エンジニア(精製士)の憂鬱

蒼衣翼

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閑話3

天上と地上の間で

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 明るいネオンとその足元にわだかまる闇。
 一ノ宮流は、そんな光と闇の狭間を悠々と、まるで王者のごとく進んだ。
 実際、周囲にはべる着飾った女達や、彼が目前を行き過ぎるのを見送る客引き達のおもねる態度は、彼のこの場所での立場を、君臨する者のそれとしている。

「今日はうちの店の番よね。実は店長がすっごくいいお酒用意してるの。楽しみにしててね」

 まだ若いホステスが、流の腕にそっと手を添え、その若さを前面に出して元気のよいアピールをしてみせた。
 周囲のベテランの夜の女達は、それを内心はどうあれ、表面上はにこやかにやり過ごす。

「先生、うちはゆっくり出来る席をご用意してるから、疲れたらどうぞお寄りになってくださいね」

 若いホステスは、その言葉の中に己に対する揶揄を嗅ぎ取ってムッとするが、さすがにそれなりの店の派遣だけあって、若くとも場をわきまえて突っ掛かったりはしなかった。
 その代わり流の背後で、目線だけは挑むように交わし合う。

「いい酒も雰囲気のある場所も楽しみだが、君達がこうやって生き生きと僕を手玉に取ってくれるのが一番楽しいよ。さて、今日の僕は君達のいい獲物でいられるかな?」

 女性達はやや剣呑な雰囲気になりかけていたお互いの顔を見合わせると、クスクスと笑った。

「先生、あんまり冗談ばっかり言ってると本当に襲っちゃうから」
「それは恐ろしいな。それじゃあ今夜はおとなしくこのハンターに捕まっておくかな? 上手く逃げ出せたら他の罠に掛りに行くかもしれないよ」
「もう。一ノ宮先生ったら」

 さり気なく腕を絡ませた若いホステスは、流に顔を向けるとニコリと笑った。

「それじゃあ私、捕えた魔物に逆に食べてもらおうかな?」

 そのままやや強引に自分の店へと流を引っ張って行く。
 他の女達も、また順番が回ってくれば流が自分の店に来るのはわかっているので、それ程ごねることもなく二人を見送ったのだった。

 ―― ◇ ◇ ◇ ――

「ねっ、良いお酒でしょう? 店長はオーク樽がどうのって言ってたけど、能書きよりも味わいよね」

 流は先程の若い女性から手渡された水割りを口にしていた。
 この店は内装も明るめで若いホステスを揃え、ステージでも元気な出し物が多い。
 基本的に接待や宵の口の飲み始めに来る店だ。
 そのせいか客層も賑やかで、よく言えばフレンドリー、有り体に言えばじっくり腰を据えて飲む雰囲気ではない。
 そして、こういう店ならではの特徴もあった。

「お、一ノ宮さんじゃないですか? 先頃は業務提携で面白い仕事させていただきまして」

 仕事関係の人間がたまたま来合せた体だが、実はこれは店側のセッティングである。
 事前に互いの都合を擦り合わせて、偶然のように気軽な歓談を演出するのだ。
 明るくオーブンなこの店の雰囲気から、密談などの勘ぐりを受ける危険も少ないため、異業種間の顔繋ぎの場としてそれなりに有名な店となっている。
 流の今回の相手は、以前の提携先の開発担当者であった。話は挨拶と顔繋ぎ、それとちょっとした探り合いに終始し、それらはごく短時間で終わる。


「難しいお話はお終い?」

 空気を読んで離れていた担当のホステスがすかさず席を埋める。

「ああ、退屈させて悪かったな。お詫びに何か奢ってあげよう」
「やった! じゃあマルガリータにする」

 ここでドンペリなどと言わないのがこの店らしいが、カクテルと言えども軽くスタンドバーの三倍程の値段はする。
 うっかり新入社員などがホステスに言われるままに一時間も楽しめば、初任給の半分は一晩で使ってしまうだろう。
 実際、流の友人の某技術者は、うっかり一晩でその月の生活費をばら蒔いてしまい、給料日までモヤシご飯だったという悲しい過去があった。
 米の備蓄があって幸いだったと言うより他ない。

