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花姫の執事の居場所
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「それで、ルイスの件だが…」
父であるリリエンフェルト公爵の書斎から聞こえてきた、思いがけない名前に、フロラワは思わず足を止めた。
お昼寝に最適な場所を探して屋敷を散策していた、ちょうどその時だった。
扉の隙間から、父と執事長の真剣な声が漏れ聞こえてくる。
「東の大国、バルディ公爵から、正式に書状が。破格の条件で、ルイスを首席執事として迎え入れたいそうだ」
「…なんと。彼の優秀さは聞き及んでおりましたが、ついに他国にまで」
「うむ。断るにしても、角が立たぬようにせねばなるまい。だが、決めるのはルイス自身だ。彼の人生なのだからな」
――ルイスが、いなくなる…?
その言葉が、フロラワの胸に冷たい棘のように突き刺さった。
いつも隣にいるのが当たり前だった。朝、自分を起こしてくれるのも、左右が違う靴下を直してくれるのも、おやつの時間においしいお茶を淹れてくれるのも、全部ルイスだった。彼がいない生活なんて、一度だって考えたことがなかった。
「……」
フロラワは、何も聞かなかったふりをして、そっとその場を離れた。
(そうよ、ルイスの人生だわ。もっと大きなお城で、もっとすごい人の執事になる方が、彼にとっては幸せなのかもしれない…)
頭ではそう理解しようとする。けれど、心の奥が、きゅうっと締め付けられるように痛んだ。
その日から、フロラワの様子は、ほんの少しだけおかしくなった。
大好きなおやつのマカロンを一つ残したり、ハンモックで揺られてもお昼寝に集中できず、ぼんやりと空を眺めていたり。
「フロラワ様、いかがなさいましたか。何かお気に召さないことでも?」
「ううん、なんでもないわ」
心配そうに顔を覗き込むルイスから、フロラワはふいっと視線を逸らしてしまう。もし今、彼の顔をまっすぐ見てしまったら、「行かないで」なんて、我儘を言ってしまいそうだったから。
そんなフロラワの内心の嵐など露知らず、ルイスはただ、愛しい主人の些細な変化に首を傾げ、胸を痛めていた。
その数日後の午後。
ルイスは、客間で一人の男と対峙していた。壮麗な衣装をまとった、バルディ公爵その人だった。
「――話は聞いているだろう、ルイス君。我が公爵家に、君を首席執事として迎えたい。リリエンフェルト公で得ている給金の三倍は約束しよう。地位も、名誉も、君が望むものは全て与える」
甘い言葉が、静かな部屋に響く。
しかし、ルイスの表情は涼やかなまま、微動だにしなかった。彼は優雅にお辞儀をすると、淡々とした、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「もったいなきお言葉。ですが、お断りいたします」
「なっ…なぜだ!これ以上の条件があるというのか!」
「条件の問題ではございません」
ルイスは、初めてそこで表情を緩めた。それは、慈しむような、それでいて絶対的な誇りに満ちた笑みだった。
「私には、生涯をかけてお仕えすると誓った、唯一の主人がおられますので。あの方の淹れるお茶の好みを完璧に把握し、あの方の靴下の左右を直し、あの方の安らかなお昼寝を守ること以上に、価値のある仕事など、この世には存在しないのです」
「……」
「お話は、それだけでございますね。どうぞ、お引き取りを」
完璧な礼法で送客を促され、バルディ公爵は呆然と立ち尽くすしかなかった。
夕暮れ時。
庭を眺めるフロラワの心は、まだどんよりと曇ったままだった。
(もう、ルイスは決めてしまったのかしら…)
不安が胸を占めて、息が苦しい。
「フロラワ様」
背後からかけられた声に、フロラワの肩が小さく跳ねた。振り向くと、いつもと変わらないルイスが、心配そうな顔で立っている。
「…ルイス」
「一体どうなさったのです。ここ数日、あなた様らしくない」
「……お話、聞いたわ」
意を決して、フロラワは絞り出すように言った。
「あなたが、遠い国へ行ってしまうって…」
その言葉に、ルイスは一瞬きょとんとした顔をし、すぐに全てを察した。そして、彼の口からこぼれたのは、深い深いため息だった。
「全く、あなたという方は…。そんなことで、心を痛めておいででしたか」
彼はフロラワの前に跪くと、その手をそっと両手で包み込んだ。
「私が、あなた様のそばを離れるなど、天地がひっくり返ってもありえません」
「…でも、もっと良いお話だったんじゃ…」
「良い話、ではありません。私にとって、最高の場所はここで、最高の主人はあなた様だけ。昔も、今も、そしてこれからも。…お分かりいただけましたか?」
真っ直ぐな瞳が、フロラワを射抜く。その中には、一点の曇りもない、絶対的な忠誠と、それ以上の深い愛情が宿っていた。
じわり、とフロラワの瞳に涙が滲む。
「……そう。なら、いいの」
やっと絞り出した声は、震えていた。けれど、胸の内にあった冷たい棘は、彼の言葉と共に、温かい光の中に溶けて消えていた。
安堵しきった顔で、ふにゃりと笑う主人を見て、ルイスもまた、心からの笑みを浮かべる。
この腕の中にいる怠惰で愛しい花姫こそが、自分の世界のすべて。
そのことを、改めて確認できただけで、この騒動も悪くはなかったのかもしれない。ルイスはそっと、そんなことを考えていた。
父であるリリエンフェルト公爵の書斎から聞こえてきた、思いがけない名前に、フロラワは思わず足を止めた。
お昼寝に最適な場所を探して屋敷を散策していた、ちょうどその時だった。
扉の隙間から、父と執事長の真剣な声が漏れ聞こえてくる。
「東の大国、バルディ公爵から、正式に書状が。破格の条件で、ルイスを首席執事として迎え入れたいそうだ」
「…なんと。彼の優秀さは聞き及んでおりましたが、ついに他国にまで」
「うむ。断るにしても、角が立たぬようにせねばなるまい。だが、決めるのはルイス自身だ。彼の人生なのだからな」
――ルイスが、いなくなる…?
