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最終話

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 居間でオセロをしている貴奈津と月葉を見て、眞鳥は溜め息を漏らした。
 ここ一週間ほどを、姉弟はこんなふうに一日中家の中ですごしている。
「ローユンは私たちを置いて、一人でどこかへ行っちゃったのよ。もう、帰ってこないに決まってるわ」
 貴奈津は言って、そう思ってもいたが、もしかすると、不意にローユンが帰ってくるのではないか、と矛盾する気持ちもないわけではない。
 だから貴奈津はスクールヘ行かない。
 かなり立ち直ってきたとはいえ、貴奈津の落ち込みが激しいので、姉思いの月葉もそれに付き合っている。
 わざと人の出入りする居間でゲームをしているのは、貴奈津を一人にしておくと、自室でホログラフのレイを眺めて涙ぐんでいるからだ。
 眞鳥も時間の許すかぎり、貴奈津の側についていた。
 過保護なのかもしれないが、いつも元気な貴奈津なだけに、よけい気の毒に思うのだった。
「二人とも、こんなに天気がいいのだから、散歩にでも出たらどうかね」
 貴奈津と月葉が顔を上げた。
「そういえば、近所にフラワーショップが開店したんだ。見に行こうよ、貴奈津」
「うん、行ってみようかな」
 二人が出ていくと、眞鳥はもう一度溜め息をついて、大きくソファーにもたれた。
 明るい声が、そこへかかった。
「ご心配ですね」
 書類封筒を手にしたイーライが、居間へ入ってくる。
「なんだ、きみか」
「ローユンでなくてすみません」
 思わず眞鳥は咳き込んだ。
 イーライの言葉は、まったくの的外れではなかった。
「いや、そんなことは。で、なにか用かね」
「これを、お返ししようと思いまして」
 差し出された封筒の中から、眞鳥は一通の契約書を取り出した。
「これは、月葉のボディガード契約書ではないか」
「はい。この契約は本日をもって終了とします」
「すいぶんと一方的だな」
「そういう契約ですからね」
 優しげな微笑みをイーライは見せた。
「今さら気にしなくとも、わたしのほうはかまわんよ」
 諦めの境地に眞鳥は達していた。
 契約を後悔したことは確かにあるが、今となっては契約があろうがなかろうが、月葉の人生からイーライを降板させることは不可能であろう。
「ありがとうございます。ですが、たいした労働もしないで報酬を受けるのも心苦しいですし、わたしもそろそろほかの仕事がしたいのです」
「ちょっと待ってくれたまえ。そうなると、誰が月葉を抑えるのかね」
 問題行動の多い月葉に、したたかで一筋縄ではいかないイーライという組みあわせを、一時は本気で心配した眞鳥だったが、かえってこれでよかったのではないか、などと思うこの頃である。
  イーライはおそらく良識派ではなかったが、過激な月葉をうまく制止してサポートできるのは、彼のようなタイプなのだ。
「月葉も以前よりだいぶ成長しましたよ」
「しかしぃ」
「ご心配なら、時々月葉を見張りましょう。なにかあれば、わたしがうまく処理しますよ。
 もっとも、これは頼まれなくてもやりますけれどね」
 イーライは笑ったが、それは決して無垢な微笑みではなかった。
 幾ばくかの不安が眞鳥には残ったが、月葉のためを思えばしかたがない。
「頼むよ、一つ」
 そして声をひそめ、とんでもないことを付け加える。
「処理といっても、死体処理とかいうのは困るのだが」
「月葉は正義感が強いですからね。しかし、そうならないために、わたしがいるのです。その辺りは、お任せください」
「うーむ……」
 果たして、お任せしていいのだろうか。やはり悩んでしまう眞鳥であった。
「お待ちかねのお客様でございますよ」
 執事の声に、眞鳥は寿命を三日ほど縮めて、イーライは平然とふりかえる。
 ドアを開けたままの入り口に、なにやら嬉しそううな牧野が立っていた。
 そして現れたのは、
「おお!」
 はじかれたように、眞鳥はソファーから立ち上がった。
 駆け寄り、力いっぱいローユンを抱き締める。
「よく帰ってきた」
 バシバシとローユンの背中を、いつまでも眞鳥は叩いた。
 それは眞鳥が、いつも子どもたちにするような感情表現だった。
