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クララ、引っ越しをするのこと

ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第51回  クララ、引っ越しをするのこと

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 今回分は、クララ一家の引っ越しの話がメインとなります。

明治11年6月25日 火曜日
 一日中大雨で、お逸は来なかった。
 盛もお休みだったけれど、逞しい令嬢たちは雨にも風にも負けずやってきた。
 私たちは引っ越しの第一段階として古い手紙を整理した。
 やっと手紙をきちんとした形にまとめることには成功。
 約束通り六時にディクソン氏が高いカラーをつけた正装でおいでになった。
 夕食を私たちと一緒に召し上がって、そのあと客間でお喋りをした。
 私は姉妹方に送って頂くための、派手な簪をお渡しした。
 やがて富士山についての講演の行われる大和屋の二階のYMCAに彼の案内で出かけた。
 しかし行ってみると、女性は私だけで後は荒っぽい水兵ばかり。
 というわけで、早々にお暇して、家でお話をしたり歌を歌ったりして、時を過ごした。
 ウィリイはディクソン氏の前で私に車代のことで文句を云って恥をかかせた。
 兄はずっと不機嫌そのものだった。
 ディクソン氏はスコットランドの民謡などを歌った。
 言葉はおかしいのだけれど、アクセントは魅力的だ。彼は十時過ぎには帰って行った。
 私たちの今度の日本式の家に入りきらない本棚は、預かってくださることになった。
 私たちは多分七月十二日に日光へ行く。

明治11年6月26日 水曜日
 横浜に住むシモンズ先生のご両親が東京見学に今朝出て来られた。
 ご老人には、十五マイルというのは相当の距離だ。
 母とウイリイが案内役になったので、授業は私が引き受けなければならなかった。
 みんなはまず芝のお寺に行き、次に開拓使に行かれた。
 佐々木氏や村田氏もみえた。
 月曜日に、つまり彼の名前と同じ月曜日!(マンディ)に、六十人の外国人と一緒にサンフランシスコに向けて出帆するマンディ氏が、別れの挨拶に来た。
 ダグラス夫人が仕立屋のことを聞きに来た。彼女の一家も秋までにはアメリカにお帰りになるそうだ。
 外国人の数はかなり減る見込みである。
 お逸が一日中いたので、私たちの問題をゆっくりと話すことが出来た。
 お逸と一緒に、いずれ私たちの新しい家を見に行くことになっている。
 帰り際に自分の家の庭に植えるため、立葵を持って行った。

明治11年7月3日 水曜日 
 今日は終日永田町へ。
 運び込まれて来る荷物をお逸の義兄様である疋田氏と一緒に受け取っては整理した。
 母と私は朝早くその家に行き、誰もいなかったので、家を神様に捧げる祈りをした。
 神様は私たちの願いを聞き入れてその家に来て下さったと思う。
 その証拠にその晩、私はとても素敵な夢を見た。
 夢の中の母と私は二階の大きな部屋で、職人達が畳を入れたり、敷居を調節したり、窓の雨戸を直しているのを見守っている。
 それは昨日職人たちがやっていたことなのだ。
 私がふと目を上げると世にも美しい姿が目に映った。
 美しく気高い顔立ちの見知らぬ人が階段のところに立っていたのだ。
 長い輝くような衣を纏い、真っ白な大きい翼はあたり一面に輝く後光を放っていた。
 美しい彫刻のある長い刀にかけた手に頭をもたせかけ、静かな眼でじっと職人の作業を見つめていた。
 その優しい眼のなんとも云えない表情――この上ない高貴さ!
 私は夢の中で息を殺し、母の腕に手をかけて、彼の方をじっと見つめながらこう聞いた。
「あれは死の天使ではない?」
 誰か家の人間が、彼の手にした刀の一撃で急死するかと思えたのだ。
 しかし母が答える前に、気高い声が部屋中に響き渡った。
 ――「我はこの家の守護者」
 風が吹き付ける音で私は目を覚まし、長い間美しく気高い見知らぬ人のことを想った。
 なんて素晴らしい夢だったのだろう!
 あれは神の軍勢の指揮官ではなかったか? 
 悩める子らのためにこの夢を送って下さったのは、イエス・キリストだったのだ!
 どうかそのような気高いお客様に相応しい人間になりますように。
「逗留するのみならず、我とともに住み給え」

