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CASE 6 山猫亭
【カナリア・肌荒れ】
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6
リリーが二階からアレンジしたスカートを身につけて階段を下りてくる。トントンと弾む足音が響く。楽しげなオレンジ色の気配をまとっている。
「おやおや、可愛くしてもらったねえ」
女将が微笑ましそうに頬に手を当てた。
リリーは一階まで辿り着くとムーンに駆け寄り、少しスカートを摘み上げる。
「ムーンさん、どうですか? カナリアさんに手直ししてもらいました」
喜びと恥じらいが少し入り交じった表情で問う。
ムーンは直立不動のままで「似合ってる」と答えてから、さらにつけ足す。
「君が嬉しそうだと、私も嬉しい」
リリーの頬が薔薇色に染まる。彼が感情を言葉にするのは、とても珍しいこと。それに共感を示すのは初めてかもしれない。
「よかったわね、リリーちゃん」
カナリアが後ろから歩み寄りながら言った。
「そうだ。渡そうと思っていたものがあって……。お礼になるかな」
リリーはバスケットから瓶と薬壺を幾つか取り出し、テーブルに広げた。最初に瓶を指を差す。
「芳香蒸留水。以前、渡したものと使い方は一緒。洗顔した後につけるのがおすすめ」
次に薬壺を説明していく。
「これは、コーンフラワーの美容軟膏。肌が綺麗になるの。こっちは、カナリアさんが手の肌荒れが気になるって言ってたから、ジャーマン・カモミールの軟膏。ラベンダーも入ってるから、いい匂いだよ。二人で使ってね」
女将は薬壺の一つを開け、鼻を近づける。すぐに幸福感に満たされた顔をした。
「あらぁ、いい香り。いつもありがとう。お昼ご飯用意してあげなきゃ」
「やったあ」
カナリアは少量の軟膏を手に取り、肌にすりこませて、指先の匂いを嗅ぐ。
「ほんと……。いい香り。ありがとう、リリーちゃん。皿洗いをしてると、どうしても手が荒れるんだよね」
働き者のカナリアは店で働けば働くほど手がカサカサになるのが悩みだった。客が喜んでいる姿を見れば、働くことは苦にはならなかったが。
「看板娘さんのお役に立てて嬉しい」
三人は料理のレシピや町の人気店など他愛のない会話に花を咲かせる。
「そういえば、今回の市には面白い出店もあるみたいだから、二人で見てきな」という女将の一言で市見物に行くことになり、身支度を始めた。ムーンは鍛冶屋でもらった青地に金の模様が入ったマントを身につける。
カナリアはリリーに「今度、二人が出会ったときのことを教えてね」と、そっと耳打ちをする。途端にリリーはその場で飛び跳ねそうになってから、同じく小さな声で答えた。「うん」
「お腹空いたら、裏口から入っておくれ。店は労働者の男たちでいっぱいになるからね」
リリーとムーンは山猫亭の二人に見送られて市に向かった。
7
市はいつも通り賑やかだった。女将のリヨンが言っていた店はすぐに分かった。一つの店に人だかりができていてる。ときどき、「おー」とか「ああー……」などと様々な感情が入り乱れた声が上がっているから「面白い出店」に違いない。
人垣を作っているのは男が多く、リリーが店を見ようと背伸びしていると、ムーンが脇に手を入れて持ち上げてくれた。
客の一人がナイフを持って離れた場所にある的に狙いを定めている。次に肩を使って前に身体ごと突き出すようにナイフを投げた。ナイフは放物線を描いて的の中心より外側にカッという音を立てて刺さる。観客たちは歓声と共に拍手を送った。店員の中年の男は「惜しいねー」などと言っている。
数名の客を観察して分かったのは、この店はナイフ投げ屋だということ。銅貨五枚で三回挑戦できる。一回でも的の中心に当たれば景品がもらえるらしい。店が盛り上がっているのは、景品目当てというより力試しとしてらしい。
「さあ、次の挑戦者はいないか??」
観客たちは困り笑いを浮かべている。どうやら、ナイフ投げは難しいらしい。成功者が出ていないようで、誰もが怖気ついている。リリーが見た中でも、的に当てられるのは上手な方で、明後日の方向へ飛んでいったり、的まで届かなかったりする。
「景品はこれだよ! 珍しいフルーツ盛り合わせ」
