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西の果ての街
その在り方
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領主であるラケルドが店内に入ると、密やかなざわめきと息を潜めたような静寂、そしてあからさまな警戒を秘めた眼差しと、いぶかしげな視線が降り注いだ。
今、店内にいるのは、そのほとんどが専用宿舎に住んで働いている労働者であり、それにいくばくかの旅行者と街の住人が混ざっている。
住民の多くは領主を知っていたし、労働者の中にも雇い主としての彼を見知っている者はそれなりにいた。
だが、旅行者の殆どは恐らく彼を領主とは知らないだろう。
ただ、その異形に、なんらかの恐れに近い感情を抱いたようではあった。
全体の雰囲気としては肯定的な驚きと、否定的な警戒の二種類のものがせめぎ合う形になっている。
ライカはその空気に少し戸惑いを見せたが、ラケルド本人は全く気にせずに端の方の空いている席へと腰を下ろした。彼は長い間ずっとその姿で生きてきたのだ。今更周囲が異端視しようとどうという事もないのかもしれない。
「あ、いらっしゃいませ! お久しぶりです」
彼らを見て、ミリアムが満面に笑みを浮かべて歩み寄って来た。
彼女の明るい声に、店内の否定的な雰囲気が薄れる。
領主を見知らぬ人も、それが怪しい人物ではないと理解したのだろう。
「やあ、久しぶり、ミリアム。見る度に綺麗になるな」
「やだ、領主様、お世辞が上手いんだから」
その呼び名に、店内に密かな驚きのさざ波が立った。
一方、ライカは領主のそのミリアムへの対応に、この人は祖父と同じタイプの人種かもしれないと、少し親近感を感じる。
人間の常識に疎い為、一番尊敬する祖父が赤裸々にエロい性質であるという事を肯定的に受け止めているのだ。
「ライカ、領主様を案内してくれたのね? でもまだ休憩中でしょう? ここは大丈夫だからまだ休んでいて良いわよ。とりあえず注文の山は抜けたしね」
「あ、はい」
強く後ろ髪を引かれるものを感じながらも、ライカは言われた通り、再び店の外へと出た。
ラケルドはその後姿を目で追いながら微笑んだ。
「あの子が噂のロウスじいさんの孫だな」
「はい。良い子ですよ」
「ちょっと変わった子だと聞いたが」
「この街はちょっと変わった人が多いですからね、丁度いいですわ」
目を丸くするラケルドにミリアムは明るく笑う。
「領主様が一番の変わり者の親玉でしょう?」
どこかで何かを吹き出す音がしたが、それへ注意を向ける事もなく、当人達の会話は至極陽気に続いていた。
「なるほど、そう言われて見ればそうかもしれんな。自分ではそう変わっているつもりはなかったが」
「ここの領主になる時点で十分変わり者ですわ。色々ありましたからね。貴族連中は押し付けあっていたんでしょう?」
「俺だって上手いこと王に押し付けられただけだよ。まぁ俺のような領主で街の皆には申し訳ないとは思っているが」
「いえいえ、気に入らない相手ならとっくに追い出してますよ、この街の人間は」
「ふむ、それは少し気持ちが明るくなる情報だな、助かるよ、ミリアム」
「お褒めいただき光栄ですわ」
「それはこちらの言葉だ、麗しき花の乙女のお褒めをいただき光栄です」
「本当にお世辞が上手いんだから」
「いや、俺は世辞は下手だぞ、本当に」
ライカは先ほどの強い惹きつける力を思ってしばし考えたが、とりあえずこの件はアルファルスに聞いてみるまで分からないだろうと思って、今は据え置く事にした。
店内の様子も気にはなったが、ミリアムに逆らう気持ちにはならない。
なによりミリアムが以前言っていたように領主様がこの店によく来るのなら、今更その事で何か問題が起こる訳でもないだろう。ライカがラケルドの傍にいたいのはライカ自身の身勝手にすぎない。
「だけど、あの時の周囲の人間の様子って」
領主が店内に入った時のざわりとした嫌な気配がライカには気になった。
あれは異形に対する本能的な反発だ。
ライカにもそれはなんとなく分かる。
人間は同じ仲間で群れを作る生き物だ。
