イニス・ダナエの物語

楓屋ナギ

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第一章 

5.噂は大輪の花となって

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 見渡す限り一面の緑が広がっている。なだらかな丘が連なる草原のあちらこちらで、綿雲のような羊たちがもくもくと草をんでいる。牧童の姿はない。赤い犬が二頭、草の中を見え隠れして走り回っている。
 牧草地帯のただ中に伸びる一本の街道。ひとりファリアスを目指すフランの頭上に、ひゅうっと黒い塊が降ってきた。
「よう、赤の魔法使い」
 一羽のワタリガラスが、れ馴れしい口調でフランに話しかける。
「なんだ、カラスのおばば。何か用か」
 肩に止まろうとするカラスをフランは素っ気なく払いのけた。
「ひどいあしらいだこと。せっかく祝いのひとつも言ってやろうと思ったのに」
 カラスはぶつくさ言いつつ、ちゃっかりと赤い頭の上に座り込んだ。
「何か、めでたいことでもあったのか?」
「とぼけるんじゃないよ」
 足場を固めるかのように髪の上で足踏みをしながら、カラスは軽い口調で言った。
「聞いたよ。子ができたんだってね」
「そうか。めでたいな。で、誰に?」
 フランは歩みも止めず、適当な相槌あいづちを打つ。
「何言ってんだい、あんただよ」
 にゅうっと首を伸ばして、カラスがフランの視界をさえぎった。
「たいそう可愛らしい子だそうじゃないか。なんで隠してたんだい。あんたとアタシの間柄で水くさいったら……」
 聞くなり、フランはがしっとカラスの細い両足をつかんだ。
「おい、今なんて言った」
 そのままぶらんと顔の前にぶら下げて問いただす。
「誰に子ができたって?」
「あんたに」
 逆さにぶら下がったまま、カラスが答える。
「誰から聞いた」
「さあ。誰だっけ」
 フランは眉根を寄せて、じっとカラスの黒い顏をめつけた。
「違うのかい?」
 カラスがきょとんと首をかしげる。
 他意は無さそうだ。フランはくるりとカラスをひっくり返して自分の左肩に乗せた。
 街道の真ん中でカラスと話し込むより、風変わりな道連れと思われる方がマシだ。
「その話、詳しく聞かせてもらおうか」
「いいともさ。語ってやろう。吟遊詩人も裸足で逃げ出すような話をさ」
 カラスがつややかな黒い胸を張る。
「……普通でいい」
 真っ直ぐ前を向いて歩きながら、フランはカラスが仕入れてきた噂話に耳を傾けた。

 * * *

 あれは五月の初め。ベルティネの火祭りの夜のことだった。
 赤の魔法使いと呼ばれる男が美しい娘と出会い、恋に落ちた。

「おい、初っぱなから事実無根だ」
「黙ってお聞き」

 一夜限りの恋は燃え上がり、夜が明けると二人は互いの名も知らぬまま別れた。
 それから三月みつきが経ち、娘は自分が赤子を宿したことを知った。
 祭りの授かり子は女神からの授かりもの。決して後ろ指をさされるようなことはない。しかし、相手はそれまで会ったこともない男だ。名も居所も分からない。次に会う約束すら交わさなかった。子ができたことを知らせるすべも無い。

「俺がものすごく不実な男に聞こえるんだが」
「全くねえ。そういうときは身元の分かるような、気のいた贈り物を渡しておくもんだ」

 娘の腹の膨らみが誰の目にもはっきりと分かるようになった頃、縁談が持ち込まれた。相手は春先に女房を産褥さんじょくとこで亡くしたばかりの男だった。腹の子も助からなかった。娘の腹の子を自分の子の生まれ変わりと思い、大切にすると娘とその父親に約束した。
 娘の両親は喜んだ。男は人柄も良く、なかなかの分限者ぶげんしゃだった。あえて難点をあげるなら、娘とは少々歳が離れていること。やたら信心深く験担げんかつぎにこだわることくらい。断るほどの理由にはならなかった。
 娘は男に嫁いだ。夫となった男は身重みおもの妻に優しかった。娘は幸せだった。

「そうか。良かったな」
「まだまだ。ここからが良いところなんだよ」

 今年の冬は寒かった。
 初めて子を身ごもった娘は、いつまでも終わらぬひどい悪阻つわりに苦しんでいた。夫は献身的に妻に尽くした。名のある治癒師ヒーラーを呼び、薬師を呼び、占い師を呼び、まじない師を呼んだ。
 みながそれぞれ違う処方をする。それがかえって娘の心と身体に負担をかけた。
 厚い雲が立ちこめる暗い冬の日、娘は月足らずの赤子を産み落とした。

「それがちょうど、〈名も無き日〉だったのさ」
 
 夫は伝統にのっとって断食をし、薄暗い部屋で祈りを捧げていた。暖炉には申し訳程度に薪がくべられ、ちょろちょろと貧相な火が揺れていた。闇の女王に、再び太陽をこの世に戻してもらうため、人々はこの世の窮乏きゅうぼうを訴える。太陽の復活がなければ、地上にいるすべての生き物は飢え凍えるしかない、と。
 名も無き日。この世を守護するものが不在になる日。
 妻の寝室から赤子の泣き声がするのに男は気づいた。このような夜に不憫な、と思う間もなく、戸外で恐ろしい突風が吹き荒れた。家が強風に揺すぶられてぎしぎしと鳴る音に、赤子の声はかき消された。