明治11年7月4日 木曜日 朝 栄光の日 
 輝かしい独立記念日! 
 ……にしては外は惨めな陽気であるし、部屋の中はさらに惨めである。
 引っ越しのための荷物でごった返している。今日か明日のうちに引っ越すのだ。
 私は永田町に荷物を受け取りに行かなければならないから、日記帳とはしばらくお別れだ。
 次に書くのは向こうの家になるかも知れない。
「独立記念日のお祝いに参加して欲しい」
 ジュエット氏にそう誘われたけれどお断りしなければならなかった。
 ヴァーベック氏のところのパーティーにも招かれていたのだけれど、引っ越しのためにお断りした。
 わざわざ誘いに来てくれたジョージはひどく残念そうだった。
 森氏がご親切にお昼に招いてくださったので、お昼ご飯は森氏のところで頂戴することになっている。
 疋田氏が手伝って下さっているし、富田氏のお弟子さんも手伝って下さっている。

明治11年7月7日 日曜日
 新しい家の窓辺で、私はこれを書いている。
 引っ越しはとても大変な騒ぎだ。
 アメリカから日本に来る時でさえこれほど大変ではなかった。
 木曜日、私たちは独立記念日を引っ越しによって祝したようなものだ。
 それから丸三日間、一生懸命働いている。
 けれど三日とも雨降りで一段と手間取ってしまった。 
 金曜日に土砂降りの中を永田町へ来てみたら、箱や大きな家具が玄関にうず高く積み重ねてあった。
 おまけに庭には縄や荷造りに使った物が散乱し、二階には両方の部屋に衣類がごちゃ混ぜになって積んである始末。
 それを見た時には本当にがっかりしてしまった。
 とはいえ、このまま放っておくわけにはいかない。
 私は早速整理にかかって、少しは片付けたが昨日になってやっといくらかましと呼べる状態になった程度。
 そこに助っ人にやってきたくれたのがお逸とおせき。
 客間を見違えるように綺麗にしてくれた。
 我が家の引っ越し舞台は、かなりの規模であった。
 人足が約十名、学生二人、それと家の使用人全部と指揮を取って下さる疋田氏。
 こんな沢山物を持っていることも、こんなにがらくたが沢山あることも、今初めて認識した。
 昨日はこれが最後と思って木挽町に行き、ヤスと庭師に手伝わせて植木や花を全部移した。
 私たちの所有物を全部持ち出し、手を加えた所も元に戻したら、今まで暮らしてきた家が随分殺風景であることに気付かされた。
 そうなると、もう早くそこを出たいと思うばかり。
 永田町の方はだいぶ窮屈だけれど、環境は良いし、涼しい。
 近所にはいい方が大勢住んでおられる。
 向かいの家は内務省の前島密氏の家で、その隣は反乱軍の西郷隆盛の弟、西郷従道の家。
 こちら側にはドイツ公使館、オーストリア公使館、フランス公使館がある。
 家の西側に隣接しているのは出羽屋敷で、偶然にもおやおさんの生まれたところだ。お城のような大きな屋敷である。
 私たちの家はもと大村公の所有であったことは、門の上の紋章でも明らかである。大村藩はお筆さんのお父様の出身の藩だ。
 けれど、その屋敷は後に薩摩人たちの手に移り、現在は森家の所有である。

 銀座から永田町への道はとても気持ちがよい。
 まず賑やかな東京のブロードウェイから山下町に出て、そこから山下御門を入ると城内になる。
 城内は広い平らな道の両側に古い建築の大きい家が並んでいる。
 昔大名たちが江戸に出仕していた間住んでいたところなのだ。
 屋敷の大きさから、取りわけ威風堂々とした門の構えから、何名ぐらいの人が住んでいたか、どれくらいの従者がいたのなどを想像することができる。
 そしてたまに駕籠がこの無人の屋敷の前を通り過ぎて行くのを見ると、完全に封建時代に舞い戻ったような錯覚を起こす。
 井伊掃部頭の大邸宅も私たちの通りに建っており、東京で最も立派な邸ということになっている。
 位が皇后陛下の次にある太政大臣三条実美公は広大な西洋館、まるで宮殿のような邸に住んでいる。
 天皇陛下のお祖父様中山忠能氏も同じ通りに素晴らしい屋敷を持っている。
 今日は雨降りだったけれど、それでも私たちは教会に行った。ここからでは相当の距離である。
 日曜学校には遅れてしまって、マクラレン先生の不興を買ってしまった。
 出席者は少なかったけれど、グリーン先生は黙示録の中の「玉座の上の虹」について立派な説教をなさった。
 それは私たちが長い間考え話し合ってきたことであり、私たちの守護神について、そして神の民に対する守護についてであった。
 聖約の天使は私たちとともにあるに違いないと思う。
 しかし私たちは天使を迎えるに値しない人間なのだ。
 美しい見知らぬお方、私たちの貧しい家と心にお迎え申し上げます。

