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クララ、徳川家の梅屋敷を訪問するのこと
ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第72回 クララ、徳川家の梅屋敷を訪問するのこと
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今回分は「徳川家の梅屋敷訪問」「アメリカのオールドミスの話」、そして「珍しくw上機嫌で子供達の相手をするクララ」の話がメインとなります。
明治12年3月8日 土曜日
勝夫人が木下川にある徳川家の梅屋敷へ梅見に招待して下さった。
今朝は非常に寒く風も強く、雲が垂れ込めてる生憎の空模様。
しかし、梅見に行くことを決めた以上、私たちは何が何でも行くつもりである。
私たち梅見の一行は勝夫人と母、私のほかに、内田夫人、お逸、おせき、七太郎の七人。
呆気に取られ、この“奇妙な集団”を見ている町の人々。
その中を我々は勇ましく突っ切って進み、不動の山のように聳える古いお城の内陣に入っていった。
賑やかな浅草を通り、両国橋を渡って、砂地の川床にさらさらと水が流れ遊覧船が集まって来る隅田川に沿って進んでいった。
そのうちに道が悪くなり、萱葺きの屋根が多くなり、田舎に近づいていることがわかった。
亀戸を過ぎてからは道がさらにひどくなった。
車一台が辛うじて通れる狭い道が水田の間を通っている。
私たちは、この道の大半を歩かなければならず、それがもう大変。
しかしこの苦労もやがて終わり、私たちは木下川に着き、土手を歩いていくうちに将軍の梅屋敷の到着。
大きな門を入ると、更に大きな邸宅に案内された。
今は住む人がなく、よねさん母子が番人をしている。
家の主な部分は立派な建築だ。
家の中は広々として、たくさんの部屋や納戸、思いがけないところに曲がり角があったりと、暗くあやし気な佇まい。
勝氏が書かれた額が障子の上にかかっていた。
お逸に内容を尋ねると「梅の花こそ地上の天国なり」と書いてあるそうだ。
大きな牡牛の彫刻が部屋に据えてあるので謂われを聞いてみると、二百年以上前に活躍した彫刻の名人左甚五郎の手になるものだった。
彼の彫刻した竜があまりに実物そっくりに出来たので生きた竜になり、甚五郎を連れて天に昇ったと言い伝えられている。
“左”甚五郎という名は左手で彫刻をしたためにつけられたものである。
この家はずっと昔、大地震の前に建てられ、地震によって崩壊したが、家を再建したときに古い柱をそのまま使ったのである。
鉋ができる前の材木であって、手斧で削ってあり、古くなって黒ずんでいる。
百年以上経っているに違いない。
昔の思い出がまつわりついて気味の悪いこの家を私たちは隈なく見てまわった。
家の気味悪さと対照的に、お庭は何人にも言葉で描写することの出来ないほど美しかった。
庭園は優雅に設計され、古めかしい石灯籠や古い石橋がある。
鋼鉄の鏡を持ったお稲荷を祀った小さい社、中に石の動物が入っている洞穴、化石化した巨大な桜の木などもあった。
庭園から竹の門を通り抜けると梅園になるが、ここは広大な土地に五百本の梅の木が整然と植えてある。
どの木の周りにも土が盛り上げてある手入れの良さだ。
これが遠くから見ると、本当に夢のように美しい。
花は満開で、花びらが雪のように地面を覆っており、微かな甘い香りが一面に漂っていた。
枝には梅の花を称える歌を書いた紙片が結びつけてあった。
(地上にこれほど美しい景色があるのか!)
