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第一章
3.王子の長い一日
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アリルは小さなイオストレを連れ、森の庵から王宮へと戻った。
自室から両親の居所に向かう。
その途中、城内で多くの者と行き会った。たまたま通り道に居合わせた者たちは皆、王子の姿を見てぎょっと足を止めた。
―――殿下が赤子を伴っておられる。
ダナンの王宮は騒然となった。
無理もない。
二年ほど前、太陽のごとき黄金の髪が輝きを失って以来、アリル王子はどうにもパッとしない境遇にあった。本来なら次代の王として世の乙女たちの憧れの的になるはずが、どこからもそのような話が持ち上がってこない。
それがいきなり、様々な過程をすっ飛ばして『赤子』を背負っているのである。
赤子は大きな目をぱっちりと見開いて、おとなしく背負われている。淡く薄雲のかかる春の空の色だ。
「その子は何者ですか」
と、直接王子に問う者はいない。近づくこともせずにそっと顔を伏せ、彼が通り過ぎた後でひそひそと囁きを交わした。
アリル王子の方も、人々のざわめきに耳を貸すことはなかった。形式としての礼をとる者たちを振り向きもせず、声もかけず、足早に通り抜けてゆく。表情は固い。
その足下には、王子を護衛するかのように、銀灰色のサバ猫がぴったりと付き添っていた。
赤子を背に括りつけたまま、王子は居間ではなく謁見の間で両親と対面した。シャトンは王子の背後に隠れるようにして、お行儀良く座っている。
学者肌で穏やかなダナンの王。
公平で寛大な人格者。
才と人柄を見込まれ、王位継承権を持つ女神の娘を妻とし、民から理想の王として慕われる彼にも苦手な分野があった。
魔法動物である彼女を見るとき、王はいつも畏れと嫌悪が綯い交ぜになったような複雑な顔をする。王の御前にあっては、その目になるべく自分の姿が映らないようにする。それはシャトンの、猫なりの気遣いだった。
王は不可思議な話を好まない。王子の居室と隠者の庵が繋がっているという、その事実も快く思っていない。あの夏の日以来、アリル王子と父王の間にはひんやりとした間隙が生じていた。
「どうやらまた、厄介事に巻き込まれたようだね。我が息子よ」
玉座の前に跪《ひざまず》く息子に、王は柔らかな声で話しかけた。
自分に向けられた父の笑顔。その眼差しに微かな苛立ちが含まれているのを感じて、アリルは粛然と頭を垂れた。
「私の不明ゆえに陛下のお耳を汚しますこと、心よりお詫びいたします」
そう断りを入れた上で、アリルは床石の模様を見つめながら赤子に関わるこれまでの経緯を簡潔に説明した。
「しばしの間、私がこの小さな人間の娘を務めることをお許しください」
父の心中をおもんばかって、『人間の』という部分にことさら力をこめる。もちろん、松ぼっくりと木の実のくだりはざっくりカットだ。
それでもやはり不思議の匂いは隠しきれなかったのだろう。アリルの話を聞き終えた王は、険しい顔をして黙り込んだ。そこからは頑なに口を閉ざしたまま、ひと言も言葉を発することはなかった。
そんな夫に、女神の娘たる女王はちらりと哀れむような視線を走らせた。そうして、冷たい床の上で体を強張らせる息子と小さな従者に向かい、王に代わって告げた。
「いいでしょう。あなたの思うようにおやりなさい」
暗い空気を払う、快活な口調だった。思わず、アリルは顔を上げて母を見た。
「きっと、良い経験になることでしょう」
「ありがとうございます」
アリルは再び深く頭を垂れ、ほっと息を吐いた。その背でイオストレが「あー」と声を上げた。女王はふと顔をほころばせたが、すぐに真顔に戻った。
「ただし、その子を王宮の暮らしに馴染ませてはなりません」
女王は許可を与えるにあたり、続けていくつかの条件を申し渡した。
赤子の縁者を名乗る者が現れたら、必ずその身元を確認すること。