明治11年7月8日 月曜日
 昨日は七月の七日、七夕祭だ。
 この日に雨が降ると幸運とされ、降らないと非常に不運である。
 幸い昨日は雨が降ったから私たちは大丈夫だ。
 それにしても私たちの悩みは果てることがないのだろうか。
 ウイリィが銀行に預金したお金の領収書を無くしたのだ。私たちの全財産なのに。
 なんとかしなければ全部失ってしまうかもしれない。
 どうか神様、お助け下さい。
 母とアディは築地に行き、ウィリイは学校へ行った。
 私は静かに考えたり書いたりする暇ができた。
 午後には森夫人のところへ行くつもりだ。
 たった今格子窓の所に坐っていたら、甘い悲しい笛の音が、下の谷を横切って山王社のある向こうの丘から漂ってきた。

【クララの明治日記  超訳版解説第51回】
「ということで、復帰第一回はホイットニー家の引越の模様をお伝えしました」
「永田町界隈は随分と豪華なメンバーが軒を連ねていますわね。よくもこんなに敷地があったものだわ」
「日記中でも触れられているけれど、この辺りは大名屋敷ばかりだったからね。
ちょっとイメージしづらいと思うんだけど、明治初期って、この辺りは殆どゴーストタウンに近かったのよね。
 幕末からの流れで説明していくと、まずは参勤交代の廃止で毎年地方から上京してきた地方の武士たちがいなくなり、その結果大名屋敷の敷地内にあった彼らの居所が不要に。
 ついで、明治維新を経て地方の殿様とその家族も領国に帰り、幕臣である元の旗本達は静岡に大量移住して更に人が減ったわけ。
 廃藩置県で元の殿様達は東京に戻ってきたけれど、上屋敷だの中屋敷だの下屋敷だの複数も必要が無くなり……というか維持できなくなったのよね。大体そういう屋敷は明治政府が召し上げて公家や高官に払い下げたり“何処ぞの偉い先生”に無料みたいな値段で払い下げたりでね。そう“何処ぞの偉い先生”に。
 うちの父様に借金を申し込みに来るくらいなら、その敷地を担保にでも出して借り入れればいいじゃない。元々無料で手に入れたような敷地なんだし! ちなみに借金を申し込みに来たのはこの年の4月11日だったり」
「……話がややこしくなるから、とりあえずその話は余所に置いておきなさい。
 そういう事情ですのね、この当時何故か東京の中心付近に広大な酪農場の実験地が普通にあったりしたのは。
 それにしてもこの当時にしっかりした都市計画に基づいた町作りが出来ていれば、今頃東京はもっと整然とした都市になっていたでしょうに、勿体ない。
 岩倉使節団でナポレオン三世による大改造を経たばかりのパリを訪れた政府高官も多かったでしょうに、何故そこに思い至らなかったのかしら?」
「江戸時代は武士の住む町と町人の町がはっきりと分断されていたからね。官公庁と商業地と貴賤を問わない住宅が入り混じる事なんて想像できなかったんだと思う。
 そう云うわけで、大規模な都市改造もされることなく、江戸期の古地図と現在の地図を照らし合わせると、大幅に違いがあるのは埋め立てが行われた海岸線付近くらいなものだったり。意外と面白いから、機会があればその手の本を一冊買って眺めてみて下さい」
「さて、今回はこのくらいで特に解説すべき事はないのですけれど……お逸、貴女の国では七夕に雨が降ると縁起がいいわけですの? 随分変わってますわね」
「わたしだって知らないわよっ! 当たり前だけど、まるっきり逆でしょ、日本だって中国だって! クララ、日本語を聞き違えたんじゃないの、この一件については?」
「流石に聞いたことはありませんわよね、七夕に雨が降ると幸運になる、なんて。
 もしその手の慣習が本当に存在するならばご一報寄せて頂けますと幸いですわ」
「とりあえず今日はこんなところかな? あ、個人的な感想だけど、クララの引っ越しの直前の夢に出てきた“翼を持った侍”って格好良いよね! 厨二病設定みたいだけど」
「日本の刀を手にしているのに、イエス・キリストの使徒であり、神の軍勢の指揮官! と解釈をするのは如何にもクララらしいですわね……って厨二病設定はおやめなさい、厨二病設定って表現は!」
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