私は恍惚として見とれてしまい、思わず詩を書いていた。
『風吹けば 花は散りゆく さはあれど 神は宇宙を支配し給う』
七太郎もその場の雰囲気に情緒をかきたてられて、片手に『作詩法』を持ち、片手に鉛筆を持って歩き回っていた。
が、ついに詩は生まれなかった。
邸から庭園、梅林、農園と歩き回った末に家に戻って、おすしと女向けの弱いお酒とお茶を頂いた。
およねさんは不在だったので、およねさんのお母様に挨拶をして引き上げた。
途中、亀戸で別の梅の花を見て、反り橋を渡った。
この橋は見て美しいが、渡るのは一苦労である。
ところで、お逸の一番上の姉である内田夫人は、古いしきたりに従って育ったため、何処にも行ったことがない。
麻布の亡くなったご主人の家と、氷川町の父上の家との間を駕籠に乗って往復するだけだったから、今日の自由な遠出をことのほか喜ばれた。
三十年も東京に住んでいて、亀戸をご存じなかったのである。
反り橋の先に小さいお寺があった。
庭には松の大木があるが、今では皮だけが残っており、その中に年老いた白蛇が住んでいると言い伝えられている。
滅多に顔を見せることはないがその蛇を見かけたものは幸運に恵まれると云われる。
次に柳島の橋本屋柳島という美しいお茶屋に寄った。
この店は隅田川に面しており、ゆるい階段が通じている水際には遊覧船がいくつも繋がれている。
両側にベランダのある内庭を通ってゆくと、大名屋敷の塀に似せた垣根のところにきた。
水を見下ろす美しい部屋で土地の名産をご馳走になったが、その魚とご飯のおいしかったこと!
お逸と、おせきと一緒にその家を隅々まで探索したが、大きいお座敷や川に面した綺麗な庭が沢山あった。
一時間ほど休憩してから、月の光が富士山頂に輝き始めた頃、大勢の女中に見送られ我々は門を出た。
「オシズカニオイデクダサイ!」
「お静かに」というのは「平穏にお帰り下さい」という意味よ。
お逸がそう説明してくれた。
帰り道、お逸と私は同じ人力車に乗って楽しく話をした。
浅草を通る時、四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討つ前に最後の食事をしたそば屋を指し示してくれた。
当時はもっと大きい店だったに違いない。
何故って?
今でも確かに繁盛はしているけれど街角の小さいそば屋で、四十七人はおろか、二十人も一度に食事は出来そうには思われないからだ。
月明かりの中を賑やかな浅草を通り抜け、荘厳な宮城――昼間見るときよりも一段と力強く見える――を通り過ぎて家に帰った。
とても楽しい一日であった。
お友達に感謝するばかりでなく、天の神様にも感謝したい。
明治12年3月15日 土曜日
気持ちのよい陽気なので、読み物を持って庭に出た。
朝食の時、母は私を連れて汽車で横浜へ行くことに決めた。
それでアディをベイリー夫人のところへ送り届けて、出ようとした時に勝夫人と内田夫人が来られて、しばらくお喋りしてゆかれた。
どういった話の流れだったのか、オールドミスの話になった。
母はお二人にアメリカのオールドミスたちがどういうことをするか、他人のためにどのように役立っているかということを話した。
勝夫人は『現代の著名な女性』という本に非常に感心された。
日本では「縁遠い人」というのは誰にも歓迎されない女性という意味である。
日本女性がそう呼ばれることを恐れるのはもっともだ。
十二時の汽車に乗ったが、最近できた規則に従い、すべての店が閉まっていた。
ペール・フレールでお昼を食べてから、私は山手にヘップバン夫人を訪問して、楽しい時を過ごした。
夫人は母と一緒に加賀屋敷に行くことを約束された。
ヘップバン夫人も勝氏と食事をともになさることになった。
明治12年3月16日 日曜日
昼食後、私はショー先生の日曜学校に行った。
夫人が私に担当させて下さったのは、六人の面白い女の子のクラスだった。
私が一番気に入ったおてるちゃんは十二歳で、杉田家の近くに住んでいる。
頭髪がまったくないので奇妙な感じである。
