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Chapter 7
03 ハの字眉
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クレーム・パティシエールを混ぜながら、今日は霧谷さんが迎えに来ているだろうかとぼんやり考え、あわてて頬を強く抓った。大鍋で大量に炊いているのに、余計なことを考えて焦がしでもしたら大変だ。
その日の僕は遅番で、翌日の仕込みをしていた。僕は未だに「カスタード」と呼ぶ方がしっくりしてしまうこのクリームは、一晩置いた方が作りたてよりも味が落ち着いておいしくなる。
高沢さんに味を見てもらい、どうにか及第点をいただいて無事に仕込みを終えられた。
もし、今日。霧谷さんが迎えに来てくれてたら、きちんとお話しよう。僕の名前を教えてしまおう。そうしたらもう、僕に会いに来る理由もなくなるはずだ。でもきっと原画展の最中で忙しいだろうから、もう少し先になるはずだ。早くけりをつけたくてもどかしいのに、決定的な話をしないで済んでほっとするような、矛盾した気持ちが胸の中で渦巻く。
「おう、真崎、お前が最後?」
更衣室に顔を覗かせた矢幡さんに呼びかけられて、いつの間にか自分のほかに誰もいなくなっていたことに気づいた。
「あっ、はい、すいません、すぐ……!」
「いや急がなくていいけど。でも丁度いいや、少しいいか」
矢幡さんが僕を呼び止める理由といえば、叱責が七割、娘の恵那ちゃんの自慢話が二割、残りの一割で試作品の試食をさせてもらえる。当たりが少ない。
急いで身支度を済ませて、矢幡さんに続いて事務所に入る。経理の人の椅子を借りて、矢幡さんの向かいに腰掛ける。矢幡さんは真剣な顔つきをしていた。この感じはお叱りのパターンに違いない。
「お前、うちに来てどのくらいになる」
「はい、五年半です」
最初の一年はヴァンドゥーズとして接客の勉強をさせてもらって、パティシエとしては今年で五年目だった。
「ああ、そうだったな……月日がたつのは早いもんだよ」
矢幡さんは遠くを見ながら、独り言みたいに呟いた。僕にとっては、とても長い時間のように感じられた。覚えることが多すぎて、出来ないことだらけで毎日悪戦苦闘している。
「それで真崎はさ、これからどういう感じでいこうと思ってるの? うちに入った時はいつか自分で店を持ちたいみたいなこと言ってたけど、今も同じ?」
「それは……」
言葉に詰まってしまう。ラパンで修行を始めた当初は、仕事のことも業界のことも理解できていなかった。僕みたいなのが独立して自分の店を持ちたいなんて、あまりに無謀だったと今は思う。
「そろそろ節目だと思わないか? もし将来独立するつもりなら余所の店でも経験を積んだ方がいい。なんなら海外へ修行に行くとかさ。そういうのは若いうちにしておいた方がいいだろうし――」
矢幡さんの話に頷きながら、先月辞めていった先輩のことを思い出した。故郷に帰って店を開くのだと言っていた。海外での勤務や名の知れたホテルでも修行した経験のある、腕もセンスもいい職人で、僕も沢山の技術を間近で見せてもらう機会に恵まれた。
人の入れ替わりはよくあることだ。来月からはクリスマスに向けて人も増える。僕と同時期に入った人は全員よその店に移っているか、他業種に転職している。そこまで考えついて、ふと思う。人員が入れ替わる今、僕に将来の話をするのは、まさか。叱られるどころか、遠まわしな解雇宣告なのでは!?