「そうそう、ちょっと聞きたいんだが、最近新顔で羽振りのいいやさ男の噂を聞かないか?」

 流はそう言って、ほどほどの金額の折り畳んだ紙幣を自分の空いたグラスの下に挟んで差し出した。
 ホステスの娘はそれを手の中に握り込んで、グラスに新しい氷と酒を注ぐ。

「そうね、かなり派手な人がいるわ。どっかの大会社の社長さんとかじゃないかって噂になってるけど、あれはそういう感じじゃないわね」

 彼女は滔々と語り出した。
 元よりこの店の主力は情報である。
 ここの店員はどれほど脳天気に振る舞おうと、皆、情報収集には長けているのだ。

「ここへも来たということか」
「ええ、でも店の雰囲気が性に合わなかったんでしょうね、落ち着いた店に腰を据えたみたい」
「なるほど」

 この店経由で行くとしたら、系列の会員制のクラブだろうと当たりを付けて、流はホステスの女性へのチップを追加した。

「繋ぎをつけたいならゆかり姉さんが良いと思うな」

 裏付けの後押しをもらい、流は彼女に微笑んだ。

「ありがとう。近いうちにまた寄るよ」

 気前がよく、無理やりなサービスを強いたりせず女当たりがいい上客である流は引きが多い。
 その彼から確約に近い来店の約束を取り付けて、若いホステスは満足そうに笑みを浮かべた。

 ―― ◇ ◇ ◇ ――

 そのビルは、繁華街に在って他の雑居ビルとは違い、外観から特別だった。
 ネオンの類は一切無く、柔らかな間接照明に象牙のような滑らかな姿を浮かび上がらせている。
 一階のフロントには、上品な出で立ちながらいかにも屈強な守衛が待機していて、客のカードを端末で照合し、同時に店に来店の通達が行くといった仕組みになっていた。

「どうぞごゆっくり」

 流は常連だが、ここフロントでは決して名前は呼ばれない。
 入店迄の客のプライバシーを守るためにあえてそうしているのだ。
 入口には監視カメラすら設置してない。
 エレベーターのカードスロットにカードを通し、開いた扉から乗り込んだ流は、直通で店内に到着した。
 扉が開くと出迎えが流れるような所作で荷物を受け取る。

「紫さんをお願い出来るかな?」
「はい、ただいま。お席はいつもの場所でよろしいですか?」
「ああ、構わない」

 窓側のボックス席へと案内されながら、流は店全体の様子がやや浮ついているのを感じ取った。
 奥のカウンターバー風の席に、元来静かなこのクラブには似合わない程の熱気がある。

(図らずもかち合ったか。まあ俺が意図した訳じゃないから仕方あるまい)

 友人の渋い顔を思い浮かべて流はニヤリと笑った。

「まあ、悪いお顔。何を企んでいらっしゃるのかしら?」

 グラスを二つ手にして流の席にやって来たのは、艶やかと言うより理知的と言う表現の似合う女性だった。
 間違いなく美人だが、夜の街よりも明るいオフィスで社長秘書などをしているほうが似合いそうな印象の美女である。
 実際、彼女はこの店のママの右腕と言われており、やり手のアドバイザーでもあると知られていた。

「いや、僕が企む必要もないぐらいに簡単に騙されてくれる友人のことを思い出していただけさ」
「まあ、一ノ宮先生ったら。知っていますよ、噂の、お顔は怖いけど可愛らしい方のことでしょう?」
「君たちの言う可愛らしいは怖いな。うっかり目を付けられたのなら、あいつも気の毒に」
「先生ったら勘ぐりすぎです。ああいう正直な方は私達だって酷いことをしたりはしないものよ。たんとサービスさせていただきますわ」
「なるほど、今度連れて来たら優しくしてやってくれ」
「ええ、心から。それで先生がヤキモチでもお焼きになってくださるならとても嬉しいんですけど」
「おいおい、僕たちの友情を壊すつもりかい?」
「まあ先生ったら、そうやって私がいかにも怖い女のようにおっしゃるんですから」