おふゆちゃんは大きな澄んだ黒い眼を持った綺麗な子。
おけいちゃんは小綺麗な、可愛いらしいはにかみや。
他の子たちも丸い眼にふっくらした頬をして、額にお下げ髪を垂らし、いつでもにっこりする小さい口を持っている。
この子たちは面白いのみならず、有望な畑である。
私はまず名前や年齢、住所を聞き、私自身のことも少し話した。
日本語で教えるよりも、会話をする方が楽だが、教えるのも上手になりたい。
家に帰ってから、またヤマト屋敷に行った母を迎えに行った。
途中に数人の子供たちが立っていた。
「あ、異人だ!」
一人の女の子が、いつもの日本人の子供達の反応通り、そう私を呼んだ。
私が振り返って彼女の顔をじっと見ると、何か感ずるところがあったのだろう、彼女は調子を変えて「どこへ行くの?」ときいてきた。
「市兵衛町よ」
「一緒に行ってもいい?」
「いいわよ」
私がそう答えると、少女はおのおの背中に赤ん坊をおぶっている子供を二、三人誘い、私の後から笑いながらついてきた。
名前を聞くと「おとく」と云った。
次の女の子は「おいつ」、向こうの男の子は「次郎」という名前だった。
背中の赤ん坊はそれぞれ妹や弟で、子供は十二歳から十歳という年齢である。
私の名前、年齢、住所あたりまでは普通だったけれど、いろいろ妙な質問をされた。
「そのオーバーについている毛皮は何の毛皮?」
「首に巻いているのは襟巻きなの?」
「お姉さんの足、小さいね」
「その帽子、とっても綺麗」
好きずきにそんなことを云って、最後にこういった。
「お姉さんは“良い異人”だね」
私はいつになく機嫌がよかったので、この子供たちと話をして面白かった。
通りがかりの謹厳なサムライたちが、私たちのやり取りをおかしそうに見ていた。
丘の上まで来た時に「もうお帰りなさい」と子供たちに云った。
「えー、もっと一緒にいきたい!」
おいつという子は最後までそう云っていたけれど、私は「モウタクサン」と断った。
しかし丁寧な口調で断ったからだろう、子供たちはお辞儀をちゃんとした。
「また来てねー」
そう誘われたけれども、余程機嫌の良い時にだけ行くことにした方がいいだろう。
機嫌の悪い時はうるさい子供に後をつけられるほど腹立たしいことはないからだ。
晩にはとても良い集会が持てた。
津田氏が学生を三人連れて来られたが、この学生たちはクリスチャンである。
ディクソン氏もみえた。
「日曜日に科学の本を読んでもよいものだろうか?」
津田氏の質問に対し、ディクソン氏はこう応えた。
「それは個人の良心の問題です」
【クララの明治日記 超訳版解説第72回】
「珍しく町の子供と仲良くしているクララですけれども、裏返して云えば……」
「無遠慮な視線には、相変わらず子供でも容赦ないよねー、クララは。
今回はクララ自身書いている通り、偶々機嫌が良かったから、会話がなんとか成立しているけど」
「まあ、その気持ちも分からないではありませんけれどね。
日本人の“珍しい物好き”に、少し神経質な外国人は相当参っていたようですし。
“まるで四六時中監視されているようだ”ということで。
幸いわたくしなどは生国の服装を着てさえいなければ、日本人とさほど変わらない姿形ですので、被害はさほどありませんけれど」
「まあ、日本人を代表して弁護させて貰うと“無邪気に日本を楽しんでいる外国人”には好評なんだよね、日本人の“親切さ”を示すエピソードとして。
もっとも現在、丸一冊翻訳されているような来日外国人の記録は、大概日本人に好意的な内容だけどね。そうじゃないのは、専門の外交官たちの記録くらいで。
対して断片的にしか紹介されていない外国人の発言ってのは、偏見や差別も含めた“当時の生の感覚そのまま”だから、どっちもどっち、とも云えるけど」
「確かに、人の感じ方は、それぞれの人の性格だけでなく、文化的背景も含めて千差万別ですものね。
あくまで“個人の主観”として、参考程度にとどめておくべきなのでしょう」
「さて、あと今回フォローすべきは、冒頭の木下川にある徳川家の梅屋敷の話かな?