「あ、あの……もしかして……僕はクビなので……?」
びくびくと顔色を伺う僕に矢幡さんは一瞬目を丸くして、すぐに破顔して豪快に笑った。
「違うちがう、節目って言ったのはそういう意味じゃないんだ。もしお前が余所に行くことを考えてたとしても遠慮をする必要はないっていう話だよ。なんなら紹介状も書いてやるし」
矢幡さんにばんばんと肩を叩かれて椅子から転げ落ちそうになりながらも、ほっとする。いきなり職を失ってしまうのかと思った。
「でもまあ、人の移動の激しい業界だから、今の段階でどう考えてるか聞いておこうと思ってさ。お前は将来、どんな場所で、どういうものを作りたいんだ?」
改めて尋ねられて、再び言葉に詰まってしまう。
一人前になること。一人の人間として、認められるようになりたい。それは具体的な目標じゃない。
「食べた人が笑顔になるようなものを、なんて曖昧なのは止めてくれよ。自分を主体に考えろ。どれだけ優れた能力を持っていても誰かが評価してくれるのを待っていたんじゃなにも始まらない。どんなにうまい菓子を作れても、前に出てやっていく覚悟がなかったら独立は難しい。お前だってもう五年もパティシエやってるんだから、わかるだろう」
矢幡さんの言うことを、わかっているつもりだった。新人が十人入ったら一年以内に半分以上が辞めていく。残りの一握りがどうにか一人前になって独立したとしてもそこがゴールじゃない。パティシエとしてだけではなく、経営者としての手腕も問われることになる。
「……すいません。まだ、ちゃんと考えられなくて」
叱られるかと思ったけれど、矢幡さんは特に気にした様子はなかった。
「いやいいんだ、今すぐどうこうしろって話じゃないから。ただ、俺は先のことを考えないといけないから。外に出て行く若い連中に技術を叩き込むのも当然の義務だし、経験を積みにやってくる連中から逆に教わることもある。そういう中でもし、俺のやり方に共感して、この店を支えていこうって思ってもらえたらそれもいいと思う」
頷きはしたけれど、僕は話が見えないでいた。僕の理解力が低いのはいつものこととして、普段の矢幡さんはもっと単純明快な物言いをするのに。僕のそんな考えが透けて見えたのか、矢幡さんは言いにくそうに口をへの字に曲げた。
「だから、まあ、うちでずっとやっていくっていう選択肢もあるっていうのを念頭に置いといてくれっていう話」
ラパンで、ずっと働く。思いがけない言葉に、矢幡さんをまじまじと見つめてしまう。
「……でも、僕なんかがいつまでもいたら、迷惑なんじゃ」
「バカ、お前はとっくにうちの戦力だよ。そうじゃなかったらこんなこと言わない」
これはもしかしたら、矢幡さんに職人として認めてもらえたということなのだろうか。それとも「ふらふらしてないでしっかり将来のことを見据えて仕事をしろ」というお叱りなのだろうか。いまいち確信の持てない僕に、矢幡さんは根負けしたようにため息をついた。
「お前は真面目で丁寧な仕事をする。根気もいい。もう少し肩の力を抜いて、ムラなく一定に力を出せるようになりゃさらにいい。仕上げだけに関して言えば、まあ見事なもんだよ。高沢もよくお前のことを褒めてる」
「えっ! 高沢さんがですか!」
高沢さんの名前が出て、思わず背筋が伸びる。
「なんだ、そんなに意外か」
「だって僕、高沢さんに叱られてばっかりなのに……」
「あの人は見込みのあるやつにしか厳しくしないよ。鍛え甲斐があるって思われてんだよ、お前は」
――そうだったのか。僕は毎日なにかしら注意されているから、未熟者だと呆れられているのだとばかり思っていた。
