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雨男Milkyway
横浜にあるランドマークタワー。
そこの高層階にある、とあるオシャレなBAR。
俺は出張していた営業先からホテルには直帰せずに、一度だけ訪れたことのあるこの店にふらりと立ち寄っていた。
目の前には七夕限定、織姫の名を冠するベガというカクテルが置かれている。
緩やかなカーブを描くボウルに、細長いボディを持ったグラス。底からカシスをベースにした紫色のリキュール。そして上に向かってサイダーでミックスされたピーチの果汁が入れられている。
どこかエロティックを感じさせるような女性らしいグラデーション。
ひと口飲めば、シュワシュワと立ち上る細かい気泡が単純な甘さだけではないと主張するかのように、喉に心地良い刺激を与えてくれる。
そして極め付けにはグラスの上端であるリムに飾られている、三日月状にカットされたブラッドオレンジ。グラスを傾ければ酒と触れることで、フレッシュな香りと爽やかな酸味を加えてくれた。
口付けの度に違った味わいを見せるなんて、とんでもない女だ。
見た目以上の酒精の強さに、少しだけ頭がクラクラする。
俺はアルコールにかなり弱いのだが、昔からこうやって強い酒を飲む癖がある。
それはもちろん、女の前で良い格好をしたいという下心があるのだが、たいていは玉砕するか、連れよりも先にダウンして呆れられるかのどっちかだ。
最初から頼んであったチェイサーの水を飲みながら、ガラス越しに広がる夜景を楽しむ。
今日は七夕だというのに、どんよりとした生憎の曇り空。
月はおろか、星の一粒すらありゃしない。
――分かってるさ。だいたい、いつもこうだ。
前回、恋人だったアイツと来た時もこんな厚い雲ばかりで、天の川なんて見えやしなかったんだよな。
今思えば、俺はアイツに何も男らしいところなんて見せてやれなかった。
結婚を仄めかされては、まだ仕事が安定していないだの、貯金が心許無いだのと言い訳をして、話し合いやら相談なんてものから俺はすぐに逃げていた。
その癖、俺はアイツに対して、化粧は控えめにしろ、もっと痩せろと細かいことから何まで求めてばかり。すすり泣くアイツを置いて、仕事に出掛けた朝もあった。
よく俺なんかと付き合っていたと思う。
いや、三年も付き合っていて俺が変わらないから愛想を尽かして出て行ったのだろうが。
情けない自分を自嘲しながら、ポケットの中を漁る。
手の中に握られたのは、遊園地でお揃いで買ったキーホルダー。それに繋がれたアパートの鍵がふたつ。
アイツに渡していたこのスペアキーを、まるで身代わりのように未練がましくこうして持っているのだ。
アイツが残していったのは、このたったひとつのキーだけ。
一緒に撮った海での写真も、お揃いのマグカップも、歯ブラシも全部。仕事からアパートの部屋に帰ると、まるで魔法が解けたかのように、彼女の痕跡はほぼ残されていなかった。
甘ったるいカクテルは、苦味しかない失恋には丁度いい。
どうせ今日は織姫なんかと会えないのだ。
彦星の俺にはお似合いだろう。
一緒に頼んであったブラウンのナッツを齧る。ほどよい塩気が甘いカクテルには丁度いい。
どうせ今日はホテルに帰るだけ。
程よく酔っ払ったら、また明日から仕事を恋人にして生きていくだけさ。
窓ガラス越しに映る男を嘲笑いながら、またひとつナッツをポリポリと食べる。
すると、入り口から男女の二人組が入って来るのが見えた。仲睦まじく、窓際の見渡しの良い席に並んで座る。
そりゃ、そうだ。こんなロマンティックな夜に、BARでひとり飲んでいる男なんて俺ぐらいのモノだろう。
もういい、このカクテルを飲んだら場違いな酔っ払いはさっさと退散しよう。
だが、そのカップルの女の方の声を聞いた瞬間……俺の酔いは一気に醒めてしまった。
