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クララ、日本での最後のクリスマスを迎えるのこと

ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第103回  クララ、日本での最後のクリスマスを迎えるのこと

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 今回分は、クララが迎える(ひとまず)最後の日本でのクリスマス会の模様がメインとなります。

明治12年12月24日 水曜
 今週は忙しすぎて、書くのはおろか考える暇さえなかった。
 月曜は一日中おそろしく忙しかった。
 近所中の庭をまわってクリスマスツリーを探していたからだ。
 故国で使うような木はここでは珍しく、切ったものはたった一本であにもかかわらず、二ドルから一・五ドルもするということで五〇銭で借りてきた。
 だから今年のツリーは根付きで、枝はほとんど縛ってあることになる。
 火曜はクリスマスの接待の手伝いをする約束をしてあったので、ヘップバン夫人に会いに横浜に行った。
 早く出かけてグラスゴー大学に関するデクソン氏の本を汽車の中で読もうと持って行ったのだけど、フェノロサ夫人と一緒になったので読む暇はなかった。
 横浜に着くと、歩いてヘップバン邸まで行った。
 夫人は出かけておられたので先生の書斎に坐って、神学の話をしたり、ディクソン氏に読むように云われていた、ケアド博士の『神徳の力』を読んだりした。
 昼食の後すぐ、お祝いの行われる住吉町に行った。
 沢山の人が集まっていた。
 先生は日本語でクリスマスについて短い話をなさり、それから女子部の読み方と訳とを見られた。
 小野氏が小さい子供たちに『小学』を暗唱させて教えていた。
 これは日本の地理や歴史とか、すべてのことについて教義問答のように編纂されたものだ。
 幼い声が一斉に、皇居の名前、天皇の名前、即位の年、日本の年号、日本の役所の名、東京の名所など、そのほか沢山の役に立つことを答えるのを聞いているのはとても面白かった。
 とても感じのよいおあいという少女がクリスマスの賛美歌をオルガンで弾いた。
 外国人女性が幾人もいて、その中になんともひどい日本人の駅逓局官員と結婚した、けれど、とても美しいミセス・高橋もいた。
 勉強は長々と続いたが、ようやく玩具が分配された。
 バラ夫人の生徒たちも含め、子供たちは大喜び。
 嬉しげな顔に目を向けずにはいられなかった。
 余談だけど、おあいが若い士官候補生と上手に気をひきあっているのにも気づいた。
 夜にはあまりに疲れ果て、気が滅入っしまっているところに、ヘップバン夫人がいらしてこう云った。
「いつもの美しいスコットランド民謡をお歌いなさい」
 その通り、歌っているうちに疲れも忘れてしまった。
 最後には夫人が寝床に連れて行って下さったのだけど、私は寝言を云って笑っていたそうだ。
 ヘップバン夫人は、女子のクラスを上野博物館に連れていらっしゃるので、十二時の汽車で一緒に東京に戻った。
 家に着いてみると、何も準備ができていなかったので、思わず肩を落としてしまった。
 植木屋に部屋の飾りつけをし、ベイリー家の使用人と田中にも手伝いをするように云っておいたのに、一人として来ていなかったのだ。
 だが帰って十五分もしないうちに全員現れ、すぐ綺麗になった。
 赤い柊の実の沢山ついた常緑樹の飾り物を至るところに置いた。
 教会の飾りつけの手伝いに、芝まで行った。
 できあがりは素晴らしく、内陣は緑に埋まるようで、天井からは赤い実のついた花輪や薄緑の宿り木がぶら下がっていた。
 私は三位一体のシンボルをいくつか拵え、花輪の手伝いをし、日曜学校の部屋でショー夫妻やミス・ホアと一緒にお茶を飲んだ。
 今夜はクーパー氏がお茶にみえ、その後クリスマス・イブ礼拝にご一緒した。

