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陰陽は和合する

変わりゆく日常と鍵を持つ者

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 そこにいたのは、やはりあの変態、郷守正樹さともりまさきである。
 元気は玄関の鍵も窓の鍵も閉めていたはずだった。
 それなのにいきなり自分の部屋に現れたこの男を、なんだかわからない光よりも恐れるべきではないのか? と、冷静な頭の片隅で考える。
 とは言え、現在の元気の意識には冷静な思考能力があまり残ってはいなかった。
 何かわからないものに、自分の身体が常ではない状態にされている恐怖と、むりやりに押し開くように感じさせられている快楽に、混乱状態にある。

「た、たすけて……」

 だからそんな危険人物に思わず助けを求めてしまったのだろう。
 後に冷静になった元気はそう考えた。

「かそけきモノよ、散じよ」

 その声はいっそ優し気だ。
 だが、結果は劇的だった。
 元気の身体にまとわりついていた淡い光の群れは、まさに蜘蛛の子を散らすという言葉の通りにぱっと散る。
 その瞬間、元気の感じていた不本意な快楽は、まるで熱が引くように消えうせた。

「それらは本来は害を成すような存在ではない。単なる残り香、儚きモノに過ぎない。お前が強情を張って、自分の力を制御しないから、そんなモノ達にすら纏いつかれるのだ」
「ふ、ふざけるな!」

 元気は思わず声を荒げてしまう。

「こんな目に遭っているのが僕のせいだって言うのか! 何が何だかわからないうちに変なことに巻き込まれて、だいたい、なんでお前、ここにいるんだよ!」

 元気はやっとそのことの違和感に気づいた。
 この部屋は言うなれば密室だ。
 他人がいきなり現れていい空間ではない。

「お前が助けを求めたからだが。もしかして助けられたくなかったか? あの程度のモノなら一晩快楽を味わったとしてもさほど害にはならないからな。術者のなかにはそういった快楽けらくを求めて、怪しのモノに身を捧げる連中もいる。人では到達出来ない高みまで導いてくれるそうだぞ? まぁ命がけの快楽だが」
「そういう話じゃない!」

 思わず怒鳴った元気だったが、その直後、隣の部屋と繋がっている壁がドン! と、叩かれた。
 このアパートは壁が薄い。
 夜中に騒ぐなということだろう。
 元気は声を潜める。

「玄関も窓も鍵がかかっていたはずだ。どうやって入った?」
「お前の魂には印をつけてある。招きがあれば、幽玄の世界を通っていつでも傍らに駆け付けることは可能だ。もちろん通常のうつつことわりの扉しかない者相手なら難しいが、お前は常に幽玄世界への扉が開いている状態だからな」
「また訳のわからない宗教話かよ。ほんと、いい加減にしろよ」
「いい加減にするのはお前のほうではないか?」

 そう言えばと、いまさらながらに元気は気づいた。
 真っ暗な部屋のはずなのに、この男の顔がなぜかはっきりと見える。
 そんなことを考えているうちに、以前のようにホームレスのような見た目ではなくなり、それなりに整えられた髪と髭によって露わになった、正樹本来の男らしい精悍な顔立ちが、ぐいっと近づいて来た。
 元気は慌てて後ずさる。
 ただ、下半身は布団のなかなので、それほど移動することはかなわない。

(イイ男すぎるだろ! 僕にその格好良さの半分を寄こせ!)

 人は焦るとどうでもいいことを考えてしまうものらしい。
 元気は、ついついそんな思いで正樹を見返した。

「そろそろ理解するべきだ。何も知らずに巫覡ふげきとなってしまったお前を憐れんで、自ら理解し、学ぼうとするのを待っていたが、こうまで世界をかき乱されてはたまらない」
「あくまでも僕が悪いって言うのか!」
「いいとか悪いとか子どものような二元論で理解しようとするな。この世界は善悪では出来ていない。そう在りたい、そう在ろうとする存在が互いに干渉しながら世界を形作っているのだ」
「また訳のわからないことを……」
「本当に?」

 正樹の男らしい引き締まった口元が、自分の言葉を遮って目前で言葉を紡ぐのを、元気は呆けたように見つめる。

「本当に訳がわからないのか? 頭ではなく魂の声に耳を傾けろ。お前は本当はもう気づいているはずだ。気づいていながら、そんなのは嫌だと駄々をこねて逃げ回る。どこからどこまでも、子どものような奴だな」

 辛辣に言われて、元気はグッと唇を噛みしめた。
 あの古木に襲われた不思議な日から自分の世界が変化したことに、元気はもちろん気づいてはいた。
 だが、変化というものは日常を大きく破壊するものだ。
 早々に受け入れられるものではない。
 目を背け続けることが出来るのなら、目を背けて日常を続けたい。
 そう思うことが罪なのか? 元気はそんな理不尽な怒りに駆られる。

 この目前の男は、何度も自分を助けてくれた。
 そのことはわかってはいた。
 だが、元気にとっては彼こそが、変化の象徴だった。
 平凡に、それなりに幸福に日常を生きていきたい。
 そう考える元気にとって、変化はただただ恐怖でしかなかった。

「お前に、何がわかる。出てけ、出てけよ!」

 ドン! と、再び壁が叩かれて、元気はハッと我に返る。
 気づくと暗闇に一人きりの自分がいた。

「おい?」

 呼びかける声に応える者はいない。
 そのことに、微かに寂しさを感じてしまうのは、我がままなのだろうか? と、元気は思う。
 
「なんなんだよ。もう……」

 その夜は、結局朝まで眠れないまま過ごした元気であった。
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