「ふふ、素敵な夜ね。あなた……」
――間違いない、アイツの声だ。
細身のロングワンピースを着た年相応の美女が、俺の見知らぬ男と一緒にいたのだ。
おそらく、俺がここにいることなんて気付いてすらいないだろう。
幸せそうな声を掛けながら、男の左腕を抱き寄せている。
どんな表情をしているのかは直接見ることが出来ないが、ただの友人関係にはとても見えない。
つまりは――そういうことなのだろう。
「――ご注文は?」
ピシっと制服を着こなしたバーテンダーがスマートにオーダーを取りに来る。
男の方は慣れたように「ミルキーウェイで」と答え、アイツは「アルタイルをお願いします」と言った。
「ねぇ、なんで貴方はベガにしてくれなかったの?」
バーテンダーが去った後、口をすぼめ、少しだけ拗ねたように男へそう尋ねる。
七夕限定のカクテルは他にも幾つかあるが、対になっているのはベガとアルタイルだけだ。
彼女がアルタイル、と言ったのなら、男はベガを注文するのがベターだろう。
俺が言うのもなんだが、女心というのはそういうものらしい。
男は少し黙ったあと、「まぁまぁ」と彼女を宥めた。
アイツは「もう!」と言いながら窓の外の曇った空を見て、はぁと溜め息を吐いた。
――ははあ、アイツはまたロクでもない男に引っ掛かったのか?
そう心中でほくそえんでいた。本当に俺は器の小さい男だ。
だが今の俺には、彼女がまた不幸に陥ればまた俺のところにもどって来るチャンスがあるのでは、とありもしない期待をしていたのである。
そう待たない間に、再びバーテンダーは現れて、二人の前に注文のカクテルをスッと差し出した。
アイツのオーダーは彦星であるアルタイル。
重みのあるふっくらとしたボディのブランデーグラスに、鮮やかなブルーキュラソー、そしてレモンリキュールにグレープフルールジュース。見た目通りの爽やかな酸味が味わえる一品。
甘えたがりのようで、実はサバサバしているアイツらしいチョイスではある。
一方の男の方はミルキーウェイという変わり種。
ストレートに近いタンブラーグラスにグリーンアップルリキュールを入れ、更にジンジャーエール、ブルーシロップでグラデーションを作り、中には星形のゼリーが散りばめられている。
その名の通り、天の川をイメージして作られているのだろう。
さっきまで沈黙していた男は、自分のグラスを持つとやっと口を開いた。
「僕にとって、年に一度しか会えない織姫は要らないよ。ただ、隣に居てくれるキミさえ居てくれれば」
「え……?」
想定していなかったセリフに、彼女はポカンとした顔で男に振り返った。
「だって、こんな曇り空じゃ会えないんだろう? だったら、ほら。こうしてキミと、地上に広がる天の川を見ながら美味しいお酒を飲みたいじゃない」
男はそう言って、窓の外を見る。
ただし空ではなく、目線は斜め下。
そこには、数え切れないほどの照明による星々の海が広がっていた。
「ね? ここだったらどんな天気だってキミと会えるだろう? 僕は晴れを待つんじゃなくて、キミと会える景色を自分で探しに行きたいんだ」
「あなた……」
チン、と軽やかなグラスが合わさる音。
あのグラスの様に、二人はこれから何度もお互いを重ね合うのだろう。
今の彼女の瞳には空も、地上の天の川なんかも映ってなんかいなかった。
いや、俺にはアイツの顔なんて見えなかったけど、きっとそうだったに違いない。
これが……俺と、あの男との違いだったのか。
気付けば目の前のグラスにはもう、ベガは居ない。
俺は無言で幸せそうな二人の脇を通り、会計をしてBARを後にする。
外に出ればいつの間にか大粒の雨が降り出し、灰色のアスファルトの上を跳ねていた。
ぬるい無数の雨が、街のネオンに反射して煌めきながら草臥れたスーツ姿の俺を濡らしていく。
――はやく、帰ろう。
口の中に残った僅かなアルコールだけが、俺の心を慰めていた。