残念ながらこの梅屋敷は明治43年の大洪水で梅樹の殆どが枯れてしまい、廃園となってしまっているそうです。
具体的な場所としては、亀戸の先の荒川、木下川水門の辺みたいねー。
平井大橋の西詰め付近に名所・旧跡の案内があるみたいだから、お近くの方が見えれば是非確認してみて下さい」
明治12年3月8日 土曜日
勝夫人が木下川にある徳川家の梅屋敷へ梅見に招待して下さった。
今朝は非常に寒く風も強く、雲が垂れ込めてる生憎の空模様。
しかし、梅見に行くことを決めた以上、私たちは何が何でも行くつもりである。
私たち梅見の一行は勝夫人と母、私のほかに、内田夫人、お逸、おせき、七太郎の七人。
呆気に取られ、この“奇妙な集団”を見ている町の人々。
その中を我々は勇ましく突っ切って進み、不動の山のように聳える古いお城の内陣に入っていった。
賑やかな浅草を通り、両国橋を渡って、砂地の川床にさらさらと水が流れ遊覧船が集まって来る隅田川に沿って進んでいった。
そのうちに道が悪くなり、萱葺きの屋根が多くなり、田舎に近づいていることがわかった。
亀戸を過ぎてからは道がさらにひどくなった。
車一台が辛うじて通れる狭い道が水田の間を通っている。
私たちは、この道の大半を歩かなければならず、それがもう大変。
しかしこの苦労もやがて終わり、私たちは木下川に着き、土手を歩いていくうちに将軍の梅屋敷の到着。
大きな門を入ると、更に大きな邸宅に案内された。
今は住む人がなく、よねさん母子が番人をしている。
家の主な部分は立派な建築だ。
家の中は広々として、たくさんの部屋や納戸、思いがけないところに曲がり角があったりと、暗くあやし気な佇まい。
勝氏が書かれた額が障子の上にかかっていた。
お逸に内容を尋ねると「梅の花こそ地上の天国なり」と書いてあるそうだ。
大きな牡牛の彫刻が部屋に据えてあるので謂われを聞いてみると、二百年以上前に活躍した彫刻の名人左甚五郎の手になるものだった。
彼の彫刻した竜があまりに実物そっくりに出来たので生きた竜になり、甚五郎を連れて天に昇ったと言い伝えられている。
“左”甚五郎という名は左手で彫刻をしたためにつけられたものである。
この家はずっと昔、大地震の前に建てられ、地震によって崩壊したが、家を再建したときに古い柱をそのまま使ったのである。
鉋ができる前の材木であって、手斧で削ってあり、古くなって黒ずんでいる。
百年以上経っているに違いない。
昔の思い出がまつわりついて気味の悪いこの家を私たちは隈なく見てまわった。
家の気味悪さと対照的に、お庭は何人にも言葉で描写することの出来ないほど美しかった。
庭園は優雅に設計され、古めかしい石灯籠や古い石橋がある。
鋼鉄の鏡を持ったお稲荷を祀った小さい社、中に石の動物が入っている洞穴、化石化した巨大な桜の木などもあった。
庭園から竹の門を通り抜けると梅園になるが、ここは広大な土地に五百本の梅の木が整然と植えてある。
どの木の周りにも土が盛り上げてある手入れの良さだ。
これが遠くから見ると、本当に夢のように美しい。
花は満開で、花びらが雪のように地面を覆っており、微かな甘い香りが一面に漂っていた。
枝には梅の花を称える歌を書いた紙片が結びつけてあった。
(地上にこれほど美しい景色があるのか!)