 美しい月光の下、ひきしまるような冬の空気の中を気持ちよく歩いた。
 少し遅かったので、私は母とクーパー氏との間に座った。
 ジェイミーは聖歌隊に、ディクソン氏は一人で反対側の席にいて、一生懸命歌っていた。
 が、突然振り返って、クーパー氏が私と同じ本を一緒に使っているのを見た。
 と、途端に顔色を変えて歌うのをやめてしまった。
 そして母もこれに気づいた。
 明らかに気に入らなかったのだ。
 ディクソン氏は礼拝が終わると急いで出て行ってしまったが、交差点で一緒になった。
 丁度反対側の方に行こうとしていたところだったけれど、クーパー氏が「一緒に行こう」 と云うと、ディクソン氏は「愛宕山で祭りがあるから行きませんか」と聞いた。
 というわけで、みんなそちらの方へ向かうこととなった。
 私は背の高いディクソン氏とアンガス氏との間をトコトコ歩いた。一寸法師みたいな気分だ。
 ディクソン氏は人ごみをかき分けて右、左とあきを作ってくれるので、腕につかまっていると、とても安心できた。
 山の頂上に登ると、月光下の東京の眺めは素晴らしいものだった。
 すると突然群衆が分かれ、ジェイミーが外套とトルコ帽を被って出てきた。
「!」
 お兄さんが女性と腕を組んでいる珍しい光景に驚いたようだが、私たちの方も驚いた。
 異常がないと分かると、ジェイミーは他の人たちと一緒に戻った。
 私たちは楽しく歩いて帰った。
 男の方たちは送って下さったが、私たちの前を酔っぱらったサムライが、一生懸命まっすぐに歩こうとしているのを目の当たりにすることになった。
「この男の連れと思われたら恥ずかしい」
 ディクソン氏がそう云うので、私はこんな提案をした。
「それでは、この“殿様”の家来のふりをしてみたらどうでしよう?」
 というわけで、ディクソン氏は酔っぱらい殿様の一番家老のふりをして先をあるいた。
 赤坂門に行く道のところで、この殿様がヨタヨタと曲がったので「面舵っ!」とか「おーい、その船よー!」などとかけ声をかけて笑った。
 ようやく我が家に辿り着くと、門のところでショールや祈祷書を受け取った。
「おやすみなさい。クリスマスおめでとう」
 アンガス氏とアレグザンダー氏は明朝早く熱海に発つので寮に戻り、ディクソン氏、クーパー氏、ジェイミー諸氏はカトリックの荘厳ミサを見に行った。
 素晴らしいクリスマス・イブだった。
 キャロルはとてもうまくいったと思う。

明治12年12月25日 木曜  
 クリスマスおめでとう。
 今朝は早くから家中のものが起きて、おめでとうと挨拶し、朝食が終わると、今晩のおもてなしの料理にかかった。
 十一時に芝に出かけ、クリスマス礼拝に間に合った。
 礼拝者は多くなく、いつものメンバーの他、ジェイミーがホートン夫人と坐っているのが見えた。
 ディクソン氏は遅れてきて、私たちのうしろに坐った。
 ディクソン氏は私たちと一緒に聖餐式に残ったが、ウィリィとジェイミーは出て行った。
 ジェイミーはまた瀬戸物屋に寄ったのだ。
 お客がみえ始め、ディクソン氏は挨拶をしたり、珍しい立体写真鏡を見せてあげたりした。
 ジェイミーは綺麗な女の人が来ると、一々名前を聞き、羽根つきをして愛想を振りまいたり、子供たちと遊んだりして、田安公の到着を待った。
 徳川の若様は四人の家来と一緒に客間を謁見の間になさった。
 乳母たちは別の室に、小さい子供たちは真ん中の部屋に、もう少し大きい子供達は食堂に入れた。
 ディクソン氏はその光景をとても面白がった。
 それぞれの部屋に行くたびに戻ってきては「これは面白い」と囁いた。
 全部の人が集まると、ディクソン氏は世界中のクリスマスツリーの下で語られているクリスマスの話を手短に話し、東京大学の学生の森田が訳した。
 それから生徒たちがキャロルを歌いツリーに火を灯し、贈り物が分配された。
「オルガンのそばにきて弾いて欲しい」
 内田夫人のおば様がそう云われたので、私がオルガンを弾いた。
 おば様は耳がとても遠いので、坐ってオルガンに耳をつけ一心に聞いておられた。
「真の神の子の誕生を祝う歌ですよ」
 そう説明してあげたら、祈るように手を組み、深く頭を垂れた。
 夢さんはクリスマスの意義をおぱ様にすっかり教えてあげたそうだ。
 次にジェイミニーに頼むと、スコットランド民謡で一番美しい「アニー・ローリー」を歌うからそう伝えて欲しいと云った。
 歌い終えると、おば様はこう云われた。
「アリガトウ。耳が遠いのですが、今晩は聞こえて大変うれしゅうございます。
 この歌は前に聞いたことはないが大好きです」
 それからケーキを貰って、とても喜ばれた。
 今宵のゲーム係はジェイミーで、みんなを楽しませた。
 初めは椅子取りゲームをして遊んていた。
 が、若殿様に気を遣って本当の盛り上がりにはならなかった。
 私たちは兎も角、日本人としては流石に徳川の若殿様を椅子から蹴落とすわけにはいかないから仕方ないことだろう。
 次に動物園ゲームで、ジェイミーは屏風と敷物で囲いを作った中に鏡を置き「何でも見たい動物を見せましょう」と云った。
 みんなが「だまされ」て、とても面白がっているのを見るのは楽しかった。
 馬、猫、獅子、狼、狐、蛇などいろいろ見たいものが出たが、武夫は大胆に「人間が見たい」と云った。
 田安公は獅子が見たいとおっしゃり、お付きの者は猫と云った。
 これが終わるとジェイミーは森田を連れて行った。
 敷物で森田をすっかり包み、頭に新聞紙をかぶせ、目だけ残した。
 それからみんなが呼び入れられ、目だけ見て誰かを当てるようにと云った。
 無論成功しなかった。
 グルグル巻きの格好といったらなく、武夫はじっと眺めてからこう囁いた。
「ウ、ウゴキマスヨ、コイツ!」
 とうとう紙が取られ、森田は「ヤーヤー」といって飛び出して、一同を驚かせた。
 十時に皆、お礼を云って帰っていった。
 それから係の者は疲れ切って軽い夕食を取った。
「まるで結婚式の後のようだ」と云ったのはジェイミー。
 でも、とにかく楽しいクリスマスだったと思う。