その言葉が、フロラワの胸に冷たい棘のように突き刺さった。
いつも隣にいるのが当たり前だった。朝、自分を起こしてくれるのも、左右が違う靴下を直してくれるのも、おやつの時間においしいお茶を淹れてくれるのも、全部ルイスだった。彼がいない生活なんて、一度だって考えたことがなかった。
「……」
フロラワは、何も聞かなかったふりをして、そっとその場を離れた。
(そうよ、ルイスの人生だわ。もっと大きなお城で、もっとすごい人の執事になる方が、彼にとっては幸せなのかもしれない…)
頭ではそう理解しようとする。けれど、心の奥が、きゅうっと締め付けられるように痛んだ。
その日から、フロラワの様子は、ほんの少しだけおかしくなった。
大好きなおやつのマカロンを一つ残したり、ハンモックで揺られてもお昼寝に集中できず、ぼんやりと空を眺めていたり。
「フロラワ様、いかがなさいましたか。何かお気に召さないことでも?」
「ううん、なんでもないわ」
心配そうに顔を覗き込むルイスから、フロラワはふいっと視線を逸らしてしまう。もし今、彼の顔をまっすぐ見てしまったら、「行かないで」なんて、我儘を言ってしまいそうだったから。
そんなフロラワの内心の嵐など露知らず、ルイスはただ、愛しい主人の些細な変化に首を傾げ、胸を痛めていた。
その数日後の午後。
ルイスは、客間で一人の男と対峙していた。壮麗な衣装をまとった、バルディ公爵その人だった。
「――話は聞いているだろう、ルイス君。我が公爵家に、君を首席執事として迎えたい。リリエンフェルト公で得ている給金の三倍は約束しよう。地位も、名誉も、君が望むものは全て与える」
甘い言葉が、静かな部屋に響く。
しかし、ルイスの表情は涼やかなまま、微動だにしなかった。彼は優雅にお辞儀をすると、淡々とした、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「もったいなきお言葉。ですが、お断りいたします」
「なっ…なぜだ!これ以上の条件があるというのか!」
「条件の問題ではございません」
ルイスは、初めてそこで表情を緩めた。それは、慈しむような、それでいて絶対的な誇りに満ちた笑みだった。
「私には、生涯をかけてお仕えすると誓った、唯一の主人がおられますので。あの方の淹れるお茶の好みを完璧に把握し、あの方の靴下の左右を直し、あの方の安らかなお昼寝を守ること以上に、価値のある仕事など、この世には存在しないのです」
「……」
「お話は、それだけでございますね。どうぞ、お引き取りを」
完璧な礼法で送客を促され、バルディ公爵は呆然と立ち尽くすしかなかった。
夕暮れ時。
庭を眺めるフロラワの心は、まだどんよりと曇ったままだった。
(もう、ルイスは決めてしまったのかしら…)
不安が胸を占めて、息が苦しい。
「フロラワ様」
背後からかけられた声に、フロラワの肩が小さく跳ねた。振り向くと、いつもと変わらないルイスが、心配そうな顔で立っている。
「…ルイス」
「一体どうなさったのです。ここ数日、あなた様らしくない」
「……お話、聞いたわ」
意を決して、フロラワは絞り出すように言った。
「あなたが、遠い国へ行ってしまうって…」
その言葉に、ルイスは一瞬きょとんとした顔をし、すぐに全てを察した。そして、彼の口からこぼれたのは、深い深いため息だった。
「全く、あなたという方は…。そんなことで、心を痛めておいででしたか」
彼はフロラワの前に跪くと、その手をそっと両手で包み込んだ。
「私が、あなた様のそばを離れるなど、天地がひっくり返ってもありえません」
「…でも、もっと良いお話だったんじゃ…」
「良い話、ではありません。私にとって、最高の場所はここで、最高の主人はあなた様だけ。昔も、今も、そしてこれからも。…お分かりいただけましたか?」
真っ直ぐな瞳が、フロラワを射抜く。その中には、一点の曇りもない、絶対的な忠誠と、それ以上の深い愛情が宿っていた。
じわり、とフロラワの瞳に涙が滲む。
「……そう。なら、いいの」
やっと絞り出した声は、震えていた。けれど、胸の内にあった冷たい棘は、彼の言葉と共に、温かい光の中に溶けて消えていた。
安堵しきった顔で、ふにゃりと笑う主人を見て、ルイスもまた、心からの笑みを浮かべる。
この腕の中にいる怠惰で愛しい花姫こそが、自分の世界のすべて。
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