そこの高層階にある、とあるオシャレなBAR。
俺は出張していた営業先からホテルには直帰せずに、一度だけ訪れたことのあるこの店にふらりと立ち寄っていた。
目の前には七夕限定、織姫の名を冠するベガというカクテルが置かれている。
緩やかなカーブを描くボウルに、細長いボディを持ったグラス。底からカシスをベースにした紫色のリキュール。そして上に向かってサイダーでミックスされたピーチの果汁が入れられている。
どこかエロティックを感じさせるような女性らしいグラデーション。
ひと口飲めば、シュワシュワと立ち上る細かい気泡が単純な甘さだけではないと主張するかのように、喉に心地良い刺激を与えてくれる。
そして極め付けにはグラスの上端であるリムに飾られている、三日月状にカットされたブラッドオレンジ。グラスを傾ければ酒と触れることで、フレッシュな香りと爽やかな酸味を加えてくれた。
口付けの度に違った味わいを見せるなんて、とんでもない女だ。
見た目以上の酒精の強さに、少しだけ頭がクラクラする。
俺はアルコールにかなり弱いのだが、昔からこうやって強い酒を飲む癖がある。
それはもちろん、女の前で良い格好をしたいという下心があるのだが、たいていは玉砕するか、連れよりも先にダウンして呆れられるかのどっちかだ。
最初から頼んであったチェイサーの水を飲みながら、ガラス越しに広がる夜景を楽しむ。
今日は七夕だというのに、どんよりとした生憎の曇り空。
月はおろか、星の一粒すらありゃしない。
――分かってるさ。だいたい、いつもこうだ。
前回、恋人だったアイツと来た時もこんな厚い雲ばかりで、天の川なんて見えやしなかったんだよな。
今思えば、俺はアイツに何も男らしいところなんて見せてやれなかった。
結婚を仄めかされては、まだ仕事が安定していないだの、貯金が心許無いだのと言い訳をして、話し合いやら相談なんてものから俺はすぐに逃げていた。
その癖、俺はアイツに対して、化粧は控えめにしろ、もっと痩せろと細かいことから何まで求めてばかり。すすり泣くアイツを置いて、仕事に出掛けた朝もあった。
よく俺なんかと付き合っていたと思う。
いや、三年も付き合っていて俺が変わらないから愛想を尽かして出て行ったのだろうが。
情けない自分を自嘲しながら、ポケットの中を漁る。
手の中に握られたのは、遊園地でお揃いで買ったキーホルダー。それに繋がれたアパートの鍵がふたつ。
アイツに渡していたこのスペアキーを、まるで身代わりのように未練がましくこうして持っているのだ。
アイツが残していったのは、このたったひとつのキーだけ。
一緒に撮った海での写真も、お揃いのマグカップも、歯ブラシも全部。仕事からアパートの部屋に帰ると、まるで魔法が解けたかのように、彼女の痕跡はほぼ残されていなかった。
甘ったるいカクテルは、苦味しかない失恋には丁度いい。
どうせ今日は織姫なんかと会えないのだ。
彦星の俺にはお似合いだろう。
一緒に頼んであったブラウンのナッツを齧る。ほどよい塩気が甘いカクテルには丁度いい。
どうせ今日はホテルに帰るだけ。
程よく酔っ払ったら、また明日から仕事を恋人にして生きていくだけさ。
窓ガラス越しに映る男を嘲笑いながら、またひとつナッツをポリポリと食べる。
すると、入り口から男女の二人組が入って来るのが見えた。仲睦まじく、窓際の見渡しの良い席に並んで座る。
そりゃ、そうだ。こんなロマンティックな夜に、BARでひとり飲んでいる男なんて俺ぐらいのモノだろう。
もういい、このカクテルを飲んだら場違いな酔っ払いはさっさと退散しよう。
だが、そのカップルの女の方の声を聞いた瞬間……俺の酔いは一気に醒めてしまった。
「ふふ、素敵な夜ね。あなた……」
――間違いない、アイツの声だ。
細身のロングワンピースを着た年相応の美女が、俺の見知らぬ男と一緒にいたのだ。
