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恋路を辿る
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目が醒めたら部屋はとっぷりと暮れていて、カーテンの隙間から差し込んでいる月の光が照らす青白い横顔が夢のように煌めいていた。抱き込まれた耳が胸に当たって、今を生きている音がする。手を伸ばして頬に触れ、温もりが指先からキラキラと光の粒子になって飛び散っていくのを見てようやく安心した。
俺だけがこの男に触れられる、という特権は恋人なんて名称のあやふやで曖昧なバランスの上に成り立っていたのに、今は運命が強烈な力で後押しをしている。ふわふわと周囲を漂う温もりに包まれて目を閉じれば、目蓋の裏すらもまだ明るく照らしてくれる優しい光たち。これまで苦しんできた分を癒そうとしてくれているのか、ただ触れているだけで身体の奥底から尽きない泉が湧いてくる。それが少しずつ血脈にのって爪の先まで満たしていく速度で、蛹が羽化するように頚椎の辺りから羽根が世界との境界線を突き破ってぶわりと立ち上がる。花が、咲き誇る。
頬に温度のない手が添えられて、軽く引き寄せられた。きゅっと首が伸びて顎が上を向き、しっとりと重なり合う口唇の潤いを離したくないと何度もつかず離れず行った来たりする甘さが、じんわりと胸に沁み込んでいく。じゅわりと濡れそぼっていく。花芯から幾つも幾つも浮かび上がってくる甘露が花びらの上を滑って拡がっていく。上がる呼吸の合間に送り込まれる吐息が、伏せられた睫毛の落とす影が、この美しい男を構成する全ての要素が、俺のモノであることを身体で知る。世界が色を変える。
無我夢中で求めているうちに、閉じた視界の隅が明滅を始めた。
左手首のブレスレットがチカチカと点灯している。狭い部屋のどこかで羽音のように振動を繰り返す携帯。現実世界に侵食されてスッと冷めていく意識を引き戻す熱い舌が不安を絡め取っていく。水音が耳を濡らす。ぎゅっと力を込められて逃げられない。息よりも数段、胸が苦しい。
ブレスレットから盛大なビープ音が鳴り響いた。さすがに気がそがれて目を開ければ不機嫌そうに眉を顰める顔に影が射す。それすらも悩まし気に憂いを増幅させて、瞬間、見惚れた。その隙に空気を切り裂くチャイムの音。
溜め息を振り切るように立ち上がる。暗い部屋の中で月明かりだけを頼りに手探りで壁に辿り着き、備え付けのドアホンに目を凝らした後で、影が形作る見覚えのあるフォルムにもう一度溜め息を吐いた。
ドアを開ければ普段よりも幾分険しい顔で額にうっすら汗を浮かべた管理官が、背後に数人の同僚らしき同じ制服を纏った人間たちを引き連れて立っていた。
「何かっ、っ、異変でもっ、」
とる物もとりあえず急行してくれたのだろうか。その気遣いは有難くはあるのだが、真相は話しづらい。いや、あの、と言い淀む俺の後ろから音もなく現れた男がスっと俺を庇うように前に立つ。狭い玄関でぶつかりそうな位置、ちょうど鼻先に後頭部が当たりそうになる。
「邪魔、しないでもらえますか」
隠そうともしない腹立たしさが滲み出た声だったが、俺以外の人間には感じ取れない程度の振れ幅だった。背後からは窺い知れない表情も俺には手に取るように分かる。
「あなた方は俺たちがセックスする度にそうやって駆けつけてくるつもりですか」
「は?」「バッ…カ、お前っ」
「だから。邪魔しないでくださいと云いました」