店主が発破をかけるためにカゴに入った景品を持ち上げた。
「あ、あれは?!」
カゴに入っていたのは、レモン、オレンジ、マンゴーなどの温暖な気候でないと育て難い果物だった。だから、国内で出回っても輸入物で割高になる。
「レモンは壊血病、オレンジは不眠症、マンゴーは便秘に効果が……!」
並外れた反応を見せるリリーをムーンは地面に下ろした。リリーの手はぷるぷると震えている。
「景品が欲しいのか?」
「は、はい……。あれだけのフルーツは、銀貨一枚では買えません。でも、ナイフ投げじゃ……」
リリーの言葉は最後まで続かなかった。ムーンが即座に手を挙げたからだ。
「次は、私がやろう」
観客たちは人垣の一番後ろに立っていたムーンを見るために振り返り、その出で立ちに困惑する。なぜ大道芸人が、と言いたげだった。
「おう! かっこいいね、兄ちゃん! 前に来な」
店員は上機嫌に呼びかける。自然に観客の輪に通り道が開く。
リリーは突然の状況に驚きながらも、銅貨五枚を財布から引っ張り出し、ムーンの手に渡した。
「あの……無理しないで下さい」
「大丈夫だ。やったことはないと思うが、金は無駄にしない」
信じられない言葉にリリーが目を丸くしている間に、ムーンは店の前へと堂々と歩いていった。
店員は新たな客を手ぐすねを引いて待ち構えていた。三本の両刃の短剣を扇のように広げてムーンに見せつける。
「ルールは簡単。このナイフを三回投げて、一発でも的の真ん中に刺さればお客さんの勝ち。当たっただけじゃダメだよ。ちゃんと刺さらないと」
ムーンはナイフを受け取り、丹念に見つめる。自分の剣は長年使ってきたので、もはや手足のように動く。ナイフ投げをした記憶はない。何人かの挑戦者を観察したところ、腕の一部のような投げ方をしていた。投げる瞬間は切り離すイメージだ。
店員に言われたとおりに地面に書いてある線の前に立つ。的を正面に見据える。ムーンは空気の動きや温度、すべてのものを正確に読むことができる。一度だけナイフを持たずに投げる真似をして感覚を捉えた。前の挑戦者たちから得た情報を総合して考慮し、手の位置や角度を決める。次の瞬間――間を置かずに三本のナイフが手から放たれる――。
観客はムーンの投擲を目で追えなかった。気がついたときには、的で「カカカッ」という音がした。遅れて視線を動かすと、三本ともど真ん中に命中している。水を打ったように静かになり、それから拍手の嵐が巻き起こった。
「兄ちゃんスゲー!!」
「かっけー!」
「惚れる!」
大歓声にもムーンは調子づくことはなく、呆然とする店員からフルーツを受け取り、リリーの元に戻ってきた。
「あ、ありがとう! ムーンさん!」
リリーはナイフ投げの衝撃からの硬直が溶けてフルーツの大きなカゴを両手で抱えた。
ムーンは観客たちには見向きもせず、投擲の動きを繰り返し、「なるほど」と呟いた。
「狩りのコツが掴めたかもしれない」
8
結局、大きすぎる景品はムーンが運ぶことになり、あちらこちらの店を回った。リリーははち切れんばかりの笑顔で道を歩いていく。
「今日は嬉しいことがいっぱいです!」
「よかったな。いつもは忙しい。しっかり気分転換するんだ」
「はいっ」
細い脇道の前を通りかかったとき、突然リリーの腕が引っ張られた。
「えっ?!」
脇道へ強引に引っ張られていく。
ムーンはその後を急ぐことはなく、冷静についていった。脇道に誰かいることには気がついていた。悪意というものはまるで感じない。むしろ――。
リリーはさらに角を曲がった暗がりまで腕を引かれた。通りから死角になる場所だ。そこでようやく手が離れた。
「君は……」
サスペンダーで吊ったズボンにシャツ、キャップを目深に被った十歳前後の少年。衣服はどれも擦り切れている。その姿に見覚えがあった。以前、低所得者街で寄付したときにリリーをスッた子どもだ。
「ウィル。出店で目立ってただろ? オレのところまで聞こえたんだ。騒ぎだって憲兵が来るかもしんねえ」
喋りづらそうに視線を外すウィルに、リリーは腰を屈めて目の高さを合わせる。
「ありがとう。見つかったら、厄介なことになってたかもしれないの」
ウィルは驚いた顔をして帽子のツバを下げる。
「別に……」
少し言い淀んでから、言葉をつけ足す。