私は恍惚として見とれてしまい、思わず詩を書いていた。
『風吹けば 花は散りゆく さはあれど 神は宇宙を支配し給う』
七太郎もその場の雰囲気に情緒をかきたてられて、片手に『作詩法』を持ち、片手に鉛筆を持って歩き回っていた。
が、ついに詩は生まれなかった。
邸から庭園、梅林、農園と歩き回った末に家に戻って、おすしと女向けの弱いお酒とお茶を頂いた。
およねさんは不在だったので、およねさんのお母様に挨拶をして引き上げた。
途中、亀戸で別の梅の花を見て、反り橋を渡った。
この橋は見て美しいが、渡るのは一苦労である。
ところで、お逸の一番上の姉である内田夫人は、古いしきたりに従って育ったため、何処にも行ったことがない。
麻布の亡くなったご主人の家と、氷川町の父上の家との間を駕籠に乗って往復するだけだったから、今日の自由な遠出をことのほか喜ばれた。
三十年も東京に住んでいて、亀戸をご存じなかったのである。
反り橋の先に小さいお寺があった。
庭には松の大木があるが、今では皮だけが残っており、その中に年老いた白蛇が住んでいると言い伝えられている。
滅多に顔を見せることはないがその蛇を見かけたものは幸運に恵まれると云われる。
次に柳島の橋本屋柳島という美しいお茶屋に寄った。
この店は隅田川に面しており、ゆるい階段が通じている水際には遊覧船がいくつも繋がれている。
両側にベランダのある内庭を通ってゆくと、大名屋敷の塀に似せた垣根のところにきた。
水を見下ろす美しい部屋で土地の名産をご馳走になったが、その魚とご飯のおいしかったこと!
お逸と、おせきと一緒にその家を隅々まで探索したが、大きいお座敷や川に面した綺麗な庭が沢山あった。
一時間ほど休憩してから、月の光が富士山頂に輝き始めた頃、大勢の女中に見送られ我々は門を出た。
「オシズカニオイデクダサイ!」
「お静かに」というのは「平穏にお帰り下さい」という意味よ。
お逸がそう説明してくれた。
帰り道、お逸と私は同じ人力車に乗って楽しく話をした。
浅草を通る時、四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討つ前に最後の食事をしたそば屋を指し示してくれた。
当時はもっと大きい店だったに違いない。
何故って?
今でも確かに繁盛はしているけれど街角の小さいそば屋で、四十七人はおろか、二十人も一度に食事は出来そうには思われないからだ。
月明かりの中を賑やかな浅草を通り抜け、荘厳な宮城――昼間見るときよりも一段と力強く見える――を通り過ぎて家に帰った。
とても楽しい一日であった。
お友達に感謝するばかりでなく、天の神様にも感謝したい。
明治12年3月15日 土曜日
気持ちのよい陽気なので、読み物を持って庭に出た。
朝食の時、母は私を連れて汽車で横浜へ行くことに決めた。
それでアディをベイリー夫人のところへ送り届けて、出ようとした時に勝夫人と内田夫人が来られて、しばらくお喋りしてゆかれた。
どういった話の流れだったのか、オールドミスの話になった。
母はお二人にアメリカのオールドミスたちがどういうことをするか、他人のためにどのように役立っているかということを話した。
勝夫人は『現代の著名な女性』という本に非常に感心された。
日本では「縁遠い人」というのは誰にも歓迎されない女性という意味である。
日本女性がそう呼ばれることを恐れるのはもっともだ。
十二時の汽車に乗ったが、最近できた規則に従い、すべての店が閉まっていた。
ペール・フレールでお昼を食べてから、私は山手にヘップバン夫人を訪問して、楽しい時を過ごした。
夫人は母と一緒に加賀屋敷に行くことを約束された。
ヘップバン夫人も勝氏と食事をともになさることになった。
明治12年3月16日 日曜日
昼食後、私はショー先生の日曜学校に行った。
夫人が私に担当させて下さったのは、六人の面白い女の子のクラスだった。
私が一番気に入ったおてるちゃんは十二歳で、杉田家の近くに住んでいる。
頭髪がまったくないので奇妙な感じである。
おふゆちゃんは大きな澄んだ黒い眼を持った綺麗な子。
おけいちゃんは小綺麗な、可愛いらしいはにかみや。
他の子たちも丸い眼にふっくらした頬をして、額にお下げ髪を垂らし、いつでもにっこりする小さい口を持っている。
