上 下
68 / 123
クララ、竹橋事件に接するのこと

ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第55回 クララ、竹橋事件に接するのこと

しおりを挟む
 今回分は、日本の歴史の闇に葬られた「竹橋事件」の話がメインとなります。

明治11年8月22日 木曜日
 同人社の先生方五名が父や私たち家族と顔合わせをするために、中村正直氏の養子である中村一吉氏と連れだってみえた。
 静かな気持ちのよい話し合いだった。
 中村氏が一番感じの良い青年だったけれど、もう一人、もっと若い素敵な青年がいた。
 後の方たちより年上の方が二人おられたが、その中の鈴木氏という方はとても陽気な方だ。
 お逸が来て、接待を手伝ってくれて助かった。
 はじめに緑茶を出し、次にコーヒー、サンドイッチ、クラッカー、いろいろのケーキ、アイスクリーム、桃、そして最後にまた緑茶。
 我ながらとても凝った夕食だった。
「大変おいしいですね」
 中村氏がアイスクリームを召し上がりながらそう云われたが、他の方々も同意見だったよう。
 少しゲームをして遊び、音楽をし、写真を眺め、男性陣は煙草をふかし、そしてやがてお礼を何度も云って帰って行った。

明治11年8月23日 金曜日
 授業が済んでから昨日貸していただいたフリーザーを返しに、器にいっぱいのアイスクリームを持って勝家に行った。勝提督はアイスがお好きなのだ。
 お逸もおせきも留守だったけれど、奥様がおいでになって楽しい話し合いをした。
 家に帰ってきてから、母と一緒に中村氏を訪問した。
 とても上機嫌で、いろいろためになる話をされた。
「是非ホイットニー夫人に教鞭を執って頂きたいのです」
 そう誘ってくれている麹町上二番町にある私立桜井女学校のことについて相談した。
 中村氏はその学校の桜井昭悳氏のことはご存じないけれど「聖書を教えたいというなら悪い人ではなかろう」とのことだった。
 桜井氏は教会を持っていて、うちの母にそこの牧師になって欲しいと頼んできたのだ。
「しかし一度女学校を見てから、慎重に考えた方が良いでしょう」
 そういって中村氏は、ご子息の一吉氏に「ホイットニー夫人達と一緒にその女学校を見に行くように」と言いつけられた。そんな事情で、私たちは中村氏のご挨拶や、またいつでもいらっしゃいという言葉を後にして出かけた。
 桜井女学校はすぐに見つかった。
 見つかったのだけれど、残念ながらご主人はお留守。
 夫人の桜井ちかさんがご在宅で私たちに会われたのだけれど、どうにも首を捻るよう話の流れになってしまった。
 夫人はあまり若い方ではなく、はっきりそれと分かるユダヤ人の顔立ちなのだけれど、しきりに「私の学校」「私の教会」「私の生徒」というよう云い方をされる。
 加えて中村氏の質問に対し、ご主人は学校とはまったく関係がないこと――学校は完全に奥様の所有であることを説明された。
 元を正せば、夫人は横浜の山手二一二番地やタムソン夫人の学校であるB6番女学校で勉強していたらしい。
 タムソン夫人自身もしばらくこの学校で教えていたが、今は子供さんのことで手一杯でお辞めになった筈だ。
 その後、桜井夫人とタムソン夫人は不仲になったらしい。
 母はそんなところで教えたためにタムソン夫人の反感を買って、宣教師仲間を私たちの敵に回すようなことをされると大変だと判断した。
 そういうわけで多分あそこは断念することになるだろう。
 殊に皇后様の学校でも母に教えて欲しいと云ってきているのだから。
 役に立つ仕事がありますように。