「この子を」と眞鳥は思った。
 眞鳥から見れば、ローユンは自分の子どもと言っても差し支えない年齢である。
「この子をわたしの家族にしよう。たとえ貴奈津の婿にならなくても、家族にしよう」
 眞鳥は強く心に決めた。
 ソファーにかけたまま、イーライは軽く手を上げてローユンを迎えた。
 ようやく眞鳥から放してもらい、ドアの側へ立ったままローユンは切り出した。
「わたしが自立できるまで、ここへ置いてもらえないだろうか」
「好きなだけいたまえ。きみはもう、わたしの家族で、ここはきみの家なんだから」
 ソファーでイーライが肩を竦めた。
 わたしとでは、ずいぶん扱いが違う。
 その仕草は、ローユンの微苦笑を誘ったが眞鳥からは見えない。
「だから今後は、黙って家を出ていってはいかんよ」
「わかった。厚意に心から感謝する」
 現実的な質問をイーライがした。
「ねえローユン、これからなにをするつもりなの?」
「じつはまだ考えていない。時間はたっぷりあったのだが、ぼんやりしているのが心地よくて」
「そんなものさ、それでいい。人間にはなにもしない時間がときには必要だ。それは貴重な経験になるんだよ」
「ありがとう、イーライ」
「なんなら、どう、わたしの仕事でもやってみる? 意外と実入りは悪くない」
 不測の展開に眞鳥が慌てる。
「いかん、いかん! ローユンくんは、我が社の後継者と決まっているのだ」
「決めた覚えはないのだが」
「決まっているのだ」
 繰り返す眞鳥の背後でソファーから立ち上がり、イーライは笑いをこらえながら居間を出ていった。


 玄関前でイーライはひとしきり笑った。
 真剣な眞鳥と、戸惑うローユンの対比がおかしかった。
「けれど、さすが大企業の会長だ。彼は人を見る目があるよ」
 呟いてイーライは待ち人を見つける。
 一刻も早く知らせてあげたい。
 だから、ここへやってきたのだ。
「お帰り、二人とも」
 月葉は手ぶらだが、貴奈津は黄バラの花束を抱えている。
 黄バラは気分を明るく暖かくする花だ。
「あら、こんなところでどうしたの、イーライ」
 散歩と買い物は、よい気分転換になったらしい。
「貴奈津を待っていたんだよ。お客様が見えている」
「わたしに?」
「そう。誰だと思う?」
「……?」
「黒髪のハンサム」
 突然、黄バラが押し付けられた。
 イーライが振り返ったときには、貴奈津はすでに玄関へ駆け上がっていた。
「あーあ、居場所も聞かないで」
 廊下を走っていく貴奈津の後ろ姿を見送り、月葉が苦笑して両手を広げる。
「きみは落ちついているね、月葉」
「ローユンが帰ってきたんだろう? 必ず帰ってくると思っていたよ。まあ、どうせぼくはおじゃまだからさ。ゆっくり会いに行くよ」
「月葉もずいぶん、物分かりがよくなったね。
 ときに、眞鳥会長はローユンを眞鳥グループの後継者にするつもりらしいけれど、きみは知っていたの?」
「なんだって!」
「寝耳に水か……」
 叫んだ月葉がどういう行動に出るのか、イーライは興味を持って見守った。
「そうか、その手があったんだ!」
 さすが親子。眞鳥と似たようなことを月葉が言う。
「その手、とは?」
「ぼくは今、初めてローユンの存在をありがたいと思ったよ。これでぼくは完全に自由だ。
 手を合わせてローユンを拝んでもいいな。この件に関してだけだけど」
 月葉の声は開放感に満ちている。
 思わずイーライはひざを崩した。


 月葉が心配するまでもなかった。貴奈津は真っ先に居間へ飛び込んだのだ。
「ローユン!」
 緩やかなウェーブのある黒髪を後ろで束ねて、変わらぬローユンがそこにいた。
 しかし、衣装は少し違っている。
 黒いハーフコートを腕捲りして、頭に巻いた長い布も腰に結んだサッシュもなかった。その姿は異国の美青年というより、都会のファッションモデルのように見える。
「ただいま、貴奈津」
 一万八千年の時を経て再会したレイにしたように、ローユンは大きく両手を広げた。
 駆け寄り貴奈津がローユンに飛びつく。
 ローユンは貴奈津をしっかりと腕に抱きしめた。
「わたし、死ぬほど心配したんだから。だから……もう黙っていなくならないで」
 貴奈津は泣いていた。
 今度は嬉しくて涙がとまらない。
「すまない。これからはしない」
 帰ってきてよかった。