どうしても縁者が見つからなかった場合、養い親にふさわしい者を選ぶこと。
「共に暮らすうちに、情が湧くこともあるでしょう。けれど、その子をあなたの養子にしようなどと考えてはなりません」
「はい」
釘を刺された気分だった。逆説的な考え方になるが、イオストレを自分の養子にすればアリルは楽になれる。養育を他の者に任せ、気まぐれな愛情だけを注ぐこともできる。王子である自分にはそれができる。だが、それは『逃げ』でもある。
この子の落ち着く先が決まるまで、投げ出すことは許さない。
母の言葉はそういう意味だ。
「ですが、あなたひとりで赤子の世話をするのは難しいでしょう。王子としての責務に支障をきたしてもなりません。誰かに手伝わせましょう」
「ありがとうございます」
殊勝な顔で謝辞を述べる息子に、女王は柔らかな笑みを浮かべ
「あなたほどの年齢になれば、子を持つ親となる者も少なくないのですから」
ねえ、と右隣りに座す夫に同意を求めた。
王はその言葉に一瞬ぎくっと身をすくめたようだったが、すぐにぎこちない仕草で頷いた。
「ところで――」
席を辞そうとする王子に、女王が声をかけた。
「その子が左手に握っているものは何かしら」
無造作に背負われた赤子の両手が、おくるみからにょっきりとはみ出している。
その小さな手の中にあるのは一粒の木の実。庵のテーブルに置かれていたものだ。
「ハシバミの実です。気に入ったようで、離そうとしません」
「そう。気に入っているの……」
女王は玉座から立ち上がると、ゆっくりと己が息子の方へと歩み寄った。
「ハシバミの実は知識の実」
そう口ずさみながら赤子の顔を覗き込む。イオストレは物怖じもせず、ダナンで最も高貴な女性の瞳を見つめ返した。
「赤ちゃんは大人が思うよりずっと、いろいろなことを知っているものなのよ」
そう言って、ちょん、と人さし指でパン種のようにふっくらとした頬をつつく。
「ねえ、イオストレ」
きゃきゃっ、とイオストレはくすぐったそうに身を捩り、明るい笑い声を立てた。
イオストレを揺りかごに寝かしつけると、アリルはそのまま床に敷いた絨毯の上に転がった。
(何とかなる、かな)
張り詰めていた気持ちが緩み、代わりにどっと疲れが押し寄せてきた。体が重い。横着をして、このまま朝まで眠ってしまおうと思ったところに、外から激しく扉を叩く音がした。
「兄さま!」
妹のオルフェン王女だ。
起き上がるのも億劫だ。アリルは転がったまま返事をした。
「……どうぞ」
弱々しい兄の声に、オルフェンはそうっと扉を押し開いた。
その目に映ったのは、
赤々と燃える暖炉に照らし出された殺風景な部屋。
真ん中に、赤ん坊の入った揺りかご。
その揺りかごを覗き込む猫。
床の上に長々と伸びた兄。
「なんて格好ですか」
気勢を削がれたオルフェンは、行き倒れのような体勢で寝そべる兄の横に座り込んだ。話したいことがたくさんあったはずなのに、全部頭から飛んでしまった。
顏を上げて、周囲を見渡す。
この部屋はこんなにがらんとしていただろうか。
「模様替えをなさったのですか?」
「ああ。この子がいるから、物は少ない方がいいと思って」
これからアリルの生活は赤ん坊が中心になる。母には、イオストレを王宮の暮らしに馴染ませないよう言われている。
湯を使わせるのもこの部屋で。赤ん坊の洗濯物もここに干すつもりだった。
「お食事は、なさいました?」
オルフェンの問いかけに、
「なんとか……」
溜め息と共に返事が吐き出される。
どうせ、大したものは食べていないのだろう。それでは体力がもたない。
(兄さまのために、お腹に優しい夜食を用意しなくては)
どんなものがいいだろう、と考えながらオルフェンは揺りかごを覗き込んだ。
「この子のミルクは?」
「そっちの方も、なんとか」
女王の手配で、女官が乳の出る女性を連れてきてくれた。城で働いている者らしい。イオストレは柔らかな胸に抱かれ、たっぷりとお乳を飲ませてもらってご機嫌だ。よく眠っている。
「……その揺りかご」
アリルがごろんと寝返りを打った。