明治11年8月24日 土曜日
 昨夜は恐怖の夜だった。
 十一時頃に兵士の一団が開成学校の近くの竹橋にある司令部で反乱を起こしたのだ!
 私たちはその自国に五発の砲声で目を覚ました。
 宮城から聞こえてきたそれは、非常事態の合図なのだ。
 五分と立たぬうちに永田町界隈は、宮城あるいは陸軍省へ急ぐ人々で騒がしくなった。
 変装した将校が供を連れず、明かりもつけず、単身馬を駆って通っていく。
 東京府知事の楠本氏は人力車で来られ、前島密氏は別当も連れず、提灯もつけず馬に乗り裏門からそっと抜け出し、寺島宗則氏は三人の人と一緒に馬を飛ばして行った。
 歩兵と騎兵の部隊が隊伍を組んで行進していき、帯刀した警察官の大部隊も通って行った。
 軍服を纏った正体の分からぬ騎手がゆっくりと通り過ぎて行き、町全体が息を殺しているように思われた。
「黒っぽい服装の三人が街角で落ち合い、人に聞かれることを恐れているかのように、ひそひそと話し合っているのを見ましたよ」
 近所まで様子を見に行った母はそんな目撃談を教えてくれた。
 やがて二人の騎手が我が家から見える坂を下りて来たけれど、それを見ると三人は急いで虎ノ門の方へ坂を下りて行った。
 慌ただしくお使いが向かいの家の将校を呼びに来て、叫んでいるのが聞こえてくる。
「ダンナ、ダンナ! 早く! 早く来て下さい!」
 一人の車夫が、午後六時に皇后様に皇子がお生まれになったと話しているのが聞こえた。
 私たちは何事が起こったのか知らないまま再びベットに戻った。
 事情が知れたのは翌朝早く富田氏がみえてからのことだ。
「鹿児島県と石川県のサムライが政府に謀反して三条実美公を殺す予定だったらしいですよ」
 使用人のカネはそう付け加え、更に追い打ちを掛けるように物騒なことを呟いた。
「自分だって、元は士族。士族をここまで追い込んだ三条公を殺したいほどですよ」
 それはこういうわけなのだ。
 この前の戦争、つまり西郷の反乱のことだけれど、その開戦当初、ミカドはある部隊には沢山の報酬を与えられたらしい。しかし、後から参加した者は忘れられたか無視された。
この人たちがぶつぶつ言い出して、他の人もそれに合流し、遂に全部隊が謀反を企み、金曜日の晩に反乱に突入したというわけなのだ。
 死傷者の数は不明。
 富田氏によると、三人の将校と二人の車夫が、鉄砲か刀で殺されたのだそうだ。
 未確認の噂によると、二百ないし三百の人が殺されたともいう。
 今朝反乱軍の兵士たちは縛られて、政府側の兵隊に連れられて裁判所へ行った。
 彼らがどうなるのか私には分からない。
 反乱軍は自分たちは天皇に叛いているのではなく、憎い内閣と税吏に対して反乱を起こしたのだと主張している。