おそらく、俺がここにいることなんて気付いてすらいないだろう。
幸せそうな声を掛けながら、男の左腕を抱き寄せている。
どんな表情をしているのかは直接見ることが出来ないが、ただの友人関係にはとても見えない。
つまりは――そういうことなのだろう。
「――ご注文は?」
ピシっと制服を着こなしたバーテンダーがスマートにオーダーを取りに来る。
男の方は慣れたように「ミルキーウェイで」と答え、アイツは「アルタイルをお願いします」と言った。
「ねぇ、なんで貴方はベガにしてくれなかったの?」
バーテンダーが去った後、口をすぼめ、少しだけ拗ねたように男へそう尋ねる。
七夕限定のカクテルは他にも幾つかあるが、対になっているのはベガとアルタイルだけだ。
彼女がアルタイル、と言ったのなら、男はベガを注文するのがベターだろう。
俺が言うのもなんだが、女心というのはそういうものらしい。
男は少し黙ったあと、「まぁまぁ」と彼女を宥めた。
アイツは「もう!」と言いながら窓の外の曇った空を見て、はぁと溜め息を吐いた。
――ははあ、アイツはまたロクでもない男に引っ掛かったのか?
そう心中でほくそえんでいた。本当に俺は器の小さい男だ。
だが今の俺には、彼女がまた不幸に陥ればまた俺のところにもどって来るチャンスがあるのでは、とありもしない期待をしていたのである。
そう待たない間に、再びバーテンダーは現れて、二人の前に注文のカクテルをスッと差し出した。
アイツのオーダーは彦星であるアルタイル。
重みのあるふっくらとしたボディのブランデーグラスに、鮮やかなブルーキュラソー、そしてレモンリキュールにグレープフルールジュース。見た目通りの爽やかな酸味が味わえる一品。
甘えたがりのようで、実はサバサバしているアイツらしいチョイスではある。
一方の男の方はミルキーウェイという変わり種。
ストレートに近いタンブラーグラスにグリーンアップルリキュールを入れ、更にジンジャーエール、ブルーシロップでグラデーションを作り、中には星形のゼリーが散りばめられている。
その名の通り、天の川をイメージして作られているのだろう。
さっきまで沈黙していた男は、自分のグラスを持つとやっと口を開いた。
「僕にとって、年に一度しか会えない織姫は要らないよ。ただ、隣に居てくれるキミさえ居てくれれば」
「え……?」
想定していなかったセリフに、彼女はポカンとした顔で男に振り返った。
「だって、こんな曇り空じゃ会えないんだろう? だったら、ほら。こうしてキミと、地上に広がる天の川を見ながら美味しいお酒を飲みたいじゃない」
男はそう言って、窓の外を見る。
ただし空ではなく、目線は斜め下。
そこには、数え切れないほどの照明による星々の海が広がっていた。
「ね? ここだったらどんな天気だってキミと会えるだろう? 僕は晴れを待つんじゃなくて、キミと会える景色を自分で探しに行きたいんだ」
「あなた……」
チン、と軽やかなグラスが合わさる音。
あのグラスの様に、二人はこれから何度もお互いを重ね合うのだろう。
今の彼女の瞳には空も、地上の天の川なんかも映ってなんかいなかった。
いや、俺にはアイツの顔なんて見えなかったけど、きっとそうだったに違いない。
これが……俺と、あの男との違いだったのか。
気付けば目の前のグラスにはもう、ベガは居ない。
俺は無言で幸せそうな二人の脇を通り、会計をしてBARを後にする。
外に出ればいつの間にか大粒の雨が降り出し、灰色のアスファルトの上を跳ねていた。
ぬるい無数の雨が、街のネオンに反射して煌めきながら草臥れたスーツ姿の俺を濡らしていく。
――はやく、帰ろう。
口の中に残った僅かなアルコールだけが、俺の心を慰めていた。
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