「あ……いや、前に会ったときは悪かった……。オレ、勘違いしてた。施療院に寄付しに行く奴なんて金持ちだと決めつけてて……盗ってもいいんだって思ってた。ちゃんと姉ちゃんの格好を見れば分かんのに。オレなんかの手当てをしてくれて……。ちゃんと詫びも礼も言えなかった。あのときは……ほんとうにごめんなさい」
頭を深く下げるウィルの帽子に優しく手が置かれる。
「謝ってくれてありがとう。あとから謝るなんて勇気がいるのに……。わたしたちを助けてもくれて。ウィルは恩人だよ。でも、お金持ち相手でも盗んじゃダメだからね。施療院の人と相談して敷地内で食べられる野草を育ててもらおうとしているの、それまで待っててね」
ウィルの生意気そうな顔に光が灯る。スリをしたときの表情ではなく、子どもらしいあどけなさがある。
リリーの発言はその場限りのものではなく本当のことだった。空いている敷地内で育てる許可は既にもらっているが、植物の選定で難航していた。植物には似たものが沢山ある。その中には毒草も混じっている。育てているうちに何かの原因で毒草が並んで生えたら、気づかずに食べてしまうだろう。最悪の状況を考え、リリーは今まで野草を食す方法を教えてこなかった。師である父親から学んだときに、植物の扱いが難しいことは身に染みているからだ。
「ありがとう、姉ちゃん!」
無邪気な子どもの笑顔に、リリーは改めて計画に力を入れなくてはと思った。
ウィルはリリーの後ろにいるムーンに怯えながら一つ忠告をした。
「あのさ……。最近になって、その甲冑の兄ちゃんのことを聞き回ってる兵士がいるんだ。森の甲冑なんて噂話だろって誰も本気にしてないんだけどさ。だから、気をつけて」
その発言にリリーとムーンは顔を見合わせる。兵士に知り合いなどいないので、心当たりはない。あるとすれば、森を徘徊していたときに遭遇した兵士か――。ムーンにとって、長い年月の中でそんな者は数え切れないほどいる。
二人はウィルの案内の下、低層街の道を抜けて山猫亭の裏口まで戻った。途中、何人もの低層の住人とすれ違い、ウィルは顔が利くのか、好意的に挨拶されたのだった。
次回→リリーとムーンの休憩時間②
※壊血病→ビタミンC欠乏症
※ウィル→CASE3
リリーが二階からアレンジしたスカートを身につけて階段を下りてくる。トントンと弾む足音が響く。楽しげなオレンジ色の気配をまとっている。
「おやおや、可愛くしてもらったねえ」
女将が微笑ましそうに頬に手を当てた。
リリーは一階まで辿り着くとムーンに駆け寄り、少しスカートを摘み上げる。
「ムーンさん、どうですか? カナリアさんに手直ししてもらいました」
喜びと恥じらいが少し入り交じった表情で問う。
ムーンは直立不動のままで「似合ってる」と答えてから、さらにつけ足す。
「君が嬉しそうだと、私も嬉しい」
リリーの頬が薔薇色に染まる。彼が感情を言葉にするのは、とても珍しいこと。それに共感を示すのは初めてかもしれない。
「よかったわね、リリーちゃん」
カナリアが後ろから歩み寄りながら言った。
「そうだ。渡そうと思っていたものがあって……。お礼になるかな」
リリーはバスケットから瓶と薬壺を幾つか取り出し、テーブルに広げた。最初に瓶を指を差す。
「芳香蒸留水。以前、渡したものと使い方は一緒。洗顔した後につけるのがおすすめ」
次に薬壺を説明していく。
「これは、コーンフラワーの美容軟膏。肌が綺麗になるの。こっちは、カナリアさんが手の肌荒れが気になるって言ってたから、ジャーマン・カモミールの軟膏。ラベンダーも入ってるから、いい匂いだよ。二人で使ってね」
女将は薬壺の一つを開け、鼻を近づける。すぐに幸福感に満たされた顔をした。
「あらぁ、いい香り。いつもありがとう。お昼ご飯用意してあげなきゃ」
「やったあ」
カナリアは少量の軟膏を手に取り、肌にすりこませて、指先の匂いを嗅ぐ。
「ほんと……。いい香り。ありがとう、リリーちゃん。皿洗いをしてると、どうしても手が荒れるんだよね」
働き者のカナリアは店で働けば働くほど手がカサカサになるのが悩みだった。客が喜んでいる姿を見れば、働くことは苦にはならなかったが。
「看板娘さんのお役に立てて嬉しい」
三人は料理のレシピや町の人気店など他愛のない会話に花を咲かせる。