 店は全体的に照明が抑えられ、暗い店内のそれぞれのテーブルの上に並べられたグラスキャンドルが淡い金色の光を揺らす。
 ビルの八階に位置するこの店の大きな窓から眺めれば、繁華街と夜尚多い車のライト、ビルの屋上ガーデンの灯りが、宝石箱の中のように綺羅びやかに映しだされていた。

「だいぶ向こうが盛り上がっているようだが、あれが噂の御仁かな?」
「先生、うちはお客様の詮索無用って知っているでしょう? でも、確かにどうしたって目に入りますよね。騒がしくってごめんなさい」

 騒がしい程ではないのだが、ゆったりとしたくつろぎ売りにするこの店では異例な程に、その席の周りはざわめいている。

「君が謝ることはないさ。遊びは人それぞれだし、僕は気にしてないよ」
「ふふ、そうやって言われてしまえば何も教えない訳にもいかないとわかってらっしゃるのでしょう? いいわ、他ならぬ先生のお耳に入れるのなら。私共としても日頃のご贔屓にお応えしなければなりませんし」
「おやおや、まるで僕が無理強いしたみたいじゃないか。全く君は話が巧みだな」
「どうぞ言ってらっしゃい。ママに先生に迫られたって言いつけてさしあげるから」
「そういうことなら本当に迫ったほうが僕としては得ってことになるよね?」
「もう」

 ひとしきり笑い交わし、恋人同士のようにひっそりと身を寄せ合って、ゆかりは流の耳に囁く。

「恐ろしい程の魅力の持ち主よ。しかもいったいどんな立場の人なのか全く掴ませないし。うちの目端の利く娘は、もしかしたら伝説のハンターなんじゃない? とか夢みたいなことを言っていたけれど、……実は私は、ちょっとあの人が怖いの」

 言ってそっと目を伏せると、紫はブランデーを口にした。

「怖いもの知らずの君がかい?」
「ええ、そうなの。おかしいでしょう? 私は、とてもあの人の目を覗き込む気にならないのよ。覗き込んだら最後、どこかとても遠い場所に連れて行かれてしまうような、そんな予感がして、とても恐ろしいの。おかしいわよね、気前のいい大事なお客様なのに」
「いや、君の人を見る目は確かだ。僕は自分自身よりも君を信じるよ」
「また、本当にお上手だこと」

 そう言って、より深く身を寄せた紫に、流は微笑み掛けた。……そのはずだった。

「よお、どうやら俺に用があるみたいだから挨拶に来てみたんだが」

 誰もいないフロアの真ん中に立つ男がいる。
 流はその男を一目見て、背筋に電流のような物が流れるのを感じた。
 まさか同性をそう形容することがあろうとは、それまで流は夢にも思わなかったが、実感としてその男は美しかった。
 だが、それは愛でる対象としての美しさではない。
 野生の獣に最高の知性を付与したらこうなるだろうという美しさだった。
 そこにあるのは、その姿を見、言葉を交わした者が虜になるのは仕方がないと思わせる、強烈な魅力である。
 ふと、流が我に返ると、隣にいたはずの紫も、店内の他の人間も姿を消し、今、流はその男と一対一で向かい合っている状況となっていた。

「さて、どんな魔法を使ったのかな?」

 そんな異様な有様に、流は尚不敵に笑ってみせる。
 実は、流は今まで怪異と直接対峙したことがなかった。
 彼の一族は強大な守護を持ち、怪異や悪意持つ者を近寄らせさえしないからだ。
 それらの防壁を易易と無視して、男は流に気づかれもせずにこの場を作ってみせたのである。

「難しく考えることはない。実の所、人は起きていても夢を見ることが出来る。幻想とか幻覚とかいうあれだ。ここはそういう類の場所だ」
「ふん、どうやら貴様、人外の化け物のようだが、この街に何の用だ? 自分の縄張りにズカズカ入り込まれて黙っている程俺も優しくはないぞ」

 流は挑発するように言い放った。
 相手が危険であることは流も百も承知の上だが、こんな場合におとなしく引き下がるような性格をしてはいないのだ。

「ははは、元気がいいな。だが、俺は耳元でうるさく飛ぶ虫はあまり好きでは無い」

 その瞬間、流は自分に向かって何かが放たれたのを感じ取った。
 咄嗟に、ほとんど反射的に魔導者の力をそれに向けて開放する。
 ぴしりと、空間に亀裂が入り、まるで卵の殻がひび割れるようにパリパリと音を立てながら風景が剥がれて行った。

