落火流水

桜 朱理

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第2章 炎の皇子

1)

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「先ほどの水孤族の商人が、自分は皇太子殿下に特別に頼まれた商品を持ってきた。出来ればきちんと確認してほしいと訴えています。どうなさいますか?」
 文琳に確認されて、心当たりのあった飛蘭はアレイルが尋問を受けていた部屋に、足を運んだ。
「こちらがご注文を頂いていた商品になります」
 飛蘭の顔色を窺うようにこちらを見たアレイルが、荷物の中から色鮮やかな絹織物をいくつか取り出して、目の前で広げて見せた。
 絹織物は淡い色に写実的な花模様や景色が、独特な技法で美しく描かれていた。
 飛蘭は手に取って、その肌触りを確認する。
 これはエミリアの故郷――水龍族の島の伝統的な織物に、水孤族が特殊な加工を施した絹織物だった。
 帝国にはない技法で描かれる柄や文様は神秘的な水龍族の民族衣装とあって、ここ数年
帝国の貴族女性たちの間で密かな流行になっている。
 そのきっかけが、エミリアのために自分が特別に注文して作らせている衣装にあることを、飛蘭は知らない。
 今回、アレイルに注文したのは、絹織物に水孤族が特殊技術で、絹糸の時点で水魔法を施し、身に纏っている間は、ひやりとした涼しさを感じられるようにしたものだった。
 体温に反応して涼しさが変わるため、体が冷えすぎることもない。
 ――これであればあれも少しは、快適に過ごせるだろうか。
 手に触れる織物は、触れているだけで、冷たく心地よい。
 いまだに帝国の夏の暑さに慣れずに、エミリアは体調を崩しがちだ。
 長く続く夏の間は、浴室で水に浸かっているか、宮に張り巡らされた水路の中にいることが多い。
 いつまでも経っても成長せずに華奢な体つきで、夏の日差しの下に長くいると、皮膚が赤くなり、すぐに熱を出す。厄介な飛蘭の番――
 この織物は、今のところは水孤族だけが生産できる特殊なもので、噂を聞きつけた飛蘭が試しに取り寄せたものだった。
 絹織物は予想以上に満足できるものだった。
 飛蘭はじろりとアレイルを睨み付ける。思い出すのは先ほどの不愉快な光景だ。
 笑っていた。自分は絶対に見せないような柔らかな笑みをあの番は、この男に無防備に見せていた。あまつさえ、その手を握らせていたことに、飛蘭の腹の底にどろりとした黒いものが渦を巻く。
 不意に鋭くなった眼差しに、アレイルの肩がびくりと跳ねた。
 ――だが、こんなことでいちいち殺すわけにもいくまい。
 エミリアの手を握っていた男は、怪しさも不愉快さもあるが、殺してしまうのはいくら何でも狭量すぎる。それくらいの理性は、戻ってきていた。
 それに、今のところこの反物を扱っているのもこの男だけだ。
 殺してしまえば、この反物を手に入れるのが難しくなる。忌々しいが、今は仕方ないと飛蘭は、無理やりに嫉妬を飲み込んだ。
「これで何着か夏物を作ってこい」
「女性用のガウンにお仕立てすればよろしでしょうか?」
「いや、ガウンはやめてくれ」
「では、ご希望のデザインなどはございますでしょうか?」
 問われて、飛蘭は束の間、沈黙する。
 飛蘭は特別、自分が流行に敏感だとか衣装に拘りがあると思ったことはない。むし自分の着るものには無頓着で、いつも侍女頭の英琳に用意されたものを、言われるままに着ているような人間だ。
 けれど、エミリアに関しては別だった。
 あの番に、帝国の原色に近い女性のガウンが似合うとは思えなかったし、わざわざ女性の格好をさせたいとも思っていなかった。
 かといって、帝国の男子が着る詰襟の服が似合うとも思えない。
 女性でもなく男性でもない不可思議な生き物――性を超越した美しさを持つエミリアには、やはり故郷の民族衣装が似合っているように思えた。
「あれには着物が似合う。この国であれが過ごしやすい衣服を考えてくれ」
 飛蘭の言葉に、アレイルが意外そうに眼を瞠る。
「えっと……あの、あの水龍族のお方様にでしょうか?」
 アレイルの確認に、飛蘭の片眉が不機嫌そうに上がった。
「ひ……っ!」
 威圧的な眼差しに、アレイルが息を呑む。
「そうだ。あれには色の濃いガウンよりも、こういう淡い色の方が似合う。あれにあったものを作ってこい」
「か、かしこまりました!」
 ぺこぺこと頭を下げるアレイルに、飛蘭はもう興味はないとばかりに手を振った。
「文琳」
 護衛の名を呼べば、短い応えが返る。
「送っていけ」
 寡黙な文琳は余計なことを問うことなく、そのままアレイルを連れて、部屋を出ていく。
 それを見送って、飛蘭は執務室の長椅子にどさりと腰かける。
 ――全くあいつは手をかけさせる。
 先ほど、葡萄の粒を詰まらせて、窒息しかけた様子を思い出せば、ため息が出る。まさかあんなことで死にかけるとは予想外すぎて、さすがの飛蘭も驚いた。