じわじわと嬉しさがこみ上げて、つい顔が緩んでしまう。
「まあだからって調子に乗るんじゃねえぞ! これからもしっかり励むように!」
「す、すいません、ありがとうございます、がんばります!」
矢幡さんの声の調子がいつものお説教の時みたいに戻って、とっさに謝ってしまった。
「今日は褒めてやるつもりだったんだけどなあ。お前のハの字眉を見てると、どうしても活を入れたくなる」
矢幡さんは豪快に笑って再び僕の肩を叩いた。勢いで椅子からずり落ちながらつられて笑ったけれど、僕の眉毛は矢幡さんの言う通り、情けないハの字型になっているに違いなかった。
その日の僕は遅番で、翌日の仕込みをしていた。僕は未だに「カスタード」と呼ぶ方がしっくりしてしまうこのクリームは、一晩置いた方が作りたてよりも味が落ち着いておいしくなる。
高沢さんに味を見てもらい、どうにか及第点をいただいて無事に仕込みを終えられた。
もし、今日。霧谷さんが迎えに来てくれてたら、きちんとお話しよう。僕の名前を教えてしまおう。そうしたらもう、僕に会いに来る理由もなくなるはずだ。でもきっと原画展の最中で忙しいだろうから、もう少し先になるはずだ。早くけりをつけたくてもどかしいのに、決定的な話をしないで済んでほっとするような、矛盾した気持ちが胸の中で渦巻く。
「おう、真崎、お前が最後?」
更衣室に顔を覗かせた矢幡さんに呼びかけられて、いつの間にか自分のほかに誰もいなくなっていたことに気づいた。
「あっ、はい、すいません、すぐ……!」
「いや急がなくていいけど。でも丁度いいや、少しいいか」
矢幡さんが僕を呼び止める理由といえば、叱責が七割、娘の恵那ちゃんの自慢話が二割、残りの一割で試作品の試食をさせてもらえる。当たりが少ない。
急いで身支度を済ませて、矢幡さんに続いて事務所に入る。経理の人の椅子を借りて、矢幡さんの向かいに腰掛ける。矢幡さんは真剣な顔つきをしていた。この感じはお叱りのパターンに違いない。
「お前、うちに来てどのくらいになる」
「はい、五年半です」
最初の一年はヴァンドゥーズとして接客の勉強をさせてもらって、パティシエとしては今年で五年目だった。
「ああ、そうだったな……月日がたつのは早いもんだよ」
矢幡さんは遠くを見ながら、独り言みたいに呟いた。僕にとっては、とても長い時間のように感じられた。覚えることが多すぎて、出来ないことだらけで毎日悪戦苦闘している。
「それで真崎はさ、これからどういう感じでいこうと思ってるの? うちに入った時はいつか自分で店を持ちたいみたいなこと言ってたけど、今も同じ?」
「それは……」
言葉に詰まってしまう。ラパンで修行を始めた当初は、仕事のことも業界のことも理解できていなかった。僕みたいなのが独立して自分の店を持ちたいなんて、あまりに無謀だったと今は思う。
「そろそろ節目だと思わないか? もし将来独立するつもりなら余所の店でも経験を積んだ方がいい。なんなら海外へ修行に行くとかさ。そういうのは若いうちにしておいた方がいいだろうし――」
矢幡さんの話に頷きながら、先月辞めていった先輩のことを思い出した。故郷に帰って店を開くのだと言っていた。海外での勤務や名の知れたホテルでも修行した経験のある、腕もセンスもいい職人で、僕も沢山の技術を間近で見せてもらう機会に恵まれた。
人の入れ替わりはよくあることだ。来月からはクリスマスに向けて人も増える。僕と同時期に入った人は全員よその店に移っているか、他業種に転職している。そこまで考えついて、ふと思う。人員が入れ替わる今、僕に将来の話をするのは、まさか。叱られるどころか、遠まわしな解雇宣告なのでは!?