「きゃあ!」

 ドン! と、強い揺れに店内の者達が悲鳴を上げる。

「いやだ、地震? もう、収まったみたいだけど」

 パリンと目前のグラスが割れ、流は血の滴る指を抑えた。

「先生! お怪我をなさったの? 待っててすぐに手当をしますから。あなた! すぐに救急箱を、それからこの席の割れたグラスを片付けさせて頂戴。怪我に気をつけてね」

 寄り添って座っていた紫は、その指を見て自分のハンカチを出してそれで流の指を包み込む。
 そして、矢継ぎ早に店員に指示を飛ばした。

「ガラスが入り込んでいるかもしれません、一応お医者様に診ていただきましょう」
「いや、大したことないよ」

 流は既に我を取り戻し、何事も無かったように肩をすくめてみせた。

「駄目。こういう時は大げさなぐらいが丁度いいの。うちの掛かり付けのお医者様がいらっしゃるからそこに行きましょう、私が付き添います」
「紫さん、救急箱です」

 受け取って、シュッと消毒液を吹き付け、紫は流を伴って席を立つ。
 その頃には店のママも流の席に来ていた。
 上得意が怪我をしたのだ、当然の対応である。

「ママ、後はお願いします」
「ええ、大丈夫心配しないで。先生、この度は申し訳ありませんでした」

 店のママは、流の上衣と荷物を紫に手渡しながら深々と頭を下げた。

「おいおい、自然現象にまで責任を取ってたら身が持たないぞ。気にするな、また寄らせてもらうよ。すまないが、紫さんを借りるね」
「はい、ありがとうございます。紫さん、今日はそのままはけて良いから、先生をよろしくお願いしますね」

 慌ただしく連れられてエレベーターの前まで進み、流はちらりとカウンターバーのほうへと目を向ける。
 しかし、そこには既にあの男の姿は無かった。

 ―― ◇ ◇ ◇ ――

 終天は機嫌良く階段を上っていた。

「なるほど、あの力には覚えがある。確か世界クラスの迷宮の最奥にあった力だな。代を重ねて尚受け継がれるとは、正に生命の神秘だな」

 口元が、笑みの形に歪む。
 キイっと扉を押し開けて、終天は優しい声で告げた。

「ただいま帰ったぞ。ほっとしたか? それともがっかりしたかな?」

 青々とした畳が独特の香りを漂わせる漆喰壁の白い部屋。
 その只中で、一人の少女がパチリと音を立てて花の茎を断っていた。
 終天の声に少女は動作を止めると、手に持つ全てを一時床に置き、すっと立ち上がって自らの主を迎える。

「お帰りなさいませ、ぬし様」
「どうだ? ここは気に入ったか? 天に仰ぐはずの星が地上にある、人間の作り上げた箱庭だ」

 少女は不思議な容貌をしていた。
 淡い、桜色に近い色合いの髪、その目の色も夕焼けのようなオレンジだ。
 彼女はその容貌のせいで、昔は周囲の人間から鬼子と呼ばれ忌まれていたが、今となってはその名も真実となってしまっている。
 額に生えた真珠のような白い角は、人から人外の鬼へと転化した証なのだ。

「私に否やはありませぬ、全ては主さまの思いのままに」

 その儚げな姿のままの魂は周囲の全てを諦めのままに受け入れる。

「ふふ、そなたはい奴だ。白音しらねよ」

 終天は、つっと彼女の顎に手を掛けると、軽く持ち上げて唇を合わせた。

「そなたが愛し、憎みし人の世が終わらんとしているぞ。さて、我が成すことを共に見てみるか? それとも他に望みはあるか?」
「主様の御心のままに」

 白地に薄紅の花片の舞う着物を肩から落とし、少女は笑みも泣きもせずに主を見上げる。
 その心は、ただ静かに積み重なった歳月に埋もれてしまったかのように動かない。

 最も天に近くそれゆえに最も昏い場所で、長い歳月を生きる怪物は静かに笑ったのだった。
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