「君が使っていたものなんだ」
「そうなんですか?」
オルフェンは思わず兄の方を振り返った。
「うん……」
王子は仰向けになって目を閉じたまま、ぼそぼそと話し続ける。
「君は、とても小さくて。触ると壊れそうな気がして……」
声がだんだん間延びして、小さくなってゆく。今にも眠り込んでしまいそうだ。
「あのとき、もっと一緒に過ごせばよかったな……」
オルフェンは静かに立ち上がった。部屋は薄暗い。今のところ、暖炉のおかげで寒さは感じられないが、このまま兄を床の上に転がしておくわけにはいかない。
自分ひとりでは兄をベッドまで運べない。しかし、人を呼ぶとかえって眠りの邪魔をしてしまいそうだ。あの赤子は、城の者たちの一番の関心の的になっているのだから。
しばし考えた末、足音を忍ばせて隣の寝室から毛布を持ってくると、そっと兄の上にかけた。
アリルがうっすらと目を開いた。
「……明日の朝。目が覚めたら、君に頼みたいことがある」
藍色の目がぼんやりとオルフェンを見上げている。
「聞いてくれる?」
「はい。では、明日」
静かにオルフェンは頷いた。
もう返事はない。眠ってしまったのだろうか。
(兄さま、お疲れさまでした)
去り際に揺りかごの方を見ると、ちょこんと座ったシャトンと目が合った。
銀灰色のサバ猫が音のない声で「にゃあ」と鳴く。
「任せておきな」
と、オルフェンの耳には確かにそう聞こえた。
* * *
――王子殿下が赤子を拾ってきた。
その話はすぐに城の隅々に行き渡った。
そうして宵のうちに城下に広まった。
――王子が城に赤子を連れ帰ってきた。
――拐かしに遭った子を助けたんだと。
――ご自身で育てるらしいよ。
――酔狂なことだ。
――一体、どこの子なんだろうね。
風の足は馬より速い。
二、三日もすれば、噂は王都の外にまで広がるだろう。
本当のことに憶測を付け加えて、少しずつニュアンスを変えながら。
日没と共に閉ざされた城門は、夜明けまで開かれることはない。
夜の帳が空を覆い、おしゃべりな鳥たちも巣の中で眠りにつく。
王子の長い長い一日が終わろうとしていた。
自室から両親の居所に向かう。
その途中、城内で多くの者と行き会った。たまたま通り道に居合わせた者たちは皆、王子の姿を見てぎょっと足を止めた。
―――殿下が赤子を伴っておられる。
ダナンの王宮は騒然となった。
無理もない。
二年ほど前、太陽のごとき黄金の髪が輝きを失って以来、アリル王子はどうにもパッとしない境遇にあった。本来なら次代の王として世の乙女たちの憧れの的になるはずが、どこからもそのような話が持ち上がってこない。
それがいきなり、様々な過程をすっ飛ばして『赤子』を背負っているのである。
赤子は大きな目をぱっちりと見開いて、おとなしく背負われている。淡く薄雲のかかる春の空の色だ。
「その子は何者ですか」
と、直接王子に問う者はいない。近づくこともせずにそっと顔を伏せ、彼が通り過ぎた後でひそひそと囁きを交わした。
アリル王子の方も、人々のざわめきに耳を貸すことはなかった。形式としての礼をとる者たちを振り向きもせず、声もかけず、足早に通り抜けてゆく。表情は固い。
その足下には、王子を護衛するかのように、銀灰色のサバ猫がぴったりと付き添っていた。
赤子を背に括りつけたまま、王子は居間ではなく謁見の間で両親と対面した。シャトンは王子の背後に隠れるようにして、お行儀良く座っている。
学者肌で穏やかなダナンの王。
公平で寛大な人格者。
才と人柄を見込まれ、王位継承権を持つ女神の娘を妻とし、民から理想の王として慕われる彼にも苦手な分野があった。
魔法動物である彼女を見るとき、王はいつも畏れと嫌悪が綯い交ぜになったような複雑な顔をする。王の御前にあっては、その目になるべく自分の姿が映らないようにする。それはシャトンの、猫なりの気遣いだった。
王は不可思議な話を好まない。王子の居室と隠者の庵が繋がっているという、その事実も快く思っていない。あの夏の日以来、アリル王子と父王の間にはひんやりとした間隙が生じていた。