そのせいで異物に対する拒絶反応が他の生き物より顕著なのだろうと理解出来る。
「なら、竜族なんか人間には完全な異種の生き物なんだし、竜達を苦しめたっていうあの歴史も、そう考えれば仕方のない事かもしれないんだろうな。だけど、それならなんで魂の伴侶になるような人間が現れるんだろう」
竜達の常識の中で育ったライカからすると、人間という存在はひどく矛盾を抱えているような気がするのだ。
「……分からないや、人間って本当に複雑な生き物だ」
ため息を吐く。
そうしてすぐに自分が変な考え方をしていた事に気付いた。
そう、ライカとて彼らと同じ人間なのだ。
「そういえばこの間、アルファルスが言っていたっけ、竜のように思い、人のように想うって。あの言葉も俺にはまだよく分からないな」
ライカは大きく伸びをすると、懐に入れておいた山ハッカの葉を口に放り込んだ。そのすっきりとした爽やかな香りが気持ちを楽にしてくれる。
そうしてすっきりした所で、畳んでおいたエプロンを再び着けると、店の裏口から中に入った。
「ミリアム、交代するよ」
「分かったわ。それじゃ、これ。領主様にお茶を出して貰える?」
柔らかい花茶独特の香りが立ち上がり、ポットに注がれたばかりのお湯が白い湯気をくゆらせる。
「寒葉を少し入れたんだね?」
「領主様は少し強い香りの方がいいの、それじゃお願いね」
「うん、ゆっくり休んで」
ライカはミリアムを見送って、店内をぐるりと見渡す。
旅行客の親子はもう店を出たようだ。
あの後新たに入った客もいない。
どうやら本当にあの時までが仕事の山場だったのだろう。
「どうぞ、領主さま」
「ああ、すまない」
ふと見ると、彼の皿には豆のスープが僅かに残っていて、それ以外に皿は見当たらないようだ。
「お食事はこれだけですか? なんだかずいぶんお腹が空いていた感じでしたのに、肉料理とかじゃなかったんですね」
「ふふ、実はな、俺は味覚が無いんだ」
「え?」
「だから食感を楽しめる食事が好きでな、ここの豆のスープがお気に入りという訳だ。いつも大盛りにしてもらっているからちゃんと満腹にはなるんだぞ」
「味覚がないってどういう事ですか?」
「うん、まあこの体もそうだが、どうもガキの頃にまともに食ってなかったのが悪かったのか、気付いたらそうなっちまっていたのさ。あちこち流離ってた間に俺と同じような病気の奴は結構見掛けたが、味覚がないのはかなり珍しいみたいだったな」
あまりにもあっさりと言われたのでライカの方もその彼の状態を深刻に受け止めて慰めるという事が出来ない。それはそういう物で問題がないのだとライカは丸々そう理解したのだ。
「そうですか、それがどんな感じなのかちょっと分かりませんが大変ですね」
「まあ俺にも味覚があるってのがどんな感じか良く分からんのでお互いさまだ。そんな具合だから大変という事もないし。だがそうだな、肉は食っていてかなりつまらんのは確かだぞ。ボソボソしていて楽しくない」
「なるほど」
ライカは味覚が無いという状態を想像してみたが、よく分からなかった。
「しかし、鼻はちゃんとしてるんだな、これが。だから茶は好きだ、ハーブを使った料理も楽しいし、そういう物があると知った時は随分感激したもんだ」
言って、ライカが運んで来た茶を一口啜ると、それを楽しむように目を閉じた。
ライカはその満たされた子供のような顔を見て、なぜかほっと心が暖かくなるのを感じる。
こんなにも他人と違う彼が、これまで辿った道が平坦だった訳がない。
しかし、平坦ではなかったからこそ、今の彼が存在するのだろう。
(そうか、俺は、人間を一まとめに考えすぎていたのかもしれない。人間が集団で生きる生き物だからって個体の重要性が薄れる訳ではないんだ)
はみ出さない事だけを考えて来たライカだったが、そうではない生き方も許されるのだと今は思えた。
本人にそんな気持ちは全くないだろうが、ラケルドが身を持って教えてくれたのだ。
(そうだ、それだけじゃない)
ライカが人の生活する場所へ来て、出会った全ての人が、今から思えばそれぞれに違う在り方を示していた。
「色んな人がいるんですね」
「そりゃそうだ、同じ奴ばっかりじゃつまらんだろう」