「だいたい先が読めてきたな」
「せっかちだねえ。もうちょっと待っておくれ」

 驚いた男が窓から外を見れば、雲は全て吹き払われ、ぽっかりと黒い空に降るような星空が広がっている。いや、実際に星が降り始めた。
 ひとつの星が流れ、それが落ちきる前に次の星が。二つ、三つ。夜空を横切って、たくさんの星が流れてゆく。
 男にはそれが赤子と無関係には思われなかった。慌てて妻の枕元に駆けつけた。
 そこで男は見てしまった。
 赤子を抱いてとろとろと眠る妻と、無心に乳を含む赤子の姿を。

 * * *

「なるほどな」
 フランはカラスを頭に乗せたまま頷いた。
 敬虔けいけんな男は案じたことだろう。
 祝福されぬ日に生まれた赤子の行く末を。
 そうして、激しくおそれただろう。
 我が子が、生まれると同時に断食のしきたりを破ってしまったことを。
 男のもとには治癒師や薬師の他に、占い師や呪い師がいる。彼らが一言いちごんもないはずはない。
 
 ――その赤子を、闇の女王に捧げよ。
 
 その場にいたのが産婆がひとりだけならば、事は穏便おんびんに収まったはずだ。占い師やら呪い師やらにもっと妊婦への配慮があれば、早産もなかっただろう。それぞれの主張を曲げぬ者たちがツバをまくし立ててやり合えば、ろくなことにならない。
「赤ん坊が乳を飲んだくらい、目くじらを立てるようなことでもないと思うけどね」
 ワタリガラスが呆れたように首を振った。
 闇の女王もその程度のことで太陽を懐に抱いたまま、この世に返さぬということもあるまい。
「そりゃあ、神さまってのは気まぐれなものだけどね。そこまで狭量きょうりょうなことはないさ」
 今の世に、そこまで力のある神もいない。
「まあ、なかなか面白い話だった。その後、赤子はどうなるんだ?」
「あんたなら、見当がつくんじゃないかい」
「まあな」
 おとぎ話として語られるパターンならこうだ。
 赤ん坊は雪の上、松の木の下に置き去りにされる。闇の女王が赤子を拾い上げ、寒く暗い冬をその子と共に暮らすのだ。孤独の代わりに温もりを腕に抱いて。
 
 村が近い。荷馬車が後ろからフランと奇妙な連れを追い抜いてゆく。土埃を吸ってカラスがケホケホとき込んだ。
「で、本当のところは?」
 荷馬車を見送ってから、フランがカラスに尋ねた。
「本当のところって?」
「創作を取っ払った本当のところさ。俺の子がどうのっていうのは、どんな話になっているんだ?」
「やれやれ、おもむきのない……」
 カラスはぷいと顔を背けた。そうして、ぶっきらぼうに自分が聞き及んだあらましを述べた。
「名も無き日に、あんたの子を産んだ娘がいて」
 フランには全く身に覚えがないが、とりあえずそれは横に置くとしよう。
「生まれ直しの儀式をした方がいいと占い師に言われて」
 時代遅れもはなはだしいが、そういう読み解きをする占い師はいるかもしれない。
「オスタラの日に赤子を抱いてあんたのところを訪ねたら」
 春分の日にはスウィンダンで小銭稼ぎをしていた。
「弟子に赤子を押しつけて、逃げた」
 根も葉もない話だ。
(どうして、そんな噂が出てくるんだ)
 フランは溜め息をついた。カラスは続ける。
「で、その赤子は今、ミースのお城で王子さまに育てられているってわけだ」
 ぴたり。と、それまでゆるむことの無かったフランの歩みが止まった。
「……おい」
「なんだい?」
「その赤ん坊は実在するのか」
「最初からそう言っているつもりだけどね」

 ――自らの責任を放棄するとは言語道断。
 ――さっさと為すべき事を為せ。

(ニムが言っていたのはこれか)
 目眩めまいがする。
 根も葉もないと思っていた噂には、根っこがあった。放っておくとどんどん花が咲いてくる。

(ちんたら歩いている場合じゃねえな)
 周囲に人目がないことを確認すると、フランは街道脇に植えられた柳の下へと走った。
「カラスのおばば。あんた、ここまで来る間にどこでこの話をしてきた」
「ええっと、ケイドンの森の隅っこにある修道院でミソサザイたちと話して、ボン川のほとりでキンクロハジロと。それから……」
 コーンノートの南、アンセルスの西。フランは頭の中にイニス・ダナエの地図を広げ、印をつけてゆく。当然ファリアスを中心とするミースも。
(噂の出所は東か)
「ああ、そうだエリウも知っていたよ」
「エリウもか!」
「赤のフランともあろうものが、って。えらく怒っていたね」
 湖の貴婦人ニムと双璧をなす妖精女王。彼女はフランが心から敬慕する聖女エレインの守護者だ。彼女を怒らせてはフランの人生、いや存在そのものが危うい。
「魔法使い?」
 肩の上で、カラスが振り落とされまいと爪を立てる。
「跳ぶからな。巻き込まれないよう離れてろ」
 フランは街道から見えぬよう、木の幹にぴったり背をつけた。その手には樫の杖が握られている。
「はいよ。気をつけて」
 カラスは大きな翼を羽ばたかせ、イチイの枝へと飛び移った。
 杖の先がトンと地面を突く。次の瞬間にはもう、そこに赤い魔法使いの姿はなかった。
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