 津田仙氏が今朝早く、私たちが怖がっていないかと訪ねて下さった。
 それから津田氏は吉報ももたらしてくれた。勝氏が私たちに住居を提供されるというのだ。
 勝氏が家を買って私たちに無料で貸して下さってもよいし、形ばかりの家賃を貰ってもよいというのだ。
 アメリカの私たちの財産には手をつけないように、私たちが帰国する時のようにとっておくようにと忠告された。
 ここで津田氏は勝氏をべた褒めに褒めた。
 勝氏は紳士であり、哲学者であり、博愛家であり、愛国者である。
 更に津田氏によると彼は節約家であって、ご自分の安楽のためには殆どお金を使わず、娯楽には一文も使われない。
 しかし、家や趣味は簡素であっても、心は常に何処の国の人であろうと弱い者、困っている者に向かって広く開かれている。
 彼は西郷氏が敗れるまでは特に味方しなかったが、破れた後で伝記を書き、手紙は出版し、敗軍の将の銅像を建てるために募金から始められた。
「そのように」と津田氏は云われる。
 勝氏は貧しくても弱くても、虐げられている者、圧迫されている者の常に味方であって、自分の安楽を犠牲にしてもその人たちに救いの手を差し伸べられるのです、と。
 全国から男百人という人が毎日のように勝家の門前に押しかけ、彼の恵みに乞うのである。
 その上先見のある人物であって、金遣いにも、国事にも慎重である。
 大勢の金持ちの公達が財産に関して相談に来る。
 勝氏はその人たちの財産の処理の仕方について指示を与える。その通りに実行すれば必ず成功するのだ。
 将軍家が敗北しないうちに、降伏を進言したのも勝安房であった。
 それかがどう人の目に映るか、人々が彼を徳川の敵と云うのを十分承知の上で、十年の間に彼らの権力は復活すると予見し、宣言した。
 そして今十年が完了してみると、輿論はまさに徳川家支持に傾き、ミカドの政府は日ごとに煩わしいとの感を深くしている。
 以前には勝氏を貶していた人々が今では彼を褒め称え、その歓心を買おうとしている。
 異教徒の国にもこのような人を見出すことは喜ばしい。
 自然の神の宗教以外に宗教に興味のない人ながら、彼らなりの宗教の心が彼の心に、悩めるやもめと孤児を「救い」、自らは俗世の汚濁に染まらぬように身を処していくように命じているのだ。
 このような良き友を与えてくださったことに感謝する。
 勝氏の上に神様の御恵が豊かにありますよう、私たちの祈りが聞き入れられますように。
午後には大鳥家を訪ねた。
 美しい庭園は念入りに手入れされて草木が栄え、イタリア人彫刻家ラグーザの手になる故大鳥夫人の立派な胸像が飾られていた。
 その後村田家と富田夫人を訪問した。忙しかったが、楽しい一日だった。

明治11年8月25日 日曜日
 今朝早く礼拝に行った。
 アディは猛烈に歯が痛むので、抜かなければならないと母は考えている。
 アレグザンダー先生のお説教だったが、正規のお説教ではない。
 正規の礼拝は来週の日曜日から始まるのだ。
 私の日本語の日曜学校には一人も来なかった。お逸さえ手伝いに来なかった。
 それで森夫人のところへ行っておしずを呼び出し、屋敷内を回って遊んでいる子供たちを呼び集めた。
 みんな日曜だということに気が付かなでいたらしく、喜んでやって来た。
 私は梅太郎と七郎を教え、母は森夫人とアディとマギーを引き受けた。
 お逸から便りがあって、金曜日から今日の二時までお習字の先生のところに行って、疲れて気分が悪いから来られないと云って寄越した。

明治11年8月26日 月曜日
 昨夜母が急病になった。
 こんなことは久しくなかったのだけれど、二年前に罹ったのと同じ病気で、あの時は午前三時にアンダーソン先生を呼びに行ったのだった。
 父もアディも使用人たちもみんな寝込んでいて、こんな時に呼べる女の人もお医者さんも知らないので、私はとっても心配だった。
 でも母の指図通りに、医者と看護婦の二役を一手に引き受けて、できるだけのことはした。
 お逸の授業は私が教え、マギーは帰った。
 丁度一週間家に泊まっていたことになる。
 村田夫人がみえて夕食までいたが、私はお相手をしながらも、母のことばかり心配していた。
 お逸も残っていて、賑やかに遊んだ。
 お逸が私を手伝ってくれる思いやりが有り難い。
 母は今夜は快方に向かって嬉しい。

明治11年8月27日 火曜日
 今朝は朝寝坊をしてしまった。
 雨が降っていたし、前の晩寝ていなくて疲れていたのだ。母はだいぶよくなり、床の上に起き上がって、いつもの母のようだ。神様が私の祈りに答えて下さったことに感謝する。
 午前中は早く過ぎてしまい、午後になってぼんやりしている時、壮次郎がやって来た。
 ド・ボワンヴィル夫人が母を訪ねてきて下さったので、二回の母の部屋にお通しした。
 夫人は母と話し合っておられる。
 夫人が来て下さったのは有り難い。彼女はいつでも母を元気づけて下さる。
 明るいクリスチャンの心を持つ者は幸いである。私もそのような心を与えられますように。
 お逸は今日来なかった。
 ミカドがご退位になり、有栖川宮に皇位を譲られた、という噂である。
 ミカドはご隠居様というわけだ。