領主がハハハと歯を見せて笑うのに、ライカも一緒につられるように笑った。
「おーい、ライカ坊、大将とばっかり話してないでこっちで話そうぜ。俺、ずっと待ってたんだぜ?」
どうやらずっと我慢していたらしい常連客が、反対側の壁席から呼ぶ。
「あ、すいません」
「おお、人気者だな。いっといで、今度また俺の話相手もゆっくりしてくれると嬉しいな」
「俺なんか、まだまだ経験浅くて、ほんの今スタートしたようなもんですから全然話し相手にならないかもしれませんよ」
領主はニヤリと笑って指を一本立てて振って見せた。
「人ってのは話を聞いて貰えるだけでもそりゃ嬉しいもんなんだぞ? その点、お前はとてもいい話し相手になる素養があるさ」
「そうだったら嬉しいです」
ライカはぺこりと礼をして、常連客の元へ向かう。
そういえば、この客は結婚して遠くへ行った娘の話を延々と話すのが好きだった。
ライカはろくに返事をした覚えもないのだが、一度その話を最後まで聞いて以来、この客は何度もここへ来てライカと話したがるようになったのだ。
「聞いてくれよ、ライカ坊。隣のばばぁったらひでぇんだぜ? 俺の顔を見ると飯が不味くなるとか抜かしやがるんだ」
「それはまた酷い言われようですね。何かなさったんですか?」
「いや、何もしてないぞ。一方的に俺の顔が陰気臭いとかなんとかぶつくさ言いやがるんだ」
「それはもしかして心配されているんじゃないんでしょうか?」
「そう思うか?」
ライカは、今初めてこの客の顔をはっきりと見た気がした。
それは皺が多く刻まれた、しかし陽に焼けてまだまだ逞しい顔だ。
「前にお隣のおばあさんの畑に柵を立ててあげた話をされていたじゃないですか、そんな間柄で本気で悪口なんか言いませんよ」
「なるほど、考えてみれば、ばあさん、俺に気があるのかも」
「そ、それはどうだか分かりませんが」
人間もそれぞれに違う顔を持っている。
表面の形にばかり意識を向けて覚えようとしていたから今まで人間の顔を覚えられなかったのだと、ようやくライカは気付いた。
(確かに竜と人間は全く違う部分もあるけど、それでもやっぱり本質に通じ合うものがあるんだ)
ライカは、竜だからとか人間だからとか自分の中におかしな拘りがあった事に思い至る。
「ごっそーさん、これで明日からの仕事もがんばれそうだぜ、しばらくここに帰ってこれないからなぁ」
ライカが相手をしているテーブルの二つ向こうで屈強な労働者の男が食事を終えて席を立つ。
「あ、ありがとうございます。街道作りのお仕事ですか、大変ですね」
それはいつも安い食事を時間を掛けてのんびり食べている男だ。
「ま、な。だがそこの大将が、長く人に感謝されるすんごい仕事なんだぞとかおだてやがるから愚痴もおちおち言えないぜ」
「ちがいねぇ」
ドッと、同じ街道作りの仲間らしき男達から声が飛ぶ。
「何を言う。おだててなんぞおらん、本当の事だ」
「こちとら他人に感謝された事なんぞねぇっての」
ゲラゲラ笑いながら男は出て行き、領主はその背に手を振った。
「あ、ライカ、私も休憩終わったから何か引き継ぎがあったら言って」
「あれ? 早くないですか?」
「早くありません」
ミリアムは独特の柔らかい身ごなしで客のテーブルを回り、帰った客の食器を片付けつつ、残っている客に話しかけながら追加がないか上手に周囲に目を配る。
もうすぐ午後の軽食の波が来る。午前から昼に掛けての食事時程の忙しさはないが、それでもまた飛び回る事になるだろう。
「うむ、もう一度茶を貰おうかな?」
「え? お茶が口から溢れて来ませんか?」
話を聞いていた常連客の言葉に驚いて、ライカは思わず聞き返す。
「なんだ、商売っ気がないな。いいんだよ、さっき時間を掛けて飲んだからもう体に染み込んださ。どうせ家に帰ったって誰もいないんだし」
「はぁ」
「だから、さっきの話のばばぁだがな」
苦笑して、顔を上げると、領主がいつの間にか椅子に掛けたまま寝ているのに気付いた。
そののどかな情景に微笑んで、ふいに、ライカは悟った。
(そうか、俺はここが好きなんだ。まだほんの数日いただけなのに、人間の街が、ここの人達が凄く好きになっていたんだ)