この子たちは面白いのみならず、有望な畑である。
私はまず名前や年齢、住所を聞き、私自身のことも少し話した。
日本語で教えるよりも、会話をする方が楽だが、教えるのも上手になりたい。
家に帰ってから、またヤマト屋敷に行った母を迎えに行った。
途中に数人の子供たちが立っていた。
「あ、異人だ!」
一人の女の子が、いつもの日本人の子供達の反応通り、そう私を呼んだ。
私が振り返って彼女の顔をじっと見ると、何か感ずるところがあったのだろう、彼女は調子を変えて「どこへ行くの?」ときいてきた。
「市兵衛町よ」
「一緒に行ってもいい?」
「いいわよ」
私がそう答えると、少女はおのおの背中に赤ん坊をおぶっている子供を二、三人誘い、私の後から笑いながらついてきた。
名前を聞くと「おとく」と云った。
次の女の子は「おいつ」、向こうの男の子は「次郎」という名前だった。
背中の赤ん坊はそれぞれ妹や弟で、子供は十二歳から十歳という年齢である。
私の名前、年齢、住所あたりまでは普通だったけれど、いろいろ妙な質問をされた。
「そのオーバーについている毛皮は何の毛皮?」
「首に巻いているのは襟巻きなの?」
「お姉さんの足、小さいね」
「その帽子、とっても綺麗」
好きずきにそんなことを云って、最後にこういった。
「お姉さんは“良い異人”だね」
私はいつになく機嫌がよかったので、この子供たちと話をして面白かった。
通りがかりの謹厳なサムライたちが、私たちのやり取りをおかしそうに見ていた。
丘の上まで来た時に「もうお帰りなさい」と子供たちに云った。
「えー、もっと一緒にいきたい!」
おいつという子は最後までそう云っていたけれど、私は「モウタクサン」と断った。
しかし丁寧な口調で断ったからだろう、子供たちはお辞儀をちゃんとした。
「また来てねー」
そう誘われたけれども、余程機嫌の良い時にだけ行くことにした方がいいだろう。
機嫌の悪い時はうるさい子供に後をつけられるほど腹立たしいことはないからだ。
晩にはとても良い集会が持てた。
津田氏が学生を三人連れて来られたが、この学生たちはクリスチャンである。
ディクソン氏もみえた。
「日曜日に科学の本を読んでもよいものだろうか?」
津田氏の質問に対し、ディクソン氏はこう応えた。
「それは個人の良心の問題です」
【クララの明治日記 超訳版解説第72回】
「珍しく町の子供と仲良くしているクララですけれども、裏返して云えば……」
「無遠慮な視線には、相変わらず子供でも容赦ないよねー、クララは。
今回はクララ自身書いている通り、偶々機嫌が良かったから、会話がなんとか成立しているけど」
「まあ、その気持ちも分からないではありませんけれどね。
日本人の“珍しい物好き”に、少し神経質な外国人は相当参っていたようですし。
“まるで四六時中監視されているようだ”ということで。
幸いわたくしなどは生国の服装を着てさえいなければ、日本人とさほど変わらない姿形ですので、被害はさほどありませんけれど」
「まあ、日本人を代表して弁護させて貰うと“無邪気に日本を楽しんでいる外国人”には好評なんだよね、日本人の“親切さ”を示すエピソードとして。
もっとも現在、丸一冊翻訳されているような来日外国人の記録は、大概日本人に好意的な内容だけどね。そうじゃないのは、専門の外交官たちの記録くらいで。
対して断片的にしか紹介されていない外国人の発言ってのは、偏見や差別も含めた“当時の生の感覚そのまま”だから、どっちもどっち、とも云えるけど」
「確かに、人の感じ方は、それぞれの人の性格だけでなく、文化的背景も含めて千差万別ですものね。
あくまで“個人の主観”として、参考程度にとどめておくべきなのでしょう」
「さて、あと今回フォローすべきは、冒頭の木下川にある徳川家の梅屋敷の話かな?
残念ながらこの梅屋敷は明治43年の大洪水で梅樹の殆どが枯れてしまい、廃園となってしまっているそうです。
具体的な場所としては、亀戸の先の荒川、木下川水門の辺みたいねー。
平井大橋の西詰め付近に名所・旧跡の案内があるみたいだから、お近くの方が見えれば是非確認してみて下さい」
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