「あ、あの……もしかして……僕はクビなので……?」
びくびくと顔色を伺う僕に矢幡さんは一瞬目を丸くして、すぐに破顔して豪快に笑った。
「違うちがう、節目って言ったのはそういう意味じゃないんだ。もしお前が余所に行くことを考えてたとしても遠慮をする必要はないっていう話だよ。なんなら紹介状も書いてやるし」
矢幡さんにばんばんと肩を叩かれて椅子から転げ落ちそうになりながらも、ほっとする。いきなり職を失ってしまうのかと思った。
「でもまあ、人の移動の激しい業界だから、今の段階でどう考えてるか聞いておこうと思ってさ。お前は将来、どんな場所で、どういうものを作りたいんだ?」
改めて尋ねられて、再び言葉に詰まってしまう。
一人前になること。一人の人間として、認められるようになりたい。それは具体的な目標じゃない。
「食べた人が笑顔になるようなものを、なんて曖昧なのは止めてくれよ。自分を主体に考えろ。どれだけ優れた能力を持っていても誰かが評価してくれるのを待っていたんじゃなにも始まらない。どんなにうまい菓子を作れても、前に出てやっていく覚悟がなかったら独立は難しい。お前だってもう五年もパティシエやってるんだから、わかるだろう」
矢幡さんの言うことを、わかっているつもりだった。新人が十人入ったら一年以内に半分以上が辞めていく。残りの一握りがどうにか一人前になって独立したとしてもそこがゴールじゃない。パティシエとしてだけではなく、経営者としての手腕も問われることになる。
「……すいません。まだ、ちゃんと考えられなくて」
叱られるかと思ったけれど、矢幡さんは特に気にした様子はなかった。
「いやいいんだ、今すぐどうこうしろって話じゃないから。ただ、俺は先のことを考えないといけないから。外に出て行く若い連中に技術を叩き込むのも当然の義務だし、経験を積みにやってくる連中から逆に教わることもある。そういう中でもし、俺のやり方に共感して、この店を支えていこうって思ってもらえたらそれもいいと思う」
頷きはしたけれど、僕は話が見えないでいた。僕の理解力が低いのはいつものこととして、普段の矢幡さんはもっと単純明快な物言いをするのに。僕のそんな考えが透けて見えたのか、矢幡さんは言いにくそうに口をへの字に曲げた。
「だから、まあ、うちでずっとやっていくっていう選択肢もあるっていうのを念頭に置いといてくれっていう話」
ラパンで、ずっと働く。思いがけない言葉に、矢幡さんをまじまじと見つめてしまう。
「……でも、僕なんかがいつまでもいたら、迷惑なんじゃ」
「バカ、お前はとっくにうちの戦力だよ。そうじゃなかったらこんなこと言わない」
これはもしかしたら、矢幡さんに職人として認めてもらえたということなのだろうか。それとも「ふらふらしてないでしっかり将来のことを見据えて仕事をしろ」というお叱りなのだろうか。いまいち確信の持てない僕に、矢幡さんは根負けしたようにため息をついた。
「お前は真面目で丁寧な仕事をする。根気もいい。もう少し肩の力を抜いて、ムラなく一定に力を出せるようになりゃさらにいい。仕上げだけに関して言えば、まあ見事なもんだよ。高沢もよくお前のことを褒めてる」
「えっ! 高沢さんがですか!」
高沢さんの名前が出て、思わず背筋が伸びる。
「なんだ、そんなに意外か」
「だって僕、高沢さんに叱られてばっかりなのに……」
「あの人は見込みのあるやつにしか厳しくしないよ。鍛え甲斐があるって思われてんだよ、お前は」
――そうだったのか。僕は毎日なにかしら注意されているから、未熟者だと呆れられているのだとばかり思っていた。
じわじわと嬉しさがこみ上げて、つい顔が緩んでしまう。
「まあだからって調子に乗るんじゃねえぞ! これからもしっかり励むように!」
「す、すいません、ありがとうございます、がんばります!」
矢幡さんの声の調子がいつものお説教の時みたいに戻って、とっさに謝ってしまった。
「今日は褒めてやるつもりだったんだけどなあ。お前のハの字眉を見てると、どうしても活を入れたくなる」
矢幡さんは豪快に笑って再び僕の肩を叩いた。勢いで椅子からずり落ちながらつられて笑ったけれど、僕の眉毛は矢幡さんの言う通り、情けないハの字型になっているに違いなかった。
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