 疲れて飛蘭は瞼を閉じる。浮かぶのは息苦しさに喘ぐ、エミリアの震える背中だった。
 時々、湧き上がる凶暴な衝動のせいで、エミリアを手にかけてしまいたくなる時もあるが、同時に自分の手の中で、どんな風にも当てずに真綿に包むように愛でたいと思う気持ちもある。
 いつだって、両極端な気持ちが、飛蘭の心を揺らす。
 ――なぜ、あれが私の番なんだ。
 何度考えたかわからない問いが胸に浮かぶが、考えたところで意味がないのはもうわかっている。
 力だけがすべてだった飛蘭の単純な世界を、複雑にしたのはエミリアだ。
 十二歳も年の離れたあの子どもだけが、凪いだように静かで、退屈すら覚えていた飛蘭の世界をかき乱す。
 ――本当に厄介だ。
 そう思うのに、あの番を手放す気は欠片もない。
「飛蘭様」
 いつの間にか戻って来た文琳の呼びかけに、飛蘭は閉じていた瞼を開いた。
「お疲れですか?」
「いや」と飛蘭は首を横に振る。
「あの商人は?」
「帰りました。一か月後には、お求めのものを用意できるそうです」
「そうか」
 短く会話を交わして、飛蘭は立ち上がる。
「部屋に戻る」
「かしこまりました」
 短く頷いて文琳が飛蘭の後をついて来る。
「宮の警護の人間を増やせ。余計なものが奥まで入り込まないようにしろ」
 歩きながらの命令に、いつもは無表情な文琳の片眉が、不愉快そうに歪む。
 いつもは文琳の方が、「宮の警護を増やした方がいい」と訴えてくるくせに、この命令がエミリアのためだと察してしまえば、素直に頷けないらしい。
「不満か?」
 飛蘭の問いに、文琳は答えを返すことなく、ふいっと視線を逸らす。
 言葉はなくともその態度が答えだった。あからさまな部下の態度に飛蘭はふっと笑う。
「飛蘭様?」
 従弟であり、側近護衛である文琳は、エミリアの存在をいまだに受け入れていない。
 エミリアが飛蘭の宿命の番だとわかった時に、強硬にその存在をなかったことにしようとしたのも文琳だった。
 剣を抜く従弟を止めるのに、苦労したことを思い出す。
 堅物で融通のきかないこの従弟は、飛蘭が帝位につくことを誰よりも願っている。
 だからこそエミリアの存在が、許せない。だが、エミリアを失えば飛蘭が後を追いかねない。いまだに執念深くその葛藤を抱えている従弟の不器用な真面目さを、飛蘭は気に入っていた。
 他のものはもうほとんど諦めている。殺せないのであれば、一日でも早くエミリアが女性化することを願うものばかりになってきた。
「あれがいなくなれば、私は狂う。わかっているだろう?」
 わざと問えば、文琳の耳朶が赤く染まる。
「飛蘭様は意地悪です」
 不貞腐れたような文琳の態度に飛蘭は今度こそ声を立てて笑う。
「今に始まったことではないな」
「そうですね」
 こうして態度に素直に葛藤を出してるだけ文琳はましだ。
 ――怖いのは隠された感情だ。あれを奪おうと虎視眈々と狙う輩。
 飛蘭は私室の扉を開ける。中に入れば、エミリアが長椅子の上で膝を抱えて眠っていた。
 ――全くこいつは……
 こちらの葛藤など知らぬげに、安らかな顔をして眠るエミリアに、呆れた思いが湧く。
 飛蘭はため息を吐きながら、エミリアを抱き上げる。
「う……ん……飛……蘭?」
 寝ぼけたエミリアが飛蘭の名を呼ぶ。幼さすら感じるその声に、飛蘭の腹の中にあったどす黒いものが、溶けるような感覚を覚えた。
 ――やっとここまで来た。
 無防備に眠る自分に触れるのは、飛蘭だけだとエミリアは思っている。
 それがどれほどの喜びを飛蘭に与えるのか、この番は理解していないだろう。
 エミリアの傍にいるのは他の誰でもなく己なのだと思えば、心は満たされる。
 腕の中の番を起こさないように、飛蘭は慎重に歩きながら寝室に向かう。
 寝台の上に、そっとエミリアを下した。寝苦しくないように、かんざしを引き抜き、まとめていた髪を解いてやる。寝台の上に、月光を閉じ込めたように輝くエミリアの髪が流れた。
 そっとその髪を梳けば、「……ぅん」と声を出したエミリアが、飛蘭の方に擦り寄ってくる。試しに頬を撫でれば、子猫のようにエミリアが飛蘭の手に頬を擦りつけてきた。
 起こしたかと思ったが、エミリアは安心したように口元を緩めて、再び眠りについた。
 あまりにあどけない姿に、飛蘭の唇に笑みが浮かんだ。
 湧き上がるのは愛おしさだった。
 この番に対する想いは複雑すぎて、飛蘭ですらもう自分が何を感じているのかわからない。
 己の望みを阻むように現れた、この未熟な水龍族が何故、宿命の番なのだという憎悪がある。
 けれど、同時に何の憂いもなく、この手の中で憩わせたいと思うほどの恋情があるのも本当だ。

 相反する感情が、飛蘭を惑わせる――
 

 

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