出会った人々が、交わした言葉が、全てが新たな意味を持って心に浮かぶ。
自分の居場所を迷う事も、人であろうとあがく事も必要ない。
ライカは人という型に押し込もうとして揺らいでいた自分という存在を、やっとなんとかそのまま認めることが出来た気がしたのだった。
今、店内にいるのは、そのほとんどが専用宿舎に住んで働いている労働者であり、それにいくばくかの旅行者と街の住人が混ざっている。
住民の多くは領主を知っていたし、労働者の中にも雇い主としての彼を見知っている者はそれなりにいた。
だが、旅行者の殆どは恐らく彼を領主とは知らないだろう。
ただ、その異形に、なんらかの恐れに近い感情を抱いたようではあった。
全体の雰囲気としては肯定的な驚きと、否定的な警戒の二種類のものがせめぎ合う形になっている。
ライカはその空気に少し戸惑いを見せたが、ラケルド本人は全く気にせずに端の方の空いている席へと腰を下ろした。彼は長い間ずっとその姿で生きてきたのだ。今更周囲が異端視しようとどうという事もないのかもしれない。
「あ、いらっしゃいませ! お久しぶりです」
彼らを見て、ミリアムが満面に笑みを浮かべて歩み寄って来た。
彼女の明るい声に、店内の否定的な雰囲気が薄れる。
領主を見知らぬ人も、それが怪しい人物ではないと理解したのだろう。
「やあ、久しぶり、ミリアム。見る度に綺麗になるな」
「やだ、領主様、お世辞が上手いんだから」
その呼び名に、店内に密かな驚きのさざ波が立った。
一方、ライカは領主のそのミリアムへの対応に、この人は祖父と同じタイプの人種かもしれないと、少し親近感を感じる。
人間の常識に疎い為、一番尊敬する祖父が赤裸々にエロい性質であるという事を肯定的に受け止めているのだ。
「ライカ、領主様を案内してくれたのね? でもまだ休憩中でしょう? ここは大丈夫だからまだ休んでいて良いわよ。とりあえず注文の山は抜けたしね」
「あ、はい」
強く後ろ髪を引かれるものを感じながらも、ライカは言われた通り、再び店の外へと出た。
ラケルドはその後姿を目で追いながら微笑んだ。
「あの子が噂のロウスじいさんの孫だな」
「はい。良い子ですよ」
「ちょっと変わった子だと聞いたが」
「この街はちょっと変わった人が多いですからね、丁度いいですわ」
目を丸くするラケルドにミリアムは明るく笑う。
「領主様が一番の変わり者の親玉でしょう?」
どこかで何かを吹き出す音がしたが、それへ注意を向ける事もなく、当人達の会話は至極陽気に続いていた。
「なるほど、そう言われて見ればそうかもしれんな。自分ではそう変わっているつもりはなかったが」
「ここの領主になる時点で十分変わり者ですわ。色々ありましたからね。貴族連中は押し付けあっていたんでしょう?」
「俺だって上手いこと王に押し付けられただけだよ。まぁ俺のような領主で街の皆には申し訳ないとは思っているが」
「いえいえ、気に入らない相手ならとっくに追い出してますよ、この街の人間は」
「ふむ、それは少し気持ちが明るくなる情報だな、助かるよ、ミリアム」
「お褒めいただき光栄ですわ」
「それはこちらの言葉だ、麗しき花の乙女のお褒めをいただき光栄です」
「本当にお世辞が上手いんだから」
「いや、俺は世辞は下手だぞ、本当に」
ライカは先ほどの強い惹きつける力を思ってしばし考えたが、とりあえずこの件はアルファルスに聞いてみるまで分からないだろうと思って、今は据え置く事にした。
店内の様子も気にはなったが、ミリアムに逆らう気持ちにはならない。
なによりミリアムが以前言っていたように領主様がこの店によく来るのなら、今更その事で何か問題が起こる訳でもないだろう。ライカがラケルドの傍にいたいのはライカ自身の身勝手にすぎない。
「だけど、あの時の周囲の人間の様子って」
領主が店内に入った時のざわりとした嫌な気配がライカには気になった。
あれは異形に対する本能的な反発だ。
ライカにもそれはなんとなく分かる。
人間は同じ仲間で群れを作る生き物だ。
そのせいで異物に対する拒絶反応が他の生き物より顕著なのだろうと理解出来る。