しれっと言い放つ背中をぎゅっと指先だけで引き止める。人前で何を言い出すんだという気持ち半分、ああやっぱりこういう奴だったよな、と懐かしむ気持ち半分。まるでブランクなんてなかったみたいにあの頃のままの俺たちの関係性が今目の前に展開されているのが擽ったいやら面映ゆいやら。俺より年下の癖に、俺より美人の癖に、俺より華奢な癖に、誰よりもカッコいい、俺の男がいた。
「…あなた方の性生活に興味はありませんが?」
「コレのリミッターが振り切れる度に押し掛けられたら堪ったもんじゃないんですよ、少なくとも僕は」
「何せ初めての事態でしたので…不躾な行いは謝罪します。ですが万が一の事態を考えれば看過する訳にもいかない事情はご理解ください」
両者一歩も引く気がないのは分かるが、こんな狭い部屋で密集して角突き合わせてする話題じゃない。
「とりあえず今日のところはお引き取りください」
硬い俺の声にわずかに眉を上げると、管理官は明日研究棟に来るようにとだけ告げて帰っていった。とはいえ、きっとスープの冷めない距離で、何かあったら駆けつけられる場所で待機をしているのだろう。つくづくお役所仕事ってやつは大変だ。
帰りしなパッパッと手を前に振る仕草をしてみせる。塩でも撒いてんのか、ホントにいい性格してるなお前。バタリと閉まったドアを不機嫌そうに睨みつけているシャツの背中にシワが寄っていて、ずっと握り締めていたことに漸く気づいた。慌てて離した指先を掴まれて、ぐっと右手が引っ張られた分だけピタリと密着する身体。サラリと真っ直ぐな黒髪が揺れた。
「…はなさないでよ」
消えそうな声。ドアに向かって吐き出されたワガママな本音に刺された。
くるりと身体を回して腕のなかに抱きとめる。
「はなさない、誰にも渡さない」
首筋に顔を埋めて力の限りぎゅうっと抱き締めれば、苦しいよ馬鹿力、なんて悪態を吐きながらも抱き締め返してくれた。
「とりあえず、腹へった」
色気もなにもあったもんじゃない台詞にくすりと笑いながら、その夜は有り合わせのうどんを啜って食べた。粉末スープをぶちこんで、冷凍の牛丼の具をのせただけのシンプル極まりない夕飯は、ここ数年味わったことがないほど旨かった。
俺だけがこの男に触れられる、という特権は恋人なんて名称のあやふやで曖昧なバランスの上に成り立っていたのに、今は運命が強烈な力で後押しをしている。ふわふわと周囲を漂う温もりに包まれて目を閉じれば、目蓋の裏すらもまだ明るく照らしてくれる優しい光たち。これまで苦しんできた分を癒そうとしてくれているのか、ただ触れているだけで身体の奥底から尽きない泉が湧いてくる。それが少しずつ血脈にのって爪の先まで満たしていく速度で、蛹が羽化するように頚椎の辺りから羽根が世界との境界線を突き破ってぶわりと立ち上がる。花が、咲き誇る。
頬に温度のない手が添えられて、軽く引き寄せられた。きゅっと首が伸びて顎が上を向き、しっとりと重なり合う口唇の潤いを離したくないと何度もつかず離れず行った来たりする甘さが、じんわりと胸に沁み込んでいく。じゅわりと濡れそぼっていく。花芯から幾つも幾つも浮かび上がってくる甘露が花びらの上を滑って拡がっていく。上がる呼吸の合間に送り込まれる吐息が、伏せられた睫毛の落とす影が、この美しい男を構成する全ての要素が、俺のモノであることを身体で知る。世界が色を変える。
無我夢中で求めているうちに、閉じた視界の隅が明滅を始めた。
左手首のブレスレットがチカチカと点灯している。狭い部屋のどこかで羽音のように振動を繰り返す携帯。現実世界に侵食されてスッと冷めていく意識を引き戻す熱い舌が不安を絡め取っていく。水音が耳を濡らす。ぎゅっと力を込められて逃げられない。息よりも数段、胸が苦しい。