 ローユンは心の底からそう思った。
 この暖かい人を、強くて優しくて可愛い人を、自分の世界から失いたくない。
 わたしはこの魂の側にいたい。
「大好きよ、ローユン」
 こぼれた貴奈津の言葉に胸を締め付けられ、ローユンはもっと強く貴奈津を抱き締めたくなった。
 しかし、貴奈津の言葉はさらに続いた。
「イーライも月葉もお父さんも、みんな大好き」
 ローユンは心の中で溜め息を吐いた。
 それにしても、喜んだり落胆したり、些細な事で人の心はこんなにも揺れるものなのか。
 自分の感情を、ローユンは驚きをもって観察していた。
「貴奈津、きみが大人になって、わたしもいまより大人になったら、わたしたちはきっとお互いのよき理解者になれる」
 このような婉曲な言い回しでは、とうてい貴奈津に真意は伝わらない。
「う、うん。そうね」
 なんとなく、貴奈津は肯いただけだった。
 傍らで眞鳥が、二人の再会に満面の笑みを浮かべていた。
「よかったな、貴奈津。うむ、よかった、よかった」
 開けたままのドアがノックされる。
 一応登場の予告をして、月葉が居間へ入ってきた。
 笑みを浮かべてローユンに近寄り、いつになく優しい言葉をかける。
「お帰り、ローユン。待っていたんだ、もうどこへもやらないからね」
「月葉ったら……」
 指で涙を拭いながら、貴奈津が微笑む。
 なんだかんだいって、やっぱり月葉もローユンのことが大好きなのね。
 単純に貴奈津はそう思った。
「そう言ってくれるとありがたい」
 月葉の態度に、ローユンは漠然となにかを感じとったが、とりあえず礼を述べる。
 帰宅を喜んでいてくれることは、確かだったから。
 イーライがドアによりかかって、そんなローユンと月葉を眺めていた。
 パンパン! と手を叩いて、眞鳥が一同の注意を引いた。
「いや、とにかくめでたい。みんな揃ったことでもあるし、今夜はお祝いをしようではないか」
 即座に賛成する声が、天井からふってくる。
「そうだ、お祝いだ。お祝いといえばごちそうだ。パイナップルはあるかな? ニャハハハ」
 軽薄でやかましい笑い声を上げて、レイが宙に浮かんでいた。
「うそっ、レイ! どうして?」
「約束どおり遊びに来たぞーっ!」
 急降下して、ムササビのように貴奈津に飛び付く。
 受けとめて手にふれる毛皮の感触に、貴奈津の歓喜が爆発する。
 落ち込みが激しかったぶん、立て続けの再会に喜びが二乗してしまった。
 レイを抱き上げて振り回し、居間じゅうをスキップする。
 貴奈津の大喜びに、レイもすっかり気をよくして、ニャハハ、ニャハハハッと笑いまくった。
「レイ、こちらでは一週間ほど経過しているんだけど」
 月葉が首を捻っていた。
「ボクの星でも同じだぞ」
「そんなはずはない。おかしいじゃないか」
「月葉、おまえ、ホワイトホール理論って知っているか?」
「え? うん、概要だけは。……あっ、そうか!」
「そういうことだ」
 月葉は自力で納得したが、今度は貴奈津が首を傾げる。
「レイ、どういうこと?」
「つまりだな、ボクの宇宙とこちらの宇宙を行き来するときに、ゲートを通ると考えてくれ」
「考えたわ」
「そのゲートをうまく選択すれば、別々の宇宙の時間の流れが調節できるというわけだ。わかったか?」
「ぜんぜん」
「そうか、や……」
 やっぱり、おまえの頭じゃわからないか、と言いかけてやめる。
 久し振りに目のあたりにした、貴奈津のバカさかげんも愛おしい。
「やっぱり、おまえはキャワイイなあ。これからも、たびたび遊びに来てやるからな」 「たびたび……来るのかね」
 あまり嬉しくなさそうな眞鳥を、ビシッとレイは指さした。
「おまえは、ごちそうの用意をしていればいいんだ」
 月葉が二、三度拍手をする。
「いいねえ、ごちそう。たくさん食べていってよ、レイ」
「任しとけ」
 ゆっくりドアヘ振り返り、月葉はたっぷり感情を込めていった。
「イーライも、たくさん食べてね」
「思いやりあふれる言葉をありがとう、月葉」
 日常程度に食べるのは、いっこうに差し支えない。
 しかし、いったん食べはじめると自覚がなくなる。
 イーライは二ヶ月間の、長い地獄のダイエットに入っていた。



 おしまい
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