「なら、竜族なんか人間には完全な異種の生き物なんだし、竜達を苦しめたっていうあの歴史も、そう考えれば仕方のない事かもしれないんだろうな。だけど、それならなんで魂の伴侶になるような人間が現れるんだろう」
竜達の常識の中で育ったライカからすると、人間という存在はひどく矛盾を抱えているような気がするのだ。
「……分からないや、人間って本当に複雑な生き物だ」
ため息を吐く。
そうしてすぐに自分が変な考え方をしていた事に気付いた。
そう、ライカとて彼らと同じ人間なのだ。
「そういえばこの間、アルファルスが言っていたっけ、竜のように思い、人のように想うって。あの言葉も俺にはまだよく分からないな」
ライカは大きく伸びをすると、懐に入れておいた山ハッカの葉を口に放り込んだ。そのすっきりとした爽やかな香りが気持ちを楽にしてくれる。
そうしてすっきりした所で、畳んでおいたエプロンを再び着けると、店の裏口から中に入った。
「ミリアム、交代するよ」
「分かったわ。それじゃ、これ。領主様にお茶を出して貰える?」
柔らかい花茶独特の香りが立ち上がり、ポットに注がれたばかりのお湯が白い湯気をくゆらせる。
「寒葉を少し入れたんだね?」
「領主様は少し強い香りの方がいいの、それじゃお願いね」
「うん、ゆっくり休んで」
ライカはミリアムを見送って、店内をぐるりと見渡す。
旅行客の親子はもう店を出たようだ。
あの後新たに入った客もいない。
どうやら本当にあの時までが仕事の山場だったのだろう。
「どうぞ、領主さま」
「ああ、すまない」
ふと見ると、彼の皿には豆のスープが僅かに残っていて、それ以外に皿は見当たらないようだ。
「お食事はこれだけですか? なんだかずいぶんお腹が空いていた感じでしたのに、肉料理とかじゃなかったんですね」
「ふふ、実はな、俺は味覚が無いんだ」
「え?」
「だから食感を楽しめる食事が好きでな、ここの豆のスープがお気に入りという訳だ。いつも大盛りにしてもらっているからちゃんと満腹にはなるんだぞ」
「味覚がないってどういう事ですか?」
「うん、まあこの体もそうだが、どうもガキの頃にまともに食ってなかったのが悪かったのか、気付いたらそうなっちまっていたのさ。あちこち流離ってた間に俺と同じような病気の奴は結構見掛けたが、味覚がないのはかなり珍しいみたいだったな」
あまりにもあっさりと言われたのでライカの方もその彼の状態を深刻に受け止めて慰めるという事が出来ない。それはそういう物で問題がないのだとライカは丸々そう理解したのだ。
「そうですか、それがどんな感じなのかちょっと分かりませんが大変ですね」
「まあ俺にも味覚があるってのがどんな感じか良く分からんのでお互いさまだ。そんな具合だから大変という事もないし。だがそうだな、肉は食っていてかなりつまらんのは確かだぞ。ボソボソしていて楽しくない」
「なるほど」
ライカは味覚が無いという状態を想像してみたが、よく分からなかった。
「しかし、鼻はちゃんとしてるんだな、これが。だから茶は好きだ、ハーブを使った料理も楽しいし、そういう物があると知った時は随分感激したもんだ」
言って、ライカが運んで来た茶を一口啜ると、それを楽しむように目を閉じた。
ライカはその満たされた子供のような顔を見て、なぜかほっと心が暖かくなるのを感じる。
こんなにも他人と違う彼が、これまで辿った道が平坦だった訳がない。
しかし、平坦ではなかったからこそ、今の彼が存在するのだろう。
(そうか、俺は、人間を一まとめに考えすぎていたのかもしれない。人間が集団で生きる生き物だからって個体の重要性が薄れる訳ではないんだ)
はみ出さない事だけを考えて来たライカだったが、そうではない生き方も許されるのだと今は思えた。
本人にそんな気持ちは全くないだろうが、ラケルドが身を持って教えてくれたのだ。
(そうだ、それだけじゃない)
ライカが人の生活する場所へ来て、出会った全ての人が、今から思えばそれぞれに違う在り方を示していた。
「色んな人がいるんですね」
「そりゃそうだ、同じ奴ばっかりじゃつまらんだろう」
領主がハハハと歯を見せて笑うのに、ライカも一緒につられるように笑った。
「おーい、ライカ坊、大将とばっかり話してないでこっちで話そうぜ。俺、ずっと待ってたんだぜ?」
