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Chapter 2

01 近すぎるんですけど

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 さっき歩いていた時は気がつかなかったけれど、遊歩道から小道に入った先はマンションの裏口に繋がっていた。
 外壁もエレベーターホール内も自然な風合いの石材やタイルが使われ、空間全体が上品に整えられている。庶民の僕は大理石の床をスニーカーで踏みつけることすら緊張してしまう。当然だけれど、霧谷さんはそんなことを気にせずにさっさと先を歩いていく。

 迷いのない背中を追いながら、先に立たない後悔に沈む。
 なんであんな嘘をついてしまったんだろう。だってまさかこんなことになるとは思いもしなかったから。それにしてもほかにもっと言いようがあったじゃないか。たとえば、「友人の家が近くにあって」とか、「同僚と飲みに行った帰りに少し酔い覚ましをしようと思って立ち寄った」とか。今頃考えついても遅い。咄嗟の時に思い浮かぶような親しい友達もいないし、同僚と仕事以外で深くかかわる機会もないということを改めて認識してしまって物悲しい気持ちになるだけだった。

 悔やんでばかりいるうちに、たどり着いたのは最上階の一番端の部屋だった。

「どうぞ。散らかってるけど」
「お……お邪魔します……」

 今更ながら本当にお邪魔していいのか躊躇してしまう。だいたい有名な作家が僕みたいな得体の知れない人間を家に上げたりして大丈夫なのだろうか。あまりの無防備さに心配になりながらも好奇心に負けて、恐るおそる出してもらったスリッパに履き替えた。

 案内されるがまま廊下の突き当たりの部屋に入る。
 その場所を、僕は知っていた。

「うわあ! 雑誌と同じだ!」

 ついアホみたいな声をあげてしまって、あわてて口元を押さえた。霧谷さんも苦笑いしている。でもこの前読んだばかりの雑誌に掲載されていたアトリエの写真とまったく同じなんだもの。感動したんだもの。

 広々としたリビングルームは住居スペース兼作業場になっていて、入り口を背にして右手側に置かれた作業机に真っ先に目が行く。製作途中と思われるキャンバスが、絵筆や絵の具などの画材に囲まれて完成を待っていた。机の端にはパソコンの液晶モニターも置かれている。壁には予定が書き込まれたカレンダーや、霧谷英志の手によって生み出されたキャラクターたちのスケッチがいくつも貼られている。細かく文字の書かれたメモや開いたままの雑誌は机の上に乗り切らなかったのか、床に点々と落ちていた。

「取材の時にはもう少し綺麗にしてるんだけどね」

 床に散らばっていたものをさっとまとめて、コーヒーらしき中身が少し残ったマグカップを片付ける霧谷さんから目を逸らす。いけない、無遠慮にじろじろ見まくってしまった。

 適当に座ってて、と言われて、部屋の中央に置かれたソファの端に腰を落ち着ける。大人しくしていなければ、とは思うけれど、どうしても部屋の様子が気になって仕方ない。

 今はカーテンが引かれているけれど、窓からはさっきまでいた公園が見えるはずだ。昼間はきっと日当たりもいいだろう。
 作業机が置かれているのとは反対側の壁は一面収納棚になっていて、液晶テレビやステレオセット、書籍などが整然と収められていた。天井付近の棚に並び置かれているぬいぐるみは全部霧谷英志の絵本に登場するキャラクターで、今では入手困難なレアキャラまで揃っている。その下の段には書籍化した作品が出版年順に並んでいた。最初に置かれている「うさぎのおかしやさん」は美大の卒業制作として描かれたものだ。その後も児童書や絵本を次々と発表し、中でも「たんていどろんど」シリーズは一番のヒット作で、去年からアニメ化を果たした。そのほか企業のイメージキャラクターなども手がけている。

 苦労知らずの若き天才。おまけにモデル並みのイケメンとくれば世間が放っておくはずもなく、美術系の専門誌や情報誌以外でも特集が組まれるほどで、女性向けファッション誌の表紙を飾ったことまである。

「水しかないけど」
「はひ! すいません、おかまいなく……!」

 モデル並みのイケメンにミネラルウォーターの瓶を差し出されて、ソファから飛び上がりそうになる。声もみっともなく裏返ってしまった。がちがちに緊張する僕をよそに、霧谷さんは僕のすぐ隣に腰を下ろした。

 ――近い! 近すぎるんですけど! 僕が横になって余裕で寝られるぐらい大きいソファなのに、どうして肩が触れるほど近くに。どこに座ろうが家主の自由だし、けして嫌なわけではないけれど、僕の心臓が持たない。
 そもそも僕がこの部屋に招いてもらえた理由を考えたら、これから今以上に接近することになるはずだし、接近どころか接触することになるはずで――――考えただけで心臓が止まりそうになる。
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