「そういえば、今回の市には面白い出店もあるみたいだから、二人で見てきな」という女将の一言で市見物に行くことになり、身支度を始めた。ムーンは鍛冶屋でもらった青地に金の模様が入ったマントを身につける。
カナリアはリリーに「今度、二人が出会ったときのことを教えてね」と、そっと耳打ちをする。途端にリリーはその場で飛び跳ねそうになってから、同じく小さな声で答えた。「うん」
「お腹空いたら、裏口から入っておくれ。店は労働者の男たちでいっぱいになるからね」
リリーとムーンは山猫亭の二人に見送られて市に向かった。
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市はいつも通り賑やかだった。女将のリヨンが言っていた店はすぐに分かった。一つの店に人だかりができていてる。ときどき、「おー」とか「ああー……」などと様々な感情が入り乱れた声が上がっているから「面白い出店」に違いない。
人垣を作っているのは男が多く、リリーが店を見ようと背伸びしていると、ムーンが脇に手を入れて持ち上げてくれた。
客の一人がナイフを持って離れた場所にある的に狙いを定めている。次に肩を使って前に身体ごと突き出すようにナイフを投げた。ナイフは放物線を描いて的の中心より外側にカッという音を立てて刺さる。観客たちは歓声と共に拍手を送った。店員の中年の男は「惜しいねー」などと言っている。
数名の客を観察して分かったのは、この店はナイフ投げ屋だということ。銅貨五枚で三回挑戦できる。一回でも的の中心に当たれば景品がもらえるらしい。店が盛り上がっているのは、景品目当てというより力試しとしてらしい。
「さあ、次の挑戦者はいないか??」
観客たちは困り笑いを浮かべている。どうやら、ナイフ投げは難しいらしい。成功者が出ていないようで、誰もが怖気ついている。リリーが見た中でも、的に当てられるのは上手な方で、明後日の方向へ飛んでいったり、的まで届かなかったりする。
「景品はこれだよ! 珍しいフルーツ盛り合わせ」
店主が発破をかけるためにカゴに入った景品を持ち上げた。
「あ、あれは?!」
カゴに入っていたのは、レモン、オレンジ、マンゴーなどの温暖な気候でないと育て難い果物だった。だから、国内で出回っても輸入物で割高になる。
「レモンは壊血病、オレンジは不眠症、マンゴーは便秘に効果が……!」
並外れた反応を見せるリリーをムーンは地面に下ろした。リリーの手はぷるぷると震えている。
「景品が欲しいのか?」
「は、はい……。あれだけのフルーツは、銀貨一枚では買えません。でも、ナイフ投げじゃ……」
リリーの言葉は最後まで続かなかった。ムーンが即座に手を挙げたからだ。
「次は、私がやろう」
観客たちは人垣の一番後ろに立っていたムーンを見るために振り返り、その出で立ちに困惑する。なぜ大道芸人が、と言いたげだった。
「おう! かっこいいね、兄ちゃん! 前に来な」
店員は上機嫌に呼びかける。自然に観客の輪に通り道が開く。
リリーは突然の状況に驚きながらも、銅貨五枚を財布から引っ張り出し、ムーンの手に渡した。
「あの……無理しないで下さい」
「大丈夫だ。やったことはないと思うが、金は無駄にしない」
信じられない言葉にリリーが目を丸くしている間に、ムーンは店の前へと堂々と歩いていった。
店員は新たな客を手ぐすねを引いて待ち構えていた。三本の両刃の短剣を扇のように広げてムーンに見せつける。
「ルールは簡単。このナイフを三回投げて、一発でも的の真ん中に刺さればお客さんの勝ち。当たっただけじゃダメだよ。ちゃんと刺さらないと」
ムーンはナイフを受け取り、丹念に見つめる。自分の剣は長年使ってきたので、もはや手足のように動く。ナイフ投げをした記憶はない。何人かの挑戦者を観察したところ、腕の一部のような投げ方をしていた。投げる瞬間は切り離すイメージだ。
店員に言われたとおりに地面に書いてある線の前に立つ。的を正面に見据える。ムーンは空気の動きや温度、すべてのものを正確に読むことができる。一度だけナイフを持たずに投げる真似をして感覚を捉えた。前の挑戦者たちから得た情報を総合して考慮し、手の位置や角度を決める。次の瞬間――間を置かずに三本のナイフが手から放たれる――。
観客はムーンの投擲を目で追えなかった。気がついたときには、的で「カカカッ」という音がした。遅れて視線を動かすと、三本ともど真ん中に命中している。水を打ったように静かになり、それから拍手の嵐が巻き起こった。
