レイ! あんた、わざとやってない?」
「行くよって……」
「え?」
 貴奈津が眉を寄せる。
 レイは地面にパンダ座りしていた。
 起き上がったものの、朦朧としているらしい。
 間の抜けた顔であらぬ方を見上げている。
「レイ、いったい、どうしちゃったの」
「今行くよ、って言ってた……」
 繰り返したとき、閃光がレイの頭上で炸裂した。
 四人はレイを注目していたのだから、これはたまらない。
 顔を背け目を覆うが遅かった。
 薄暗い中での白光は、視力を奪うと共に、痛みをも感じさせた。
 レイだけがあまり被害を受けなかった。
 光源に顔を向けていなかったのと、ほとんど目を閉じていたためだ。
 したがって、真っ先に視力を回復したのもレイである。
「あ……」
 ふらりとレイが立ちあがる。
「あ、ああ……」
 そのままレイは立ちつくし、茫然と数歩先の地面を見ていた。
 その間に、貴奈津たちの目も正常に戻る。
「レイ、ケガしなかった?」
 貴奈津がかける声に、返事はない。
「やだ、どうかしちゃったんじゃないでしょうね」
 飛びつくようにレイの肩を掴み、ブンブンと揺する。
 相変わらず茫然とした表情ながら、レイが数歩先の地面をゆっくりと指さす。
 今度は貴奈津が唖然とする番だった。
「……あ、あれは?」
 レイの指差すところには、リュックを背負った、水色の毛皮をもつ猫が、頭を抱えてひっくり返っていた。
 しかも、そいつは「イタタタ……」などと、言っていたのである。
 貴奈津を押しのけ、レイが一歩進み出る。
「ゴ、ゴーシュ?」
 レイの声に、地面の猫が弾かれたように飛び起きる。
 サイズはレイより一回り小さい。
 水色の猫はレイを見て、喜びを顔一杯に広げた。
「レイ!」
「ゴーシュ!」
 お互いに一、二歩をダッシュして、二人の異世界猫がひしと抱き合う。
 ゴーシュはレイの友達だった。
「ちゃんと、辿り着けて良かったよ。なんどか呼び掛けたのに、応答がなかったから、凄く心配してたよ」
「呼んだのか? 聞こえなかったぞ」
「そう? やっぱり回線にムリがあったかなあ」
「マイクロチップ回線か?」
「そうだよ。でも世界が違うと、つまく繋がらないみたいだね」
「今行くよ、って言ったか?」
「うん、言ったよ」
「そうか! そうだったのか!」
 抱き合ったまま、レイが一人納得する。
 頭痛の原因がわかった。
 あの激しい頭痛は、マイクロチップ回線の不整合のせいだった。
「ああっ、だけど、そんなことはどうでもいい。ゴーシュ、会えて嬉しい! もうボクは、ボクは一生、故郷のみんなには会えないと思って、ほんとは覚悟していたんだ」
 言いながら感激が込み上げて、レイが声をつまらせる。
 笑い目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「可哀想に苦労したんだね、レイ。でも、ボクが来たからもう大丈夫」
 ゴーシュは抱きしめた手で、パフパフとレイの背中を叩いた。
 涙を堪えているのか、きつく目を閉じていたので、ゴーシュもやっぱり笑い目になっている。
 このへんは、どうしても猫である。
 感動の再会をしているのであろう、と思われる二人の異世界猫を、四人の地球人は無言で眺めた。
 レイの姿は見慣れていたが、もう一人の人語を話す猫を目のあたりにして、さすがに「こ、これは……」と、くるものがある。
 ゴーシュは援軍の先触れであった。
 しかし、この時点でそれはわからない。
 ゴーシュの出現に期待より、なんとなく不安のほうを、地球人たちは抱いた。
 レイの日頃の言動が、立派に成果をあげたのであった。



 続く……
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