「どうやらまた、厄介事に巻き込まれたようだね。我が息子よ」
玉座の前に跪《ひざまず》く息子に、王は柔らかな声で話しかけた。
自分に向けられた父の笑顔。その眼差しに微かな苛立ちが含まれているのを感じて、アリルは粛然と頭を垂れた。
「私の不明ゆえに陛下のお耳を汚しますこと、心よりお詫びいたします」
そう断りを入れた上で、アリルは床石の模様を見つめながら赤子に関わるこれまでの経緯を簡潔に説明した。
「しばしの間、私がこの小さな人間の娘を務めることをお許しください」
父の心中をおもんばかって、『人間の』という部分にことさら力をこめる。もちろん、松ぼっくりと木の実のくだりはざっくりカットだ。
それでもやはり不思議の匂いは隠しきれなかったのだろう。アリルの話を聞き終えた王は、険しい顔をして黙り込んだ。そこからは頑なに口を閉ざしたまま、ひと言も言葉を発することはなかった。
そんな夫に、女神の娘たる女王はちらりと哀れむような視線を走らせた。そうして、冷たい床の上で体を強張らせる息子と小さな従者に向かい、王に代わって告げた。
「いいでしょう。あなたの思うようにおやりなさい」
暗い空気を払う、快活な口調だった。思わず、アリルは顔を上げて母を見た。
「きっと、良い経験になることでしょう」
「ありがとうございます」
アリルは再び深く頭を垂れ、ほっと息を吐いた。その背でイオストレが「あー」と声を上げた。女王はふと顔をほころばせたが、すぐに真顔に戻った。
「ただし、その子を王宮の暮らしに馴染ませてはなりません」
女王は許可を与えるにあたり、続けていくつかの条件を申し渡した。
赤子の縁者を名乗る者が現れたら、必ずその身元を確認すること。
どうしても縁者が見つからなかった場合、養い親にふさわしい者を選ぶこと。
「共に暮らすうちに、情が湧くこともあるでしょう。けれど、その子をあなたの養子にしようなどと考えてはなりません」
「はい」
釘を刺された気分だった。逆説的な考え方になるが、イオストレを自分の養子にすればアリルは楽になれる。養育を他の者に任せ、気まぐれな愛情だけを注ぐこともできる。王子である自分にはそれができる。だが、それは『逃げ』でもある。
この子の落ち着く先が決まるまで、投げ出すことは許さない。
母の言葉はそういう意味だ。
「ですが、あなたひとりで赤子の世話をするのは難しいでしょう。王子としての責務に支障をきたしてもなりません。誰かに手伝わせましょう」
「ありがとうございます」
殊勝な顔で謝辞を述べる息子に、女王は柔らかな笑みを浮かべ
「あなたほどの年齢になれば、子を持つ親となる者も少なくないのですから」
ねえ、と右隣りに座す夫に同意を求めた。
王はその言葉に一瞬ぎくっと身をすくめたようだったが、すぐにぎこちない仕草で頷いた。
「ところで――」
席を辞そうとする王子に、女王が声をかけた。
「その子が左手に握っているものは何かしら」
無造作に背負われた赤子の両手が、おくるみからにょっきりとはみ出している。
その小さな手の中にあるのは一粒の木の実。庵のテーブルに置かれていたものだ。
「ハシバミの実です。気に入ったようで、離そうとしません」
「そう。気に入っているの……」
女王は玉座から立ち上がると、ゆっくりと己が息子の方へと歩み寄った。
「ハシバミの実は知識の実」
そう口ずさみながら赤子の顔を覗き込む。イオストレは物怖じもせず、ダナンで最も高貴な女性の瞳を見つめ返した。
「赤ちゃんは大人が思うよりずっと、いろいろなことを知っているものなのよ」
そう言って、ちょん、と人さし指でパン種のようにふっくらとした頬をつつく。
「ねえ、イオストレ」
きゃきゃっ、とイオストレはくすぐったそうに身を捩り、明るい笑い声を立てた。
イオストレを揺りかごに寝かしつけると、アリルはそのまま床に敷いた絨毯の上に転がった。
(何とかなる、かな)
張り詰めていた気持ちが緩み、代わりにどっと疲れが押し寄せてきた。体が重い。横着をして、このまま朝まで眠ってしまおうと思ったところに、外から激しく扉を叩く音がした。