ブレスレットから盛大なビープ音が鳴り響いた。さすがに気がそがれて目を開ければ不機嫌そうに眉を顰める顔に影が射す。それすらも悩まし気に憂いを増幅させて、瞬間、見惚れた。その隙に空気を切り裂くチャイムの音。
溜め息を振り切るように立ち上がる。暗い部屋の中で月明かりだけを頼りに手探りで壁に辿り着き、備え付けのドアホンに目を凝らした後で、影が形作る見覚えのあるフォルムにもう一度溜め息を吐いた。
ドアを開ければ普段よりも幾分険しい顔で額にうっすら汗を浮かべた管理官が、背後に数人の同僚らしき同じ制服を纏った人間たちを引き連れて立っていた。
「何かっ、っ、異変でもっ、」
とる物もとりあえず急行してくれたのだろうか。その気遣いは有難くはあるのだが、真相は話しづらい。いや、あの、と言い淀む俺の後ろから音もなく現れた男がスっと俺を庇うように前に立つ。狭い玄関でぶつかりそうな位置、ちょうど鼻先に後頭部が当たりそうになる。
「邪魔、しないでもらえますか」
隠そうともしない腹立たしさが滲み出た声だったが、俺以外の人間には感じ取れない程度の振れ幅だった。背後からは窺い知れない表情も俺には手に取るように分かる。
「あなた方は俺たちがセックスする度にそうやって駆けつけてくるつもりですか」
「は?」「バッ…カ、お前っ」
「だから。邪魔しないでくださいと云いました」
しれっと言い放つ背中をぎゅっと指先だけで引き止める。人前で何を言い出すんだという気持ち半分、ああやっぱりこういう奴だったよな、と懐かしむ気持ち半分。まるでブランクなんてなかったみたいにあの頃のままの俺たちの関係性が今目の前に展開されているのが擽ったいやら面映ゆいやら。俺より年下の癖に、俺より美人の癖に、俺より華奢な癖に、誰よりもカッコいい、俺の男がいた。
「…あなた方の性生活に興味はありませんが?」
「コレのリミッターが振り切れる度に押し掛けられたら堪ったもんじゃないんですよ、少なくとも僕は」
「何せ初めての事態でしたので…不躾な行いは謝罪します。ですが万が一の事態を考えれば看過する訳にもいかない事情はご理解ください」
両者一歩も引く気がないのは分かるが、こんな狭い部屋で密集して角突き合わせてする話題じゃない。
「とりあえず今日のところはお引き取りください」
硬い俺の声にわずかに眉を上げると、管理官は明日研究棟に来るようにとだけ告げて帰っていった。とはいえ、きっとスープの冷めない距離で、何かあったら駆けつけられる場所で待機をしているのだろう。つくづくお役所仕事ってやつは大変だ。
帰りしなパッパッと手を前に振る仕草をしてみせる。塩でも撒いてんのか、ホントにいい性格してるなお前。バタリと閉まったドアを不機嫌そうに睨みつけているシャツの背中にシワが寄っていて、ずっと握り締めていたことに漸く気づいた。慌てて離した指先を掴まれて、ぐっと右手が引っ張られた分だけピタリと密着する身体。サラリと真っ直ぐな黒髪が揺れた。
「…はなさないでよ」
消えそうな声。ドアに向かって吐き出されたワガママな本音に刺された。
くるりと身体を回して腕のなかに抱きとめる。
「はなさない、誰にも渡さない」
首筋に顔を埋めて力の限りぎゅうっと抱き締めれば、苦しいよ馬鹿力、なんて悪態を吐きながらも抱き締め返してくれた。
「とりあえず、腹へった」
色気もなにもあったもんじゃない台詞にくすりと笑いながら、その夜は有り合わせのうどんを啜って食べた。粉末スープをぶちこんで、冷凍の牛丼の具をのせただけのシンプル極まりない夕飯は、ここ数年味わったことがないほど旨かった。
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