「兄ちゃんスゲー!!」
「かっけー!」
「惚れる!」
大歓声にもムーンは調子づくことはなく、呆然とする店員からフルーツを受け取り、リリーの元に戻ってきた。
「あ、ありがとう! ムーンさん!」
リリーはナイフ投げの衝撃からの硬直が溶けてフルーツの大きなカゴを両手で抱えた。
ムーンは観客たちには見向きもせず、投擲の動きを繰り返し、「なるほど」と呟いた。
「狩りのコツが掴めたかもしれない」
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結局、大きすぎる景品はムーンが運ぶことになり、あちらこちらの店を回った。リリーははち切れんばかりの笑顔で道を歩いていく。
「今日は嬉しいことがいっぱいです!」
「よかったな。いつもは忙しい。しっかり気分転換するんだ」
「はいっ」
細い脇道の前を通りかかったとき、突然リリーの腕が引っ張られた。
「えっ?!」
脇道へ強引に引っ張られていく。
ムーンはその後を急ぐことはなく、冷静についていった。脇道に誰かいることには気がついていた。悪意というものはまるで感じない。むしろ――。
リリーはさらに角を曲がった暗がりまで腕を引かれた。通りから死角になる場所だ。そこでようやく手が離れた。
「君は……」
サスペンダーで吊ったズボンにシャツ、キャップを目深に被った十歳前後の少年。衣服はどれも擦り切れている。その姿に見覚えがあった。以前、低所得者街で寄付したときにリリーをスッた子どもだ。
「ウィル。出店で目立ってただろ? オレのところまで聞こえたんだ。騒ぎだって憲兵が来るかもしんねえ」
喋りづらそうに視線を外すウィルに、リリーは腰を屈めて目の高さを合わせる。
「ありがとう。見つかったら、厄介なことになってたかもしれないの」
ウィルは驚いた顔をして帽子のツバを下げる。
「別に……」
少し言い淀んでから、言葉をつけ足す。
「あ……いや、前に会ったときは悪かった……。オレ、勘違いしてた。施療院に寄付しに行く奴なんて金持ちだと決めつけてて……盗ってもいいんだって思ってた。ちゃんと姉ちゃんの格好を見れば分かんのに。オレなんかの手当てをしてくれて……。ちゃんと詫びも礼も言えなかった。あのときは……ほんとうにごめんなさい」
頭を深く下げるウィルの帽子に優しく手が置かれる。
「謝ってくれてありがとう。あとから謝るなんて勇気がいるのに……。わたしたちを助けてもくれて。ウィルは恩人だよ。でも、お金持ち相手でも盗んじゃダメだからね。施療院の人と相談して敷地内で食べられる野草を育ててもらおうとしているの、それまで待っててね」
ウィルの生意気そうな顔に光が灯る。スリをしたときの表情ではなく、子どもらしいあどけなさがある。
リリーの発言はその場限りのものではなく本当のことだった。空いている敷地内で育てる許可は既にもらっているが、植物の選定で難航していた。植物には似たものが沢山ある。その中には毒草も混じっている。育てているうちに何かの原因で毒草が並んで生えたら、気づかずに食べてしまうだろう。最悪の状況を考え、リリーは今まで野草を食す方法を教えてこなかった。師である父親から学んだときに、植物の扱いが難しいことは身に染みているからだ。
「ありがとう、姉ちゃん!」
無邪気な子どもの笑顔に、リリーは改めて計画に力を入れなくてはと思った。
ウィルはリリーの後ろにいるムーンに怯えながら一つ忠告をした。
「あのさ……。最近になって、その甲冑の兄ちゃんのことを聞き回ってる兵士がいるんだ。森の甲冑なんて噂話だろって誰も本気にしてないんだけどさ。だから、気をつけて」
その発言にリリーとムーンは顔を見合わせる。兵士に知り合いなどいないので、心当たりはない。あるとすれば、森を徘徊していたときに遭遇した兵士か――。ムーンにとって、長い年月の中でそんな者は数え切れないほどいる。
二人はウィルの案内の下、低層街の道を抜けて山猫亭の裏口まで戻った。途中、何人もの低層の住人とすれ違い、ウィルは顔が利くのか、好意的に挨拶されたのだった。
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