【クララの明治日記  超訳版解説第103回】
「今回は現在から約百三十年前のクリスマスの模様をお送りしましたけれど、今回は今までになく“欧米風”のクリスマスの光景だった気が致しますわね。
 日本人のゲストが少なかったせいかしら?」
「確かに、日記の記述で読む限り、今回の日本人ゲストは、勝家の関係者と若き田安公くらいだものね。
 私も多分この場にいたんだろうけど、出番はないし。
 あ、ちなみに、この若き“田安公”というのは、以前クララの家に遊びに来て、この当時だとイギリス留学している徳川家達公の実の弟である徳川達孝様のこと……だと思う、年格好的に。
 この年十四歳の筈だから“若殿”というのに丁度ピッタリだし。
 ちなみにこの方、後に大正天皇の侍従長にもなるんだけど……銀行の倒産に巻き込まれて莫大な借金を負って、家屋敷を手放してお兄さんの家に転がり込む始末。
 それでも足りずに家宝の大部分を“売り立て”して、なんとか借金を返したみたい。
 現在出回っている“徳川家売り立ての骨董品”というのは、ここから結構出てるんだって。
 いやー“人生の椅子取りゲーム”で“弾き出される”とこんな感じになっちゃうんだね、本当に」
「皮肉が効きすぎているから、そこらでおやめなさい、お逸。
 御本人が浪費して家を食い潰したわけではないのでしょうから」
「……はい、今のはちょっと反省。丁度日記に椅子取りゲームの話があったから、つい。
しかし徳川家一門の家でも破産するんだね、本当に」
「そういう貴女の家も、お父様が亡くなられた以降、特に第二次大戦後などは悲惨なことになったそうではないの」
「や、うちの父様、世間一般には“慶喜公の実子を養子に貰い、徳川家の家臣としての努めを全うした”と思われてるみたいだけど、よくよく考察すると、どうやら本当に家を潰す気、満々だったみたいだよ。
 小鹿兄様が早くに亡くなられた後は、本当に家の存続なんてどうでも良かったみたい。
 この辺は後に改めて解説で取り上げる予定だけど。
 現にクララなんか父様が亡くなられる前から“俺が死んだら子供を連れてアメリカに帰っていい”みたいに云われていたみたいだしね。
 ま、こっちは我が弟、梅太郎の出来の悪さもあってのことだと思うけどさ」
「本当に勝海舟という方は“複雑な方”だったようですわね」
「……実の父親ながら、屈折していたというか、少々倒錯していたというか……その辺は否定はしないわよ、うん。
 私の娘二人が父様の最晩年、というか父様が亡くなるその日まで勝の家から学校に通っていたからその証言があるんだけど“ただの一度も頭の一つ撫でて貰ったことない”だって」
「それは、それは……」
「逆に評価鰻登りは、たみ義母様ね。父様自身が云ってるけど、この人が男性だったら、さぞ優秀かつ人望のある政治家になったんじゃないかって。
 今日残された資料から見ても確かにそれも満更誇張じゃないって思うわよ。
 クララが母親であるアンナ先生を亡くした時、たみ義母様がクララにかけた言葉なんて涙なしでは読めないし」
「……そんな方に、最後の最後に“勝と同じ墓には入りたくない”と云われたのだから、やっぱり貴女のお父様“困った方”であったことは間違いないのでしょうね。
 さて、最後に次回予告。クララ、ひとまず最後となる日本の年末の様子を……というところなのですが、大火が発生。大騒ぎとなります」
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