【クララの明治日記  超訳版解説第55回】
「明治日本最初の軍部の反乱! 近衛砲兵大隊による赤坂御所襲撃計画! 暗躍する謀略家岡本柳之助の影に見える囚われの陸奥宗光の姿! 刑死者55名、処罰者302名! 
 明治前期日本の歴史の最大の闇! それが竹橋事件なのよ!」
「そんなに力説されましても、わたくし、ピンと来ませんわ。そもそも今日では、高校の歴史教科書にさえ載っていないのでしょう?」
「そ、それはこの事件を闇に隠蔽しようとした“闇の組織”の陰謀で」
「何処かの“光の戦士”みたいなことを云っているんじゃありませんことよ!」
「……確かに。“闇の組織”より、そんな台詞をテレビで公言していた人間が総務大臣だったってことの方が恐ろしい気もするけど」
「大体わたくし、現在普通に手に入る一般書籍でこの竹橋事件を一番詳しく扱ったと思われる本を読みましたけれど、なんですの、この行き当たりばったりの杜撰な計画は?」
「筆者の人としては竹橋事件の参加者の動機に自由民権運動の萌芽を見て絶賛しているんだけど……でも計画としては確かに出鱈目だよね」
「明確な行動計画も首謀者もなし。計画は各所に駄々漏れ。実質的な黒幕だと考えられている和歌山藩出身の少佐岡本柳之助には、当日の具体的な行動は殆どなし。岡本の後ろ盾だったと考えられる同じ藩出身の陸奥宗光は事件当日は西南戦争と同時決起の疑いで監獄の中、なのでしょう?
 というより、わたくし、驚きましたわよ。クララの書いた翌朝の日記、
『この前の戦争、つまり西郷の反乱のことだけれど、その開戦当初、ミカドはある部隊には沢山の報酬を与えられたらしい。しかし、後から参加した者は忘れられたか無視された。
この人たちがぶつぶつ言い出して、他の人もそれに合流し、遂に全部隊が謀反を企み、金曜日の晩に反乱に突入したというわけなのだ。』
 現在“一般的に認められている歴史的事実としての竹橋事件”はこの数行殆どそのままんですのよ。クララの情報網が凄いのだか、事件の底が本当は浅かったのだか、よく分かりませんけれど、わたくしとしては、後者の気がしてなりませんわ」
「ともあれ、そこに問題になって出て来るのが謀略家の岡本柳之助の存在ってわけ。
 実はこの人、日清戦争当時の外務大臣である陸奥宗光と同じ和歌山藩の出身で、明確な証拠こそないけれど、陸奥宗光の“汚れ役”をやっていたと思われるのよね。
 そして日清戦争の後は、かの有名な事件で!」
「以前“坂の上の雲”で見ましたわよ、閔妃暗殺ですわね。勿論岡本柳之助の名前こそ出ていませんでしたけれど、状況証拠的には“ストライク”ですわよね」
「結局竹橋事件でも、閔妃暗殺でも、岡本柳之助は処刑されていないんだよね。
 私、陰謀論とかは好きじゃないけど、歴史の中には“そういう仕事”を請け負う人間って本当にいるものなのねぇ」
「それが事実かどうかは歴史家の更なる研究に委ねるべきところでしょうけれど、いずれにせよ、そんな仕事に携わった人間は“まとも”な生涯を送れませんわよ。実際この岡本某とやらも、日本では死ねなかったのでしょう?」
「最後は上海で客死だね。まあ、死ぬ前に好きなだけ自己弁護した本を出版できただけ、謀略家としては“幸せ”だったとは思うけれど」
「……さて、その“幸せ”の裏に何人の屍が転がっているのでしょうね」
「といったところで今週は竹橋事件特集でした……と云いたいところですけど、この話題は次回もほんのちょっとだけ続くんじゃ!」
しおりを挟む

処理中です...