救世の結界師マールちゃん~無能だと廃棄されましたが、敵国で傭兵のおっさん達に餌付けされてるので、今さら必要と言われても戻りません~

ぽんぽこ@3/28新作発売!!

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第42話 蛇神の逆鱗(微ざまぁ)

 
 ――ぐにゃり。

 何かが、軋む音だった。

 倒れ伏したはずの巨体の内側から、骨でも岩でもない、不快な摩擦音が響く。次の瞬間、地面に伏せていたヒュドラの胴が、わずかに持ち上がった。

「……は?」

 誰かの喉から、間の抜けた声が零れる。

 ひび割れが走る。
 鱗に覆われた外殻が、内側から押し広げられるように盛り上がり――

 ばきり、と。

 鈍い音を立てて、裂けた。


 剥がれ落ちる。巨大な皮が、役目を終えた抜け殻のようにずるりと滑り落ち、地面に叩きつけられる。

 脱皮。

 その内側から現れたのは、先ほどまでとは明らかに異なる存在だった。

 紫の鱗は艶を帯び、首の動きは滑らかで無駄がない。呼吸に混じる瘴気は濃度を増し、空間そのものを侵食するかのように広がっていく。

 魔の森が、震えた。

 地鳴りが走り、木々がきしみ、瘴気が爆発的に噴き上がる。
 森全体が、災厄の覚醒を告げていた。


「……っ、なんだこいつは」
「さっきまでと雰囲気が違うぞ……!」

 誰かが叫ぶ。

 先ほどまでのヒュドラは、ただ動きが鈍っていただけだった。
 傷ついていたのではない。
 消耗していたのでもない。

 ――準備運動が、終わっただけだ。


 真のヒュドラが、ゆっくりと首を持ち上げる。

 その威圧は、別次元だった。
 立っているだけで、膝が笑う。呼吸をするだけで、肺が拒絶する。

 次の瞬間。
 首が、振るわれた。

 鞭のようにしなった首が横ぎに走り、前線から一歩下がっていたアウトロー傭兵たちをまとめて薙ぎ払う。悲鳴が上がり、身体が宙を舞う。

 毒が撒き散らされる。
 霧は先ほどとは比べものにならない速度と濃度で広がり、逃げ遅れた者たちの姿を、あっという間に覆い隠した。


「逃げろ!」
「無理だ、速すぎる!」

 連携は、あっという間に崩壊した。
 誰もが我先にと背を向け、叫び、走る。

 ――だが、遅い。
 雇った傭兵たちが、目の前で毒霧に飲まれて消えていく。

(な……なんだ、これは……)

 想定外。
 理解不能。

 英雄譚の中に、こんな展開はなかった。自分が知っている戦争にも、戦術にも、こんな“化け物”は存在しない。

 恐怖が、思考を塗り潰す。
 死の霧がクラウスに忍び寄り、その整った顔を溶かし始め――


(死ぬ……!)

 その瞬間、彼が出せる判断は一つしかなかった。

「撤退だ!」

 後ずさりながら、クラウスは叫ぶ。

「生き残っている奴は退路を確保しろ!」

 脳で考えたのではなく、反射的に出た言葉だった。

 理屈でも戦術でもない。
 自分が生き延びるためだけの命令。


 そして。
 その視線が、前線へ向いた。

 ブリュンヒルデ。
 まだ陣を保ち、正規兵をまとめ、ヒュドラの注意を引きつけている存在。

 ――あれを、残す。


 ブリュンヒルデは、その視線に気づいた。クラウスの目を見て、すべてを理解する。

(……ここで、捨てるのか)

 自分たちを。命を懸けて戦い続けている部下たちを。だが、彼女は歯を食いしばり、前へ出た。

「まだ動ける者は負傷者を担いで下がれ! 私が後退路を開く!」

 叫びながら、火炎を放つ。
 誰かを逃がすため。
 この災厄を、森の外へ出さないため。

 軍人として、最後まで役目を果たすために。


 一方。
 クラウスは、振り返らなかった。

 部下の悲鳴も、崩れゆく陣も、視界から切り捨てる。ただ、自分の生存だけを抱えて、森の奥から逃げ去っていく。

 英雄になりたかった男が、
 最も英雄から遠い行動を取った瞬間だった。


 ◆

「はぁ……はぁ、はぁ……」

 クラウスがこの場を去ってから、どれだけの時間が経っただろうか。もしかしたら数時間かもしれないし、数分しか過ぎていないかもしれない。

 ただ確実に、ブリュンヒルデの隊員たちは徐々に数を減らしていった。

(マズイな。毒霧は回避しているはずだが、身体が動かなくなってきた……)

 視界は白く濁り、呼吸のたびに喉と肺がけるように痛む。毒と魔力が混じり合った瘴気は、ブリュンヒルデの身体を徐々に蝕んでいた。


「くっ……」

 遂に、ブリュンヒルデは地面に片膝をついてしまう。

 剣を支えにしなければ、立っていることすら難しい。
 魔力はほとんど底を突き、身体の末端からじわじわと痺れが広がっている。

(隊は……壊滅か……)

 周囲に転がるのは、倒れ伏した兵たちの姿だった。
 数十人は居たはずだが、息のある者は半数ほどしかいない。うめき声だけが戦場を支配している。

 ――無理もない。

 現在のヒュドラは、“脱皮前”とはまったくの別物だった。
 以前とは比べものにならないほど肥大した巨体。再生力も、瘴気の濃度も、すべてが桁違いだ。

 その巨躯が、ゆっくりと前進してくる。
 地面が揺れ、枯れ木が倒れ、瘴気が波打つ。逃げ場は、もうどこにもない。

 ブリュンヒルデは歯を食いしばった。


(……それでも)

 ここで止めなければならない。
 この一線を越えさせれば、森の外――街へ、国へ、被害は雪崩れ込む。

 自分は軍人だ。
 結果を出せなかったとしても、足止めだけは――。

 彼女は震える指で魔力をかき集める。さいごに残された、全力の一撃。命を削る覚悟で放つ魔法だった。

 その瞬間。
 森の空気が、裂けた。


「――いたぞ、あそこだ!」

 鋭く、短い男性の声。
 だがそれは、絶望に沈みかけた戦場を一瞬で貫いた。

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