どうやらずっと我慢していたらしい常連客が、反対側の壁席から呼ぶ。
「あ、すいません」
「おお、人気者だな。いっといで、今度また俺の話相手もゆっくりしてくれると嬉しいな」
「俺なんか、まだまだ経験浅くて、ほんの今スタートしたようなもんですから全然話し相手にならないかもしれませんよ」
領主はニヤリと笑って指を一本立てて振って見せた。
「人ってのは話を聞いて貰えるだけでもそりゃ嬉しいもんなんだぞ? その点、お前はとてもいい話し相手になる素養があるさ」
「そうだったら嬉しいです」
ライカはぺこりと礼をして、常連客の元へ向かう。
そういえば、この客は結婚して遠くへ行った娘の話を延々と話すのが好きだった。
ライカはろくに返事をした覚えもないのだが、一度その話を最後まで聞いて以来、この客は何度もここへ来てライカと話したがるようになったのだ。
「聞いてくれよ、ライカ坊。隣のばばぁったらひでぇんだぜ? 俺の顔を見ると飯が不味くなるとか抜かしやがるんだ」
「それはまた酷い言われようですね。何かなさったんですか?」
「いや、何もしてないぞ。一方的に俺の顔が陰気臭いとかなんとかぶつくさ言いやがるんだ」
「それはもしかして心配されているんじゃないんでしょうか?」
「そう思うか?」
ライカは、今初めてこの客の顔をはっきりと見た気がした。
それは皺が多く刻まれた、しかし陽に焼けてまだまだ逞しい顔だ。
「前にお隣のおばあさんの畑に柵を立ててあげた話をされていたじゃないですか、そんな間柄で本気で悪口なんか言いませんよ」
「なるほど、考えてみれば、ばあさん、俺に気があるのかも」
「そ、それはどうだか分かりませんが」
人間もそれぞれに違う顔を持っている。
表面の形にばかり意識を向けて覚えようとしていたから今まで人間の顔を覚えられなかったのだと、ようやくライカは気付いた。
(確かに竜と人間は全く違う部分もあるけど、それでもやっぱり本質に通じ合うものがあるんだ)
ライカは、竜だからとか人間だからとか自分の中におかしな拘りがあった事に思い至る。
「ごっそーさん、これで明日からの仕事もがんばれそうだぜ、しばらくここに帰ってこれないからなぁ」
ライカが相手をしているテーブルの二つ向こうで屈強な労働者の男が食事を終えて席を立つ。
「あ、ありがとうございます。街道作りのお仕事ですか、大変ですね」
それはいつも安い食事を時間を掛けてのんびり食べている男だ。
「ま、な。だがそこの大将が、長く人に感謝されるすんごい仕事なんだぞとかおだてやがるから愚痴もおちおち言えないぜ」
「ちがいねぇ」
ドッと、同じ街道作りの仲間らしき男達から声が飛ぶ。
「何を言う。おだててなんぞおらん、本当の事だ」
「こちとら他人に感謝された事なんぞねぇっての」
ゲラゲラ笑いながら男は出て行き、領主はその背に手を振った。
「あ、ライカ、私も休憩終わったから何か引き継ぎがあったら言って」
「あれ? 早くないですか?」
「早くありません」
ミリアムは独特の柔らかい身ごなしで客のテーブルを回り、帰った客の食器を片付けつつ、残っている客に話しかけながら追加がないか上手に周囲に目を配る。
もうすぐ午後の軽食の波が来る。午前から昼に掛けての食事時程の忙しさはないが、それでもまた飛び回る事になるだろう。
「うむ、もう一度茶を貰おうかな?」
「え? お茶が口から溢れて来ませんか?」
話を聞いていた常連客の言葉に驚いて、ライカは思わず聞き返す。
「なんだ、商売っ気がないな。いいんだよ、さっき時間を掛けて飲んだからもう体に染み込んださ。どうせ家に帰ったって誰もいないんだし」
「はぁ」
「だから、さっきの話のばばぁだがな」
苦笑して、顔を上げると、領主がいつの間にか椅子に掛けたまま寝ているのに気付いた。
そののどかな情景に微笑んで、ふいに、ライカは悟った。
(そうか、俺はここが好きなんだ。まだほんの数日いただけなのに、人間の街が、ここの人達が凄く好きになっていたんだ)
出会った人々が、交わした言葉が、全てが新たな意味を持って心に浮かぶ。
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