「兄さま!」
妹のオルフェン王女だ。
起き上がるのも億劫だ。アリルは転がったまま返事をした。
「……どうぞ」
弱々しい兄の声に、オルフェンはそうっと扉を押し開いた。
その目に映ったのは、
赤々と燃える暖炉に照らし出された殺風景な部屋。
真ん中に、赤ん坊の入った揺りかご。
その揺りかごを覗き込む猫。
床の上に長々と伸びた兄。
「なんて格好ですか」
気勢を削がれたオルフェンは、行き倒れのような体勢で寝そべる兄の横に座り込んだ。話したいことがたくさんあったはずなのに、全部頭から飛んでしまった。
顏を上げて、周囲を見渡す。
この部屋はこんなにがらんとしていただろうか。
「模様替えをなさったのですか?」
「ああ。この子がいるから、物は少ない方がいいと思って」
これからアリルの生活は赤ん坊が中心になる。母には、イオストレを王宮の暮らしに馴染ませないよう言われている。
湯を使わせるのもこの部屋で。赤ん坊の洗濯物もここに干すつもりだった。
「お食事は、なさいました?」
オルフェンの問いかけに、
「なんとか……」
溜め息と共に返事が吐き出される。
どうせ、大したものは食べていないのだろう。それでは体力がもたない。
(兄さまのために、お腹に優しい夜食を用意しなくては)
どんなものがいいだろう、と考えながらオルフェンは揺りかごを覗き込んだ。
「この子のミルクは?」
「そっちの方も、なんとか」
女王の手配で、女官が乳の出る女性を連れてきてくれた。城で働いている者らしい。イオストレは柔らかな胸に抱かれ、たっぷりとお乳を飲ませてもらってご機嫌だ。よく眠っている。
「……その揺りかご」
アリルがごろんと寝返りを打った。
「君が使っていたものなんだ」
「そうなんですか?」
オルフェンは思わず兄の方を振り返った。
「うん……」
王子は仰向けになって目を閉じたまま、ぼそぼそと話し続ける。
「君は、とても小さくて。触ると壊れそうな気がして……」
声がだんだん間延びして、小さくなってゆく。今にも眠り込んでしまいそうだ。
「あのとき、もっと一緒に過ごせばよかったな……」
オルフェンは静かに立ち上がった。部屋は薄暗い。今のところ、暖炉のおかげで寒さは感じられないが、このまま兄を床の上に転がしておくわけにはいかない。
自分ひとりでは兄をベッドまで運べない。しかし、人を呼ぶとかえって眠りの邪魔をしてしまいそうだ。あの赤子は、城の者たちの一番の関心の的になっているのだから。
しばし考えた末、足音を忍ばせて隣の寝室から毛布を持ってくると、そっと兄の上にかけた。
アリルがうっすらと目を開いた。
「……明日の朝。目が覚めたら、君に頼みたいことがある」
藍色の目がぼんやりとオルフェンを見上げている。
「聞いてくれる?」
「はい。では、明日」
静かにオルフェンは頷いた。
もう返事はない。眠ってしまったのだろうか。
(兄さま、お疲れさまでした)
去り際に揺りかごの方を見ると、ちょこんと座ったシャトンと目が合った。
銀灰色のサバ猫が音のない声で「にゃあ」と鳴く。
「任せておきな」
と、オルフェンの耳には確かにそう聞こえた。
* * *
――王子殿下が赤子を拾ってきた。
その話はすぐに城の隅々に行き渡った。
そうして宵のうちに城下に広まった。
――王子が城に赤子を連れ帰ってきた。
――拐かしに遭った子を助けたんだと。
――ご自身で育てるらしいよ。
――酔狂なことだ。
――一体、どこの子なんだろうね。
風の足は馬より速い。
二、三日もすれば、噂は王都の外にまで広がるだろう。
本当のことに憶測を付け加えて、少しずつニュアンスを変えながら。
日没と共に閉ざされた城門は、夜明けまで開かれることはない。
夜の帳が空を覆い、おしゃべりな鳥たちも巣の中で眠りにつく。
王子の長い長い一日が終わろうとしていた。
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